張作霖爆殺事件

張作霖爆殺事件

張作霖爆殺事件

1928年(昭和3年)6月4日午前5時30分、京奉線(北京=奉天をつなぐ)と南満州鉄道のクロスポイントで、列車が爆破され、北京から蒋介石に追われ「本拠地」奉天に逃げ帰ろうとしていて乗車していた張作霖は重傷を負い翌日死亡した。

河本が自身の発意でこのテロを実行したことは十分な証拠があり「史実」であろう。ただし、実行には「資金」が必要であり、その出所は政友会の重鎮、鉄道相小川平吉であった。小川は大東亜協会の設立に参加した大アジア主義者でもあった。ポーツマス条約に反対する日比谷焼き討ち事件に関与し、伊藤博文に忌避されたこともある「札付き」であり、あだ名は「ズル平」であった。

鉄道相として数々の私鉄許認可に関与し、大量の賄賂を受け取っていた。この事件によって田中内閣は倒壊し、自身も閣僚の地位=金蔓から追われそうになると、昭和天皇について「バカ殿」「押し込め」と総辞職に反対した。裏表2面ある人物だが、張作霖爆殺事件は自身の益にとって誤算であった。表の大アジア主義からだけで、爆殺に関与したとは考えにくい。小川の頼りとする陸軍人脈が、河本と小川をつなげたのであろう。

河本大作の手記(『文藝春秋』昭和29年12月号)

私が張作を殺した
河本大作【かわもとだいさく】


大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。

そこで、久しぶりに満洲に来てみると、いまさらのごとく一驚した。張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一カ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ全満に蔓延っている。

日本人の居住、商租権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。

日清、日露の役で将兵の血で購われた満洲が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然としている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるにもっぱらである。

自分は、まったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満洲ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見くびり蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遥
かに厚い。まさに顛倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。

そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満洲里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人から鞭たれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。

旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として釆る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人であった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮しているというのであっ
た。

自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人の軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。

いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。しかもその圧迫は、独りそうした暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。

撫順で出炭する石炭に対しては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。

郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商租権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。

勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款
を起こさんとしている。

その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。翌けて昭和二年七月であった。田中義一は総理大臣兼外務大臣として台閣にあったが、自ら主張して、いわゆる「東方会議」を開かんことを提唱した。外務政務次官に森恪がいた。

当時関東軍司令官は、白川大将去って、武藤信義中将が、大正十五年七月に代わって赴任していた。武藤中将は、露西亜通で、かつて参謀本部第二部長も勤めて支那にも明るかった。この支那通というのも種々あって、ただ支那に在住し支那人と交際し、骨董品くらいを貰ってホクホクしているのを能とした類いも少なくないが、武藤将軍はそんな支那通ではなかった。

だから武藤将軍を関東軍司令官に迎えると、幕僚たる自分らの献策についても、これをよく諒解し、上下、腹蔵なく大陸経営に対する、根本的対策の相談が出来たのであった。


やがて東方会議が開かれることになった。武藤司令官もそれに出席されることになり、自分もそれに随従して上京することになった。

会議では、当然満洲における対策が討議されねばならなかったが、満鉄線に対する奉天軍閥がとった、包囲態勢に対しては、もはや外交的な抗議等では及ばないことを自分は力説し、武藤将軍は、この会議において武力解決を強調された。田中首相もこれを諒とし、武力解決を是とすることにだいたいの方針が決せられた。


そこで、自分は具体案として左の状勢を利することを献策した。その頃、支那南方に起った蒋介石が、孫逸仙とともに北伐を開始し、奉天派はこれに対して、その先端は、新江方面上海にまで進み、張学良と楊宇霆を首将としてあ
たらしめていた。

蒋介石の、かねて軍官学校で養った新鋭の兵は、奉天旧軍閥の兵とは、雲泥の相違で、軍紀等でもまるで違っている。ことに揚子江以南には元来、南方派の勢力が根強く張っている。張作霖は勢いに乗じて、上海までも手を伸ばしているが、やがて蒋介石らの北伐が開始されれば、たちまちにして奉天軍はまたまた奥の手の関内へ逃げ込みの一手を用うるに相違ない。

蟹の穴に潜るのと同じで、いったん穴へ潜れば、容易に攻めがたい。張作森が敗退して関内へ帰れば、またまた安泰である。ここで機を見て、陽気が温くなれば、のそのそ這い出すのである。

北京に出て、大元帥を誇号している張作林は、三十万の大兵を擁して今は関外にある。この三十万の兵が、ゾロゾ口敗れて関内へ流れ込んだら、またまたどんな乱暴をやるかわからない。といって、これを助けたところで、一生恩に着るような節義はない。それはすでに郭松齢事件で試験済みである。

その次に、南北相戦って東支や山東の地を戦禍の中に曝すのもまた幾多の権益を持つ日本を始め列国にとっても、また無睾の支那民衆のためにも、看過すべからざることである。北伐も北支では阻止しなければならない。

同時に敗退した場合の張作林の兵三十万は、よろしく山海関でことごとく武装を解除してのみ、入れるべきである。

そして武力のない、秩序、軍紀のない、自制のない、暴虐な手兵を持たぬ張作森を対手に、失われつつあるいっさいの、我が幾千件にわたる権益問題を一気に解決すべきである。

右の方策は、会議の容れるところとなり、ことに森格は、この献策に非常な共鳴をした。そしてこれは東方会議の議決となった。

そうして、蒋介石の北伐は開始された。初め蒋介石は、山東、北支の戦禍に巻き込まれることを避けよとの提案を容れていたにかかわらず、勝ちに酔って、ついに済南城内を通過せず、ここに入城して約を違えたので、昭和三年の済南事変が勃発し、我が出兵となった。一方奉天軍は、予想通りに敗走して、山海関へ雪崩れを打って殺到した。

関東軍はただちに、その治安維持のために備うべく、朝鮮から一混成旅団を編成して、時を移さず奉天に集中して待機したが、錦州および山海関へは、満鉄線付属地以外へ出兵することになるので、奉勅命令を待たでは出動するこ
とが出来ない。その奉勅命令がいっこう下らない。敗兵は続々と入って来るというありさまであった。

当時、田中首相は、内閣の総理であり、かつ東方会議の主催者であったにもかかわらず山海関の手筈は、東方会議の議決によって、不動の方針となっているのに、なぜか踏襲している。それは、時の出淵駐米大使からの報告に基いて、米国の輿論に気兼ねをし、殴定の方針の敢行をためらったのであった。

また参謀本部第二部長は、松井石根中将であり、田中首相の側近のブレィンとして、佐藤安之助少将などがあって、それらの意見によっても動かされ、田中の肚はいよいよグラついたのであった。

関東軍司令官は、その時、武藤将軍は村岡(長太郎)将軍と代っていたが、村岡将軍も、武藤将軍に比して、人格、識見ともに譲らず、不動の大陸経営意見も全然軌を一にしていた。

だから関東軍としては、現地においてはすこしも動ずるところはなかったのである。しかし肝心の中央部がこんなありさまだから、どうすることも出来ない。そのうちに、奉天城内には、呉俊陞が五万の兵を黒竜江省から率いて出て守備している。そこへ、山海関からは毎日、一万、五千、と敗残兵が帰って来る。

五月下旬になると、敗兵が早や三、四万は逃げ込んだ。京奉線からあるいは古北口の方から続々と入る。関東軍は、万一のことがあれば、腹背に敵を受けねばならない。奉天はまだ好いとしても、全満に瀰漫した排日は、事あった際は、燎原の火のごとく燃えさかり、排日軍は一斉に蜂起するであろうことも予想しなければならない。また一度、奉天で我軍と、その敗残兵との間に干戈を交えんか、倶るべき市街戦となって、奉天在住の日本人はどんな目に遭うかわからない。すでに排日は奉天城内では言語に絶し、邦人小学生の通学などは、危険で出来ないという状況、奉天在留の邦人達は、関東軍を唯一の頼みとしていたが、挟手傍観の態度などで少なからず失望するというよりは、むしろこれを怨んだ。

かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作林らの意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。

一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作森一個によって、満洲に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ばれた私党の集合である。

ことにこうした集合の常として、その巨頭さえ斃れれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作林たるまでは、手も足も出ないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変ることがない。

巨頭を斃す。これ以外に満洲問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作森を抹殺すれば足るのである。村岡将軍も、ついにここに到着した。では、張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。

これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遺軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足ると考えられた。

竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴く事になった。
それを察したので、自分は竹下参謀に、『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信
ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視眈々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからな
い。俺がやろう。それより外はない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。

北京には建川美次少将が大使館付武官としておった。竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作森がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。

そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、
その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを、速報せしめる手筈をとった。

さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。

少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重な奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を提えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃す憂いがある。充分の手配が要る。

それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、娘古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロつい
ても目立たない。ここに限ると結論を得た。

では、今度はいかなる手段に出るかが、次の問題となる。
一、列車を襲撃するか、
二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来
ないでもない。

そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終った場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。

そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。万端周到な用意は出来た。第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ、三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作森が乗ったとの情報が入った。

クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。

しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる催れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。

それから一方、満鉄線の方である。万一この時問に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみがあたっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のため
に、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。

来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス点にさしかかった。

轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空へ舞い上った。張作森の骨も、この空に舞い上ったかと思えたが、この凄まじい黒煙と爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。

第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。ただ万一、この爆破をこちらの計画と知って、兵でも差し向けて来た場合は、我が兵力に依らず、これを防ぐために、荒木五郎の組織している、奉天軍中の「模範隊」を荒木が指揮してこれにあたることとし、城内を堅めさせ、関東軍司令部のあった東拓前の中央広場は軍の主力が警備していた。

そして万一、奉天軍が兵を起こせば、張景恵が我方に内応して、奉天独立の軍を起こして、その後の満洲事変が一気に起こる手筈もあったのだが、奉天派には賢明な蔵式毅がおって、血迷った奉天軍の行動を阻止し、日本軍との衝
突を未然に防いで終った。

喪は発しないで、人心を鎮めるために、張作霖は重傷だが、生命に別状なしと発表して、城内は異常な沈黙のうちにあった。そしてその当座、昨日に変って、たとえ一時ではあったが、さしもの排日行為も、ピタリと煉んでしまったのは笑止であった。

張作霖の爆死後、張学良ならびに楊宇霆の一派は、奉天にある日本軍の意縄を計り兼ねて、錦州方面に踏み留まり、奉天に帰ろうとせず、形勢を観望していたので、奉天では、袁金凱を首長として、東三省治安維持会を組織し臨時政権を形成していた。

しかして日本側では、今後の東三省政権の首脳者には、誰を選ぶべきかについて種々の意見が行われ、奉天軍の軍事顧問であった松井七夫少将一派は楊宇霆を推し、当時奉天特務機関にあった秦真次少将の一派は張学良を推さんとし、その間に種々暗闘があった。

しかし、いずれにしても、このまま奉天を空にして、主権者なしで置くことは、統治上白くないので、秦、松井の両者から、張学良に対し何ら他意のないことを示して、しようようすみやかに張、楊、両人の帰奉することを悠瀬したので、ようやく学良も安心して、ひそかに苦力に変装して奉天に帰って来たのであった。

ちょうどその頃のことであった。前駐支那大使林権助氏が奉天へ来て、まだ何となく落ち着かぬ気持ちでいる張学良に逢った。

林権助は学良に、日本外史中の関ヶ原戦後の豊臣、徳川の関係の一節を説いて、暗に学良を秀頼に、楊宇霆を家康に擬して、おおいに学良を激励した。

大阪落城後の秀頼の運命と比べて、学良は家康たらんかも知れない楊宇霆に対して、何となく常に疑心暗鬼を感じたが、たまたま、楊宇蓬の誕生祝いが催された。その盛宴に学良も列してみて、支那全省にわたる要人達からの山の
ごとき、豪華な贈り物を見るに及んで、天下の諸侯がすでなぴに、豊太閤残後には、家康に靡いたありさまを彷彿させるものがあった。

学良の楊に対する猜疑は、ここにおいていよいよ深く、楊に対して学良はひそかに害意を懐くようになった。張作森爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。

これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いていたので、学良の恐日は、漸々と排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。

その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山事件となり、あるいは燈庸大学の排日教育となり、排日、抗日は、むしろ張作森時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった。

こんな次第で、張作霖が亡んで学良と変っても、何ら満洲の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満洲問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。

他方、日本の政界では満蒙問題解決に適進する誠意を欠き、張作森爆死事件をめぐって、これに善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさんとする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。

時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。

さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、水町袈裟六独立守備隊司令官らも相ついで、それぞれ行政処分を受けるに至った。

政争はついに国策を誤って禅らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。

かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢に講せられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎
の意を表した。

この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は沼々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見
るのであった。

年々に増大する我が国の人口問題は如何、食糧に対する政策は?これらから生ずる経済政策の根本的立て直しを必要とする時代ではないか。その当然の解決策として、大陸への確乎たる方策なくして何が出来よう。しかし自分の
執った武力的方法は?

はたして世の非難攻撃を甘受すべきであろうか、猛省すべきならば敢然と省みよう。私は自らを責め、自ら省み、深く時代を虚心、これをしっかりと把握するために、努力、研鑽した。

京都帝大の権威といわれる多くの学者達の門も叩いた。また連日にわたって京都帝大図書館に通ってあらゆる政治経済の群書を広く渉猟したのであった。

その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満洲問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。

伏見の陋居は一年間であった。その一年が過ぎると、一応、停職を解かれ第十六師団司令部附となり現役に復したが、その翌日附をもって予備役に編入された。したがって謹慎の生活も済んだので、居を東京に移すこととした。


本稿は戦前、河本大作が記録のため義弟平野零児氏に筆記させたもの(従って、同じく戦犯となり中共による拷問のあとがある平野氏の戦後の言説と本稿を結びつけるのは無理がある。さらに戦前においても平野氏が社会主義的傾向があったことを指摘されることがあるが、その当時、文筆家の大半がそうだった)。また、本稿の中には、本人しか知りえない事実の暴露がある。また関係者から事実関係について現在に至るまで誤りの指摘がない。河本は中共が得た大物戦犯で、昭和28年に太原で獄死した。それを知り、最早秘密にする必要がないと考えた娘の河本清子氏が、毎日新聞社学芸部長阿部真之助を介して、文藝春秋社に持ち込んだものと推定される。

また、河本は戦時中、軍支那通ルートで閻錫山工作を頼まれ、山西産業という国策会社の代表をやっていた。戦争直後、共産軍と国府軍の争闘に巻き込まれ、河本は「残留すべき」といった誤った方針を出し、日本人千五百人ほどが、中共に抑留されるという悲惨な結果を招いた。おそらく、この爆殺事件の失態によって日本にいるべき場所はないと思ったのであろう。まともや自分の私欲をもって同胞を犠牲にしたのである。

そのあと太原で中共によって過酷な拷問をうけ、

「自分みずから参謀部員を指揮して京奉線と南満線の交差点、皇姑屯駅に『必殺の陣』をしいた。連絡点に麻袋30個の黄色火薬を埋め、500メートル離れた観測所でスイッチを入れ爆発させる予定であった。それとともに爆発地点北方に突撃隊1個小隊をひそませた。6月4日5時半張がのった藍色の装甲列車がさしかかり、スイッチを押した。事件後、関東軍は隠蔽工作のため工兵隊を派遣し、二人の中国人を殺して、線路にほうり投げた。ポケットには偽造の北伐軍の手紙をいれた。張を殺した原因は『親日の軍閥は、われわれが全てをつかんでいた。利用できるときには援助し、利用できなくなったときには消した』ということだ」と自供した。

日本軍人の拷問による自白の中には必ず、日本人にはすぐわかる虚偽が発見できる。陸軍が使用した黄色薬(ピクリン酸)はすべて液状であって「麻袋」に入れられるものはない。また陸軍は「突撃隊」という名称は用いない。このほかにも部隊編成上の無理などがあり、任意性のないことを後世の日本人に知らせようとしている。この記述は日本のマルキストによってよく引用されるが、拷問による任意性のない「自供」を歴史史料として用いることは、恥ずべきことであろう。

一方近時、ユン・チアンによって、異説がでている。『正論』2006年5月号の滝澤一郎の所論はロシア・スパイ謀略論であるが、幾許の根拠もない。そして同誌の宮崎正弘「諜報史の奇奇怪怪と『マオ』の読み解き方」は全面的に正しい。ユン・チアンの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上下(講談社)の一部は正しい。しかし、「(中国人以外は)誰も知っている」内容である。そして知らない部分の大半は誤りである。

ユン・チアンは中国内で誤った排外主義的歴史教育をうけており、それが誤りであることを知った非常に数少ない中国人の一人である。それ自体は評価されるべきである。だが、歴史について基礎教育がないと史料批判ができず、大きな誤りを犯す証左となったのは悲劇である。こういった実行犯の回想録を読む力がなかったのだろう。新説をたてるには定説の論拠となった史料を読み批判することは必須である。ともあれスパイ・エージェントの報告書は公文書ではなく、新聞記事と同じである。新聞記事をもって実行犯の回想録を否定できないのである。

事件の真相解明努力

張作霖爆殺事件は「満州某重大事件」としてすぐ、疑惑が日本側にあるように国内で報道された。ここが満州事変における柳条溝事件と違うところである(柳条溝事件は国内で日本側の犯行と思う報道機関はなかった)。

陸軍省は1928年6月4日午前10時半、事件の概要を公表した。事件後わずか5時間であった。このあまりの公式発表の速さが疑惑を生んだことは否定できない。

さらに6月12日、「爆破は南方便衣隊の所為だ」としたが、その理由や証拠の発表がなかった。

だが、まもなく、この事件に日本軍人が関係しているとの噂が東京に蔓延した。これの原因は林久次郎奉天総領事が日本人の犯行であると初めから疑い、外務省に報告したためである(林久次郎『満州事変と奉天総領事』)。林は、現場にあった中国人の2屍体がいかにも不自然であると思い(歩行中よくみた阿片中毒の乞食であった。伊達ら満州浪人がその浮浪者を前日風呂屋にいかせ、晴れ着を着せ、殺害した)、犯行が南方便衣隊であるという説明を納得できなかった。また、屍体にあった「東三省宣撫使凌員清の命令書」なるものが、いかにも出来の悪い日本式漢文であった。

いずれにせよ犯行は稚拙であり、関東軍の中堅将校と満州浪人だけによるのではないかと想像された。

陸軍省としても、この情勢は芳しくなく、とにもかくにも、河本大佐を東京に召致し事情を聴取することになった。

河本は6月26日より約1週間滞在して、陸軍省首脳部を前にして、証拠品を提示しながら、犯人は南方便衣隊であるとの陳弁を理路整然と説明した。

一方、荒木貞夫作戦部長、小幡敏四郎作戦課長、小磯国昭の参謀本部幹部が河本を麹町の料亭に呼び、問い詰めたところ、いっさいを自白したという(小磯国昭『葛山鴻爪』)。

白川陸相は関東軍への疑惑を払拭できず、その旨を田中首相に報告した。河本は無事にいい訳が成立したとみて奉天にかえった。

だが、その後だんだん事実が明らかになるにつれ、再び南方便衣説に疑惑がもたれ、かつ、野党の調査要求もはげしく、田中首相はみずから一将校を奉天に急派して事情を調べさせたが、いささかの疑点もなし、と復命した。だが田中も貴志弥二郎中将から情報を得て、7月には河本大作主犯説をほぼ確信した(田中義一伝記刊行会『田中義一伝記』下)。

しかし、依然として風評は風評を生み、国民の疑惑も深まり、そのうえ野党の執拗な追及もやまないので、今度は、白川陸相に命じて憲兵司令官峯幸松中将を奉天に出張させ現地調査にあたらせた。

峯中将は、途中京城に立ち奇り、京城憲兵隊長難波光造を帯同して奉天にのりこんだ。

そして、河本参謀ほか関係者につき事情をきき、ことの真相をつかんで、9月中旬帰京した。

真相は直ちに白川陸相、田中首相に報告された。田中首相は、外相を兼ねていたので、外務省には極秘として峯報告書をみせた。だが、これが日ならずして内外にわたって流出した。

直ちに、謀殺責任者河本大佐の軍法会議説が流れた。

一方、9月には、外務省、陸軍省、関東庁の三者で、張作霖爆死事件特別調査委員会がつくられた。10月末に、関東庁事務官より、「本件は河本参謀の計画的爆破である」と詳細に報告された。

田中首相は、河本大佐の責任が明らかになった時点で、

「張作霧の爆死の下手人は、わが陸軍軍人との疑いもあるので、目下調査中である。いずれ後日正確な結果を報告するが、もし、日本軍人が干与している事実があれば、厳重に軍法会議において処断したい」@と上秦した。

まもなく開かれた第五十六帝国議会では、野党民政党(党首浜口雄幸)は、この事件を激しく追及した。中野正剛、永井柳太郎らが、政府、とくに陸軍に向かって追及の矛先を向けた。

1929年1月22日の再開議会の冒頭、田中首相兼外相は、その外交演説で、満蒙間題に言及して、

「満州に関しては、同地方がわが国の接壌地帯なるがため、国防上、政治上きわめて重大なる関係にあるのみならず、かつて、わが国は帝政ロシアの侵略にたいし国運を賭し、同地方の自由を回復したる歴史的関係があるがため
に、わが国民の同地方にたいする国民的感情は、中国の他の地方に対すると異なるものがあるは、当然の次第であります。

しかのみならず、同地方においては、今や百万有余の帝民臣民が在住し、いく多の重要なる権利利益が現存しておるのであります。したがって、日本国民としては、満州の事象に対しいっそう深刻なる注意をはらうのは当然でありまして、帝国政府においてはもとより、満州における中国の領土主権を尊重し、門戸開放、機会均等の趣旨を確保徹底せしめ、もって内外人安住の地たらしむることを切望するものなるが故に、この地の静謹を乱し、もしくは、わが重大なる権益を害するごとき事態の発生に対しましては、これを排除する覚悟を有するものであります」と演説した。

これに対し、永井柳太郎は痛烈なる質間の火蓋をきった。そして、某重大事件にふれて、

「某重大事件に関連し、光輝あるわが陸軍の名誉を毀損するがごとき説が行なわれつつあるのに、半年を閲したる今日、なお、この汚辱をすすぐにたる調査をとげられないことは、既得の権利をみだりに放棄せる行為で、政府当局の怠慢と無能、ことに、関東庁長官、関東軍司令官、在満憲兵隊司令官、これを管轄する陸軍大臣らの責任はどうなるのか」と、その責任をただした。

だが、田中首相は、「奉天におこった間題は、この際、慎重に調査中である。これ以上のご答弁はできない」と答えたのみだった。

民政党の議席からは、

「落第、落第」のヤジが飛んだ。

このあとの会期中も野党は厳しく追及したが、政府側は「調査中」というばかりで、十分な説明ができなかった。

かくのごとき国際的大事件に関連して、陸軍が、その国家の威信を失墜してまでも、虚偽または「調査中」との発表を強行したことは許されない。

陸軍は、わずかに警備上の手落ちを理由として、軍司令官以下の行政責任追及にとどめた。その張本人河本大佐は停職、軍司令官村岡長太郎中将は待命、軍参謀長斎藤恒少将、独立守備隊司令官水町竹三少将はともに譴責とし、事件の詳細についての報告は省略してしまった。

元老西園寺公望は、「断固、軍法にて処断し理非をただせ」と田中首相に警告した。

田中首相は議会がすんでから、天皇に拝謁し、「事件には軍人の干与はなかったがわが警備区域内において発生し、その間、警備上の手落ちがあったので、関係者を行政処分にした」A旨上奏した。

全くのウソを上奏したのである(@Aは矛盾する)。このため天皇の激怒を買い、昭和4年7月2日、田中内閣は総辞職した。

12月内奏と6月上奏


だが、陸軍も田中首相も、関東軍を処断する勇気がなかった。この国際的テロ実行者であり、かつ国軍軍紀を擾乱した犯罪者を徹底追及しなかった。最大の禍根は、独断専行という名の公務員職権濫用である。のちの満州事変、幾多のクーデター事件の淵源をなしたものとして、この事件を忘れてはならない。

主犯河本は疑いない。

これについてさらに以下の証言がある。

張作霖の軍事顧問だった「町野武馬大佐」は、1961年に国立国会図書館が 録音した述懐のなかで、次のように話している。この録音は『30年間は非公開』の条件のもとで行なわれたもので、1991年6月1日に ようやく公開された。町野自身(衆議院議員)は、1968年に92歳で亡くなった。

「張作霖が欧米に接近し、日本に冷たくなったので殺したという関東軍首脳の説はウソだ。 張作霖は欧米だけでなく、日本も嫌いだ。けれども、わが国を本当に攻め得るものは 日本だけだ。だから日本とは手を握らにゃならないのだ、とよく言っていた。関東軍首脳は、張を殺さないと満州は天下泰平になり、日本では軍縮が激しくなる。 軍人が階級を昇りぬくためには、満州を動乱の地とするのが第一の要件と考えた。 そして張作霖を殺した。それは『斉藤恒(関東軍参謀長)の案』なんだ」。

この町野談話と河本手記はよく符合していて、陸軍の中に少なくともテロ事件を承知していない人物群があったことは確実である。町野がこの大規模なテロ事件にたいして、斉藤恒関東軍参謀長が関与していたと考えることは自然である。だが、町野は「階級を昇りたい」と動機を説明している。軍参謀長や軍司令官はこれ以上「階級を昇りたい」と思うとは信じられない。

一方、この事件は単純な「爆殺事件」だけではなく、河本のいう「刺殺未遂事件」が重なったものだとすれば、かくのごとく多くの軍人が関係したとは了解できる。事件の本質は日本人支那通の仲間割れである。

テロ事件では必ず陰謀説が発生する。だが、この事件はこの河本手記の通りであって、疑う余地はない。

事件の概要

河本大作は陸軍では「支那通」といわれた軍人の一人で、その若いときから中国勤務が多く、安直戦争からの軍閥抗争にも関与したといわれる。

また河本はかなり多数に計画をうちあけ協力を頼んでいる。竹下参謀は遠く北京に派遣され、列車の編成、出発の時刻を通報した。

北京の延川(少将)駐在武官が、協力したことも確実である。田中隆吉大尉も綿密に列車編成、搭乗車などを調査した。その手の者も、山海関、錦州等の京奉沿線の要所に派遣された。

爆破地点は、皇姑屯と瀋陽駅との中間で、満鉄線陸橋の下を、京奉線がク
ロスする地点であった。

この交叉点は、奉天軍も注意を怠らなかった。作霖軍の金憲兵中尉が、6月3日奉天憲兵隊長三谷清少佐を訪ね、クロス地点、陸橋附近の満鉄線の堤
防上に、中国側の監視兵を配遺したいと申し入れてきた。

三谷少佐は拒絶したが、結局、鉄道橋上は日本側の警戒区域、その下方の京奉鉄道は申国側の警備区域とすることにきまった。三谷少佐も計画を知っていたと疑うべきだろう。

そして陸橋附近警備の日本側責任者は、独立守備第二大隊第四中隊の東宮鉄男大尉であり、直接の現場指揮官であった。

一方、奉天軍側では、瀋陽駅および皇姑屯駅には、立錐の余地がないまでに、警戒兵をならべて万一に備え、かつ、この両駅間約一マイルには、騎兵と憲兵を配置し、とくに、さきの陸橋下附近には、金中尉以下数兵の憲兵がきぴしく警戒にあたっていた。

こうしたなかで、奉天出動中の朝鮮第20師団の工兵隊の一部は、ひそかに鉄橋橋脚に方形型爆薬約百個をしかけた。この爆薬量は、二十トン車輌数車を爆破するに十分であった。

さらに、偽装工作も仕掛けられた。この爆破が南方便衣隊・・・革命軍の仕業であるようにみせかけるため、あらかじめ用意した中国人二人を現場附近で、挙動不審者として刺殺し、この死者の懐中にもたせた書類から、南方便衣隊に関係あるもののように装おわせていた。

張作霖の搭乗列軍は、貴賓車、展望軍、食堂車、寝台軍の順で連結され、張作罧、呉俊陞、軍事顧問儀峨少佐は、ちょうど一緒に展望車に同乗していたが、列車が陸橋を通遇する瞬間、轟然たる爆音とともに黒煙は垂直に空中高くまいあがり、爆破は完全に成功した。

1928年6月4日午前5時30分であった。

河本大作手記にでてくる荒木五郎は次のように回想している。

「河本大作は色々の問題について私にも相談していたが、張爆殺については直接私に相談はなかった。私はこの頃『黄慕将軍』といわれ、奉天警備司令をやっていたので、あの爆殺事件の後始末に奔走した。張の列車が着くのを駅で待っていて、爆破事件を知り早速現場にかけつけた。呉督軍は即死、張作霖は数時間後に死んだ。同乗していた日本軍顧問の儀峨少佐は奇跡的に助かって、思わず車から飛び出したが、すぐ張の安否を気遣って、車から引き返したと私は儀峨から直接聞いている。儀峨が予め知っていて、別の車両に退避していたというのは誤伝である。彼はあとに『同じ日本人が乗っている車を爆破するとは非情である』と軍をうらんでいたので、彼が事前に知っていたはずはない。町野顧問も北京から乗車したが、用事で天津で降りたので助かっている』このときの爆薬は30キロくらいの強力なもので張の専用車の後続2輌も同時に燃えた程であった」(『秘録土肥原賢三』芙蓉書房)

こういったことで、計画は個人すなわち河本大作の手で練られたものであろう。合議でやったとすれば、日本人を犠牲にすることについて必ずや異論が出たと思われる。

河本大作に背後関係はあったか?

爆破の瞬間写真(山形中央図書館蔵)。爆破による暗殺の瞬間写真が残ることは極めて珍しい。本件写真はこの地点から200メートル離れた地点で電気スイッチに点火した3人(東宮鉄男大尉、神田泰之助中尉、藤井貞寿中尉)のうち、神田中尉が撮影したものとみられ、同人から寄託を受けた佐久間徳一郎氏が神田中尉の出身地鶴岡にある図書館に寄贈した。河本主犯の動かぬ証拠である。

小川平吉は、なぜ揉消し工作を展開したのか?

この事件の実行過程で満州浪人が関与していたことは確実である。工藤鉄太郎と安藤隆成両名を首領とするグループで、田中義一・白川義則陸相・小川平吉鉄道相(宮澤喜一祖父)に通じていた(『小川平吉関係文書』1みすず書房 1973)。ただし、この関係は小川平吉を軸とするものであった。小川は、参謀本部または関東軍首脳が関与していることを田中・白川に打ち明け、両人を脅迫し、その結果、白川は陸軍機密費から3000円を工藤鉄太郎に事後逃亡資金として与えている。そして小川は語っている。

「1日田中首相粛然として予につげていわく『軍法会議に付し、以て軍紀を振粛せんとす』。予は答えていわく『そは容易ならざることなり、本件は折角隠蔽に努力して幸いに既に世人の記憶より去り終りたるに、今更平地に波瀾を起さんとするは何故なりや、予は断じて反対なり」
「白川陸相予に告ぐるに『首相と同様の決意なり』、予曰く『予は断じて軍法会議に反対なり、白川は京都に滞在中、陸軍首脳の議をまとむべく、上原元帥、閑院宮等の意見を徴したるに、遂に賛意を表するには至らざりき」

この記述からは、田中・白川は軍法会議設置に当初賛成していたのであるが、そのあと小川と上原参謀総長の反対にあい、翻意したことがわかる。

さらに工藤鉄太郎は、小川平吉に爆殺事件の前提となる中国人浮浪者3名の殺害について詳しく報告している(水野明『東北軍閥政権の研究』国書刊行会2004)。

「某大佐(河本大作のこと)は旅順より奉天軍司令を移せし当時より張作霖氏を奉天に入城せしめじとの決心頗る固く、知人伊藤謙次郎(大石橋在住)と密議す。

伊藤氏の日く、凡ての責任は余に於て負はん、而して其の仕事は貴官に万事以頼しと。薮に於て全く両者の問に了解為る。六月一日突然伊藤氏は奉天在住の安達隆成氏を訪ひ、某大佐と謀りし企策を語りて日く、愈々張作霜氏は来る四日早朝帰奉と決定せり、彼は帰奉せんか在満の居留民の不利は勿論日本の為寒心に堪えざるものあり、蛮に於て某大佐は已に決心し陸橋に爆弾を装置して一挙に作霧を葬らんと已に其準備を了せり、唯だ予備行為として南方便衣隊の行為なりと信じさしめん為め命の入らぬ支那人三名を世話せられたし、而して此の伊藤を男にしてくれよとの懇願なり。

安達も張作霖に対する反感は人後に落じ、常に張作霖の健在なる以上満蒙政策の遂行艱難なりと憤慨せる一人なり、この語を聞くや快然として諾し、明日中に一六月二日)其の三人を準備し置く可しと約して、伊藤氏喜々として帰る。

伊藤氏去るや安達氏は自分の最も信じる劉載明氏の寓居を訪問し。劉氏は静江と号す。元吉林督軍孟思遠氏の部下にして師長高士濱氏の営長たり、張作霧とは仇敵も唯だならざる間柄にして常に張氏の没落を願ひ居る人、今安達氏来りて張作霖氏帰路を待つ爆弾を以て暗殺せんとするの計画を語り、之れに要する犠牲者三人を余に提供せられたしと請はれしに、劉氏は暫く思案して居りしが、不要なる者無きも三人は提供しべし、彼等なき後は家族の者嚥ぞ嘆かん、余としても又忍ぶ能はざるところなり、故に一家族に対し一万円づつを与へられたしと。金銭によりてしべき秋にあらじと安達氏は直ちに之を諾し、而して仕度金として一人五十円づつ合せて百五十円を劉氏に渡し堅く約して帰る。

劉氏は安達氏との約を守り最も不要と認む可き阿片呑みの三人に白羽の矢を立て、同三人を即時自宅に招き寄せ曰く、今朝日本軍より密偵三名を雇ひたしとの通知を受けた、別に難事にあらざれば汝等最も適任なりと信じ此の任務を授けんと招きたるなり、最初月給五十円なるも月を追ふて増加せん、行先は天津及山海関方面なりと諺々として将来の利害を説きたるに、彼は欣然として之を諾せり。

然らば仕度金として五十円を与ふべし、明朝任地に赴く事となり居る故間違いなく拙宅に来れと彼等を帰せり。翌朝に至り二名来りたりも一名来らず。人を遣して問はしめしに昨夜より帰らずと。是れ仕度金を奪い逃げ去れるなり。劉氏は彼ら二名と共に安達氏宅に至り二名を托して帰る。安達氏は自宅に二名を留め置き一歩も外出せしめず。白昼日本軍官と会見しるは支那官憲より疑はるる恐れあり、故に今夜十時を期し満鉄線上に在る展望台に於て日本軍官と会見し其際司令を仰ぎ亦金をも受取り、皇姑屯駅より乗軍して山海関方面に出立致しべしと巧に彼等を歎き亦一人も展望台の傍近にて同じく刺殺せられたり」

この工藤の話は金銭に絡めてのことで、一人殺害について1万円を婉曲に要求した内容である。文体にはいいしれぬ下品さが漂っており、真実であろう。ただ、ここの1名につき1万円が、結果としては1000円に減額されている。

町野談話では斉藤参謀長、東京の参謀本部が関係したとしているが、今のところ証拠は満州浪人関係者からしか出ていない。また小川平吉がなぜ、浮浪者殺害犯と関係をもったかは不明であるが、当時院外団が暴力団と組み、選挙資金をめぐって張作霖との間をとりもっていた。また町野自体も田中義一と山本条太郎満鉄総裁と組んで選挙資金の工面を張作霖に頼んだことがある。

小川平吉もまた満州浪人から、張作霖から受け取った資金を暴露すると脅されていたのである。

一方、白川義則陸相、上原勇作参謀総長は何を恐れたのだろうか?

最もひっかかるのは、この河本手記にあげられた村岡関東軍司令官の(北京における)張作霖刺殺計画である。河本はこの事件をほのめかすに止めている。だが、これはじっさいに計画され、そして参謀本部が止めに入ったのではなかろうか?それでも河本によって爆殺事件は発生し、それゆえ村岡に了解を与えた建川美次を中心とする参謀本部グループが全貌解明に躊躇ったというのが真相ではあるまいか。

白川、上原ともに事件が拡散し、いったんは中央が了解し関東軍ぐるみで計画したという事実が暴露されることを恐れたのである。建川は、事件後、峰憲兵司令官を「真面目に調査した」という理由で非難しており、それまでの軍功を無しとさせるほどの浅ましさというべきだろう。

他方、張作霖顧問であった儀峨(誠也)少佐や町野(武馬)大佐を巻き添えにすることを覚悟の犯行であり、河本の異常性、または犯罪性を陸軍省当局も無視できなかったであろう(村岡司令官の「刺殺計画」ではこの要素はない)。

その結果か、村岡司令官・斉藤参謀長と河本大作は、いったん軽い行政処分に付され、そのあと予備役編入(河本はすぐさま)になった。これについて〈軽い処分であり満州事変を誘発した〉と後世の史家は書くが、日本の軍人にとっては予備役編入は重い措置であり、村岡・斉藤・河本の軍人としての経歴はここで断たれた。軍人にたいして教訓を与えることは実行されたのであり、河本手記はそれにたいする無念さがにじみ出ている。

事件は中途半端に幕を下ろしたのである。だが、重要なことは満州における日本人居留者の不満はいっこうに改善されず、中国無法(革命)外交も解決されなかった。さらに事態を悪化させたのは、内国民が日本外交に不満を感じ始めたことである。

永田鉄山と小川平吉、河本大作

事件から2年後、永田と河本は一緒になって平塚の小川邸を訪問した。河本は小川から提供された資金の使途について「報告」するため訪れた。

其後昭和五年、閑居中の河本大佐は永田大佐と共に予を平塚に訪ひ、具さに当時の事を語れり。其談によれば初め村岡司令官の発意に対し反対せしが、後に至り独自全責任を以て決行せりといふ。而して劉に対しては金円贈与の約をなしたることなしといへり。惟ふに此点は安達氏の取計らひならん乎。(『小川平吉関係文書』1みすず書房 1973)

永田と小川は同郷であり、懇意であった。永田が河本の計画を事前に聞き、資金提供者として小川平吉を紹介した疑いは棄てきれない。

『昭和天皇独白録』文藝春秋より

この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中[義一]総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であつた。

そして田中は牧野[伸顕]内大臣、西園寺[公望]元老、鈴木[貫太郎]侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云つたそうである。

然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなつて終つた。

そこで田中は再ひ[び]私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云つた。

こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういふ云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。

聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである。

田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云ふ言葉を作り出し、内閣の倒【こ】けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至つた。

かくして作り出された重臣「ブロッ.ク」とか宮中の陰謀とか云ふ、いやな言葉や、これを間〔真〕に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後ゝ迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が尠くないのである。

この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した。


この証言から、昭和天皇が田中義一を辞職に追い込んだのは確実であろう。この動機は田中の食言であって、田中または政友会の外政方針ではあるまい。つまり山東出兵などの田中強硬外交を咎めようとしたのではない。

天皇の直接的な希望は「田中義一罷免」であったことも明らかである。ところが土壇場になって西園寺公望が「天皇が首相に罷免を申し渡すこと」に反対した。牧野伸顕は「余りの意外に唖然自失」(『牧野日記』1929・6・25)した。

田中内閣辞職の真相

今日となれば河本のいう「日本の謀略」が関東軍司令官村岡と参謀長による「張作霖刺殺計画」であることは明瞭であろう。西園寺は関東軍司令官が関与したことの暴露が国益に反すると考えたのである。

両者はほどなく予備役編入となり罰せられたのであるが、こういった内聞に属するやり方が長期的に国益を損なった観があるのは否定できない。また、小川平吉または政友会の金銭問題は、重大といわざるを得ない。ただこのすぐあと、小川は同じく金銭が絡んだ私鉄認可問題で逮捕・牢獄につながれ失脚した。



平野零児『満州の陰謀者−河本大作の運命的な足あと』自由国民社 1959
相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に−鬼才河本大作の生涯』光人社 1978

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