大場鎮附近の戦闘
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大場鎮附近の戦闘
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大場鎮附近の戦闘
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当初配備の失敗
陸軍は支那事変の緒戦である上海決戦の初期配備に重大な失態を犯した。すなわち蒋介石の主攻方面を北支と上海を取り違えたのである。このとき参謀本部戦争指導課に所属した堀場一雄は、
「北支事変勃発に伴い、中支那方面の情勢亦日を逐ふて悪化し、上海に於いては日支経済関係断絶の状態に在り。保安隊に偽装せる中央軍は上海停戦協定に違反して同地帯内に進入し陣地を構築す」と書いた(『支那事変戦争指導史』時事通信社 1962)。
国府軍が上海停戦協定に違反して非武装地帯に進入して陣地を構築した時期は、北支事変勃発(盧溝橋事件の発生)のときではなく、はるか以前である。堀場が戦後10年たって書いた文章であるから、当時の参謀本部若手または一部が蒋介石またはファルケンハウゼンの作戦計画を見抜けなかなかったとみなすべきであろう。
一方、近衛文麿は、
「支那軍は予想以上に非常に強い。ほとんど十七八の青年が決死の勢いでやつて来て、日本の軍隊と組討ちして崖の上から落ちる。さうして落ちた支那兵の着物のポケツトを見ると、その母親からの激励の手紙があつて、『決してお前は生きて帰つて來るな』といふ具合に、祖国に対する非常な愛国心なり、抗日の精神なりが強く教育されてゐる。なほ上海でも北支でも陸軍の調査が極めて不充分であつて、たとへば上海事変後五年を経過してゐる今日、その五年の間に防禦に非常な工作を施してをつたのに、それをまるで知らなかつたといふのは、出先の陸軍軍人も政治とか外交にあまりに没頭して、本職を忘れてゐたかの感がある。これがために海軍殊に海軍の空軍なんかが、世の中で非常に礼賛されるのである。で、海軍省は馨明書を出して、『なにも特別に海軍はどうといふことはないけれども、たじ一途に戦技に專念してをつたのだ。所謂挾義園防に専念してゐたのだ』と言つて、反面にあたかも陸軍は廣義の國防に專念したから今日のやうな失敗を見るのだと言はんばかりに言はれたので、陸軍の連中は憤慨してゐた」と昭和37年9月28日に原田熊雄と電話で喋っている(原田熊雄『西園寺公と政局』第6巻 岩波書店 1961)。
近衛は、堀場ら省部軍人が政治工作(広義の国防)ばかりに没頭し、純軍事的なこと(トーチカ設営)を知らなかったことを痛烈に皮肉っている。近衛の情報ソースは参本上層部であろうから、いかに当時の陸軍(東京)が蒋介石の先制攻撃に狼狽したかがわかる。
陸軍は北支が蒋介石の主攻方面とみなしたため、約6個師団を平津地区に配備してしまった。このうち2個師団(第6師団・第16師団)は、追撃戦に移ってから、上海方面に改めて派兵した。省部将校は、この当初配備の失敗(モルトケは「当初配備の失敗はあとで取り戻すことができない」との格言を残した。省部将校はこの格言を金科玉条としており、この失敗は大いにこたえたであろう)について、対ソ配備のためだと戦後になって取り繕った。
動員・集中
支那事変の日本側の動員・集中は、参謀本部が蒋介石の陽動作戦にひっかかったため大混乱に陥り、かつ11次にも達する逐次の動員となった。日本軍の動員としては他に例のない失敗であった。ただ、この事実からして、支那事変の先制攻撃が蒋介石によったことは明らかである。
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師団名 |
補足 |
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7・11応急動員(内地師団は見送り) |
独混1旅団
独混11旅団 |
関東軍の一部。第1師団。独混1は8・16関東軍復帰。 |
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第20師団(川岸) |
朝鮮軍の一部。応急動員。8・31以降、北支那第2軍(西尾)隷下。 |
第1次動員
(7・20閣議決定、そのあと現地情勢沈静化により見送り。7・27再度閣議決定=第2次動員) |
第5師団(板垣) |
当初応急。以下3師団は天津軍の隷下に入った。天津軍編制改正以降(8・31)北支那方面軍(寺内)隷下。 |
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第6師団(谷) |
当初応急。8・31以降、北支那第1軍(香月)隷下。10・9第10軍(柳川)隷下。杭州湾上陸。 |
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第10師団(磯谷) |
本格動員。8・31以降、北支那第2軍隷下。 |
第3次動員
(8・14下令) |
第3師団(藤田) |
上海派遣軍(松井)隷下。以下3師団は全て本格動員。呉淞に上陸。 |
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第11師団(山室) |
上海派遣軍隷下。当初、天谷支隊欠→青島へ。川沙鎮に上陸。 |
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第14師団(土肥原) |
神戸から乗船のまま、8・31北支那方面軍第1軍の隷下。塘沽に上陸 |
第4次動員
(8・24閣議決定) |
第16師団(中島) |
北支那第2軍隷下。10・17上海派遣軍に転用。白茆口上陸 |
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第108師団(下元) |
北支那第2軍隷下。 |
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第109師団(山岡) |
北支那方面軍隷下。 |
第5次動員
(9・1下令) |
第101師団(伊東) |
上海派遣軍隷下。 |
第6次動員
(9・9下令) |
第9師団(吉住) |
上海派遣軍隷下。 |
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第13師団(荻洲) |
上海派遣軍隷下。 |
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第18師団(牛島) |
満州派遣を命ぜられ北九州で待機。第10軍隷下。 |
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台湾守備隊(重藤) |
上海派遣軍隷下。第11師団隷下。 |
第11次動員
(10・12下令) |
第114師団(末松) |
第10軍隷下。杭州湾上陸。 |
赤字は当初から上海方面に向けられた師団。ピンクは転用されたもの。
上海方面への派兵は後手後手になっている。そのうえ、第6師団と第16師団は北支方面軍からの抽出転用といった失態を犯しているのである。第4次動員でも集中は北支であり、石原莞爾が更迭されるまで、集中の誤りは是正されなかった。ファルケンハウゼンの計画が防勢作戦であり、時間の遅れが重要でなかったことが幸いした。
しかしながら華北では、察哈爾作戦や山西作戦など小軍閥との戦いを優先させ、かつ山西省は占領しても隣接する陝西省の共産軍を放置するなど、戦略目的との乖離がはなはだしい。国府軍は徐州・鄭州以南にいたが、1937年度中は軍閥軍との戦いに終始した。
呉淞クリーク
呉淞クリーク、手前は国府軍の鉄条網。
上海派遣軍は呉淞と川沙鎮に上陸した。参謀本部は日常、中国各地における局地戦を検討していた。昭和12度対支作戦においては、上海を攻略するには約3個師団を白茆口に3個師団、杭州湾乍浦附近に2個師団を上陸させ、南京に向かって進撃する予定であった。
白茆口は上海北西75キロの地点にあり、上海円周にあったゼークト・ラインが考慮されていないことは一驚に値する。ただ、平時の作戦計画とはそのように平和ボケしたものであろう。じっさいに上陸したのは川沙鎮で、第3師団と第11師団は大きな犠牲を払いながら占領地を現地楊・薀藻浜(日本兵は呉淞クリークと呼んだ)の線まで拡大した。
対する中国軍は呉淞クリーク南岸に準備された防衛線を築いていた。
上海派遣軍で当初から隷下にあったのは5個師団半にすぎなかった。ただし、いずれの師団も4単位のフル師団編制であった。大隊は通常銃数750程度であるが。このとき1500に達する場合があった。このため師団人数は3万近かった。
これに対し中国の「師」はエリート師団を除いては5千〜1万2千程度であって比較にならない。さらに地方軍と呼ばれた軍閥軍は補充システムがなかった。中国側はこの定数の差を軽くみていたようである。
中国側は上海に事が起きたとき優勢な海軍力を利用して、揚子江下流域に上陸するとみて準備していた。ただし、河岸防禦は不可能(揚子江沿い全部を陣地化することは現実的でない)ため、内陸迎撃防禦を考えていた。呉淞クリーク南岸守備隊と閘北にある上陸【しゃんりく】攻撃任務を与えられた第4軍(長、張治中)とは背中合わせとなる。この背中合わせの中間点は大場鎮附近である。もし北から大場鎮が日本軍に占領されれば、攻撃主力の第4軍は腹背に敵を浴びる。国府軍が大場鎮を放棄することは上海攻撃を諦めることであり、上海決戦の敗北を意味する。
戦線からすれば、ポケットを形成する。国府軍はこのポケットの北側、呉淞クリーク沿いに6個師をおいて守備を固めていた
大場鎮
上海派遣軍松井石根は東京をたつときから、蒋介石の主攻は上海方面であり、主攻方面における敵を殲滅せねば事変解決は困難であることを説いた。昭和天皇はこの見解に賛成したが、石原莞爾を中心とする政治屋軍人は軍事的見地よりも、反白人・反ブロック化経済・反自由主義から蒋介石や軍閥勢力との提携を模索し、主力を蒋介石の国府中央軍ではなく華北の軍閥に向けようとした。
上海派遣軍がようやく隷下の5・5個師団の上海北部への集中を終えたのは9月27日であった。松井は9月29日、爾後の作戦指導について次のように定めた。
- 楊西岸の敵陣地はこれを攻略することなく、主力は南方に左旋回を行い、右から第9、第3、第101師団を第1線とし、大場鎮附近に対する攻撃を準備する
- 第11師団を楊の線に止めて旋回の右側面を援護させる
- 第13師団を第2線兵力として軍主力の右翼後に保持する
- 右の兵力部署をもって大場鎮附近の敵を攻撃し蘇州河の線に進出する。この間軍主力の南進に伴い、第11師団主力をなるべく南方に移し、西方に対して軍主力の側面を掩護させる
松井石根はこのような作戦指導指導方針を伝えたが、主力3師団長には攻撃開始日を10月8日から12日ころまで自由裁量として幅をもたせるなど、訓令戦法の方法に徹した。
攻撃3個師団のうちもっとも早く攻勢発起したのは第101師団であった。すなわち最左翼にあった歩101(加納連隊長)は10月6日、呉淞クリークの渡河を開始し、約10分で砲兵隊を含む連隊大部は対岸に渡った。小銃の散発的射撃以外抵抗を受けなかった。
このとき呉淞クリーク南岸を守備していた国府軍は東から第8師(湖南省の地方軍)、第61師(長、鐘松)、税警総団(長、黄杰【こうけつ】)であった。第8師は湖南省の地方軍閥で小銃以外の装備はほとんどなかった。加納隊が渡河した正面にいたのはこの部隊である。もっとも精鋭は、宋子文(財務部長官を長く務めた)の肝煎りでつくられ全てドイツ兵器で装備された税警総団であった。黄杰は直ちに第8師の応援に向かった。
中国側の兵力が3個師と少なめなのは、呉淞クリーク以北の日本側兵力を3個師団程度と見積もり、上海に相当数の部隊がいると誤認したためのようだ。ただし南翔・嘉定間には大軍が控置されていた。
加納隊は大軍に取り囲まれたちまち窮地に追い込まれた。
国府軍は楊・薀藻浜(呉淞クリーク)を囲む地域を第19集団軍(長、薜岳)の担当とするとともに、右翼戦闘区を創設し胡宗南を総指揮、黄杰を副総指揮に任命した。右翼戦闘区には第1師、第78師、第32師、税警総団、第8師、第16師が隷下とされた。これでは日本軍3個師団のおよそ半分の兵力であり、過少は明らかだろう。
加納橋頭堡に第103連隊が増援で送られたが、反撃が激しく渡河に失敗した。10月9日、加納隊に乾パンを渡すことに成功したが、ジリジリと消耗していった。中国側も加納橋頭堡を攻撃する立場になったため、第8師を後方に下げ、税警総団が前面にたったが既に損害は1千を超えた(税警総団の兵力は約1万)。加納橋頭堡への援軍ルートは第3、第9師団の砲撃射程範囲であった。
10月11日、歩101司令部に迫撃砲弾が命中し、加納連隊長は戦死した。この前日夕刻から、第3師団と第9師団はいっせいに渡河を開始し、加納橋頭堡への圧力は急速に低下した。第3師団は橋頭堡を築いたあと対壕をつくり前進を開始した。この日から本格的戦闘が開始されたとするのが一般的である。だが、5日間敵襲に耐え橋頭堡を守った加納隊の軍功は大きい。
10月15日、国府軍は戦況の悪化により、第19集団軍を比較的平穏な左翼に下げ、第8集団軍(第62師・第63師・第55師・第45独立旅)第10集団軍(第45師・第52師・第128師・第37独立旅・臨時第11・第12・第13各旅)を投入した。編制の差により1個集団軍が日本軍1個師団にしか相当しないことを考慮すれば、「兵力の逐次投入」に陥ったことは確実であろう。
中国側にたてば、大場鎮ポケットは実に守備しにくい戦場である。突起部であるうえ奥が深かった。日本軍の戦術は片翼包囲で、101師団を軸とする旋回(逆時計回り)であった。
日本軍のこの片翼包囲を撃砕するには包囲翼戦端の第9師団を他の部分から切り離す必要がある。ところが、101師団が初めに橋頭堡をつくったため、そこにもっとも装備の良かった税警総団を投入せざるを得ず前のめりになってしまった。税警総団が消耗し、後方に下げれば、あとにくる2線級部隊では日本軍の攻勢に抗し得ない。
蒋介石はここで渡河した日本軍への逆襲を命令した。この攻撃は10月19日から3日繰り広げられたが、日本側が攻撃にあったことを記さないほど微弱なものであった。10月23日、日本軍が前進を開始すると、国府軍は総崩れとなり、南翔方面に撤退していった。第101師団は、10月26日、大場鎮を占領し、上海決戦は終了した。
作戦評論
第101師団長伊東政喜は、次のように国府軍の特徴を記している(『第101師団長日誌』古川隆久、鈴木淳、劉傑編 中央公論新社 2007)。
敵軍の短所
一、敵は其戦略的防御配置に於て、甚だ要領を会〔解〕せず。
二、敵は余りに大兵を一地に集めありて、其使用は蓋し攻勢的軽快性を失ふるが如し。
三、敵は純然たる持久防御をのみなす。
四、敵の砲撃、追撃砲撃も共に其射撃散漫にして、戦闘目的に一致せざるもの多し。
敵の長所
一、其の戦術的防御は極めて頑強。
二、陣地編成は天空地上に対する遮蔽極めて良好、殊にMGの側防的要〔用〕法は賞賛すべきものあり。我軍の損害に帰す。
三、敵の頑強振りは日露戦の旅順に於げるものと大差なし。寧ろ一部の点は以上の如く、如何に砲撃するも全滅する迄固守する風あり。
日中両軍の戦闘方法の顕著な差は、日本軍が分隊攻撃法を採用し、浸透戦術で臨んだのに対して、中国軍は密集戦術をとったことであった。
中国軍の方針は、トーチカによる固着防禦であったため、防禦から攻撃へのフォーメーション転換が難しかった。これがため伊東政喜のいう敵軍の短所が生じたものであろう。
この戦闘が上海決戦のさらに決戦であったが、東京の参謀将校は「苦戦」であったと戦後もいいまくった。戦場に一度も立ち会わない戦争指導課の堀場一雄は、
「上海附近の作戦が、兵力の不足により地障と相俟ち苦戦を現出すること、正面戦闘の不利にして即背上陸の必要なること、第一次上海戦にて経験済なるに拘らず、再び同一過誤を繰り返したり」と書いている(『支那事変戦争指導史』時事通信社 1962)。
この記述は全面的に誤りであろう。兵力は不足していなかった。攻撃正面の幅からいえばフル3個師団は適切な量であって予備隊も確保する余裕があった。また側背上陸は「第一次上海戦」の七了口上陸からすれば、川沙鎮上陸で果たされているのである。川沙鎮は七了口の奥である。
同様にゼークトの口吻のように、「正面戦闘」の不利を説くが、攻勢発起点は上陸正面の背後であり、正面攻撃ではない。国府軍が大場鎮ポケットの全面を覆うトーチカ陣地を築いていたことは事実であるが、これに手を打たなかったのは参謀本部である。ゼークト・ラインの鎖鑰を発見し、撃砕したのは現地軍または松井石根である。
堀場の誤りの原因は上海決戦を第一次上海事変の延長で捕らえていることである。大場鎮附近の戦闘は「決戦」であって、国府軍はこれの敗北により南京までの総撤退を余儀なくされ、かつ殲滅されたのである。
苦戦という点からいえば、国府軍の戦死者は追撃戦である蘇洲河沿いの戦闘とあわせ8万に達する。これに対応する日本軍は9千2百である。この比率をもって、苦戦というのであろうか?確かに上海派遣軍は北支派遣軍と比較してより多くの損害を出したが、軍閥軍相手の戦闘と混同してはならないだろう。日本軍の損害の要因として国府軍の使用した迫撃砲があげられる。第101師団加納隊に属した日比野士朗は、
「あのしゅる、しゅる―という音を伴って、天の一角から突如降ってくる迫撃砲弾は不快で不安なものだった」と書いた。
迫撃砲は安価なうえ量産可能である。ストークス3インチ迫撃砲が代表的なものであり、日本軍もこれを真似して「歩兵曲射砲」として少量つくったものの、あまり配備されなかった。「防禦兵器」という理由で日本軍にふさわしくないとされたようだが、太平洋戦争における島嶼戦で不利を招くことになった。
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「上海の傍らの大場鎮は、ドイツの造つたもので、非常に堅固に出来てをり、ドイツとしても得意だつたのであるが、ちやうど大場鎮が陥ちた後、オツトードイツ大使が戦跡を見て歩き、すべての状況から見ていかにも日本の陸軍の兵隊のやり方が強いので、『どうもこれぢやあ南京もやられるんぢやあないか』と思って日本に飛んで帰つて來て、参謀本部に行き『南京の攻撃はやめたらいゝぢやないか』と言って、南京攻撃を阻止しようとしてをつた。それは表面的には非常に日本に対する好意的の忠告であるかの如く見えたけれども、實は南京の城郭はドイツの近代的築城法によつて造られたもので、ドイツはこの城
を非常に高く支那政府に売り込み、支那から非常な信用を得てをつたにも拘はらず、さきに大場鎮に失敗し、また今度最も信用の大きい南京城を取られては、ドイツとしてまことに面目ない話であるので、オツトーは、、ドイツの支那に対する信用維持のために、南京攻撃をやらせまいとしたのだ。」(『西園寺公と政局』第七巻)
以上、黒田清伯爵が、1939年3月29日、語ったという。ドイツとは「不信の国」なのである。 |

日比野士朗『呉淞クリーク/野戦病院』中公文庫 2000
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