萱生【かやう】事件

事件は、1936年7月10日に発生した。上海共同租界内狄思威路・楊家浜路の角で邦人がピストルで殺害された。死骸は直ちに福民病院に運ばれ、検死をうけた。海軍上海特別陸戦隊は狄思威路一帯を直ちに警備に出動した。だが、機銃車が外人自動車と正面衝突し、水兵二人が重傷を負った。

死亡したのは、千葉県本籍・現住所狄思威路楊家浜路で三菱商事出入りの海産物ブローカー萱生鑛作(54)氏で、10日夕刻、三井物産社員杉山氏三女春子(4)さんの手をひき洋子(3)さんを抱きながら散歩中の出来事だった。二人の子供に幸い怪我はなかった。

弾丸は左後頭部から前額部に貫通しており即死の状態だった。この殺害方法は前年11月の中山水兵事件と同一であり、抗日団体の仕業であることは濃厚であると報ぜられた。

翌日、東京朝日新聞に次のような記事が掲載された。

上海テロ事件/支那に誠意なくば適宜の処置をとる
わが特別陸戦隊声明

萱生事件に関して上海特別陸戦隊は11日午後2時司令官談話の形式をもって大要次の通り声明を発した。

「昨年11月の中山兵曹射殺事件がいまだ解決をみざる10日夜ふたたび邦人射殺事件が発生したのは誠に遺憾の極みである。そもそも中山事件は帝国海軍にたいする重大侮辱行為なりとして海軍将兵および日本国民のひとしく憤激するところであるが、とくに感情を抑止し支那法衛の公正なる発動を期待した。しかもなお今回の萱生事件の続出せるは事極めて重大で警備の重任を有するわが陸戦隊としては到底かかる現状を座視することはできない。このさい支那側が直ちに誠意を披瀝して今回の事件の犯人を速やかに検挙すべきことを切に要望する。もし支那側の誠意および治安維持能力にしてわが居留民の生命財産を保障するにたらずと認むる場合はわが陸戦隊として臨時必要と信じる処置をとるの已む無きに至るだろう」。

萱生事件に関連して次の記事もある。

  1. 陸海軍協議―杉原総領事代理と
    杉原総領事代理は沖野海軍武官、工部局上原監察官、第三艦隊参謀、陸戦隊参謀らとともに11日午後5時より総領事館にて1時間にわたり、萱生事件ならびに中山事件に関し鳩首協議を行い両事件の解決につき万全を期することになった
  2. 背後は何者?―想像される三つの場合
    萱生氏射殺犯人は当時の情況よりして抗日テロ団の悪辣なる計画的行為なることは疑うべき余地なしとされているが、この背後関係については
    @過日上海に侵入した西南派抗日の尖鋭分子の仕業
    A二中全会における西南派の抗日策動牽制のため中央の使嗾にかかるもの
    B目下審理中の中山事件にたいする妨害を目的とするもの
    の三つの観察が行なわれている。しかるにいずれにせよ抗日運動の悪性を物語るものであり租界警察行政の改善が問題化するに至った。しこうして中山事件に関する再審理の要求に関し、支那側がはたしていかなる態度を示すか、またその結審につきいかなる判決を下すか萱生事件の進展とともに極めて注目される
  3. 官憲に一任―居留民連合会
    萱生事件に関し上海日本人居留民各路連合会は11日午後4時より緊急会議を開いて協議の結果、居留民の生命財産の不安一掃のため支那側および工部局との交渉についてもわが総領事館当局に万事を一任し、これに激励をなすこととし改めて13日午後4時より日本人クラブで役員臨時総会を開催することに決定した。


このような報道振りであって、さっぱり要領を得ないのである。ただし、今からみれば藍衣社によるテロであることは確実である。なぜならば、「凶器として銃器を使用」し、「テロ実行犯はその場を逃走」し、「あとになっても犯行声明を発表しない」という手口は藍衣社のもので、この期間から盧溝橋事件まで共通するためである。

そして新聞報道は「(抗日策動牽制のため)中央の使嗾に関わるもの」と藍衣社である可能性を、この段階でにおわせている。

ところが東京政府・外務省は、国民党によるテロの可能性があることを承知していながら、積極的な策をいっさい取ろうとしなかった。これはなぜかといえば縦割り行政のためである。この事件が発生したときは、オーストリア併合をめぐり、パーペンとシュスニッヒの会談が度々もたれるなど欧州情勢が緊迫している時期であった。

日本の仮想敵であるソ連を経由して、欧州情勢悪化が日本に跳ね返る可能性が増大した。これによってリッペントロップの提案による日独防共協定について、真剣な討論が行なわれていた。そして、国防予算を強化せねばならず、陸海軍は正面装備予算の増加を要求した。これがため、政府では「行政改革」が俎上にのぼっていた。

つまり、東京は支那どころではなかったのである。

一方、この事件の前後、中国関係でいくつか報じられている。

  1. 国民党二中全会―この中で張群外務部長は次のように演説している。
    「和平いまだ絶望のときに至らざれば和平を放棄せず、犠牲いまだ最後の関頭に至らざれば軽々しく犠牲を口にせず。しかれども和平には和平の限度あり。この程度を過ぎれば犠牲のうちに生存を求む」
  2. 陳済棠失脚せん―1930年代に入り、国民党の基盤であった広東省で軍閥が発生し、西南軍閥と呼ばれた。陳済棠もその一人であり、去就は香港新聞を通じて、英米で報道された。だが、これはローカルな動きにすぎなかった。
  3. 宋哲元、王克敏を経済委員会主席として受け入れ―国民党が冀察政務委員会に自分の息がかかっている王を送り込もうとしたが、日本陸軍の支那通に邪魔されたもの。
  4. 川越=韓復会談―韓復は山東省に割拠する軍閥で、日本の大使が軍閥と話し合いをしようとした。国民党にたいする牽制である。

この中で、もっとも重大なのは国民党大会における張群の演説である。どうみても「限度」を超えれば武力行使をするとほのめかしている。

当然、テロや奇襲を警戒せねばならないが、陸軍はたかを括り何もしない。というより、「政治ごっこ」が好きな支那通に任せきりなのである。一方、上海に責任をもつ海軍は警戒態勢に入ったが、その意見は東京にはいっこうに反映されなかった。

そして二ヵ月後、出雲事件が起きたとき、海軍が「戦争だ!」と猛り狂ったのは容易に理解できるだろう。だがそれでも陸軍は支那通に任せきりであり、海軍には見向きもしなかった。そして、この緊張のまま翌年、上海陸戦隊本部が国民党中央軍によって攻撃されたのである。

石原莞爾ら陸軍首脳が「逃げるべきだ」といったことにたいし、米内光政らが反発したのは当然であり、そのあとも陸軍の休戦要求を蹴り続けたのも、人間の感情としては理解できる。また現代日本のマスコミがいう「テロと報復の連鎖」がいかにテロリスト側にたった虚言であるかもわかる。この萱生事件でなんら報復措置をとらなかったため蒋介石のテロはエスカレートしたのである。

昭和天皇の決心(出雲事件)に続く