江浙戦争
「聯省自治運動」を熱心に支持していた安徽系浙江督軍盧永祥は、孫伝芳配下の蔵改平と楊化昭を自軍に編入した。これをきっかけとして、1924年9月1日、かねてから上海をめぐって盧と争っていた江蘇都督斉燮元は戦端を開いた。
9月4日、盧永祥から要請をうけた張作霖は、支援と称して山海関を越えた。9月5日、孫文も北伐令を発した。9月9日、曹
大総統は盧永祥討伐命令を発した。
これを聞いた呉佩孚は直ちに斉燮元に支援軍をおくるとともに、自身は洛陽から30両建ての特別列車を仕立て、9月14日、北京に向った。9月17日、北京に到着し、討逆軍総司令に自ら任じ、紫禁城中南海から、四方に張作霖打倒の烽火をあげた。
9月18日、直奉両軍は山海関附近で衝突した。その後、戦局は一進一退を繰り返したが、呉佩孚の参軍要請に王懐慶と馮玉祥は動こうとしなかった。盧永祥軍は当初有利に戦闘を進めたが、呉佩孚が介入し戦局は逆転した。
10月10日、呉は特別列車のまま天津方面に向ったが、途中砲火を浴びた。このため秦皇島で下車し、そこに本営をおいた。ところが10月23日、突然、馮玉祥が北京に乱入し、曹
を軟禁したとの報せが入った。
馮玉祥の北京進駐
馮玉祥 Feng YuXiang
(1880〜1948)
字は煥章。安徽省巣県を本貫とするが、父の勤務地であった河北省青県で生まれた。淮軍に兵卒として参加しているが学歴などははっきりしない。1902年ごろ淮軍をやめて袁世凱に従い、武衛右軍の正兵となった。1910年営長になった。辛亥革命では
州で蜂起し、捕らえられ陸建章に助けられたという。袁世凱死後は直隷派に転じ、安直戦争において軍功があり、11師師長になった。第2次奉直戦争では、北京を急襲し、溥儀を故宮から追放した。そのあと連ソを唱え、国民党に加入した。呉佩孚などが自滅していく中、国民党についた馮玉祥は北洋軍閥を継承する位置を占めた。1929年、蒋馮抗争で蒋介石に叛旗を翻したが、部下が離反、閻錫山のとりなしで収まった。中原大戦に敗れ下野したが閻錫山とは異なり、部下の信頼を失い、直属の軍隊を失った。満洲事変が勃発すると、南京に現れ、抗日を主張したが、蒋介石に相手にされず、泰山に隠居した。支那事変でまた現れ名目的な軍司令官に任命された。第2次大戦後も、無意味な国共合作を叫び蒋介石に忌避された。1946年、渡米し自説を訴え、一定の支持を得た。そのあとソ連に渡り、黒海で客船火災に遭遇して死亡した。キリスト教徒であったため、クリスチャン・ゼネラルと称された。外国人記者団に「ヤラセ」で自軍兵士に聖書を読み上げさせたりしたが、全て資金獲得のための茶番である。
10月22日、熱河から北京の北苑軍営に入った馮玉祥は、熱河の米振標、通州にいた陝西軍の胡景翼、北京警備副司令孫岳、王懐慶と通謀した。
翌日、馮玉祥は、突然北洋軍閥直隷派の看板を下ろし「国民軍」を名乗り入京した。背景にはソ連の示唆があった。
呉佩孚は直ちに軍を返し北京に向ったが楊村で惨敗した。呉はそれでも天津の特別列車に止まり、山東の鄭士奇や斉燮元に援軍を求めたが得られなかった。11月2日、呉の特別列車は天津をたち塘沽についた。その後、汽船にのり山東に立ち寄るなどして、1925年1月15日、南京に上陸した。その後、1月17日漢口につき洛陽に向った。だが洛陽は馮玉祥派配下の劉鎮華が占領しており、けっきょく、湖南省岳陽まで落ちのびた。
馮玉祥は孫文に対して北上を求めるとともに、安直戦争敗北以来下野していた段祺瑞に入京を要請した。張作霖とも会見して、段祺瑞の擁立を確認しあった。11月24日、段祺瑞は、かつて得られなかった地位、中華民国臨時総執政となった。
総執政とは、大総統と国務総理の権限を一つにしたものであったが、以前のように軍隊をもたな段祺瑞は張作霖と馮玉祥のロボットであった。「善後会議」を提唱したが、孫文は「国民会議」開催を主張し、北上には応じたが、翌年2月から始まった善後会議には出席しなかった。多分に病気のためでもあり、じっさい、3月12日、北京で客死した。善後会議も、何の成果もなく、4月には閉幕した。
馮玉祥蹶起の内側には土肥原賢三らの暗躍があった。すなわち坂西利八郎が「曹 が顧維鈞の細工で米国に援助を求めようとしている」(こんなことはありうるはずがない)との情報をつかみ、黄郛に蹶起を馮玉祥を説かせしめたというのである。
松室孝良少佐が、百万円の小切手を馮玉祥に届けたという。この工作については宇垣陸相と上原参謀総長も承知していた(『宇垣日記』)。
これは支那通軍人の「ノボセ」である。馮玉祥が日本の金を受け取ったことは事実であるが、記録によれば前年の相当早くに反呉佩孚を決定しており、背後にはコミンテルンの工作があった。馮玉祥が、当時、完全にコミンテルンの指導下にあった国民党を名乗ることに、日本の支那通軍人は思いもよらなかったであろう。
一枚岩の組織と、各人で微妙に異なる「日中友好」の支那通軍人とでは、初めから勝負にならないことに、彼らは生涯気づいていないのである。また支那通軍人の癖として、ただの犯罪にフンフンといった程度で後になり、「オレがやった」「オレが、オレが」と自慢することがある。
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浙奉戦争
中央政局を握った張作霖は一挙に揚子江南岸へ進出すべく、奉天軍の各武将を配置する人事を発令した
1925年6月、張作霖の息子、張学良が上海に進出し、まもなく姜登選がそれを継承、8月、姜登選が安徽督弁、楊宇霆が江蘇督弁に任命された。奉天派と江浙戦争以後、浙江督弁に就任していた孫伝芳との間に緊張が走った。また天津には盧永祥、のち李景林を配置した。
10月16日、またもや上海の利権をめぐって、孫伝芳と奉天軍との浙奉戦争が勃発した。
戦いは孫伝芳有利で進み、奉天軍はあちこちで敗退した。孫伝芳は上海を回復し、安徽省と江蘇省から姜登選・楊宇霆を追いはらった。孫は呉佩孚に連絡し、再起を要請した。呉は漢口において14省討賊連軍総司令と称し、張作霖排除の戦線を張ろうとした。
11月13日、これにたいして段祺瑞は、孫伝芳と呉佩孚の討伐を命令した。一方、孫伝芳は、南京において、浙江・江蘇・福建・安徽・江西五省聯軍の成立を宣言し、総司令を自任した。
張作霖と馮玉祥は北京から京漢線、津浦線を利用して南下した。ところが張作霖は呉佩孚に連絡して寝返りを誘った。呉は寝返り、馮玉祥軍に向っていった。ところがここで、奉天軍内部で反乱が生じた。
郭松齢事件
1925年11月、張学良の教育係であった郭松齢が張作霖に対して反乱を起こした。以下は日本の外務省の公式ホームページにあるこの事件の説明である(2007年4月現在)
事件発生後、領事館、満鉄、関東軍など日本の出先機関はほぼ一致して、張作霖を援助することにより満州の現状維持を図るよう意見具申を行いました。すなわち、郭の満州支配は赤化の脅威と国民党の進出をもたらし、その結果満州における日本の特殊権益が動揺することを警戒したのです。
他方、外務省及び参謀本部・陸軍省などの中央政府は当初、中国ナショナリズムへの刺激を恐れてあくまで不干渉の方針を採ることを確認しました。しかし、次第に郭軍が優勢な状況になると、張・郭両軍に対して白川義則関東軍司令官の名で二度にわたって両軍に対して警告を発するとともに、15日には出兵が閣議決定され、本土及び朝鮮半島の部隊約3500名が奉天に向うこととなりました。幣原は、在奉天の吉田茂総領事に対し、派兵はあくまで軍隊の「補充」を目的したものであり、「絶対不干渉厳正中立ノ態度」に何等変更がない旨を伝えましたが【展示史料8】、実際には軍事力による干渉という性格を帯びるものでした。当時の新聞報道においてもこれが対満州政策の「一転」であると報じられ、加藤内閣に対立していた政友会は「それ見た事か」と政府の対中政策を批判したと伝えられています。
結局、日本の介入と関東軍や張作霖の日本人軍事顧問による諸種の援助によって郭軍は劣勢に陥り、張軍の攻勢の前に敗れた郭夫妻は、12月25日、張軍によって射殺され、事件は収束しました。
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この外務省の解説はまったく誤っている。まず関東軍が外務省に意見具申することはあるべき姿であって、これが張作霖爆殺事件以降なくなったことが問題なのである。さらに郭松齢の反乱背景は現在のところ依然として謎である。
情況として馮玉祥に使嗾されたものとみる見方が有力であるが、確証がとれないのである。満州の赤化=国民党とソ連の満州進出は張作霖支配においても懸念されていた。また当時の国民党の大勢はコミンテルンによって支配されていた(ただ外務省だけはこの事実を認識できていなかった。華南各地の領事館報告が誤っていたのである)。
加えるに、赤化反対は幣原も含めて当時の外務省の方針であった。
郭松齢Guo SongLing
(1884-1925)
奉天出身。字は茂辰。保定軍学校、北京陸軍大学卒業。1911年ごろ奉天の連合急進会という漢人系革命団体に加入している。張学良の教育係だった。
事実関係をいえば、郭松齢は、北京に乱入し馮玉祥を追い払うことを張作霖に命ぜられていた。それが途中で寝返ったのである。明智光秀の本能寺の変に似ているが、もし麾下の軍隊の統制に自信があれば、満州に戻らず、北京にいき馮玉祥と結ぶなり、津浦線(天津=徐州=南京を結ぶ)沿いに南下すればよいのである。
ところが郭松齢は山海関を越えると秦皇島附近に止まり、その後主力を錦州において動かず、形勢が悪化するにつれ奉天に向かった。
一方、張作霖は朝鮮に逃げることを考えるほど窮地に一時追い込まれたが、黒龍江省督弁呉俊陞、吉林省督弁張作相の支持を得て立ち直り、遼河で決戦を交えることにした。12月21日遼河河畔における戦いで、張作霖は大勝した。
郭松齢夫妻も、12月23日発見され、黒竜騎馬隊に討たれることになった。そして、郭松齢が率いていたのは奉天軍主力であるから、奉天軍が経営する京奉線に沿って、反乱軍が充満したという当時の報道は誇張ではない。だがけっきょく、踊ったのは郭松齢ただ一人であって、張作霖の有力武将は旗幟を闡明にしなかった。もちろん有力武将が郭松齢に寝返り誓詞を入れていた公算は強いが、じっさいの行動になると中国人は紙切れなど問題にしない。
これの理由は、奉天軍閥と国民党は他の北洋軍閥などと異なり、軍事的自給自足体制を整え、自前の原始的な徴税組織までもっていたからである。したがって、張作霖の武将は張へ直接忠誠を誓っており、簡単に張から離れられない。奉天軍閥を倒すにはまず張作霖本人を殺害するしかない。
さらに、関東軍は両軍に満鉄線を越えてはならないと宣言した。これは当然のことで当時の外務省が反対したのだろうか?また外務省の筆者は幣原の肩をもち吉田茂に批判的な物言いであるが、現地権益を国際法に許された範囲で軍事力をもって確保することも当時は当然であった。この場合、駐箚制によっていた関東軍の兵力を定員まで高め戦時体制にすることは当時の陸軍においては、軍事力行使のためにはそれしかなかったのである。干渉などではまったくない。これについてすら不満顔の幣原の軍事オンチがその後も漢口事件や第3次南京事件の悲劇につながっていったのではないか。政友会の反応はこの幣原=外務本省の無能にたいして当然であろう。
戦後になり、功を誇りたい支那通軍人が盛んに張学良へ協力したことを述べたてているが、これも戦闘に参加していない以上、日本軍の介入は単純になかったのである。
さらに、日本人顧問について特筆しているが、現在の外務省の愚かさをよく示している。このとき張作霖側だけでなく郭松齢側にも陸軍から儀峨誠也少佐、外務省嘱託として駒井徳三が顧問についていたのである。
外務省は、こういった本来任務とあまり関係がない歴史について口を挟むときには、自分の機密書類程度は調べてからかかることである。またこういった虚偽の歴史認識を披瀝することによる外交的不利をもっと考えるべきではないか。
馮玉祥ソ連亡命
馮玉祥軍は、1925年末には呉佩阜や張作霖配下の李景林軍と戦っていた。景林軍は寡少であったが抵抗は激しく、12月23日、自発的に山東省に退くまで激戦が続いた。それ以降、馮玉祥は郭松齢を助けるべく満州に向かったが、時すでに遅く間に合わなかった。
郭松齢が処刑され反乱が終息に向うと事態は一変した。1926年に入ると張作霖と呉佩孚は「反共=反国民党=反馮玉祥」で一致し同盟がなった。張作霖配下の山東督弁張宗昌が直魯聯軍総司令になった。一方、馮玉祥は元来、直隷系であったが、連ソ・容共の姿勢を鮮明にした。
呉佩孚が攻勢に出ると、馮玉祥は北京南口で戦うが大敗、1月、馮は下野し、ソ連に向った。途中、庫倫(ウランバートル)でボロディンと面会したが、敗勢を確認するに止まった。
4月、馮玉祥軍=国民軍は執政府に乱入し段祺瑞を追い出した。そのあと馮玉祥軍は北京を離れ張家口に本拠を移した。段祺瑞は戻り、呉佩孚と張作霖の庇護のもと、再び北京政府を再開した。
馮玉祥は9月、モスクワから戻ったが、ソ連から要請された外蒙への防衛のためか軍を西に向け、オルドスまで延翼した。自身は閻錫山から借居し、包頭に本営を構えた。
第一次北伐に進む