大本営は冬季作戦について、10月下旬、新たな方針を打ち出した。その方針とは、直隷平原における決戦であった。長期戦化すると外国からの干渉を受けかねないという懸念があった。
これがために連合艦隊が渤海湾内の不凍地点(洋河河口周辺)の偵察につとめ、また威海衛に逼塞している北洋艦隊を誘引して撃滅する必要があった。この新方針のため、山県有朋第1軍司令官からの将来作戦の建策を却下し、靉河および大洋河両水域地方の冬営準備を命じていた。
ところが山県は、11月25日、旅順要塞陥落の報をうけ、また析木城、海城、蓋平附近の敵兵増加の情況を知り、第5師団を九連城に留め、第3師団をして海城攻略するの決心を大本営に促した。いわば機先を制し、他日における直隷平原決戦を有利にするの計であった。
だが川上操六兵站総監(参謀次長)は既定の方針に反するものと受け取った。そして同日、第1軍兵站監塩屋方国に、兵站策源地を鴨緑江方面から大連湾に変更するための調査を命じた。つまり、第1軍の一部を大連で乗船させ、不凍地点へ上陸させることを考えたのである。
ところが山県はこの命令を逆手にとって
「大連湾に策源地を移動させることは、有朋が上奏した愚見を容認したものであろう。というのは、大連湾への移動は右翼を縮小し、左翼を増大させることである。だが左翼に向かい合う敵兵は増大しており、速やかにこれを撃退することは大作戦の準備として目下の急務である。大連湾に移動するには側面防禦は必須であり、両全の策と認める」と大本営に連絡した。
11月29日、大本営は、
「予定の位置に停止し、時期の来るのを待て」と山県に電訓し、自重を求めた。しかしながら、予定行動を示さないまま軍司令官の有害と認めた敵について撃攘を禁止することは、過度の干渉の嫌いがあった。
山県はこの電訓を受け取っても翻意することはなく、12月4日、海城攻撃計画を報告した。大本営はここに至って、「大作戦の支障とならないため、海城占領後は直ちに訓令の位置につくことを条件に裁可した。
しかしながら、明治天皇と有栖川熾仁参謀総長宮はこの山県の態度を組織規律に反するものとみなした。川上兵站総監は第1軍諸将に山県司令官革職の是非を問い、桂太郎第3師団長のこれを是とする意見が決め手となり、山県有朋に帰国すなわち第1軍司令官罷免とする命令が出された。一応、病気という名目がたてられ、後任には野津道貫が指名された。
征清作戦に関する上奏
海城の攻略
海城攻略の命令をうけ、桂第3師団長は攻撃部隊を、いったん岫巌【しゅうがん】に集中することにした。このとき第3師団は、安東県・大東溝・大孤山・岫巌の各地に分宿し、冬営の準備に入っていた。
桂は、12月8日、岫巌に着いた。偵察によれば、敵兵は、析木城【せきもくじょう】に馬玉崑、聶桂林、豊陞阿の率いる4,5000、蓋平には宋慶の率いる3,4000、海城には500ばかりあるものとみられた。
そこで、兵力を3分し、佐藤正大佐の率いる支隊を蓋平に、師団主力の半数を大迫少将に与え、大迫支隊とし、王家堡子、買家堡子、牛心山道より進め、他の1隊は自ら率いて、小孤山を経て、析木城の敵を攻撃すると決心した。
大迫支隊は歩6、歩18第1大隊と騎兵大隊、野砲大隊、工兵、糧食半縦列で編成された。12月9日、岫巌に達し、翌10日騎兵隊が潘家堡子方面に進出しようとしたところ、牛心山1200メートル先に敵兵を発見した。大迫は敵が少数であることをみてとり、牛心山周辺にその日は宿営し、翌11日より払暁攻撃を敢行した。敵は哨戒部隊とみえ、潘家堡子西方の高地に陣取るものの支隊が前進すると逃げ去った。
大迫支隊は析木城攻撃のため部隊編成を改め、歩6連隊長塚本勝嘉大佐を司令官とする前衛隊を編成した。塚本は潘家堡子を12日午前7時半出発した。
一方、桂師団長率いる本隊も二道河子で敵の本隊を発見したが、小競り合いののちすぐ逃げ去った。12日大迫支隊が析木城に入ると連絡があった。桂は本隊が西方に逃亡した以上、析木城に敵はいないのではないか、と疑った。このため12日早朝より、追撃陣形で析木城方面に向うことにした。捜索騎兵隊が析木城附近に到達すると、土民のいう敵将の本営の建物は1条の煙りをあげていた。
前衛部隊も到着すると、焼かれた建物は馬三元(玉崑)の本営とわかり、海城方面に退却したと知れた。8時18分に師団長も到着すると、すぐあとに東方から大迫隊の接近が望見できた。
桂は全部隊が午前中に析木城に集中したのを見届けると、午後1時半、1個大隊だけを残置し、そのまま海城に敵を追撃することを決心した。前衛部隊が楊家屯で小競り合いののち少数の敵撃退したところで日没となり、楊家屯から析木城の間で宿営した。
13日、払暁より海城に向って全部隊が前進を開始した。すると敵兵は200ずつ北門より出て、蕎麦山方面に移動し始めた。さらに接近すると砲12門、敵兵400が山頂に陣取っていた。敵兵はかなり密集していたので山腹から林縁によって猛射を浴びせると、大砲の盲撃ちで応えた。10時半になると砲を退却させるのがみえた。そして徐々に撤収を開始した。11時になると敵影はなく、歩19第2大隊第7中隊が山頂を占領した。
これをみて歩7第1大隊長内藤少佐は城内突入を狙い南門に向った。すると城壁に敵4,50が射撃を浴びせてきたが、少佐は少数の部隊に応射させながら、自らは城内に闖入した。これに続いて第3中隊、第4中隊も城内に入ると、約100の敵兵が残留していたが、狼狽散乱して諸方向に遁走した。
午前11時すぎには各部隊相次いで入城した。大島少将は各門の守備を命じて土民の逃走を厳禁し、火災予防を命令した。
缸瓦寨の戦闘
12月17日、桂中将は、宋慶が2万の軍を率いて、蓋平を出発し虎樟屯附近に集結中との急報を得た。海城を奪還する計画であると察知し防禦編成を保ち待機した。幾度か偵察部隊を附近に派遣したが、缸瓦寨まで前進、そこで停止してしまった。
桂は海城にくるのではなく、北方に退避するのではないかと思った。18日夜、攻撃編成に修正することを要求し、明朝、こちらから出撃することを命令した。
19日、第3師団は暁を冒して運動を開始した。積雪は3,40センチあった。戦闘は午後1時15分ころから開始された。戦いは約5時間続いたが、6時すぎ敵はほぼ缸瓦寨から出、退却した。朝からの行軍と激戦で各自疲労困憊したが、海城はほとんど空であり、すぐさま帰還するよりなかった。最後の部隊が海城に入ったのは翌日午前11時半であった。
この戦闘に従事した第3師団の戦闘員は3960人、山砲30門で戦死者69人、負傷者339人を出した。ただしこの他に凍傷患者が重傷539人、軽傷523人あった。
清軍は劉盛休の率いる銘字軍11営3哨、宋慶の率いる毅字軍10営、9200人、野山砲67門であった。
蓋平の占領
缸瓦寨の戦闘が終わると、桂は直ちに大本営に海城が敵地内で突起部を形成しており、蓋平を第2軍の手で攻略すべきであると意見具申した。しかし大本営は析木城までの後退が可であるとして許さなかった。
このため桂は大孤山守備隊を海城に招致、また左翼として邦家屯で守備していた佐藤支隊を析木城に移動させた。
野津第1軍司令官代理も第3師団の位置が突出していることを認めざるを得ず、大本営に蓋平の占領の必要を力説した。だが、第1軍は威海衛攻略のため山東半島上陸戦を考慮中であり、とくに後方兵站に困難を感じ、12月20日、希望に応じがたき電報を発した。
大本営は調整に手間取ったが、21日、「混成1旅団をなるべく速やかに蓋平方向に進め第3師団を援けてこの敵を撃退することを勉めしむべし」と電訓した。
第1軍司令官は、蓋平にいるとみられる2万の大軍に抗するには旅団単位ではなく、師団をやや欠ける程度の兵力が必要であり、かつまた金州から蓋平まで10日行程であることを考慮し、十分な人夫・車両を縦列に配当することを求めた。
缸瓦寨の戦闘の勝利が伝わると、大本営から「実施をやや遅らせることができる」と連絡があった。さらに1月1日、大本営は「3月以降、渤海湾に輸送し、決戦をなすのが唯一の希望であり、そのさい大連にいったん集中する必要がある。海城方面についてはそのさい側面防禦のため必要なだけであって、大方針のためではない」と作戦目的を説明した。つまり蓋平進攻は決戦ではなく、一時的脅威を与えることが目的であるとされた。
第1軍は、12月中旬より、乃木少将を司令官とする混成旅団を普蘭店附近に集中させつつあった。そして、兵站が最大の問題であるため、貔子窩などの兵站処を全て撤収し、復州・蓋平街道に交通線の重点を移した。さらに徴発の可能性を捜索騎兵隊に探らせた。
1月3日出発、7日莫家屯到着を計画し、若干の歩兵部隊を付した徴発官を先行させた。この当時、陸軍は20万分の1の地図を使用していたが小径の記載はほとんどなかったが、土民は協力的であり、1月8日までに蓋平にいる敵は、歩4営・騎1営・砲4門と推定できた。
一方、桂第3師団長は、この作戦の牽制のため1隊を蓋平方面に出すことを決心した。1月5日、析木城守備隊長門司和太郎に訓令を発し、歩兵3個中隊を率いて大杉馬嶺に進出することを命令した。門司支隊は6日、樺山勇輔中尉が率いる1個小隊を斥候として放ち、熊岳城北方に先行していた乃木混成旅団との連絡に成功した。9日、門司支隊は大杉馬嶺に達した。
1月9日、乃木中将は東二台子に集中をなし、攻撃態勢を整えた。ただし、蓋平まで広濶なる氷原をなし、カバーすべき何物もなかった。
このため乃木は、払暁前に敵に接近し、天明をまって攻撃を実行するに決心し、諸隊は背嚢を残置し携行口糧3日分を携えることを命令した。
1月10日、混成旅団の諸隊は残月雪に映じて白昼の如きありさまで、容易に集合できた。斥候の報告によれば、敵は蓋平の東方12,300メートルの丘阜に主力をおき、歩騎兵は正面約1000メートルに散在する。また土民によれば、南門と東門外に備えがありとのことだった。
旅団主力は5時40分に集合地を出発し、2縦隊となって蓋平街道を前進した。右側支隊(隠岐大佐)も6時に蓋平城の東南隅みに向った。主力は6時半ごろ祁家務村落から急射撃をうけた。散開しながら突進して銃数200程度の敵を駆逐した。そのまま前進したが、蓋州河の右岸に退き、また西方竜王廟子に新鋭の敵、5,600が現れた。このため苦戦に陥った。
乃木旅団長は俄然銃声をきき、砲兵大隊を小米寨の北端に陣地を構築させ、応射させた。
右側支隊は蓋州河を渡河しようとしたところ、対岸の人家の石垣に泥土を塗り水をかけ氷結させた掩堡にこもった敵から猛射を浴び、歩1第2大隊はかなりの損害を蒙った。隠岐大佐はこれをみて、軍旗を翻しながら、進路を右斜めにとり、馬圏子に前進した。このとき連隊旗手であった小川少尉に一弾が命中し負傷した。そこで十時中隊長に一隊を率いて外縁胸壁にこもる敵に突撃することを命令した。
十時中隊が歓声をあげて突撃すると、隠岐はさらに第6、第7中隊にも相次いで突撃を命じた。十時中隊長はそのまま胸壁に足をかけ乗り越え、真っ向敵陣に斬り込んだ。こうなると支えきれず、敵兵は総崩れとなり、西方に退却した。
隠岐大佐は先頭にたって、そのまま追撃に移り、8時10分、蓋平城東南隅に達した。怪我をした連隊旗手小川少尉は、高さ9メートルある城壁の欠落部から攀じ登り、さらに南門に回り込み、城門壁上に軍旗を掲げた。時に8時25分であった。
乃木は隠岐の猛進によって、敵陣の一部が崩れ去ったのを見逃さず、歩15第1大隊を蓋平城西南部に取り付く事を命令した。斉藤明徳大隊長は、直ちに第4中隊に前進を命じ、自らも第1、第2中隊を率いて、継進した。すると敵は営口街道を北進して逃亡を開始したのを望見できた。
9時10分になると工兵を先頭に、旅団主力も入城を開始した。退路を断たれることを怖れたのか敵兵は、いっせいに西方に走った。そこを歩15が追撃し、大損害を与えた。一部300ほどの敵兵は東門からも出て、常家園子西北高地に逃げた。この敵は途中、制服を脱ぎ捨て、放棄した。
清軍の兵力は嵩武4営、広武4営、福字2営、砲隊200、砲4門、これの他に淮軍5営、胡軍3営という。
日本軍の兵力は5500人、野砲12門であった。
清軍の死者は450人。馬匹20頭、小銃102挺、大砲3門、弾薬105箱、砲弾37個、旗幟24琉、銃剣27振、車両30両を遺棄した。また下士卒32人が捕虜となった。
日本軍の損害は戦死者36人、負傷者298人であった。
乃木混成旅団は1月20日まで、秋山騎兵隊を中心に各地を捜索し、また小部隊をもって大石橋を占領させるなどしたが、該日、第1師団に復帰することになった。
第1回海城防戦
海城では、混成旅団が蓋平に向った情報が入ると、三方包囲の地勢にあるだけに安堵感が流れた。だが、土民情報は攻撃の虞のあることを感じさせた。すなわち「依将軍」や「常大人」がおのおの1万以上の兵を率いて海城に接近しているというのである。
桂師団長はしきりに斥候を放ったが、数百の兵力の情報が得られるだけで、清軍主力の所在はつかめなかった。1月16日に入ると桂は敵の動きがあまりにも少ないことの理解に苦しんだ。
これより先、野津第1軍司令官は、作戦大方針にしたがって、海城の守備方針を計画するため13日に岫巌を出発し、海城に向おうとした。15日、小孤山に入ると、桂中将から「遼陽方面の敵兵海城に近迫す」との連絡が入った。野津は直ちに、各路駐屯の諸隊を海城に近接させる命令を出し、翌16日、海城に入った。
前日までに少数の清軍兵士が前哨線の手前数キロまでに達していた。これにより、第6旅団(大島)は歓喜山、教軍場方面の前哨線を強化し、第5旅団(大迫)は
甲山、唐王山を守備する命令が下された。
歩19の前哨司令官小原少佐は歓喜山にあって、1月17日午前9時15分、敵兵2,3000が沙河沿いまたは小王屯方向の二方向から前進してくるのを発見した。
ただちに応戦を布陣をなした。だが敵の接近速度は緩徐として、射程範囲になかなか入らない。野津司令官は、第3師団長とともに巡視にでて、11時半、歓喜山に到着した。このとき敵は大富屯・沙河沿い・遼陽街道上前二台子に亘る線に展開していた。ところが、大富屯附近の敵は緩徐として進まず、期せずして包囲状に前進してきた。
午後0時半、遼陽街道方面の敵1000余、騎兵150、60が射撃を開始した。この敵は西艾台堡方面に運動した。正面から応射するとともに、砲兵第6中隊も射撃を開始した。だが、敵の多くは遠方射程圏外から射撃するのみで、日本側に損害を与えることはほとんどなかった。
そして西艾台堡村内に入った密集した敵に一発の榴散弾が命中、バタバタと斃れた。そして続いて村内に入った敵兵にも命中した。この間、歓喜山方面、雙龍山方面でも銃撃戦が熾んになった。だが、雙龍山にたいし、敵の8センチクルップ2門が砲撃を加えてきたが、砲兵隊が応戦すると、3時20分退却を開始した。
これが合図となったのか、敵はいっせいに北方に退却を開始した。最後まで粘ったのは歓喜山正面に現れた敵で、4時20分まで前進姿勢をとった。
師団長は敵が総崩れになるのをみて4時ごろ各部隊に追撃命令を出した。だが日没となり午後5時37分、旧位置に復することを命令した。
清軍兵力は総数1万2、3000、砲13,4門で、長順と依克唐阿が率いたという。遺棄死体30、軍旗2琉、旧式砲4を残した。日本軍の損害は戦死3名、負傷者38名であった。
第2回海城防戦
1月21日になると海城前面の敵の動きが再び活発になった。歩兵第6旅団長大島少将は歓喜山の守備要員を増加させた。また第5旅団長大迫少将も
甲山から唐王山の線で同様の処置をとった。
1月22日、大島少将は午前7時、歓喜山に陣取った。
敵情については7時40分ごろから入り始め、敵兵3,4000の縦隊が沙河沿いならびに言堡子に向っているようであった。
言堡子方面および三里橋北方方面の敵は、11時ごろ、まったく言堡子に入り、ついで2群となり波羅堡子方面に転進した。また10時20分、北沙河方面に3門の敵砲現れ、歓喜山の方向に射撃を開始した。また11時10分、言堡子の南端に敵砲5門現れ同じく歓喜山に向かい、砲火を開いた。また波羅堡子にも敵砲2門が現れた。11時20分、歓喜山下にあった、野砲第1中隊と第6中隊はそれぞれ、波羅堡子に向う歩兵と、そこにある敵砲にたいし射撃を開始した。
すると砲火によって敵歩兵の一部が狼狽し、終には潰乱した。
徐家園子方面では、11時20分、陸続として歩兵が前進し、熾んに射撃を浴びせかけてきた。このため大島少将は、野砲第4中隊をこの方面に向け射撃させた。
安村堡子方面からは歩騎兵数百が、沙河の氷上を渡り
甲山に向ってきた。このようにして零時30分ごろ、敵歩兵は次第に安村堡子と波羅堡子の間の開濶地に充満するようになった。そして、二線あるいは三線の散兵線となり、熾んな射撃を浴びせつつ、漸次、徐家園子に向かい前進してきた。
このとき歓喜山に向う敵兵は5000以上、徐家園子に向う者1万以上であり、総兵力2万人以上の総力をあげた攻撃であった。
ところが、大島旅団長の密命により、歩18連隊長佐藤大佐は、今回攻撃については攻勢移転の機を逸してはならぬと決心し、2個大隊半を徐家園子西方500メートルの右岸窪地に埋伏させていた。佐藤大佐は、零時半、このとき至れりと、諸隊に俄然立ち上がり、猛射することを命令した。次いで銃剣突撃を命令した。
敵は不意の急射に会い、狼狽動揺し、続いて突撃をうけ、紛乱雑踏し、一部は波羅子方向に、他は二台子方向に逃走した。諸隊は、2時、波羅子に到達し、追射を行い、そこに集合した。
それ以降は各部隊とも陣地を出て戦果の拡大に邁進した。2時半になると、清軍はあたりにみえなくなり、全軍退却した。
この日の清軍は、長順の率いる靖辺軍鎮東営、依克唐阿の敵愾軍、徐邦道の拱衛軍で、総数2万、砲数16門であった。遺棄されたものは屍体120、古式砲1門であった。日本軍の戦死者は5名であった。
第3回海城防戦
2月16日、風雪はことごとくやみ、天気は晴朗であった。この日、午前8時半、大島旅団長は敵の騎兵および歩兵が波羅保子に接近中であるとの情報を得たが、9時半になると、4,5000の敵兵が波羅堡子に向っており、さらに相当の後続部隊があることが確実となった。
さらに各方面からも情報が入り、桂師団長は遼陽・牛荘・営口の3カ所から大挙来襲してくることを知った。
9時半、防守のための部署が命令された。そして自らは羅家園子西北端に向った。
明治28年2月16日海城
雙龍山方面では8時過ぎ、敵を西方大富屯方面にみた。そして夥しい敵は後三里橋北方高地および白廟子西北高地附近の現出した。その1縦隊1000は、前五道河子から後二台子に陸続前進し、野砲3門を後三里橋北方高地上に配列した。その野砲は雙龍山と歓喜山への射撃を開始した。次いで二台子に進入した敵はさらに西艾台堡子に向って前進し、他の一部は後三里橋より氷結した河道をつたって西艾台堡子に向った。
10時、西艾台堡子の敵はその西南一帯の河線に展開し、射撃を開始した。11時、その敵は2000におよび、11時50分ごろ乱雑な散兵線となり、ラッパを連奏し、喚声をあげながら、雙龍山に向け進撃してきた。
正午、敵は日本側陣地の2,300メートル手前まで近づき、全線停止して射撃を開始した。さらに左翼の一部は塹壕に突入した。それをまった日本側は俄然立ち上がり、縦射した。たちまち数十名を殺傷し、さらに雙龍山全山で立ち上がり射撃を開始した。敵は死傷を瞬時に生じ、またカバーする方法もなく地に伏せ進退窮まった。
だが、30分も射撃すると硝煙があたりを埋め、射撃中止の已む無きにいたり、敵はこの機に乗じて倉皇退却を開始した。だが再び射撃を再開すると匍匐散走し、兵器を遺棄し死傷者を見捨て、西艾台堡子に待機していた部隊に収容された。
この他、波羅堡子、大道八里河子においても清兵の運動がみられたが、いずれも日本側陣地に大きく接近できず、退いた。
この日の清軍は長順の率いる者3000、砲6門、依克唐阿が7000、砲5門、道台李光久・徐邦道6000、砲10門であった。清軍の遺棄死体は180であった。日本軍の死者は3名である。
第4回海城防戦
2月21日、海城に配置されて騎兵諸隊が遼陽街道と蓋平街道を捜索中、敵勢が接近していることを発見し、直ちに報告した。
1縦隊が長虎台から遼陽街道に向かい、1縦隊が頭河堡を出て南進していた。羅家園子にいた歩19の前哨隊長小原少佐は午前7時40分、教軍場前前哨から五道河子ならびに後三里橋から敵の大縦隊が向ってくるとの報告に接した。
約2000の敵は小王屯から沙河沿いに、別の2000は四台子、小富屯から安村堡子に進入する景況と判断された。また一方、4,5000の敵が雙龍山に向って前進してきた。
だが、敵は遠距離射撃を加えてくるばかりで、いっこうに接近せず、遠回りに部隊運動を繰り返すだけだった。そして2時20分、敵の全線は次第に退却を開始し、牛荘街道の敵は三台子方向に、波羅堡子・言堡子方面の敵は大富屯・大王屯・小王屯・団瓢子方向に、遼陽街道の敵は頭河堡方向に退き、ただ王家石頭堡子方面の敵だけは長くその位置に躊躇し、午後4時に撤退を開始した。
この日来襲した清軍は、総員1万7、8000人、砲17、8門を算した。日本軍の戦死者は2名である。
第5回海城防戦
野津第1軍司令官は新作戦計画樹立のため、19日、岫巌を出発、海城に向おうとしていた。21日、湯池に到着し、第5回海城防戦を聞き及んだ。海城到着は23日である。
それまでに桂第3師団長は春季作戦について内報をうけており、その準備につとめていた。軍司令官は第1軍に属する第1師団から歩3連隊の海城派遣の内諾をうけ、同部隊は26日、海城に到着した。
このようにして第3師団は前面の敵を撃攘して、牛荘方面に向う新運動を28日から開始する予定にあった。
ところが27日午前7時ごろより、2000の敵が中央堡、小馬頭より東柳公屯に向かい、午前8時、該村に進入した。9時ごろからは東柳公屯から1000の敵が坡廠八里河子に向け前進した。また砲5,6門が東柳公屯東端に据えられ、坡廠八里河子を砲撃した。その後、兵が坡廠八里河子に入ると今度は大道八里河子を砲撃した。
正午になると敵の歩騎1500、二縦隊となって龍台舗に向った。午後零時30分ごろ、歩18佐藤連隊長は唐王山にいて、砲兵第15中隊にこの敵にたいし砲撃を命じた。敵は狼狽散乱し、龍台舗または坡廠八里河子に潜匿した。佐藤大佐はさらに坡廠八里河子東端にある敵砲兵に目標を転じさせた。
するとなすこともなく、3時ごろから総撤退に移った。この日目撃できた敵は3、4000であるが、ついに真面目な戦闘に至らずして終わった。
海城を占拠した第3師団はここに76日間駐留し、5回の敵襲を撃退し、2月28日、新作戦のため海城を出発した。
田庄台の戦闘に続く