第一次北伐

第一次北伐

第一次北伐

蒋介石の一貫した主張は北伐であった。中山艦事件以降、国民党内部における地位は向上したものの、党内における共産党員の勢力は強かった。「分派(フラクション)活動の禁止」だけが、彼らに課せられた制約だった。ただし、10数名に達していたソ連派遣要員は中国人共産党員に絶対的権力をもっていた。そのリーダー、ボロディンはトロツキー支持者であった時期があり、ソ共内またはスターリンの信頼は薄く、蒋介石と争うことの不利をよく承知していた。

1926年7月9日、北伐出師宣言がだされた。

この当時の国民党軍は次の通りである(軍長は北伐開始時)

第1軍 軍長 何応欽 黄埔軍学校教導団から発展・もっとも強力
第4軍 軍長 李済→陳可玉 旧広東(粤)軍(広州に残置)
第7軍 軍長 李宗仁 旧広西(桂)軍
第8軍     唐生智→軍長 張発奎 湖南軍
 以上が強力な4軍
第2軍 軍長 譚延→魯滌平【ろてきへい】 旧湖南(湘)軍
第3軍     朱培徳→王均 旧雲南軍
第5軍     李福林 広東の会党集団(福軍)
第6軍     程潜→楊杰【ようけつ】 
第9軍 軍長 彭漢章 旧貴州軍・北伐後参加
第10軍 軍長 袁祖銘→王天培 旧四川軍・北伐後参加
第16(43)軍 軍長 李桑 北伐貴州軍

初めに戦線が動いたのは湖南・湖北省だった。湖南省は、譚延などの支持によって、辛亥革命後の1920年7月に「自治」を宣言、翌年1月に省憲法を施行した。当時盛んだった「聯省自治運動」の一環であったが、 約6年持続し、最長記録である。ところが中共を支持した譚延が広州に追い出されると、残った唐生智が湖南軍を指揮するようになり、国民党と結ぶ姿勢をみせると、趙恒陽と武漢に根拠地をおく呉佩孚軍は脅威を感じた。

唐は、呉佩孚軍から圧迫されたとして、4月から救援を求めていた。ただ、馮玉祥が北方に追われたあと、北京では、張学良と呉佩孚の対立が激化していた。武漢の呉佩孚軍は腹背に敵をみる公算が強まった。

蒋介石は、唐生智に第4軍と第8軍(のち第9軍と第10軍も加わる)を併せた中央軍の指揮官に任命した。

8月に入ると、趙恒陽と呉佩孚軍は湖南省から総撤退を開始した。入れ代わりに唐生智は省都長沙に入った。唐はそのまま北に向った。唐はこのとき第2軍(魯滌平)と第6軍(程潜)を広西省に向かうよう誘導した。魯と程も湖南省出身であり唐にたいし不快感を抱いたという。

湖北省の入り口岳陽では、呉佩孚の砲艦が待ち構えていたが、難なく追い払った。岳陽から武昌に向ったが、汀泗橋(咸寧の西部)で小規模な戦いがあったが、中央軍は8月下旬には武昌の城壁にたどり着いた。急を知り、呉佩孚も漢口にやってきた。

だが、国府軍は裏をかくように、武昌を放置し、揚子江(ここでも川幅は1500メートルほどある)を渡河し漢陽に近づいた。そして揚子江を渡河すれば、呉佩孚軍主力が立てこもる、漢口である。だが、呉佩孚軍に戦意はなかった。約4万がここで降伏した。この方面の事実上の指揮官は政治委員のボロディンであった。

呉佩孚自身は漢口から京漢線で北に向かい逃亡した。そして京漢線と隴海線の交叉する鄭州で守備を固めた。一方、武昌に残された呉佩孚軍は劉玉春を指揮官として孤軍よく立ち向かい、降伏したのは10月10日であった。

一方、ガレンが参謀長をつとめる江西軍も、広東省境の河を突破した。長沙にいた蒋介石も唐生智軍と分かれた一隊を率い錦江を下り省都南昌に向った。

江西軍は吉安附近で取り残された呉佩孚軍と衝突し打ち破った。そのあと本隊は修水沿いに進み、一隊は九江(揚子江沿い)に向かい、南昌をつこうとした。このように三方から南昌を取り囲む形勢なった。

孫伝芳 Sun ChanFang (1885-1935)
字は声遠。山東省泰安県出身。若くして父に死なれ貧惨にあえいだが、姉が馮国璋の縁者の妾になり運が開けた。1903年、保定軍学校に入り翌年、日本に留学した。振武学校ののち陸軍士官学校に進んだ。同盟会にも入った。1909年帰国した。そのあと湖北督軍に属したが、1920年の安直戦争に巻き込まれ、湖北・湖南戦争(1921年)で敗れたが頭角を現し、呉佩孚の幕下に入った。1924年、曹・呉佩孚は安徽派に残された福建・浙江両省の恢復にのりだし孫に討伐を命じた。孫は平定に成功したが、直後、第二次奉直戦争が発生し、奉天軍が勝利した。張作霖は配下の張宗昌を江蘇省に差し向けた。孫は、上海を境に江浙を分割することで妥協した。1925年10月に入ると、孫は上海の利権が欲しくなり、馮玉祥と呉佩孚を結んで、江蘇省にいた楊宇霆を奇襲した。孫の部隊は半ズボンに編み笠、草鞋といういでたちで、乞食部隊とあだ名された。だが乞食部隊は上海を占領後、南京に向かい、攻略に成功したものの入城せず、そのまま揚子江を渡り北上した。張宗昌は徐州に集中し、安徽省固鎮で迎え撃った。だが戦いは孫の勝利で終り、11月8日、徐州に入った。11月25日、南京に凱旋し、浙江・福建・江蘇・安徽・江西5省連合軍総司令に自ら就任した。このとき、岡村寧次が高等顧問になっている。1926年7月、蒋介石は孫伝芳に張群を派遣し、北伐に従うことを命じた。孫の答えは「政客は皆定見のない売春婦ばかりだ。小官は正真正銘の軍閥である」というものだった。だが、北伐が開始されると戦いに利あらず、敗退を重ねた。1926年11月18日、単身鉄道で天津にいき、張作霖に膝を屈し、前非を悔いた。その場で張作霖・孫伝芳連合が成立、安国軍と称した。孫は大量の武器・弾薬を得て、一時、徐州を回復したが、1927年6月竜潭で大敗、4万人を失い戦闘力を喪失した。翌年、張作霖が爆殺されると、張学良に迎え入れられたが、楊宇霆暗殺後は隔意が生じ、大連に逃げ、そのあと天津に住み仏門に入った。だが、1935年11月、かつて殺害した白系露人の娘に射殺された。

ところが、江西軍が九江を離れたところ、孫伝芳軍3万が九江に到着した。これにたいし、勝ち誇った武漢にいた中央軍は江左軍を派遣し、揚子江に沿って直ちに討伐に向った。九江に重砲弾が打ち込まれると、孫伝芳は中国大陸でまったく新しい敵が出現したと悟らざるをえなかった。虚を衝かれた孫伝芳は身一つで揚子江を汽船快川号で逃れ、あとに残された兵員は無傷のまま降伏した。

孫の失敗の原因は、従来の軍閥思考にとらわれ、蒋介石と呉佩孚をまず争わせ、漁夫の利を得ようとしたところにある。呉佩孚は争わず逃げてしまい、そのあと、孫はあわてることになった。

11月4日、南昌も陥落した。南昌攻防戦は第一次北伐前期の戦闘の山であり、それに勝利した国民党は僅か3カ月で、湖南・湖北・江西省を獲得したことになる。

さらに福建省を守っていた孫伝芳の与党、周蔭人も窮地に陥った。第1軍によって江西と広東の両面から攻撃をうけると防禦はほぼ不可能である。10月27日、江西軍の一隊が邵部および汀州の省境を越えると、周は逃亡を決意した。手回りわずか200人で北方に向ったが、途中、農民によって惨殺された。

武漢国民党政府

湖北省と江西省が支配下にはいると広東に止まっていた譚延や張静江ら国民党政府首脳部は、11月26日、武漢に政府を移転することを決定した。しかしながら、12月初旬南昌にいた蒋介石は、張作霖=孫伝芳連合である安国軍が結成されたと知り、自重を促した。

陳友仁・徐謙・孫科・宋子文を伴い、先に武漢に到着していたボロディンが、国民党政府要員を迎え入れた。12月13日、漢口で「国民政府臨時連席会議」を成立させた。徐謙が主席についた。1月3日、南昌側は臨時連席会議への参加を拒否、中央党部と国民政府は南昌にあると主張し、国民党分裂の形勢が現れた。

政府が分かれることにより、兵站線が変更になり国民革命軍は混乱に陥った。兵士への給与の手配すらままならぬ状態となった。戦線は北上していたが、馮玉祥軍の向背がまだ定まらなかった。

馮玉祥は、1926年9月17日、モスクワから帰国したが、そのあとソ連の要請によって本拠をよりモンゴルに近い北方に移していた。すなわち直隷省北部、綏遠、察哈爾・甘粛にかけてであり、1927年に入ると陝西省に進出した。

また呉佩孚軍の河南においた将軍たちは呉佩孚に叛旗を翻し、呉佩孚を湖北省西部に追放した。張作霖はこの反乱を許さず鄭州周辺で掃討戦を開始した。

漢口のイギリス租界を行進する国民革命軍.。盾のようにみえるのは、突撃のさいの銅鑼である。また背嚢を負わないのは中国式兵装の特色で、糧食などは臨時編成の輜重隊が準備する。これがため攻勢に出ても、2日以上の継戦はまず不可能であり、略奪に走りやすかった。

一方、武漢市内ではならず者や細民が英仏租界へなだれ込み、略奪を開始した。国民党政府は清代以来の省政府官衙があった武昌にいかず旧ドイツ租界の建物を徴用した。旧ドイツ租界は英仏租界と旧ロシアと日本租界の中間にあった。

国民党のこの頃のスローガンは「英日帝国主義の手先、張作霖・張宗昌を打倒せよ」という出鱈目ぶりであった。張作霖はイギリス人や日本人の手先になるような男ではなかった。政府や公党が排外主義をあおって「民衆」の素朴な外人嫌いの感情を煽ることは卑劣な行為である。細民はこのスローガンの中にイギリス租界襲撃の理由を発見したのであった。

蒋介石は直ちに外国人との軋轢を避けるよう要請した。このため外交部長陳友仁が派遣され外国人との交渉にあたった。だが元々陳は外交的才能など持ち合わせていなかった。そしてボロディンもこの事態にたいする方針はなく、「租界回収」をいうだけだった。だが、租界とは「治外法権」と「内地雑居拒否」とのバーターの産物である。租界にある外国人の建物とは純然たる私有財産である。「租界回収」という言葉だけでは、外国人から私有財産を買い取るのか、略奪するのか、判然としないのである。

陳友仁とはとんでもない男である。

以下はラルフ・タウンゼントによる描写である(『暗黒大陸 中国の真実』芙蓉堂出版 2004)

ユージン(友仁)・陳という男を紹介しよう。外国事情に通じ、プロパガンダの達人である。故郷のトリニダード(ドバコ)で名を上げた成り上がり者である。ブルース・バートン(米国の実業家・作家.政治家)ばりに抜け目がない。

文章は中国語より英語が得意で、ブロードウェイの宣伝のプロに勝るとも劣らない根っからの山師である。アメリカなら、石油を掘り歩き、グレープフルーツ農場のセールスマンやら投資詐欺師として成功するタイプである。中国に来てから、政界に潜り込み、見境なく派閥を渡り歩いた。誰であろうと役に立つと思えば擦り寄り、敵と思えば攻撃する人間である。

さて、南京政府が一応中央政府ということになっているが、これに従わない地方もある。広東がその一つで、中央政府の「日本製品不買運動」に与しないことがあった。そこで目端の利くユージン・陳は一口乗って密使として日本へ渡り「反南京政府運動」を画策したようである。もちろん日本側は相手にしなかった。

失敗と見るや、南京側に寝返り、外務犬臣となり「日本製品不買運動」を推進した。陳は風見鶏の本領を遺憾なく発揮している。一九ニ八年には反日分子として投獄され、一九二六年には反南京である広東政府の外務大臣。一九二七年には反南京である漢口政府の外務大臣となり、その次に同じく反南京派で漢口の抗争相手でもある広東政府から同じポストを頂いている。その後、広東を出て南京政府の外務大臣を務めた。一九二八年からは国民党一筋である。


陳友仁は、そのあと再度広東に戻り、汪兆銘の広東政府に参加し、満州事変の勃発によって、南京・広東合流がなると、国民党から離れ、1933年11月、19路軍による「中華共和国」成立(福建事変)に関与した。

陳は幣原喜重郎とウマがあった。1931年、第2次若槻内閣の外相時代、来日、「日華軍事同盟」を提唱したという。これにたいし幣原はカウンター・プロポーザルとして「日華協商」を提案したという。この当時、日中間には中国内政以外懸案はなく、両者とも不思議な話題をもちだというべきだろう。

幣原によると陳の臨終の言葉は「シデハラ、シデハラ」だったという。

漢口事件

1月に入ると、漢口ではしばしば細民を集めて民衆集会が開かれた。演壇にたったのは中共党員であり、傍らにはソ連人がいた。そして、「正義」「抑圧を振り捨てよ」「生活を高めよ」と空疎なスローガンを叫んだ。細民は演説の意味するところが租界にいる外国人を襲撃することだと理解した。

初めに狙われたのはイギリス租界だった。イギリスは砲艦を派遣し、少数の陸戦隊を上陸させ、租界への侵入路にバリケードを築いた。オースティン・チェンバレン外相は下院で「中国における地方権力とも交渉する可能性」を示唆した。英・米・日はバラバラに外交代表を漢口におくった。しかしながら、幣原喜重郎は英米と協調しての交渉を拒絶した。幣原は、国民党を地方権力ではなく、早々に全国的権力になることを予感していたのである。また、蒋介石が日本を英米より優遇するとみていた。こちらは大間違いであった。

陳友仁は「全租界を国民政府の主権下におくべきであり、治外法権は撤廃されるべきであり、現在の租界地域内では中外混合行政が施行されるべきだ」と主張した。これでは、まったく法理にならない。

1927年1月3日、孫文の息子である孫科が「イギリス租界に突入せよ」と演説した。細民はイギリス租界に殺到した。イギリス総領事ゴフ"Herbert Goffe"は海兵に発砲をいっさい禁止した。イギリス人はその日のうちに暴行に耐えながら、乗船し難を逃れた。死者はなかったという。

イギリス政府は九江租界も有償とする条件で撤退し、揚子江上流に居住する宣教師も含めた民間人に脱出命令を出した。

このような事件が発生しても、幣原喜重郎と外務省は何の対策もうたなかった。唯一海軍がいつ情勢が急転するかわからないとして、日本租界前に脱出用の船舶を常時用意させた。

4月3日午後4時、日本租界内漢口銀行前を通行中の日本人水兵が子供の悪戯をめぐって、住民と口論になった。これをみた細民は突然、集団をなして日本租界になだれ込んだ。この過程で水兵5人ほどが拉致された。

嵯峨艦長は直ちに陸戦隊200名を上陸させ、日本人住民2200人を大福丸・武陵丸・大享丸・三月丸の4隻に非難させた。4日には駆逐艦時津風と天津風が到着し、陸戦隊500人が租界警備にあたった。

政府内では、租界に戻すべきという意見もあったが、雑居者も多く、結局5日、大福丸を利用して全員、上海方面に出帆させることに決定した。この事件による死者は出なかったが、負傷者数は不明である。

蒋介石と武漢政府の対立

1927年の1月の第3週、蒋介石は漢口にいった。そこではボロディンと口論となり、両者の対立は抜き差しならないものとなった。わずか2日いて南昌に帰った。そして同じ週にボロディン夫人が家事上のことで上海にいったさい、奉天軍に逮捕され、北京に護送された。ここで拷問にあい、ソ連大使館に匿われている共産党員について喋ったとされる。

武漢政府の国民党員の有力者は譚延、孫科、陳友仁であって、いずれも翳のある人物である。この政府とは別に、国民党左派ケ演達が、湖北省ソビエトの首領であるとして、ドイツ人共産主義者の監督の下に宣伝活動を展開していた。だがその内容は、農民や都市労働者に金持ち、すなわち地主と資本家を殺害もしくはその家を略奪せよと宣伝することだった。

ボロディンはあまりの殺戮の横行に手を焼き、湖南省にいき沈静化に努めたが、ほとんど効果はなかった。湖南・湖北はまた流血の巷になっていった。

上海で国府軍に降伏した孫伝芳軍(直魯軍)の兵士

一方、孫伝芳の敗勢をみて、浙江省では武将の一人、夏斗寅が叛旗を翻した。孫は鎮圧に向わせたが、浙江省にいた軍勢の大半はすでに命令に従わなかった。

何応欽の第1軍が福建省を北上すると、敵はなく、2月17日、杭州は陥落した。張作霖は上海に脅威を感じ、張宗昌を津浦線に、張学良を京漢線に沿って南下させた。

浙江省が不安な孫伝芳は、江蘇省を固めざるを得ず、3月21日、無血で上海を撤退した。張学良は呉佩孚軍のうち寝返り国民党に加わった者を平らげ、鄭州を占領し、西平=周家口の線まで達した。

上海では、インド及び香港から集中したグルカ兵および海兵1500人のイギリス軍部隊を中心に、租界参事会は各国から義勇兵を募った。

第三次南京事件

3月23日、南京から張宗昌の部隊の撤退が終了した。その夜、張の部隊の逃げ遅れた兵士が2軒の外国人家屋を略奪した。3月24日、国民革命軍第2軍と第6軍と思しき軍隊が入ってきた。

これら部隊の兵士は、部隊統制がきいたまま、午前8時から民間人・外国人を問わず略奪、暴行、とりわけ婦女暴行を開始した。目標となったのは、日英米仏の領事館周辺であって、なぜかドイツ領事館は対象にならなかった。

午後3時、英米艦より艦砲射撃が行なわれた。

略奪・暴行は午後5時、ピタッと停止した。南京大学の副学長エリスが殺害された。確認された死者は英人2人、米人1人、日本人1人、伊人1人である。負傷者は100人以上であり、南京在住の外国人女性の大半が強姦されてものと推定される。日本人女性が最多数である。

アメリカ宣教師団の声名文

南京虐殺の真相を広くアメリカ人に知ってもらわんがため、外国人の生命財産に危害を加えられた三月二十四日に南京に在住していた我々アメリカ人は、署名のうえ、ここに声明文を記す。

この残虐行為は、上官の承認の下、制服着用の兵士によって行われた。南京在住の我々アメリカ人全員がこの目で見たのであるから断言できる。彼らは、外国人の私邸、領事館、学校、病院、会社の事務所を略奪しただけではない。家にも学校にも火を放った。

外国人と見ると老若男女構わず撃った。誤射ではない。殺意を持って撃った人殺しである。ある著いアメリカ人娘などは二発も銃弾を打ち込まれ重傷を負った。アメリカ女と見ると強姦する。その他、外国人女に、言葉にできないほどの侮蔑行為を加えた。

こうした事件の多くをこの目で目撃したのである。その他さまざまなことが、疑いの全くない事実である。北伐軍の兵士や中国人の友達の証言によれば、南京入城に際して命令ではないにしろ、「略奪、外国人殺害許可証」の類のものを持って南京に入城したようである。

外国人の家に押し入る。金庫を開けさせる。着ているものまで剥ぎ取る。女は犯す。すべて計画通りだったことは部隊の行動からして明らかである。我々の中には、「隠れても見つけ出して殺してやる」と言われた者もいる。中国兵だけではなく、匿ってくれた中国人までもがそう言ったのである。

ところが、この虐殺がピタリと止んだ。米英の軍艦の艦砲射撃が始まったからである。とたんにあちこちでラッパの合図があり、組織的破壊行動が止んだ。これで兵士の暴虐、破壊活動は上が命令した組織的行動だったことが証明された。以上は嘘偽りのない事実なのである。この南京虐殺を画策したのは誰か。

外国人と中国人双方の意見であるが、首謀者はロシア共産党指導者の指導を受けた国民党政府内に潜む共産主義活動家である。これらは外国人だけでなく、中国人にとっても敵である。根絶やしにしないと中国の統一どころではない。我々は中国の国家目標に心底共嶋してきたし、これまで危険に晒されてはきたが、今後とも気持ちは変わらない。故に、現在、国民党政府の政策に強い影響を与える陣営を抑えねば、中国のみならず世界の行く末は安心できないものがある。

程潜 Chen Qian (1882-1968)
湖南省醴陵県出身。字は頌運。16歳で秀才となり長沙の城南書院に入学。1903年湖南武備学堂入学。翌年日本に留学、振武学校を経て陸軍士官学校入学。砲兵第6期で卒業。ここまで典型的な清末のエリート・コースである。1905年、同盟会に加入。1910年、四川新軍に配属。翌年の武昌起義のさい、武昌にかけつけている。武漢戦に黎元洪軍に参加、1913年には湖南都督府参謀部長。第二次革命にも参加したが敗れ、日本に亡命した。第3革命で帰国し、孫文に従う。1925年、第3縦隊隊長として、第二次東征に参加、陳炯明を討つ。1926年初、第6軍長。この経歴からソ連派遣要員に評価されていたことがわかる。北伐では、湖南、湖北、江西を転戦、九江、南昌を経て、江蘇省に入り、第3次南京事件を引き起こしたとされる。1928年唐生智征伐に参加、翌年、湖南省政府主席。このときは広西派に近かった。そのあと蒋介石の李宗仁討伐に巻き込まれ上海に逼塞した。1935年復帰し、参謀総長。支那事変勃発後河南省主席になり、西安経由、甘粛方面でゲリラ戦を展開した。ここで毛沢東と気脈を通じた。1946年再度、湖南省主席。1949年、人民解放軍が揚子江渡河作戦を実施する直前、中共に寝返った。その後、全人代常務委員会副委員長。文革時、紅衛兵に襲撃され死亡したとも噂される。

各国領事館には、第6軍長「程虔(遷)」(程潜?)と名のる人物が現れた。第6軍は、李富春・林祖涵が政治部主任(コミッサール)をつとめ共産系であると噂されていた。

蒋介石は3月31日、南京に入り、翌月首都とすることを発表している。1週間後に来訪する都市を信頼できない部隊に占領させるだろうか?やはり、上海から鉄道で直系の第1軍が南京に急行したのではなかろうか。

国民党は台湾に移ってからも、この事件の責任者は中共分子であるとしている。中共も否定していないが、初期共産党活動を誇大にいう癖があり信用するに足りない。また、国民党も中共も、この事件は帝国主義者にたいする勝利だと暴言を吐き、いささかも謝罪していない。

北京ソ連大使館襲撃

北伐の第一目標は張作霖征伐であった。1926年の中国で、武器の自製能力をもち曲がりなりにも、徴税組織をもっていたのは、国民党と奉天軍だけだった。ただ、主力軍が北に偏しているため、1925年の浙奉戦争では孫伝芳に一敗地に塗れたが、このときでも張作霖の視野には全中国が入っていた。

一方、北洋軍閥の軍隊とは、清時代から政府(朝廷)任命の北洋通商大臣、直隷都督が統帥権を握る部隊を意味した。つまり軍閥と言い条、個人的に首領が将校団と結合していなかった。このため、北京における政争、または軍隊の小競り合いに敗北すれば簡単に失脚した。これの例外が前線軍を率いていた呉佩孚と馮玉祥であるが、いずれも政治的視野が狭く、その視野は全中国ではなく、局地にしかすぎなかった。北伐が始まると、国民党と奉天軍の争いが天下分け目であるとみなされたのは当然だった。

張作霖は、直隷系北洋軍閥の血をひく孫伝芳と呉佩孚が連敗し揚子江北部に追われると、代わりに張学良と張宗昌を二本の角にみたてて揚子江流域に突入させた。

張宗昌 Zhang ZongChang (1882-1932)
山東省掖県出身。字は効坤。緑林から転じて奉天軍にいたが、辛亥革命のときは上海で光復会に属していた。同盟会=国民党への反感は光復会からのものであろう。このとき陳其美を暗殺したといわれる。そのあと馮国璋軍に属ししていたが、再度、奉天軍に戻り、第一次・第二次奉直戦争で張作霖に認められた。1926年、孫伝芳と同格の安国軍副司令官になり華北で活躍した。張作霖爆殺後は日本に亡命した。1931年、張学良の参謀として復活したが、済南に韓復を訪ねた帰途、済南駅頭で暗殺された。性格にはかなり粗暴なところがあった。反蒋介石の鬼といえるかもしれない。

そして1926年11月、孫伝芳とともに安国軍を結成した。そのスローガンは、反共連合であった。

1927年4月6日、奉天軍は北京にあるソ連大使館を襲撃し、国民党員2名、共産党員2名を逮捕し大使館員を拘束し、なお大量の文書を押収した。

共産党員李大サは銃殺された。

北京議定書により、各国公館は共同して防衛することになっていたが、ソ連は自ら北京議定書から脱退しており共同防衛の対象にならないとされた。なお本件は外国公使館不可侵を定めたジュネーブ協定以前の事件である。

東大教授神田彦松の本件について次のように解釈している

「殊に支那とロシアは大正十三年五月に締結した露支協定においては両国は互に相手国の領土内で共産主義その他の宣伝を行わないという条約を結んでいる、この条約によっても共産主義の宣伝を容認しまたはその宣伝を援助するような行動をとるべきことはつつしむべきである、

従ってこの特別の条約上の約束がある以上大使または大使館でその国の治安を紊し安寧を害するような犯罪または行為があるものと認めた場合には大使または大使館の不可侵権またはその他の権利を破って今回の事件のごとく臨検したようなことがあってもこれを以て直に国際上不法行為とはいえない、

当然承認許容されている範囲と認むべきものであると思う、従って今回の事件の如きは支那側は自国の安寧秩序、治安を害するような行動が大使館内にありと認めて検挙したものとするならば支那側の取った行動は何等不法行為ではないと認むべきでもしこの場合国際上の紛争が生じて国交の断絶とか武力にうったえるというような態度を露国側がとるというようなことは国際法上許されないことである即ち国際連盟規約第十二条には各国間に国交断絶に至るおそれがあり紛争が発生した際には仲裁裁判所か国際司法裁判所かまたは国際連盟理事会に問題を移してこれをはかり審議なり仲裁なりを受ける必要があることとなっている、

これによって連盟は適当な措置をとることとなっているのでこれは連盟規約の第十七条により連盟国と非連盟国の紛争の場合にもこの適用を受ける必要があるからロシアは国際連盟に加入しておらないが連盟理事会に諮ってその裁断にまかすべき国際道徳上の義務があると思う、もしこの場合国際道義を破って連盟の正当な裁判を受けずこれを武力に訴えるような態度をとった際には連盟国の干渉を求めることとなるのでそんな態度をロシアがとるようなことがあったら文明諸国の反対をうけ指弾されるようなことにならぬとも限らぬから今回の事件で直に国交が断絶し武力に訴えるような大事変を惹起するようなことにはなるまいと信じている 」

外国公館保護義務より二国間条約が優先するといった内容であるが、今日の目からみるとやや疑問であろう。また。張作霖の襲撃と軌を一にして、蒋介石も上海共同租界にあったソ連領事館・ロシア系銀行・全露通商代表部を襲撃した。

張作霖・蒋介石ともに、国民の排外主義を駆り立てて、自分の支持基盤を強化するという政治家としてあるまじき態度をとった。とりわけ、蒋介石はいったんはソ連から資金と顧問団を受け入れているのである。

南京政府の成立

蒋介石は南昌から南京に移った。そして4月12日、暴力団の頭目、杜月笙を使って上海の中共党員を殺害、翌日、何応欽の部隊が街頭にデモに出た共産党員を片端から射殺した。

この事件は蒋介石の共産党との決別を示すものだった。

これより以前4月3日、帰国した汪兆銘に武漢政府の主席になることを要請した。一方で4月18日、南京政府の樹立を宣言した。

蒋介石は国民革命軍の改編し、第1路(何応欽・上海)、第2路(蒋介石・南京)。第3路(李宗仁・広東)とし、武漢にいた唐生智を第4路軍の司令官に任じた。

唐生智は武漢政府の孤立を恐れ、反共を明確にした。唐にならって湖北で張学良軍と向かいあっていた夏斗寅が武漢政府討伐を宣言した(5月13日)。また、許克祥が反共運動を起した(5月21日、馬日事変)。朱培徳江西省主席も、政府機関からいっさいの共産党員を追放した(5月29日)。

7月13日、中共は武漢政府から共産党員を退出させると宣言した。だが汪兆銘は、7月15日、共産党との分裂を宣言、第一次国共合作は終了した。7月24日、唐生智が鄭州から軍を引いて武漢に戻ると、ボロディンらソ連人は7月29日、大部分帰国した。そのあと武漢政府は南京政府との合流を宣言した。

だが、そのあと南京で起きたことは、武漢政府に巣食っていた国民党左派の暗躍であった。それまで南京にいたのは両広派(李宗仁・白祟禧・李済・王紹洪)と蒋介石が呼びよせた西山派であった。ところが、両広派はバランスをとるためか、汪兆銘・ケ演達・譚延・孫科・陳友仁など「左派」に急接近した。

さらに8月に入ると国民党にとっての軍事情勢はむしろ悪化した。

蒋介石は何応欽など古い友人まで離反するのをみて8月末、下野することにし、日本に向った。このとき連袂して下野したのは張静江・李立会・戴李陶・陳国輝らであった。

蒋介石下野後の南京政府は、何応欽が軍政部長、伍朝枢が外交部長、孫科が交通部長、汪兆銘が司法部長、宋子文が財政部長という呉越同舟ぶりであった。

竜潭戦・帰徳戦

第三次南京事件以降、北伐は進展しなくなった。何応欽の第1路軍は揚子江を渡河、津浦線沿いに南に向った。順調に孫伝芳・張宗昌連合軍を徐州北方に追い払った。6月20日、蒋介石と馮玉祥は徐州で会見した。

だが、6月25日から張宗昌軍は反撃に転じ徐州を取り戻し、江蘇省に向かった。山東省で再起した孫伝芳は安徽省から揚子江に向い、両者は7月上旬までに、揚子江から北の奪回に成功した。

ところが7月25日、孫伝芳軍は突如攻勢に出、棲霞山附近の鉄道線路以北の烏竜山砲台一帯に集中し揚子江渡河を開始した。国府軍はすぐさま渡河予想地点に向った。鎮江にあった第22師は南京方面に進撃し、27日、竜潭に達した、一方、南京からは李宗仁の第7軍が下流に向け急行した。孫伝芳軍の劉士林が率いる第40営を中心とした部隊は、高資から渡河したが、上陸完了直後、国府軍に包囲され殲滅され、渡河作戦は完全な失敗に終わった。この戦敗によって孫伝芳軍は戦闘単位としては消滅した。

一方8月から、鄭州に本営をおいた馮玉祥は、正定の北にて左翼を形成し拠点となし、正面東に向かい隴海線から出て、山東省に突出しようと計った。だが、隴海線を進んだとき、干学忠と金裕堯が裏切って、奉天軍についた。さらに正定では左翼が「紅槍会」と呼ばれる秘密結社に攻撃された。

このとき閻錫山も呼応して奉天軍の攻勢に出たが迫力のあるものではなかった。

馮玉祥軍は、9月中旬、山東省徳州=臨清で、奉天軍に敗北した。

10月、奉天軍は張宗昌が陽動で鎮江で揚子江渡河をやるとみせかけ、山東からいっせいに馮玉祥軍に攻勢に出た。蚌埠=徐州まで退いたところを張宗昌が南、帰徳を攻撃した。

閻錫山も大同から張家口と北京に進撃し、奉天軍を南関口で撃破した。だが、南から張学良が攻勢に出て、張家口から閻錫山軍を追いやったばかりでなく、熱河省と察哈爾省全域を征覇し、山西省に迫った。唯一、北京近郊の州で傅作儀が孤塁を守ったが包囲され、降伏した。

馮玉祥はたまらず、戦線を揚子江から南に下げたが、10月31日までに鄭州まであと30キロの地点まで攻め込まれた。開封・帰徳も順次陥落した。

だが、奉天軍の好調も長くは続かず、年末までに国府軍第1路軍によって徐州まで押し戻された。

南昌暴動(賀葉の変)

7月24日、武漢から共産党員が追放されると、直ちに武装蜂起が検討された。コミンテルンから派遣されたロイが音頭をとり、李立三の指導で南昌で蹶起することが決められた。

当時、九江から南昌にいた賀龍の第20軍、葉挺の第24師、周士弟の第25師、蔡廷の第10師、朱徳の第3軍教導団など併せて3万人が蹶起すると計画された。だが、蔡廷は初めから蒋介石に通じていた。

8月1日に武装蜂起し、5時間あまりの戦闘で南昌を占領した。譚平山を主席とする「中国国民党革命委員会」の成立を宣言した。だが、朱培徳や張発奎の部隊が8月3日から南昌を包囲した。共産軍は8月6日、南昌を脱出、広東省に向かった。瑞金・会昌などを略奪して回り、9月中旬汕頭に達した。だがそこでも敗れ、残存部隊は周辺の陸豊・海豊で戦いを継続した。また毛沢東に率いられた部隊は井崗山に根拠地をつくった。

コミンテルン中国委員会はこの敗北をトロツキスト路線=「陳独秀コース」として批判した。

唐生智の亡命

唐生智 Tang ShenZhi (1889-1970)
字は孟瀟。湖南省東安出身。1914年、保定軍官学校卒業後、湘軍に配属、第3革命に参加した。1923年ごろ営長ではあったが、湘軍の実権を握った。「聯省自治運動」が盛んであった湖南省は貧しく、中央からの支援がないと「非武装中立」にならざるを得ず、唐のような「小物」が小さな軍事力を背景になり上がったのである。中央からの圧力が強まると、国民党に愁波をおくった。1926年第1次北伐のとき、国民革命軍の第8軍軍長となり、北伐軍の武漢攻撃軍の指揮官となった。一貫して反共・反蒋路線をとり、たびたび南京政府に反抗した。1932年、満州事変・汪兆銘復活から南京政府に復帰した。支那事変緒戦では、南京衛戌司令官となったが、南京保衛戦ではいち早く逃亡した。そのあと「南京戦大勝利」をいいまわった。1949年、人民解放軍が揚子江渡河を開始すると、側面で最重要な湖南にありながら、突然、国民党を裏切った。そのあと湖南省副省長になった。1970年、長沙で没した。無節操の一言に尽きる人生であった。

7月24日、武漢に戻り共産党員を追放した唐生智は、湖南に何健を配置、両湖の支配を確実にし、さらに馮玉祥と連絡をつけた。

南昌の朱培徳は、南京で中枢を占めた広西系の白祟禧や李宗仁と結び、唐生智に対する攻撃を企てた。さらに程潜と譚延も唐討伐に加わろうとした。寧漢合作により統一された南京政府は、唐が安徽省蕪湖に進出したとき、唐が張作霖や孫伝芳と密かに連携していることを公表、討伐を宣言した。

これではいたたまれず、唐生智は、敵と通じていた師長張国威を浴室で絞め殺してから、揚子江を遊弋していた日本の駆逐艦に乗り込み、11月12日、日本に亡命した。だが、強力であった第8軍は分解したものの、大部分は広西系に吸収された。一部は湖南省長沙の何健を頼った。だが、広西系部隊と朱培徳の部隊は長沙攻撃に向かい、何健は長沙を棄て、広東省に向かった。

これによって、広西系は両湖を支配することになった。

広州事変

1927年11月、広州にいた汪兆銘は、李済とともに上海で開かれた国民党の会議に出席した。そして11月16日、李は黄紹р広州に呼んだ。すると翌朝、黄h翔(第4軍総指揮代理)、李福林(第5軍長)、薜岳(新編第2師長)が突然、黄紹рフ宿舎を囲み、広西系部隊の武装解除を計った。

黄紹рヘ間一髪免れ、香港に逃げた。広西系であった第8軍や第7軍の広州駐在部隊は、陳済棠、徐景唐などによって指揮され、市街戦に発展した。だが、兵力で劣る広西系は広西省に逃亡していった。

11月19日、張発奎は国民党広東省支部臨時軍事委員会主席に、黄h翔は広州衛戍司令に任命された。汪兆銘は初期の目的を達成したとみて、広州に帰った。

このとき、顧孟餘・何香凝・王法勤・陳樹人・甘乃光・王楽乎・瀋雲超・朱霽青も広州にいき、のち広東側委員と呼ばれるようになった。

ところが、12月に下記の共産党蜂起が起きると、広州の情勢はまた混沌としだした。この直前、汪兆銘は上海にいて蒋介石復職を提案していた。だが南京政府のうち、李宗仁・白崇喜・譚延は乗り気でなかった。当然のことながら反蒋派は汪兆銘一派を容共派・広東側と批判した。汪兆銘はまたも欧州外遊に向かった。

広州蜂起の鎮圧にあたったのは第4軍と薜岳の部隊であった。だが第4軍の中で黄h翔に人気はなく、新たに軍長は繆培南、副軍長に薜岳が任命された。黄紹率いる広西派は広州蜂起鎮圧のあと、再度、広東省に攻め込んだ。それに陳銘枢と陳済棠も加わり、東江から広州に向かった。

第4軍(張発奎が実質的軍長)は東江に向かったが、広州守備の第5軍が広西派に敗北すると、広西省の朱培徳を頼って北上した。広東省は李済の広西派の天下となった。

広州蜂起

月が明け、第4軍の広東系部隊が広州を離れ広西省に向うと、中共系部隊が広州市内で蹶起した。張太雷、黄平、葉挺、ツ代英、葉剣英らに率いられ、一時は広州市街の相当部分を占拠した。そして「広州コミューン」を樹立した。

広東系が兵を返すと、一たまりもなく敗北した。

12月13日中には、中共系軍は海豊・陸豊、左江・右江に逃亡した。この蜂起はコミンテルンから派遣されたハインツ・ノイマンによって指導されていた。このころコミンテルンは都市における蜂起を主張しており、南昌暴動に引き続いた蹶起であった。張太雷は死亡した。広州市民の死者は1万6000人という(国府発表)。

12月15日、国民政府外交部長、伍朝枢は上海のソ連領事館に国交断絶を通告し、館員に1週間以内の退去を要求した。

あとになりコミンテルンはこの蜂起の失敗について瞿秋白コースの結果で「左翼暴動主義」と批判した。これは1929年2月25日開催されたコミンテルン中執委第9次拡大会議で、スターリン・ブハーリン・向忠発・李立三が出席し、決議したという。


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グスタフ・アマン『五・三〇−北伐時代』育生社 1940