百日維新

百日維新

百日維新

百日維新

百日維新

光緒帝親政

康有為 Kang YouWei (1858-1927)
字は廣廈。広東省南海の出身。「布衣上書」を書き、変法運動のリーダーとなった。真骨頂は公羊学からの解釈で、西洋の哲学、独特の歴史観を加えた。中華思想を軸としたエリート主義である。百日維新に失敗すると西太后の激しい怒りを買ったのは当然であろう。この政変で身に危険が迫り、天津、上海のイギリス領事館に保護され、さらに日本へ亡命した。日清戦争においては、反日・排外を唱え、講和にあたっては東夷と蔑んだ国に亡命することに矛盾を感じないのが中国インテリである。
日本では、犬養毅や大隈重信、近衛篤麿といった著名人と親交を結んだ。張勲の復辟では張りきって、清廷の軍機大臣に任命されたが、最早誰にも相手にされなかった。1927年、青島で死去。

1889年2月3日、光緒帝は親政の大典をおこし、この日から親政を開始した。西太后は垂簾聴政の廃止を宣言した。御史の屠仁守が「是非、太后も政務をとって頂きたい」と上書したが、西太后は烈火のごとく怒り、「そんな積もりで垂簾聴政をやったのではない」「妄言をはくな」と一喝し、屠を罷免した。西太后の野望が男の抱くような権力欲でなく、家庭内の地位であることがわからなかったのだろう。

このとき光緒帝は19歳、西太后は55歳であった。西太后にとり、光緒帝の父は辛酉政変のときの同志であった醇親王奕、母は自分の妹、さらに前年の1888年には自分の姪(のちの隆裕太后)を后に配しており、十分信頼できる人物であったはずである。西太后は落成した頤和園に退き、完全な政治からの引退を願ったに違いない。

翌1890年、その父奕が薨去した。ここから儒教の3年喪に入った。親政直後、蔵印界約(シッキムにおける国境線の設定。イギリスと紛争になっていた)を裁可したが、その具体化が1893年まで遅れたが、それ以外、国政の停滞はみられなかった。清朝は皇帝なき官僚制が実現されていたのである。光緒帝親政の出だしは順調であった。

1893年4月、朝鮮で東学党が蜂起した。従来の行き掛かりから朝鮮国王の出兵要請と袁世凱の要求を拒みがたかった。李鴻章は天津条約を結んだ当事者であり、日本との間で「朝鮮独立」が協約されたいたことをよく知っていた。ところが天津条約にしたがって日本も出兵すると中国国内では轟々たる「開戦」「殺日本」の声が巻き起こった。

光緒帝は、この声に押されて、牙山と平壌に「北洋軍」の出征を要求し、李鴻章もこれに応じざるを得なかった。秀才科挙官僚であった翁同にとっては、二千年の属国である朝鮮から軍隊を引かせることは、中華帝国の崩壊にみえたのであろう。

総理衙門大臣翁同はこのとき、北京外政の主務者であり、かつ光緒帝の師傳であった。翁同は、李鴻章の英露を仲介にたてての日本との外交すらも反対した。戦争が開始されると、清軍は至る所負けっぱなしであったが、それでも徹底抗戦の姿勢を崩さず、黄海海戦で敗北したあとも講和を拒否した。

光緒帝も、軍事について経験もなければ、知識もなく、周囲の漢人系儒教官僚の意見が、李鴻章ら軍人系「古狸」より正しいと信じたのである。

戊戌政変

1895年4月、下関条約が締結される段になると、3年に1度の会試(科挙の上級試験)のため北京を訪れていた挙人は囂々と非難の声をあげ、上書することを始めた。中国儒学者は、ヨーロッパ諸国に敗北することは、「天下」が「天下の外」の負けたらのだからと合理化できた。しかしながら日本に敗北することは、自己の信念の完全な敗北につながった。

中国人は日本を憎み、日本を足下におかねば気が済まないのである。

梁啓超ら81人が上書し、そのあと挙人として北京にきていた康有為が「皇帝の奉る書」を書き上げると、1300人の挙人がこれに賛同した。その内容は「講和に賛成した文官や将軍を処刑し、皇帝は自らを罰する諭を発し、北京を棄て遷都し、国土を焦土として戦い、戦闘に敗北しても絶対に和を講じない」といったものであった。

この運動を「公車上書「と呼ぶが、挙人には上書・上奏の資格がないので本来、違法である。ところが康には咎めがないばかりでなく、会試に合格、進士にあげられた。戦争主戦派であった翁同は、内政・外政の刷新を計らねばならないとして、康有為を光緒帝に推薦した。日清戦争主戦派が唱えた内政改革運動が変法自彊運動である。

康有為は歴史学者であって、『日本明治変政考』『ピョートル大帝変政考』を光緒帝に上書した。光緒帝に明治天皇やピョートル帝のようになることを勧めた。

改革の内容は3点であった。

  1. 群臣を集めて旧きを改めて維新を行なうことを誓い、天下の輿論を取り入れ、万国の両方を取る。
  2. 制度局を宮廷に開設し、全国から賢才二十人を選んで参与とし、全ての政務、制度を新しく議定する。
  3. 待詔所を設け、全国の士民に上書を許し、天子が直接会見し、旨に叶う者がいれば制度局で採用することにした。

一部を「五箇条の御誓文」からとったものであろうが、これでは明治維新を本質を完全に取り違えているといって過言でない。康有為の3点とも根本は官僚の選び方を提案するに過ぎず、いわば「(頭のよい)自分を選べ」という以上のものではない。具体的な内容をもつ洋務派と比較してみても後退である。

明治維新で何が実現されたかといえば、「平等(身分制度の撤廃)」「自由(言論・職業選択)」「私有財産保護(政府は法律による租税以外は私有財産を没収しない」などの啓蒙主義的施策である。

閣僚などの公僕選定に関する「民主」は程度問題であるが、「平等」「自由」「私有財産保護」はあるかないかの問題なのである。康有為はまったくその点を理解していなかった。

さらに悪いことに、博物地大の中国は近代化にむしろ有利であると曲解した。

康有為面白発言集

「西洋は近代化に三百年かかり、日本は三十年かかりました。博物地大の中国は変法を実行すれば三年でできましょう」

「泰西の諸学の書は、すでに日本人によってくわしく翻訳されている。我々は日本人のなしとげた結果を利用すればよい。すなわち、泰西を牛となし、日本を農夫となし、彼らの耕したところを我々は座して食すればよい」

「伏して思うに、皇太后皇上は身を慎しみ、心を痛めつつ治世につとめ、すでに多年政務をこなしてこられました。されば内に政治を整え、外に夷狄を攘って、歴代聖王の仇と恥を雪ぎ、国家万年の根基を固めるところあつて然るべきです。しかるに事に寸効なく領土日ましに縮小し、危乱まさに至らんとしているのは何故でしようか?ー中略ー皇太后は聡明と武徳を以て二十年にわたり政務をとってこられました。人材任用はまだまだ不十分だとしてすぐれた人物を求め、善に従うこと、水の流れに従う如くであります(ここは反語)」

「日本もはじめは旧套を守り、攘夷を行なってきた点はわが国と同じでしたが、幕府が封建制をとってきた点はわが国と異なり、君主が祖業を守っておりましたから、変法はいっそう困難でした(清国は非封建制としていることに注意)」

「しかるにたちまち(日本が)変法に成功したのは、変法のはじめに進むべき方針が定まり、施策が理にかなっていたからであります。維新のはじめを考察してみますと、たいへん多くの問題がありましたが、要点として次の三点があげられます。第一に、群臣に誓約せしめ、国是を定めたこと。第二に、対策所を設け、賢才を募集したこと。第三に、制度局を開いて憲法を定めたこと。その誓文は、万機を公論に決する、万国の良法を採用する、万民の心を合わせ、種族を差別することなく上下の議論を統一する、士族と平民を区別せず、すべての群臣をして宣誓文を提出させ、面目を一新して服従せしめる、ということでした」

「天下の徴士、貢士を召集し、対策所に意見書を出させ、五日に一回面会し、意にかたったものを抜擢しました。かくして下情が上達し、多数の才士が昇進したのであります」

「宮中に制度局を開き、公卿、諸侯、大夫および草葬の才士二十人をえらび、総裁および議定・参与の任にあて、新政を評議し、憲法草案を決めさせました。かくして討議が詳細になり、規則も周到になりました。日本が強国になった原因はここにあります」

康有為の発想は、「中国は博物地大であり中国人は優秀であるから、『国是』を定めれば、自動的に強国になれ、外国に出て夷狄を征伐できる」からきている。そして『国是』は官吏登用(すなわち自分とその徒党が出世すること)が成功すれば、自然できあがるというものだった。旧式儒者そのものというべきだろう。

1898年4月10日、恭親王奕が薨去した。日清戦争で復活したからといって実権を振るったわけではなかったが、アロー号戦争以来、北京政界において重きをなした人物の死は、何か深いところに人心に影響を与えた。

光緒帝は1898年4月23日、変法を国是とする上諭を発した。これから8月6日までの103日間を百日維新と呼ぶ。この間、百本以上の詔書が出された。

地方官僚はほとんど無視し、実行に移されたものはほとんどなかった。中国とは「上に政策あれば下に対策あり」の国なのである。

そのうえ、いずれの国の「少壮官僚」による改革と同じように、セーフティ・ネットが準備されていなかった。科挙やその筆記法である八股文の廃止は、改革をするからには避けて通れない。だが急いでやるべきことではない。というのは、全国の男子人口の1割、それも大多数が知識人は科挙を目指しており、科挙の廃止は人生の目標を失わせるに等しいのである。

3カ月もたつと、全国に怨嗟の声が巻き上がった。だが、光緒帝にそういった情報は入らなかった。もちろん西太后もじっさいの内政に興味はなかった。

康有為は、変法について3月ごろから新軍建設中であり支持者とみられた袁世凱に情報を伝えていた。8月3日、譚嗣同は天津にいき、新建陸軍の実力者、袁世凱に宮廷改革をそれとはなしに打診した。

8月6日、新政策が急進的であるだけで中味に乏しいとみていた袁世凱は、「宮廷改革(西太后の除斥)は避けられない」という過大な見通しを、上司である北洋大臣の栄禄に伝えた。栄禄は直ちに西太后に伝えた。このとき伝えた内容は誇張され「変法派が西太后の幽閉を目論む」とされたという。

この頃の西太后は、頤和園で京劇をみるのを日課としていたが、翌日、宮廷に戻った。出迎えた光緒帝にたいして「大したことをしでかしておくれだね」と皮肉った。憤懣やる方ない表情で「誰があなたを皇帝にしてあげたとお思いか?これの見返りがこれか!」と駕篭から降りもせずいったという。そのあと西太后に従う宦官に連行され、そのまま幽閉された。清朝とは愛新覚羅家であり、家庭は内廷あり、内廷の警察力は宦官なのである。

譚嗣同ら6人は、9月28日、北京城内の菜市口で処刑された。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎になる」と自ら捕らわれ処刑されたという。なお、処刑された6人(譚嗣同、林旭、楊鋭、劉光第、楊深秀、康広仁)を「戊戌六君子」と呼ぶ。康有為、梁啓超らはいち早く逃亡して日本に亡命した。

この政変によって64歳の西太后は、四度、政治の表面に出ることになった。

伊藤博文と百日維新

1898年9月から10月まで伊藤博文は中国を訪問している。前首相であったが公的な色彩を帯びていない。

ただ重大なことは、伊藤博文と光緒帝が勤政殿にて面会した日(9月20日)の翌日に光緒帝が幽閉されたことである。ただ、9月12日、伊藤博文が天津の北洋医堂で栄禄に面談したとき、途中で退座したという時日がある。これは意図したものであって、栄禄は変法派を追い落としをすでに決心していたのは明らかだ。

そして一般には変法派が伊藤に期待し、守旧派は反発したとされる。だが、伊藤がどちらかのグループに肩入れした証拠は見出せない。伊藤が出発する前、日本の新聞も「康有為の如き一派が各地に奔走して改革を鼓吹している空騒ぎ」(『報知新聞』明治31年7月5日)と評していた。康有為の言説では無理もない。

伊藤博文は康有為に、

「貴国が変法を望むのならば、自尊自大の陋習をとり除くべきだ。この世界にあってはいかなる人種であろうとも、みな天地の間に生を受けているもので彼を賤しみ、自らを尊び、自らを中華と称し、彼を夷狄として排斥する道理はありえません」と説いた。

康有為はこれに答えて、

「老いぼれた大臣にいうのであればともかく、30歳以下の士大夫は、さようなことは十分に心得ています」といったという。

伊藤は士大夫であろうが漢人であろうが満人であろうが、外国人であろうが、平等であるべきだと語っているのである。ところが、康有為はもちまえの先走りで、「そんなことはわかっている」としか理解できなかった。康有為の期待は「人材登用法」といった、本人には重大であるが、制度として些細なことのみであった(湯志釣『戊戌変法人物伝稿』)。

百日維新の評価

梁啓超 Liang QiChao (1873-1929)
字は卓如、広東省新会県出身。1895年、科挙を受験するために北京を訪れたとき、康有為とともに下関講和条約反対運動の参加を呼びかけた。中国インテリが反日・排外を唱えて官職を求める運動の濫觴であろう。思想は康有為と異なり共和制であった。直接選挙による大統領をもつ共和国「大中華民主国」を構想した。宮崎滔天は孫文と変法派の協調を計ったが失敗、東京で両派の対立が顕在化した。
辛亥革命の翌年に帰国、袁世凱政権のもとで進歩党を組織し、そのあと研究会グループと呼ばれた。二三の閣僚を経験したが、たいした実績をあげたわけではない。
このような人物を亡命者として受け入れた日本人が数多くいたことに驚かされる。

現代中国では革新に目覚めた光緒帝を老醜の西太后が邪魔をした。もし、光緒帝の思うがままになれば、中国近代化は成功したに違いないという見方が盛んである。

これは誤りであって、当時の地方官を筆頭に官僚は、この改革が中国の実情にあわず、却って社会的混乱を引き起こすとみていた。光緒帝の勅令はことごとく無視されたのである。この事態は西太后の垂簾聴政時代に既に発生しており、地方分権化はますます進行していたのである。もし、愛新覚羅家が地方官の人事権を手放せば、中国は直ちに分裂しただろう。

中国人は人口と統治面積が大きいことが、一人当たり国民所得を大きくすることになると信じている。だが、歴史の示すところそれは逆である。

中国分権化の流れが起きると、必ず統一バネが働き、国民はますます貧しくなっていった。



賈英華『最後の宦官秘聞』林芳監訳 NHK出版 2002