5月24日、総理衙門は必要な措置は講じたので、終息に向かうだろうと回答した。
5月28日、豊台駅が暴徒によって襲撃され、外人職員の住居が略奪された。フランス人職員1名が怪我をした。ピショーンは直ちに大沽沖のフランス軍艦へ海兵派遣を要請した。同日夜、外交団は総理衙門に衛兵派遣を通知することにした。
公使館衛兵部隊(米英仏伊露日)合計337人は、5月31日、汽車で無事北京に到着した。一方、豊台襲撃事件をうけ保定駐在の外国人鉄道技師は、5月28日、船で天津への脱出を決めた。総勢41名であったが途中、船を奪われ、4人が重傷を負うことになった。さらに6月1日、拳民は、保定東方の教会を襲い、外国人宣教師2人を殺害した。北京が包囲されつつあるという恐怖が支配し、教民は故郷を去り続々と、北京に避難してきた。
6月6日、クロードは公使館守備に不安を感じ、海兵相当数の派遣を大沽沖に遊弋していたイギリス支那艦隊司令長官セーモアに要請した。アメリカ公使コンガーも追随した。
6月8日 西徳二郎公使も青木周三外相に対し、陸戦隊と巡洋艦の派遣を要請した。各国とも公使館の守備要員は不足しており、居留民や脱出してきた宣教師を集め義勇隊の編成を開始した。日本政府も列国の共同軍に加わることを決心した。北京日本公使館も義勇隊の編成を10日に開始した。
6月10日、8カ国連合軍第1陣800人が大沽駅で乗車したが、鉄道はすでに破壊されており、修復しながら行軍せねばならなかった。
6月11日午後5時、日本公使館書記生杉山彬は前日出発したとみられる8カ国連合軍を駅で出迎えるため外出したところ、永定門外で董福祥の騎兵部隊に惨殺された。この事件は政府軍による外国外交官にたいする公然たるテロであって、北京外交団に緊張が走った。翌日は平静であったが、6月13日になると拳民は官給のモーゼル小銃をもち、外交施設の集中する東交民巷の攻撃を開始した。このころから、拳民は民兵を意味する「(欽定)団」をなのるようになった。
陸戦隊の指揮官原海軍大尉の『北京作戦日誌』は、6月13日から開始されている。6月20日にはドイツ公使ケットレルも董福祥の部隊に殺害された。制服を着た官軍兵士が外交施設を攻撃したのはこの日からで、「北京籠城55日」が始まったとされる。
宣戦布告
清国政府の挙民への反応は、教民とのトラブルという程度の認識であって、諸外国の挙民への取り締まり要求に応えるのみであった。西太后の興味はあくまで愛新覚羅家内部の主導権の動向にあって、外交にはなかった。性癖は保守的であるうえ、官吏の誘導に必須の構文能力がなかった。前年の1899年11月光緒帝を廃帝とする工作を仕掛けたが群臣の反対により挫折した。
その間も、外国に拳民への布令を要求され、幾多の矛盾する上諭を出しているが、どれに西太后の本心があったのか、はっきりしない。おそらく、総理衙門が案を書き、そのまま読まれずに決裁扱いになったものであろう。歴代中国の統治システムは全ての案件について皇帝が親裁するというものであるが、近代国家でそのようなことは不可能であろう。四川省の刑事事件や教員の採用にどうして皇帝が一々口出しすることができようか。山東省における宣教師一人の殺害は小さな事件なのである。
しかしながら、一介の農夫でも、公然と反政府の狼煙を上げたとするならば、愛新覚羅家への挑戦であり、見過ごすことができない。同様に外国軍隊が「想像上の」中国領内に入ることも大事件なのである。
西太后が重大事件と認識したのは、著しく遅く5月下旬に入り、外国軍隊が北京に入ることか具体化してからだった。拳民も5月中から北京に入ってきたが、目的が教民を襲うことである限り、清国政府にとって重大なことではなかった。
拳民側も多くは「扶清滅洋」を唱え、教民=洋を滅ぼすためには清国政府を味方につけたいとしていた。
西太后は1900年に入っても光緒帝憎しから、皇太子を自己の手で擁立しようとした。1月25日、端郡王(妻は西太后の姪)の7歳の子、溥儁を皇太子に定めたと発表した。ところが南方諸省総督の反対が強かった。著名な文人であった章炳麟・蔡元培・唐才常・盛宣懐を筆頭とする1231名が反対を表明した。これを知った西太后は、百日維新のときの政敵、康有為・梁啓超の扇動によるものだ、と喚き散らした。康・梁の首に10万元の賞金をかけた。彼女の独裁権力はその程度であった。
この端郡王は異様なほどの排外主義者であった。息子の継ぐべき帝国はあらゆる外国に君臨していなければならなかった。
6月10日、杉山書記官が清国軍兵士に無残に殺害され、同時に天津からセーモア陸戦隊が北京に向かうと、清国朝廷もある種の決断が迫られることは明らかだった。だが、政策を決定する以前決めねばならないことは中国では人事なのである。この日、排外主義者である端郡王が総署の首席大臣、啓秀・溥興・那桐の3人の満州人が総署大臣に任命された。
セーモア陸戦隊が董福祥と拳民との間で激戦となっているとの知らせが入ると、66歳の西太后が主宰する御前会議が、16日から連日開かれた。
6月16日午後5時、王・大臣・六部・九卿、全71人が儀鸞殿東室に集まった。最後に西太后が「法律・規則はあてにできないかもしれない。だが人心はどうか?現在、清は惰弱に陥っているが、さらに人心を失ってよいものだろうか」と発言して終了した。
拳民が清朝を頼っている以上、清朝も拳民を頼りにしようというのである。阿片戦争やアロー号戦争でも、清国は常備軍の不足を民兵部隊(実態は離農した農民や会党集団)を正規軍に繰り入れて補っており、西太后には拳民が清朝に忠節を誓う民兵集団にみえたのである。
翌17日、西太后は、外国が清国を滅亡させようと攻撃してくるという文書(あとで偽文書と判明した)を群臣にみせ「等しく滅びるなら一戦して滅びよう」と叫んだ。群臣は「死中に活を求めるべき」といって賛成し、泣き出した。このような集団ヒステリーのような中で、8カ国のうち1カ国にも勝てない清国が全部を相手に戦争を始めるという愚かな決定がなされた。
6月21日 清国政府は開戦詔書を議定、北清事変は清国対列国の戦争となった。
開戦の詔
この開戦の詔は内国向けであって外国には通知されなかった。イギリスのチャイナスクールの元祖スタイガーは、7月20日の8カ国陸戦隊による大沽砲台占領によって清国は開戦を決めたというが、それは誤りであって、16日、17日の御前会議ですでに開戦は決まっていた。詔書はたんなる体裁に過ぎない。
勿與家奴
両広総督李鴻章、湖広総督張之洞、両江総督劉坤一らは互いに連絡をとりあい、北京の開戦の詔は偽書だとして取り合わないことを決めた。7月中旬、西太后は、このような地方軍官の態度を、外政がよくわかっていると褒め称えた。今日からみれば奇妙にみえるが、制海権が8カ国連合軍にある以上、華南から応援の軍隊を得ても、来月にも見込まれる北京決戦に間に合わないのである。
敗北した場合、華南は攻撃を免れるので、中国はともかく愛新覚羅家にとって「亡命」を考えれば悪い処置ではないようにみえる。だが、家臣頼りであることには変らない。西太后は「寧贈友邦、勿與家奴」(外国に贈ることがあっても、家臣に与えてはならない)がわかっていなかった。このとき西太后または愛新覚羅家が頼ることができたのは明治天皇だけであったろう。だが、できなかった。女性であるため、頼る関係は家族であるか家臣であるかしか知らなかったのである。満州国に再度君臨できた溥儀との差であり、墳墓東陵が暴かれ遺体の口珠が蒋介石夫人宋美齢に奪われることになった原因であろう。
辛亥革命でも隆裕太后は「寧贈友邦、勿與家奴」ができず、家臣に甘えて、数年の優待の暮らしを与えられ、社稷を棄ててしまった。現在、朝鮮の李王家は韓国で優遇され、ベトナムの阮王家もフランスで同様であるが、愛新覚羅家は跡形もない。遠因は、この「東南互保」(最後は華南の家臣に頼る)のみしか手をうたなかったことであろう。
北京篭城
クロード Sir Claude
Maxwell MacDonald (1852-1915)
アッピナム校・サンドハースト卒業。国内軍務経験ののち外務省に入り、1892年中国公使になる。北京外交団を代表して北京籠城を指揮した。その後、アーネスト・サトウと交代で駐日公使となる。1902年、日英同盟成立に寄与し、そのまま初代駐日イギリス大使となった。同年、枢密顧問官に叙爵された。
5月31日に衛兵が北京にきて以来、北京外交団は外界との人員の連絡が途絶えた。各国の衛兵総数は430人ほどであった。日本25、イギリス82、フランス78、ロシア51、ドイツ51、オーストリア33、イタリア42、アメリカ56であった。日本だけ著しく兵力が小さいのは現地情勢を甘くみたためで、陸戦隊を所管する海軍省の判断ミスであろう。とにかく、愛宕艦にいた陸戦隊25人のみしか出動しなかった(そのあと指揮をとった柴五郎は、駐在武官であって、文官扱い)。
日本公使館にも武器は常備されていなかった。これがため義勇兵は、「何かの武器を手にしたるのは10人ばかりにて、児島外交官補は文官大礼服の剣を手にし、竹内菊五郎氏はどこにて手にいれしか支那の長槍を杖つき白鉢巻をなせるなど」という有様になった。日清戦争終結2年後にして、外務省はこのように平和ボケしていたのである。
イギリスはノルデンフェルド機関砲1門、オーストリアは機関砲、イタリアは37ミリ機関(速射)砲、アメリカはコルト機関砲、ロシアは小口径野砲(ただし弾薬なく使用できず)を持ち込んでいた。このうちイタリアの37ミリ速射砲(駐退機付、しかし残弾寡少)がもっとも強力であった。
この当時の清軍のうち、北京周辺に配置された部隊は「北洋新軍」「武衛軍」と呼ばれ、直隷総督栄禄が節制の任にあたった。清国の軍隊の指揮権は「総督」(直隷省を除くと2省以上を管轄する)がもっており、事実上の近衛部隊である北洋新軍も、天津に駐在する直隷総督(通常は北洋通商大臣を兼務する)の指揮下にあったのである。
北洋新軍は、聶士成の前軍(蘆台)、宋慶の左軍(錦州)、袁世凱の右軍(小站。ただし山東省に移動)、甘粛省から招致された董福祥の後軍(南苑)、これに永禄の直率として新徴募の中軍、であり併せて5軍と称した。各軍とも定員は5千人であったが、実数は半分程度であり、かつ右軍と左軍は遠方にあった。また前軍は天津に派遣されすぐ全滅した。すなわち、董福祥の部隊と中軍だけしか北京には配置されておらず、実数は5千人に満たなかった。このうち小銃をもった兵士は2千人程度であろう。
清軍は、日清戦争の痛手から立ち直っていなかった。このような状態で、数万といわれる拳民を武装させることができたとき、清廷が急に居丈高になったのも無理はなかった。
北京外交団を攻撃してきた主力部隊は、このような事情で、官給の武器をもっていたが、まったく訓練をうけていなかった拳民(義和団)である。
各国公使館が臨戦態勢に入ったのは、6月13日からである。とりわけ14日、外城にあった幾百、千の教民が「義和団に追い回され、男女老若、公使館外の城壁下にきて、悲鳴号泣して救いを呼ぶの声と、これを容赦なく虐殺する団匪の怒号と相混じりてじつに凄愴」(柴五郎『北京籠城』)という状態に立ち至った。
13日から教民が公使館街に逃げ込み、1週間で3千人以上に達した。日本公使館でも、14日から陸戦隊が中心となって土嚢陣地を要所につくるなどの防御工事を開始した。
公使館地区は南には高さ10メートルに及ぶ城壁があり、西側には清国官衙があった。これがため、ある程度の規模の部隊は東北方面を攻撃すると予想された。清軍は、城壁をくぐった正陽門と崇文門に75ミリ野砲(クルップ社製といわれ、駐退機なしの円弾)を据え、射撃した。また、城壁上においてもアメリカ公使館上とドイツ公使館上にそれぞれ衛所を設けて米兵と独兵が守備した。
ところが、ドイツ衛所は早々と清兵に奪われ、ドイツ公使館は城壁から瞰制され射撃を浴び、さらにアメリカ衛所は腹背から脅威にさらされた。米兵はそれでも城壁上を死守したが、独兵はついに奪回に失敗し、声望を落とした。
だが、もっとも激戦が発生したのは、日伊兵の守備する東北方面とりわけ粛親王府内と次いでフランス公使館方面であった。
イタリア公使館とオーストリア公使館は東側に飛び出た位置にあったため、6月中に拳民によって焼かれた。6月20日、外交団は外国民間人について全員、もっとも広いイギリス公使館に収容することを決めた。イギリス公使館には450人と従者などが最後まで暮らすことになり、「無残きわまる生活」(柴五郎)になった。
柴五郎(1850〜1945)
会津藩士で戊辰戦争を経験。陸士旧3期。日清戦争従軍後、駐英武官。そのあと駐支武官となり北清事変に遭遇した。日露戦争に野砲第15連隊長として従軍。そのあと第12師団長、台湾軍司令官を歴任。砲兵大将。終戦のさい自決を図り、重傷のままそれが原因で死亡した。兄四郎は東海散士。
粛親王府が攻撃の矢面にたったのは6月23日からで、攻撃は連日休まることなく休戦日の7月16日まで続いた。陸戦隊の安藤大尉がこの方面に守備にあたったがいかにも寡少であって、6月23日すでに総税務司を奪われ、日本公使館近辺にも拳民に浸透される状態になった。柴は窮地にたって、英公使クロードに助力を求めると、ちょうど公使館を奪われたパオリニー大尉指揮の伊兵10人が来援した。
だが、清軍も粛親王府東北300メートルの地点にクルップ野砲を持ち込み、榴散弾を粛親王府に打ち込んできた。防戦一方となったが、夜間、パオリニー指揮の伊兵27人が粛親王府に入り、柴五郎の指揮に入ることが決められた。このとき日本の義勇兵は武器を装備できず、公使館の守備に回さざるを得ず、日伊連合軍は兵力の少ない方が指揮するという事態となった。
さらに24日に入ると、粛親王府内に約3000人の教民を収容することになった。教民は、防御の助力となった。府内には大規模な煉瓦づくりの建物が散在しており、戦闘の多くは煉瓦壁を隔て、石を抛るような戦闘となった。場合によると塀に穴を開け射撃することも行われた。
7月1日、清軍は粛親王府東北角から200メートル離れた所に大砲2門を据え射撃を開始した。するとパオリニーは、柴に出撃して大砲を奪取することを意見具申した。柴は英公使に援兵を求めると、英兵7人、義勇兵5人をよこした。柴は東北角の北側から日本兵を東側から伊兵を出撃させることにした。伊兵は東側から準備よくトンネルを掘削してあり、直ちに出撃できたが、日本兵は遅れた。
伊兵はすぐさま道路に出たが小路を出たところに障害物があり、そこを突破しようとしたところ両側から射撃を浴び、2人が戦死、それ以上進めなくなり出撃は失敗した。パオリニーも重傷を負った。
7月2日以降も清軍の大砲2門は砲撃を続け、日本公使館にも着弾した。7月3日になると米は2週間分となり、若干の昆布と隠元豆一袋しか残っていなかった。弾薬も水兵55発、このころ銃がいきわたった義勇兵には20発しか残らなかった。頼みのイタリア軍37ミリ砲の残弾は14発となってしまった。
7月6日、清軍は大砲2門を前進させ府内に入れた。このため再度奪取が計画され、日本兵が出撃した。しかし、壁面をくぐった穴を出たところで射撃を浴び、安藤大尉が戦死した。府内の建物を一つ一つをめぐる戦いは続いた。
7月14日、清国総理衙門は「北京・天津間には義和団が充満しているため、諸公使を無事に天津まで届けるのは困難である。ゆえに公使と眷属はいったん武器をすて総理衙門に寄こしなさい」という「浅はかな謀計」(柴五郎)の信書が届けられ、一部小国の官吏が動揺した。翌日、クロードは「文明国の常例として外国公使は国賓として扱い、けっして犯さざるものである。両国開戦しても、公使は安全に保護する義務があるものなるに、官兵をもって攻撃するとはなんぞや」と返事した。
このとき、日英米仏独墺伊には中国外交使節が滞在していたが、いずれも厚遇をうけていた。現代中国人が北清事変を語るとき、まず考えねばならないのはこの点であろう。
7月17日になると清国の官兵・拳民ともに攻撃を停止した。これは7月14日に天津が全面占領された影響と考えられた。この日からは、官兵は宵闇に紛れて食料を法外な高価で売りつけにきたり、はては小銃や弾薬まで売りにきた。7月20日、西太后の名義で、西瓜・黄瓜(まくわうり)・茄子が届けられた。太后からのプレゼントとしてはみすぼらしすぎた。
7月下旬になると清軍は多少動揺の色を見せ始め、犬の首に手紙を結んで降伏勧告をしてくるようになった。連合軍がいよいよ北京に進発し、清廷蒙塵が計画されている噂が盛んになった。
8月上旬、様子は変わらず、総理衙門からの「退去」願いがくるのみであった。8月10日、福島少将から柴五郎へ「13、4日中に北京に入城する」と連絡が入った。
8月12日、清軍の射撃は急に盛んになった。総理衙門から親王・大臣うちそろって英公使館に和議について相談のため来訪したい、と連絡があった。
8月13日、約束の11時に手紙がきて、「公務多忙にていけないので、時日を選んで相談しよう」とあった。晩になり大砲による射撃が再開されたが突撃はなかった。
8月14日午前2時、突然東の方角に強い砲声がきこえた。ロシアの援軍が東便門にきたと察知された。清軍の射撃もそれにつれて盛んになった。12時になると射撃は停止し、あたりにいた清兵・拳民は姿を消した。午後3時、インド騎兵が御河水門から公使館地区に入り、北京籠城は終了した。なお、福島少将は歩11を率いて、午後8時40分、哈達門より日本公使館に到着した。
籠城者のうち8国連合軍戦死者負傷者数
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米 |
墺 |
英 |
仏 |
独 |
伊 |
日 |
露 |
計 |
|
戦死者 |
7 |
4 |
6 |
11 |
11 |
7 |
10 |
4 |
60 |
|
負傷者 |
12 |
9 |
22 |
12 |
16 |
10 |
20 |
9 |
109 |
激戦があった粛親王府を守備した日伊兵と城壁上の戦いを繰り返した米独兵の損害が大きい結果となった。なお数字は7月26日までのもので、英国病院長プール氏の調査による。
北京篭城は公使館地区(東交民巷)だけではなかった。北京にあった4つのキリスト教会、東堂・西堂・南堂・北堂のうち、北堂だけは焼き討ちを免れ、伊兵・仏兵と教民が篭った。8カ国連合軍が救出したとき、公使館地区よりひどい状態であったという。
北京解放
北京に向かう第1陣は、総理衙門の各国2、30人の守備隊の増員であれば可との通牒にもとづいたものであった。鉄道にのれば、通常、天津=北京は4時間程度しかかからない。ところが第1陣が入京したと同時に拳民の襲撃により鉄道が寸断されたの噂が広がった。こうなると第1陣も含めて、北京外交団はそのまま人質になってしまう。
各国の危機感は強まり、6月4日から各国間で協議が開始された。ロシアはもっとも大兵を擁していたが、イギリスはロシアの領土欲を疑い、セーモア自らを北京にいかせることにした。セーモアは海軍中将であり、先任士官が指揮官になるルールにしたがい、指揮をとることになった。
セーモアは10日早朝、大沽に上陸、そのまま鉄道で天津に向かい9時、鉄道で天津を出発した。
第2陣は総勢2500人となったが、6月11日、早くも拳民と衝突した。拳民35人が射殺された。そのうえ北京から杉山書記官殺害の第1報が入った。当初、鉄道輸送で計画されていたため、兵站が準備されていなかった。
鉄道修復しながらの前進は難しく、徒歩で川沿いに北京に向かった。翌日から、拳民のほかに董福祥軍からも攻撃をうけた。セーモアは6月19日、退却を決心した。この行軍中、連合軍側も62人の戦死者を出した。阿片戦争やアロー号戦争とは完全に違う情勢が小銃と鉄道のために生じていた。
セーモア隊の苦境が伝えられると、6月13日ごろから、各国は軍艦に残った海兵を大沽に上陸させた。6月15日、各国司令官が集まり、8カ国連合軍を結成し、大沽砲台を攻撃占領することに決めた。セーモア隊が政府軍からも攻撃された以上、戦争が開始されたものとみなしたのである。6月17日、海軍に艦砲射撃を要請したのち、大沽砲台を占領した。
6月29日には参本二部長福島安正指揮の日本軍第一陣約900名が大沽に到着した。
7月2日、8カ国連合軍指揮官会議を開き、福島安正は天津全域占領を主張した。単騎シベリア横断の壮挙をもって知られる福島は、英・独・仏・ロ・支那語を自在に駆使し指揮官会議をリードしたという。
7月11日、清国政府軍の聶士成(日清戦争成歓の戦闘の敗将)と馬玉崑【ばぎょくこん】(日清戦争海城攻防戦の敗将)の部隊は義和団員をも加え、約2万5千人で天津租界を攻撃した。戦いは連合軍の圧勝に終わり、聶士成は戦死した。日英仏米の4軍で総攻撃を実施、14日払暁には天津城を占領した。天津一帯における清軍と義和団員の戦死者は5千人を超えたという。
この情勢下、北京にいる外交団を救出するためには、地の利から日本軍の出動しかなかった。日本政府は7月初旬、平時編制のまま、第5師団(山口素臣中将)の直隷方面派遣を決心した。師団主力は7月20日、天津に集中を完了した。東京から寺内正毅参謀本部次長も現地に急行、福島と常備艦隊司令長官東郷平八郎と打ち合わせ、北京をつく2万と兵站線維持の5千の兵力に達すれば、北京に進発することが可能であるとの結論に達した。
7月31日、ロシア軍のリュネウィッチ中将が主宰する北京進攻のための軍議が開かれた。そこで、8月4日から進軍することが決められた。
8月4日、第5師団を主力とする連合軍1万9千名は、北京に向けたった。日露軍が先頭にたち、その他各国軍は後方に控えた。途中、唐家湾付近の北倉、火薬庫で戦闘があった他はほとんど戦闘がなかった。ただ。福島は大アジア主義者であったためか、反英米意識があり、無理に先陣を切ろうと意識し、損害は日本軍が全部被った。
8月7日、楊村で8カ国軍議が開催され、リュネウィチはそこで兵站線を整え、輸送中の各国軍の到着をまち、北京総攻撃を行うという提案をした。福島は長躯挺身攻撃を実行し、早期に北京を開放すべきと主張した。これにイギリスのバロー少将も賛成した。
軍議はそれで一決し、日英露で前哨騎兵隊を先行させ、あとで歩兵が追従することになった。だが、日英米露を除いては兵站がつながらず、弾薬急派などの必要が生じ、天津に戻る、または楊村に残留することになった。
8月8日、前哨騎兵隊は楊村を出発し、南蔡村を経由して9日、河西務に着いた。10日、河西務をたち張家湾に向かった。張家湾では多少抵抗があったが、厳しい炎暑にもかかわらず占領した。直ちに、6キロ先の通州に向かった。ここには500人程度の敵兵がいた。
12日午前3時、総攻撃に移ったが、南門を爆破すると敵は逃げ散った。先陣をきったのは日本騎兵で、米倉を接収し、5万石を得たという。この日の夕、通州城内で日英米露による軍議がもたれ、北京解放作戦が検討された。福島は翌日の攻撃を主張したが、リュネウィッチは13日1日中は休息とし、その翌々日15日に総攻撃することを主張し、受け入れられた。
この日までに通州に到達した8カ国連合軍は1万5千人に達した。このとき清国軍は拳民含めて城内に4万、城外に1万2千いたとされる。
ロシア軍は、13日午後8時、夕立に乗じて、東便門脇に1個大隊と砲兵4門を前進させ、11時、大砲によって門を破壊した。ただちに歩兵は城内になだれ込んだが、城内には清兵が待ち構えており、射すくめられ、身動きがとれなくなった。そのうえ参謀長に流れ弾が命中、死亡した。ロシア軍はこの抜け駆け失敗をさしおいて、日本軍に朝陽門への「陽動」攻撃を依頼した。日本軍は門に4334発に及ぶ砲撃を加えたが、ついに門の破壊に失敗した。工兵がまだ到着していなかった。
ところがイギリス軍がその南の広渠門に向かうと門は開いており、守備兵もいなかった。英印騎兵はかねてから狙っていた公使館地区南横の下水溝を目指し、水門を破壊、1900年8月14日午後3時、公使館地区一番のりを果たした。北京外交団と教民は、6月20日以来55日ぶりに無事救出され、北京は連合軍によって占領された。
西太后蒙塵
8カ国連合軍が迫るが、西太后はあまり危機感を抱いていなかった。東交民巷と西太后が起居していた紫禁城は城壁一つしか離れていなかった。銃声が連日鳴り響いていても、敵が身辺に迫らねば安全であると考えていたのだろう。また、紫禁城の住民の大半は、生まれつきの貴人ではなかった。清朝は満州族を従えた征服王朝であり、貴族層をもたなかった。皇帝の妻妾の多くは門地で選ばれず、旗人など満州族の兵士あがりの家柄から選抜されていた。
西太后の家も旗人に過ぎず、父親も官庁で庶務を扱う中級の官吏であり裕福ではなかったといわれる。女官や宦官も貧しい家庭出身であった。清朝宮廷は戦乱に強いのである。
8月14日夜、御前会議を招集したが、応じた者は軍機大臣の剛毅、総署大臣の趙舒翹【ちょうじょきょう】、軍機兼総署大臣の王文韶の3人に過ぎなかった。他の皇族、役人はみな自宅が心配で家にこもっていた。
8月15日朝、八カ国連合軍北京到達をきき不安にかられた西太后は、光緒帝の愛妾、珍妃を寧寿宮裏の井戸に投じて殺害したのち、紫禁城をたった。それでも馬玉崑の指揮する護衛兵も含めた随員は千余名に達したという。徳勝門から馬車ででたが、連合軍は捕縛などを考えた節はない。紫禁城の内情について、もっとも詳しかった日本公使館もとくに動かなかった。
北京から数里離れると中国には畦道しかない。このため馬車を棄て、駕籠に乗り換えた。連合軍が追跡することは簡単であったろう。
目的地の山西省太原についたのは、9月10日であり巡撫の毓賢が出迎えた。そこも危険といわれ20日ほど太原に滞在しただけで、途中山西省大同などに寄りつつ、10月26日、西安に辿り着いた。西太后にとり、アロー号戦争による熱河省常徳への蒙塵に継ぐ2回目であるが、2カ月以上の長旅であり、よく体力がもったものと感心させられる。
連合軍の北京占領の間、西太后は戻ることができなかった。1902年1月、1年4カ月ほどたち、ほとぼりが冷めたと思ったのか、西安をあとにし、保定からは鉄道を利用して帰京した。
あとになり、中国人はこの事件を「庚子西狩」(西方への狩)または「慈禧西幸」と呼んだ。
後日譚
連合軍は北京を占領したのち直ちに撤退したのではない。8カ国連合軍の名目的な司令官ワルデルゼーが到着したのは10月であり、ドイツ兵を指揮して果敢に直隷省と山東省で拳民の掃討戦を挑んだ。
北京で拳民が政府軍と一緒になり公使館街を攻撃している間も、地方における教民と拳民の争闘は続いていた。だが北京の戦局は、彼我の力関係を一変させた。8月以降、教民は逆襲に転じ、危害を加えた拳民の多くを殺害した。山東省では袁世凱自ら討伐にあたり、8月16日、省内に拳匪は一人もいないと公言した。
両広総督であった李鴻章と慶親王が、事態収拾について列国と交渉にあたった。この間、中央政府機能は停止した。中国は地方官の権限が強く、軍事・外交以外は宮廷維持に係わる業務以外中央政府はやることがない。そのうえ近衛軍にあたる武衛軍ですら、統帥権は北洋通商大臣または直隷総督にあった。このため外交さえ担えれば、中央政府はなくとも済むのである。開国以来中央による租税収入の大宗は塩税から関税に移行した。直隷・山西・山東以外は平穏であったため、関税収入への影響は少なく、西安に移った清朝の内廷費はむしろ潤沢になったといわれる。
紫禁城や官衙の接収にあたったのは日本軍であった。紫禁城では、珍妃の遺体を井戸から引き上げ弔った。官衙の銀蔵から、240万両の銀貨・銀丁も接収した(第2回ハーグ万国平和会議で陸戦規定が決まるまで、交戦国の官有動産の接収については発見軍隊の当然の権利であった。私有財産についても道徳的に芳しくないとみられていただけである)。
満人官僚の多くがこの大敗北によって自決した。徐桐・崇綺・荘親王・趙舒翹・英年らである。日清戦争によって北満の満州族男子の多くが戦没し、北清事変は満州族皇族・貴族に打撃を与えた。
毓賢は蘭州で処刑された。徐承Uと啓秀は、日本軍立会いの下、北京菜市口市場で処刑された。端郡王は新疆に流罪となった。董福祥については純粋軍人であるため列強の間で意見が分かれ、甘粛省で職を解かれたまま一生を終えた。
また近畿3省以外にも飛び火した。大韓帝国は拳匪流入を恐れ、国境を閉鎖、さらに2個大隊ほどの軍隊を国境に派遣した。ロシアは朝鮮に自治能力がないとして、山県・ロバノフ協定に基づく交戦域の設定を日本に求めたが、日本政府は杞憂であるとして拒否した。
満州の奉天では拳民によって教会が焼かれ、フランス人宣教師が殺害された。ロシア軍は過酷な弾圧を加えた。営口でも拳民が決起し、外国人は神戸に疎開した。ロシア艦艇は市街に艦砲射撃を浴びせた。
居留民保護をいいイギリスは上海に、日本はアモイに陸戦隊を上陸させた。だが、各国軍は翌年に入ると復員を開始した。日本軍には、1901年5月10日復員令が出され、8月中に大半が凱旋帰国した。
ロシア軍だけは満州に留まった。各国の圧力により露清協定が結ばれ、撤兵日時が公表された。だがロシアは履行しなかった。
列国による中国分割は、マスコミの扇動にかかわらず発生しなかった。まだ掃討戦遂行中の1900年10月、英独は揚子江協定を結び、新たな領土割譲を求めないことを宣言した。
英独揚子江協定
清国と8カ国の講和条約は、1900年12月には交渉が終了していたが、調印は翌年9月となった。李鴻章と慶親王への全権委任状の文言に不備があり、全権確認が遅れたためである。
講和条約は「北京議定書」と呼ばれ「人類の歴史に前例なき罪悪であり、国際法に反し、人権保護に反し、文明に反する罪悪」と清国を責めたてる文言から入っている。
西太后的感想
1903年、すなわち北清事変が終了してから3年後、西太后が感想を述べているのを徳齢が記録している(『西太后に侍して』太田七郎、田中克己訳 筑摩書房世界ノンフィクション全集18)。
「宣教師たちが貧民を助け、その苦労を救うというのは結構なことです。たとえば、私たちの崇めまつる如来仏がわが身の肉で飢えた鳥を養われたようなものです。でもあの人たちが私の人民たちをほっといてくれば、私も好きになるでしょうに。私たちは私たち自身の宗教を信じればよいのです。あなたはどうして拳匪(義和団)の乱が起こったか知っていますか?それはもちろん、シナ人のキリスト教徒のせいですよ。拳匪たちは、あのキリスト教徒たちにひどいことをされたので、仕返しをしようとしたんですよ。キリスト教徒はやりすぎたし、同時に北京のあらゆる家に火をつけて金をとろうと思ったんです。だれの家なんて差別しませんでした。金が取れるあいだはいつまでも焼いていたいと思ったのです。このシナのキリスト教徒ぐらいシナで悪い人間はありませんよ。貧乏な百姓から土地や財産を奪う。それに宣教師は、もちろん、いつもその分け前にあずかろうというので、それを保護するのです。シナ人のキリスト教徒は知事の衙門に連れてこられても、ほかのように、地面にひざまずいてシナの法律にしたがうことなどしなくてもよいと考えていますし、それにいつも自分の国の政府の役人にひどく無礼なのです。するとこの宣教師はこの男が悪かろうと良かろうと、これを保護するのに全力を尽くし、この男の言うことはなんでも信用して、知事に迫ってこの囚人を放免させてしまうのです」
西太后は、教徒と一般村民との争いが義和団事件の発端と認識していた。ただ気持ちとして拳民に味方したかったのがわかる。また、宣教師や教徒の「悪行」についての認識は誤りである。西太后も、嫉妬による暴力を肯定していた。
「康有為は光緒帝にその宗教を信じさせようとしたのですよ。私は死ぬまで(家族の)誰にもキリスト教を信じさせませんよ。私でも、外国人にある点では感服していることは言わねばなりますまい。たとえば、海軍・陸軍や技術者などの点です。しかし文明という点になると、なんといってもシナが世界一の国だと私は言いたいですね」
いわゆる「西体中用」の西洋の科学技術だけとって利用できると考え方である。だが、西洋の科学技術の評価は現実に迫られたものであるが、「中国が世界一」はただの虚仮である。
「多くの人たちは政府と拳匪とが関係があったと信じているようですが、それはウソです。私たちは騒動を知るとさっそく勅諭をいくつも出して、軍隊に拳匪を追い払えと命令したのですが、もう拳匪の乱はあまりにも進みすぎていたのです。私は絶対に宮城から出ないと決心しました。私はお婆さんですし、死のうがどうなろうが構いはしなかったのですけれども端郡王と瀾公は直ちにお逃げになったほうがいいと勧めました。二人は私たちが変装して逃げねばならないなどと言いますので、それには私もひどく怒って、拒絶しました。北京に宮廷が戻ってからきくと、私が変装して逃げたとか、女婢の着物をきたとか、騾馬に引かせた壊れた荷車にのったとか、私のこの召使の婆やが皇太后の装束をして私の轎にのっていったとかいう話を信じている人がたくさんあるのですね。いったい誰がこんな話をこしらえたんでしょう」
西太后は真実を語っていない。宮中の宦官まで拳匪の服装をさせたことが後段語られる。
「私はこの事件のことを言うのもきらいですし、それに外国人にこの件について私の臣民たちに質問させたくはないのです。私が、自分は今まで世に出てきたうちでいちばん利口な女で、ほかのだれも私とは比べものにならないとよく考えることをあなたは知っていますか?私もヴィクトリア女王のことはいろいろ耳にしましたし、その生涯の一部をだれかがシナ語に訳したもので読みもしましたが、やっぱりあの方の生涯も私の半分ほども興味がないし、波瀾もないと思います。私の生涯はまだ終わっていないのですから、これから先にどんなことが起こるか、だれにもわからないのです。なにかとっぴなことをするか、なにか今まで私のやったことすべてとまるで反対なことをやって外国人を驚かすかもしれませんよ。イギリスというのは世界の大国のひとつですが、これはなにもヴィクトリア女王の専制政治のためこうなったのではありませんよ。あの方にはしじゅう後見している議会の人才がついていて、それが言うまでもなく万事を討議して最善の結果が得られるようにします、すると女王が署名されるというので、じっさい女王はあの国の政治にはなにも言う必要がないのでした。ところが私をごらん。4億の人民があって、それがみな私の判断ひとつに頼ってます。私にも相談する軍機処がありますが、ただいろいろ人事を監督しているだけで、重要な趣きを帯びたことはなんでも私が自分で裁断しなくてはならないのです。皇帝など何を知って(いますか)」
西太后は自らをイギリスのビクトリア女王と比較し、自分がより優れていると自慢する。だが、愛親覚羅家の清国は滅亡し、いまなお中国を文化・文明の点で尊敬する国はない。また「私は世界一賢い」は多くの中国人のもつ確信である。
「私はあれまではとてもうまく行っていたのですが、あおの拳匪の運動がしまいにシナにあんなに重大な結果を起そうとは夢にも思いませんでした。あれが私の生涯でただ一度の誤りでした。私はただちに勅諭を出して、拳匪がその信仰を実行にうつすことを禁ずるべきだったのですが、端親王と瀾公が、自分たちは拳匪こそあおのおもしろからぬ憎むべき外国人をことごとく追い払えるように、天から中国に送られたものだと確信していると言うのでした。もちろんあれらのつもりでは、おもに宣教師のことを言っていたのですし、それに私はいつも信心深いか、あなたも知っているでしょう。だから私は今は何も言わないで、どういうことになるか待っていてみようと思ったのでした。私があれらは行きすぎているなとはっきり感じるようになったのは、ある日、端郡王が拳匪の頭目を万寿台の離宮に連れてきて、太監(宦官のこと)全部を召見の間の中庭に呼び集め、ひとりずつその頭に十字架の印がないか検査したときです」
「翌日、私の太監たちがひとりのこらず拳匪の服装をしているのを見て、私はすっかり驚いてしまいました。紅い胴衣を着、頭に紅い巾を巻いて、黄色いズボンをはいているのですよ。私は自分の家隷がのこらず官服を捨てて、こんな奇妙な姿をしているのを見て、情けなく思いました。瀾公は私にも拳匪の服を1着くれました」
「私は栄禄【ロンルー】と拳匪のことで相談したかったものですから、早く会いたいと思いました。栄禄は宮中で起こったことを知ると、なげかわしい面持ちをして、この拳匪というのは革命をはかる者で、人心を扇動する輩にほかならないと申しました。あれらは人民たちに自分らといっしょに外国人を殺させようとしているが、その結果たるや政府に不利になりはせぬかと彼ははなはだ憂慮していました。私はどうもあなたのいうとおりのようだと言って、どうすればよいかと尋ねました。栄禄は、端郡王に自分が話してみましょうと言いましたが、翌日、端郡王の言うのには、自分は拳匪の問題で栄禄と大喧嘩をやりましたとのことで、そして話すには、北京はすべて拳匪になってしまったのですから、われわれがこれを改宗させようとすれば、あらんかぎり暴れて、北京じゅうひとりのこらず、宮中の者までも殺してしまうことでしょう。もうあれら(義和団)は外国の代表者たちを皆殺しにする日を選定してしまいました。董福祥(非常に保守的な将軍で拳匪の一人)は自分の軍隊をくり出して拳匪が公使館に火をつけるのを応援すると約束しました、というのでした」
「(栄禄が拳匪禁止の勅諭を出せといったこについて)端郡王はこれを聞くとひじょうに怒って、万一かような勅諭が発せられたら、拳匪は宮廷におし寄せて皆殺しにしますぞ、と栄禄に詰め寄りました。端郡王が私にこう言ったときには、私もこれに万事をまかせたほうがよいと思いまた。端郡王が宮中を退出したあとで、栄禄は、端郡王はどうしても気が狂っています。きっとこの拳匪はたいへんな面倒を引き起こすことでしょう、と言いました」
「栄禄はまた言うには、端郡王が拳匪をたすけて外国公使館を破壊するなどとはとても正気とは思われない。この拳匪というのは教育もないはなはだ下等な連中で、シナにいる少数の外国人だけが世界にいる外国人のすべてだと思っていて、これさえ殺せぱ、外国人はおしまいになると考えています。彼らはこういう外国がどんなに強いか、もしシナにいる外国人が皆殺しにされれぱ、何千という外国人がこの殺害の復讐にやってくるということを忘れているのです、と申しました。そして栄禄は私に、ひとりの外国の兵士でなんの造作もなく百人の拳匪を殺すこと、ができることは確かですと言って、なにとぞ自分に、後に拳匪に殺害された聶将軍(聶士成。日清戦争成歓の戦闘の敗将)に、その軍隊を率いてきて公使館を守るように命令するお許しをくだされたい、と願い出ました」
「もちろん、私はただちに栄禄にこの令旨を与え、あわせて、即刻端郡王と瀾公に会って、これははなはだ重大事であるから、両人とも栄禄の処置を妨げないように話すべき旨を申しつけました。しかし事態は目日に悪化して、栄禄が拳匪に反対のただひとりになってしまいました。あの大ぜいに対しひとりでは何ができましょう」
ある日、端郡王と瀾公がやってきて、私に、まず公使館の者を皆殺しにし、次いで、残っている外国人を残らず殺すことを拳匪に命ずる勅諭を出せと要求しました。私はたいへん憤って、この勅諭を出すことを拒絶しました。ずいぶん長時問にわたって議論した後、端郡王は、これは猶予たく行なわれなければならぬ、というのは拳匪たいは公使館に火をつける用意をしているから、この明日にもそうする、だろうと言いました。私は激怒して、数人の太監に彼を迫い出せと命令しましたが、郡王は出てゆきながら、『陛下がこの勅諭を出すのを拒絶されるなら、陛下の思し召しいかんにかかわらず、私が陛下の代わりにそれを出しますよ』と言いましたが、そのとおりにしたのですね。その後はどうなったか、あなたも知っているでしょう。あれは私に知らせないであの勅諭を出したのですが、あんたに大勢いの人が死んだのは、その責任です。あれは自分の計画がうまくいかないと知り、外国の軍隊が北京からあまり遠くないところまで迫ったと聞きますと、とてもこわくなったので、私たち一同に北京を捨てさせたのですよ」
陛下はこう言い終わると、泣き出されましたので、私は、ほんとうにお気の毒に存じます、と申し上げました。すると陛下のおっしゃるには、
「あなたは何も私が経てきたことは同情してくれるには及びませんが、私の名声が地に落ちたことは悲しんでもらわなくてはなりません。あれは私が全生涯にやった、たったひとつの誤りで、私の弱かったときにやったものです。その前は私は純粋の玉のようでした。だれもみな私が国のためやった功績をたたえたのでしたが。あの拳匪の乱のときからこの玉にヒビが入ってしまいました。そして私の一生の終りまで残っていることでしょう。私はあんな奸悪な端郡王、すべての責任者であるあの男を信頼しきっていたのを、いくたびとなく後悔しました」

斉藤聖二『北清事変と日本軍』芙蓉書房出版 2006
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