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1930年2月、閻錫山は蒋介石の下野要求を通電した。蒋介石はこれの背後に汪兆銘の陰謀があるとして、南京で国民党第3回中央全体会議を開催し、汪を除名した。
3月15日、旧第2、第3、第4集団軍の将領53人が蒋介石の大罪6カ条をあげ、閻錫山を中華民国陸海空軍総司令、李宗仁と馮玉祥、張学良を副司令に推挙する通電を発した。4月1日、閻、馮、李は、それぞれ総司令、副司令就任を受諾した。張学良は拒否した。4月5日、国民政府は閻錫山の逮捕令を出した。
こうして電報合戦は3カ月続いた。閻錫山は山西省の地方軍閥であったが、1929年の第2次北伐後の反蒋運動に加わらず力を蓄えていた。「保境安民」(山西モンロー主義)を唱えて内治に力を入れていた。元来の主義は「連省自治」であって、各省が独立し、連合しながら権限の限られた中央政府を組織するという考え方で、孫文=蒋介石の「統一」主義とは、まっこうから対立した。蒋介石は、北伐終了直後から「縮軍」を叫び、地方軍閥兵士の帰農を訴えたため、追い詰められた閻錫山も決起するしかなくなったのである。
馮玉祥は25万、閻錫山20万、李宗仁8万の兵力があった。これにたいし、蒋介石は62万の中央軍を保有していた。装備も中央軍は飛行機143機をもつなど圧倒していた。
小競り合いは、3月中旬から始まったが、本格的戦闘は5月からであった。当初、閻錫山は山西省太原、馮玉祥は陝西省撞関、李宗仁は広西省桂平にいた。このため、戦闘は閻錫山軍(晋軍と呼ばれた)が河北省から山東省に向かい、馮玉祥軍(西北軍と呼ばれた)が鄭州から隴海線沿いに徐州、李宗仁軍は長沙から湘江に沿い岳陽に向かった。
これにたいし蒋介石は、韓復の第1軍団を黄河南岸の守備し津浦線を南下してくる晋軍に備え、劉峙の第2軍団を徐州に進発させた。
5月中旬戦端をきって落とされ、北方戦場は河南省と山東省、南方戦場は長沙一帯で戦闘が開始された。
閻錫山 Yan XiShan
(1883-1960)
字は伯川。山西省五台県出身。山西武備学堂卒。日本に留学。陸士11期。同盟会に参加し、蒋介石と知り合っている。帰国ののち山西新軍に入り、辛亥革命に決起、山西都督になった。軍閥戦争では全省中立を保ち、北伐に参加。そのあと馮玉祥と組み、中原戦争に突入、敗北して日本軍を頼り大連に逃れた。満州事変で山西に戻り、復権した。そのあとは国府軍に属し1936年、陝西省北部から侵攻してきた共産軍を撃破した。支那事変後は中共・日本の緩衝地帯として延命に成功した。1949年人民解放軍に太原を包囲され、飛行機で台湾に脱出した。台北で死亡した。
主たる戦闘は北方戦場であり、戦闘は大体のところ、平漢線(北平=漢口)、隴海線(海州<連雲港>=鄭州=洛陽)、津浦線(天津=浦口)沿いで行われた。5月下旬、孫良誠と吉鴻昌の指揮する西北軍の一部は、隴海線上で陳誠の率いる国府中央軍を大敗させた。だが、北方からの晋軍が遅れ、合流して南下する予定は果たされなかった。西北軍は一転、開封で守勢にたち、蒋軍の攻勢を待った。
李宗仁が長沙を空けて北上すると、突然、共産党が長沙を焼き討ちした。張発奎軍も加わり、李宗仁は長沙を回復した。すると蔡廷
が広州から北上、衡陽で会戦となり、李・張は大敗した。そのあと桂林・柳州に逃れた。
山東省では、傅作義の率いる晋軍が、5月下旬から徳州や東明に進出し、6月下旬済南に達し、韓復と馬鴻逵【ばこうき】を圧迫した。韓復は東に逃げた。蒋介石は蔡廷
の部隊を湖南からさらに北上させ、河で一戦となった。そこで晋軍は大敗、北方に逃れたのは王靖国の1師だけだった。蒋介石は残余の晋軍に狙いをつけ、1隊を青島に上陸させるとともに、津浦線から北上し圧力をかけた。8月15日、両者は合流して済南の回復に成功した。
晋軍は黄河を渡河し北岸に陣取った。石友三は晋軍の作戦が不満だとして西北軍の陣営に入り新郷に移った。
9月初旬、西北軍は総攻撃を発動した。平漢線上と隴海線上で激戦が戦われた。
張学良介入
蒋介石は、張学良の向背が決め手になるとみて早くから張群と呉鉄城を特使として派遣していた。済南が陥落するまでこの二人と会おうとしなかった。そのあと南京側に傾く素振りをみせつつ、胡蘆島に向かい、港湾の落成式に出席、さらに北戴河にいった。
そこで、張群と蒋介石から現金500万元と公債1000万元を受け取り、南京側につくことを約束した。
張学良は奉天に戻り、宿将を集めた。会議では張作相が反対したと伝えられるが、他は異議なく学良の提案に賛成した。9月18日、学良は「和平通電」を発した。
張学良はさらに慎重に、平津地区に出兵するが、駐屯地は予め通知すと閻錫山に連絡した。9月9日、汪兆銘を中心とする改組派残党が北平に集まり、懐仁堂にて、閻錫山を国民党主席に推戴していたが、学良軍は干学忠と王樹常を先頭に雪崩を打って関内に侵攻した。
閻錫山は石家荘に本営を置いていたが、形勢悪化をみて鄭州にいた馮玉祥と協議することにした。鄭州・北平をつなぐ京漢線の途中に新郷があり、石友三の部隊がいるはずであった。ところが石の裏切りが伝えられ、通行は不可能になり、石家荘から太原に戻るしかなくなった。
隴海線でも、孫連中を筆頭にほとんどの西北軍幹部が寝返った。寝返ることがなかったのは、宋哲元とその部下、張治忠と馮治安がともに河北省に血路を開いたのみであった。洛陽でも楊虎城が寝返り、退路を塞いだ。馮玉祥は娘子関に逃れた。
10月3日、蒋介石は「当面の第1要務は第4次全国大会を召集するために、国民会議議案、憲法の公布時期を確定することおよび憲法を公布する前の訓政期に適応する法律を定めることである」と通電した。10月5日、閻錫山、馮玉祥と汪兆銘は、張学良の和平通電と蒋介石の3日の電報を擁護すると通電した。
蒋介石は「誠意をもって帰順する軍隊にたいし一視同仁で優遇し、党・国家を守る将士とする」と閻錫山と馮玉祥を受け入れることを表明した。
北支5省と両広
中原大戦は蒋介石の圧勝で終わったかのようにみえる。だが、蒋介石が勝ったのは張学良工作のおかげであって、軍事面ではかなり失敗が多かった。この戦争は従来の軍閥戦争や「北伐」を超えていた。すなわち、両軍とも終盤を除いて、かなり真剣に戦った。
国府軍(蒋介石側)の戦闘による損害は15万(銃弾や砲弾の破片が命中した戦死者は2万程度であろう)、晋軍・西北軍は10万と推定され、国府軍の被害がより大きかった。この規模は従来の戦闘を明らかに凌駕していた。原因の一つは、馮玉祥が、隴海線沿いに内線作戦を上手に実行したためである。馮玉祥には以前、ソ連軍現役士官、今回は帝政ロシア軍退役軍人が顧問についていた。蒋介石の軍事知識は第1次大戦前の日本軍から得られていたので、一時代旧弊であった。
蒋介石は軍閥問題解決にも失敗した。ただし、隴海線沿線と揚子江中流域両岸の支配権を確実にした。編制についてはドイツ軍から顧問団を入れ、徴兵制導入を図るようになった。
馮玉祥は完膚なきまでに打倒された。だがそれは寝返りによって得られたもので、寝返り武将は優遇された。石友三・万福麟・韓復などは河北省や山東省に残った。寝返らなかった宋哲元も察哈爾省を本拠地として、むしろ勢力を拡大した。北洋軍閥の残滓はやはり残ったのである。
閻錫山は天津に逃れ、そのあと大連に蟄居した。満州事変とともに復権した。
南方では戦闘はさらに中途半端に終わった。もともと対立は新広西派vs旧広西派+広東派であって、蒋介石はむしろ広東派と親しかった。中原大戦が終わっても、対立は続き蒋介石は半ば放置した。最後には新広西派が敗れ、今度は広西派と広東派の対立となった。すなわち、1927年末の広州政変と同じパターンである。李宗仁+白崇喜vs張発奎であったが、汪兆銘が仲裁に入り、広東非常政府を成立させ、南京政府と対立するようになった。
最大の受益者は張学良であった。事実上、北支5省(察哈爾・綏靖・河北・山西・山東)の支配権を手にした。ただ、徴税権を得たのは河北省だけであった。察哈爾・綏靖両省は宋哲元、山西省は閻錫山残党、山東省は韓復が省主席などの肩書きを得て、旧来の軍閥支配のようなことを続けた。
中国人史家は、張学良が介入によって関内進駐を行った結果、兵力の大半が満州から出てしまい軍事力の空洞化が進み、満州事変における敗北を招いた、とよく説明するが誤りである。緒戦で満州が簡単に関東軍2個師団程度で占領されたのは事実であるが、学良軍の主力が平津地区にあったので、かえって有利だったということになる。この段階も含めて、日本の戦時編制の2個師団に対抗するためには、一つの戦場に中国軍は25万人以上集中させる必要があった。張学良は勝てないことをよく認識していただけであった。
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