黄海海戦(9/17)が終了し、黄海・渤海湾の制海権が確保できるようになり、陸軍は第2軍(大山巌)を結成し、遼東半島占領を計画した。隷下には混成第12旅団(第6師団の半部)、第1師団(東京/山地元治)、第2師団をおさめ、10月3日戦闘序列を達した。先頭は混成第12旅団で、9月24日、運送船19艘で門司を出発し9月30日までに仁川に到着した。ただし当時は内地においても集中には相当の時間がかかった。例えば、第1師団第15連隊(高崎)は高崎乗車でいったん青山臨時停車場(現在の原宿)で下車、代々木練兵場に宿営、さらに広島に向かった。第2連隊(佐倉)は、9月27日、佐倉から市川まで総武鉄道で行き、そこから東京まで徒歩行軍、代々木に宿営ののち青山臨時停車場に9月28日乗車、10月1日広島に到着している。全師団が広島に集中を終えるのに、8日半かかっている。
そして、第2師団(仙台)が広島に集中を終えたのは翌月であり、金州城、旅順口戦に間に合わなかった。
花園口上陸作戦
上陸作戦は広島に集中を終えた第1師団から、3回に分けて実行されることになった。第1回第2回は大同江漁隠洞錨地に10月22日、第3回は大連湾に到着した。ただ、上陸地点は陸海軍で一致せず、海軍意見の通り花園口となったのは10月22日のことであった。
金州にいる敵は1万2千を下らずと予想された。
錨地から陸岸までは3〜4海里(5〜8キロ)もあり、波浪も高かった。このため汽艇を用いて端艇を曳いたが、一昼夜に2〜3回しか往復できなかった。これに加えて干満の差は12〜18フィートに達した。干潮になると沿岸一帯に幅1・5キロから1・8キロ干潟が露出し、泥が膝まで達し、辛うじて人が通れるにすぎなかった。
このため馬匹材料揚陸は満潮のときに限られた。さらに、上陸地には資材置き場として適当な場所がなく、直ちに断崖上の高地に移すよりほかになかった。敵の妨害はなく天気も良好であったが、上陸作戦は大いに遅延した。26日に上陸開始を開始したが第1回分が終わったのは翌日となり、その日には清軍騎兵25騎が偵察に現れ、すぐに去っていった。
このため山地は翌日前衛部隊を金家哨に前進させ、占領地を拡大することを決意した。だが、予想された敵はおらず貔子窩【ひしか】にいったん集中することにした。
11月3日、集中を終えた第1師団主力は金州城へ前進を開始した。その前に尖兵隊として金州街道支隊(斉藤徳明少佐/歩15の第1大隊と騎兵1個中隊)を進発させていたが、その日劉家店に宿営、4日さらに前進を続けた。清軍との初めての衝突は、この金州街道支隊と陳家店で起きた。敵兵は歩兵の如きもの100、騎兵70〜80の小勢であった。すぐさま蹴散らし、その斥候部隊は、金州城を遠望できる大和尚山の古城に到達した。
11月5日、騎兵を中心とする復州街道支隊(秋山好古)は干家屯を発して龍口から、電線の切断しながら復州に向かい前進した。龍口で敵騎兵と遭遇し、普蘭店の方向に撃退したが、土民の言により、大同軍5営が復州にあることを知った。復州街道支隊はこの日、龍口に宿営した。

花園口上陸情況
金州城攻略
この日金州街道支隊は劉家店を発したが、大和尚山南山麓に敵1個中隊を発見した。また金州街道を進んだ偵察隊は関家店北方600メートルの高地に達したところ有力な敵兵に遭遇し、劉家店に逃げ帰った。この日、師団前衛(乃木希典少将/歩1・騎兵・野砲兵第3大隊)は、午前6時半、蒼家店を出発した。乃木は劉家店で斉藤少佐に出会い、敵兵力少数と判断し、独力で撃攘することを決心した。
11時、師団前衛は劉家店から開進を開始した。そして2キロ後方にあった師団本隊にも伝達したところ、山地はすぐさま、劉家店から開進することを命じた。
乃木は師団命令をうけとり、本隊を呼応させるように、北方に重点に移した。すぐさま砲3門をもつ敵兵と激戦となった。午後3時までに敵砲兵を撃退したが、以降も小銃による散発的抵抗が続いた。日没になり十三里台から南方を占めたことから、陣地をつくるとともに、そこに露営した。師団本隊も劉家店から前進し、金州街道に沿って、野営した。山地は、師団前衛は復州街道から出て午前7時に本隊に合っし、自らは金州街道から金州へ進むことを夜間命令伝達した。
これにたいし、乃木は主力となっている前面の敵をやりすごすことよりも、いったん正面攻撃をかけ、敵を金州街道に追い込んだのち、師団主力が襲いかかり殲滅する案を具申、山地はそれを承認した。山地は午前3時半、予想される敗軍と遭遇させる目的で野砲隊を前進させしめ、歩兵に山間部を進ませ伏兵とした。
11月6日午前6時、第1連隊が総攻撃にうつると、歩兵1個中隊ほどの正面の敵は周章狼狽し、砲弾1発を放つと、谷間に潰走し始めた。左右の敵も総崩れとなり、方向を定めず金州城方面に向かった。敵陣地には8門の山砲と遺棄死体60があった。乃木は金州街道に逃げた敵は、師団本隊に任せ、そのまま破頭山を確保しながら、金州城に向かうことを命じた。
このときの敵は総兵徐邦道の指揮する拱衛軍の歩隊3営(1500人)馬隊1営(250人)砲隊1営(10門、500人)といわれる。ただし、歩隊の大半は新徴募であって、戦力としては疑わしい。また、事情は不明であるが、退却後は、金州城をやりすごし、南関嶺に多少残置したのち、旅順まで退却した。
復州街道にあった師団主力は、将校斥候を街道に走らせたが、わずかな敵をみたのち、金州城に到着してしまい、そのまま戻った。敵兵は城内に逃げたと推定されたが、乃木の(旧)師団前衛から敵は追われるとみて、新師団前衛(伊瀬地大佐)を編成し、進発させた。午前7時、本隊も乾家子を進発、金州城に向かった。
多少の敗残兵をみたが、大きな抵抗はなく、新師団前衛(歩2も加わり、西少将が指揮)は七里庄南方高地に到達した。ここからは金州城を一望できる。
金州城は東西600メートル、南北760メートルの長方形で、高さ6メートルの煉瓦城壁で囲まれていた。各方面の中央に二重の城門を開き、堅牢なる門扉を備えていた。10メートルほどの外堀もあったが、浅く、歩兵の通行に支障はなかった。どうということはなく、日本の中世城郭にも劣る代物である。
西少将は午前9時に至るや、歩2と歩3をもって、北方より包囲を命令した。砲兵隊も各高地に陣取り、射撃を開始した。騎兵100騎が東西両門に分れ進出しようとしたが、小銃射撃により門内に戻した。さらに北関外に進出した歩兵400人も城内に撃退した。このころになり歩15も到着し、東方を占位した。
9時半になると、敵の隊伍動揺し蒼黄壁上を奔走するの状態となり、須臾にして西門より退走を開始した。山地は直ちに歩3に追撃を命じた。
一方、歩2工兵第2中隊長中島久敬中尉は下士官卒数名を従え、戦線を超えて北門の壁下に進み、地雷を発見し、その電線を切断し、城門の破壊を命令した。10時10分大音響とともに第1門を破壊、次いで第2門を破壊するや、中隊は城内に踊りこんだ。

金州城内北大街
これより先に、乃木の率いる歩1も、城の東南に到着しており、南に回りこんだ。西方面を除いて、完全包囲となったことを悟ったのか、城内に残り抵抗しようとした敵も算を乱して逃げ惑う状態となった。
山地は11時北関外において、歩3を自ら率いて、南関嶺まで追撃することを命令した。それまでに城内に入った部隊は正午までに掃討を終了した。歩3は1時50分南関嶺に到着したが、敵は砲4門を残したまま旅順方面に逃走したあとだった。この戦闘による日本軍の戦死者はなく、行方不明の兵が1名でただけである。
金州地方の守備にあたっていたのは、捷勝営(連順)、拱衛軍(徐邦道)、懐字軍(趙懐業)の3種であったが、統一する指揮官を欠き、しかも連順は奉天将軍裕禄の、徐と趙は北洋大臣李鴻章の統制をうけるという状態であった。
花園口上陸は完全な奇襲となった、が捷勝営の馬隊が日本の艦船の碇泊するのを発見かつ日本人の通訳官鐘崎三郎を捕らた(のち他の2名とともにスパイとして処刑された)。拷問を加え、上陸軍の全容を知ることができた。このとき金州にいた三将は鳩首協議のけっか、李鴻章に援軍の派遣と大連湾守備のため艦隊派遣を要請した。だが、李鴻章の返電は「うろたえるな。熟兵がいないので、接戦は避け、なるたけ散開して防禦に徹せよ。南からきた楚軍は今山海関の守備についた。だが支援には出せない。張皇惑乱するな」とあるだけだった。さらに裕禄は「鴨緑江を突破されたので、それどころではない」と連絡してきた。
さらに10月29日、李鴻章からまた一電、「倭匪は貔子窩以南には進まないではないか。城を出て塁にこもり、守備に徹せよ。旅順も寡兵であるが均しく重要である。援兵を乞うのは無識・小胆である」とあり、落胆させた。だが翌日、丁汝昌の艦隊が大連に現れ士気があがったが、1日だけで立ち去ってしまった。
そして三将協議し、連順は金州城守備、徐は東に出て防禦、趙は大連湾を守備と布陣を決めた。徐は5日までに応急の堡塁を二つつくったが、6日攻撃をうけ一たまりもなく金州方面に退却した。金州城を守備した部隊は連順の指揮する捷勝営歩隊1営、馬隊2哨、山砲3門、野山砲5門、野砲4門であった(ガットリング砲16門は天津より到着していたが梱包のままだった)。そして、日本軍が金州城に殺到すると、連順は逃げ出したものの、その後、行方不明になった。徐邦道は一目散に旅順に壊乱しながら退却した。
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