風見章の中国旅行

一九三六年(昭和十一年)の、夏から秋にかけて、わたしは中国に旅行した。中国の情勢を、したしく見ておきたいという希望からであった。上海こそ、「中国の窓」であった時代なので、わたしは、まず上海を見ることにして、そこに二週間ほど腰をおちつけた。そのあいだに、思いもかけず、若いころからの親友であり、第一流の中国通として尊敬する波多野乾一氏にめぐりあった。

同氏は、たまたま、同地に出張中だったのである。ちょうどわたしは、それからの中国情勢視察旅行計画を、どうしようかと考えていたときたので、ここでめぐりあったのは、もっけの幸いだから、その計画の相談にのってくれるようにと、さっそく同氏にたのみこんだ。すると同氏は、「いまここで、大評判になっている『迷途的羹羊』という映画劇がある。それをひとつ見さえすれぼ、それでたくさんだ。中国の情勢というが、われわれが知らねばならぬとするところのものは、その劇に、あますところなく、おさめられてある」というのであった。

そしてすぐに案内しようと誘ってくれたのである。つれられていってみると、劇場は超満員であり、すでに十日以上もぶっとおしで上演されているのに、毎日このとおり、押すな押すなの大盛況だとのことであった。

映画は侵略のつめを華北にのばそうとする日本が、いわゆる漢奸とむすんで、種々の陰謀をめぐらし、とりわけ、華北と満州との境界を利用する武力介入の密輸入によって、中国も民族工業を破壊し、それがため中国の労働者は職場を失い、生活のみちをうばわれて、ひどい苦涯においこまれてしまうといった筋書きであったようにおぼえている。

とにかく中国人にして、ひとたびこの映画を見れぱたれでも抗日のいきどおりに胸を燃やさずにいられまいと思われる筋のものであった。上映中、日本の手先たる漢奸が出てくる場面になると、観衆憤激の気勢は、ものすごいうなりをたてて、場内を圧し、その勢いには、息づまる思いであった。もしここに日本人ありとわかったなら、ただではすまされまいと、ひそかにおじけをふるわずには、いられなかったほどである。同行した日森虎雄氏の話によると、上海で上映の場合は、日本に気兼ねして、日本の暴虐をうったえる場面がずいぶんカツトしてあるのだとのことであった。

その映画劇を見たあとで、波多野、日森の両氏からあらためて中国の情勢をきいた。日森氏は長く上海にあって、中国問題の研究に身をゆだね、その見識はすぐれていた。波多野氏は当時、外務省から出していた中国共産党年次史の責任編集者であり、この方面の研究では、内地では同氏の右に出るものはなかった。

その年次史は外務省から特殊な人だけにくばっていたもので、わたしもはじめからもらっていた。中国共産党に関しては、ほとんど、あらゆる資料があつめられてあって、おそらく、これほどのものは中国にもあるまいと思われるほどのものであった。しかも両氏とも、中国人には各方面に接触面をもっていたので、この二人からよく話をきけば、わたしの旅行は、もはや、ただの観光でもよかろうとすら思って、わたしは熱心に耳をかたむけたのである。

両氏とも、その結論は、事態の推移をいまのままにまかせておげば、遠からず日華戦争さけがたしというのであった。そのほかにも、中国の事情にくわしい人たちに会って、いろいろときいてみたが、いずれも、両国関係の前途には悲観していた。

南京へおもむいたおりは、そこの唯一の日本人旅館にとまったが、ここの主人公は東亜同文書院出身だとかでひとかどの見識家であり、いろいろと教えられるところがあったが、この人の話に、「よほどの用事でもないかぎり、外出しないことにしている」というので、そのわけをきくと、「わたしは中国語がよくわかる。そこで外出すると、道に遊ぶこどもたちまで、わたしを日本人だと知ると、ひどい憎しみのことばをなげかけるのが、よくわかる。

それに、長くこの土地にいるので、中国人にも多くの友人をもっているが、それらの人たちも、内心では、わたしにちっとも悪意をもっていないのに、道で出あった場合など、そっぼむいて、ゆきすぎてしまう。

これは、日本人と知りあっていると他人から思われるのを、おそれるからである。こういうありさまなので、外出したが最後、不愉快な目に会わずにはすまされないので、できるだけ、外へは出ないことにしているとのことであった。

また、日本製品だとなれば、排日貨運動のために売れゆきがわるいので、商用の日本人などは、ひさしい前からここには姿を見せないので、旅館の客室もいつもからっぼである。ときたまの日本人の泊まり客といえぱ、いずれも出張の官吏にきまっているともいっていた。

わたしが、帰りにはもう一度ここへまわって、陸路北京に出るつもりだというと、それはやめたほうがいい、このあいだも、北京から汽車で南下した日本官吏が、途中で、日本人だというのでひどい目にあわされたほどで、その旅程をとるのは、はなはだ危険だと注意してくれた。

そこでわたしは、北京ゆきをとりやめることにした。ちようど、わたしは八月中旬から下旬にかけて、上海や南京に遊んだのだが、そのときはいわゆる抗日テロ事件があちこちにおこって、在留邦人は、身辺の警戒に、いずれも神経をとがらしていたのである。

朝日新聞の南京支局長であった森山喬氏が、南京のあちこちを案内してくれたが、そのみぢすがら一中国の軍隊に出会うと、同氏は、「あの兵士たちのはつらつたる態度を見たまえ。かれらは、日清戦争で中国軍がやぶれたのは腐敗したる清国軍だつたからで、現在のわれら中華民国軍は日本軍に負けるものかという自信に、胸をふくらませているのだ」と、教えてくれた。

風見は、この文章を1951年7月に書いた。当時の日本人のいう「抗日・侮日運動」とは中国官憲または民間人によるテロ活動をさした。ただ、ここでも在留邦人でも「テロ」との表現を用いており、一民間人が出来る行為でないとみなしていたことは確実である。ただ、在留邦人の活動は徐々に低下していて帰国者が増加していたとみられる。

そして、朝日新聞記者は中国兵の抗日意識の向上を語っているが、日本軍にたいし攻撃を仕掛けてくることまでは想像していないようにみえる。この不思議な安全保障意識の欠落、中国人が日本人を嫌っていることがわからないところが、現代的である。

また、風見は青島から日本に帰ったが、橘樸【たちばなしらき】から「東亜民族に明るい前途を約束するにたる政治家が今日の日本に一人もいないのか、そんなことでどうする」といわれゲンナリしている。


風見章『近衛内閣』中央公論社 1982