北京政府樹立
袁世凱は隆裕太后を手玉にとって、260年続いた清朝を倒すことに成功した。
そしてその肩書きを「中華民国臨時政府全権組織首領」とした。おそらく清国の戦争講和でいつも起きる「全権問題」が脳裡にあったのか、中国人の伝統的交渉スタイル、「代理人を交渉に派遣し、まとまった段階で否認し、改めて譲歩を迫る」にたまらない魅力を感じたものであろう。
袁世凱は南京政府には「南下し、指示を拝聴し、ともに進行の方法を探らん」といって低姿勢で臨んだ。孫文はこれを危ぶみ「袁世凱は大総統職をうけず、また滅亡した清朝から職の委嘱はうけないという。選挙の日までまつというのだが、大義を知ったうえでの発言だろうか」と左右に語っている。
けっきょく袁は南下せず、南京政府については専ら懐柔策で臨んだ。3月10日北京で、臨時大総統に就任した。
3月23日、南京参議院の了解を得て、唐紹儀を総理に任命し、29日、組閣された。同盟会からは、蔡元培・王寵恵・宋教仁・陳其美が入閣した。4月2日、南京臨時政府は北京に移転することを議決した。
保皇宗社党と満蒙情勢
清朝旧臣、良弼は「保皇宗社党」を結成し、清朝崩壊をくいとめようとしたが、1月26日、革命派の彰家珍に爆殺された。
粛親王善耆は、満州において復辟することを計画し、2月6日、旅順に移動した。粛親王の助言者は川島浪速であった。川島は北京にいた蒙古王侯にも蹶起を働きかけ、さらに革命勃発とともに派遣された参謀本部付き将校とも連絡をとった。主たる者は、高山公通大佐、多賀宗之少佐、松井清助大尉であった。善耆の娘が「東洋のマタハリ」こと川島芳子である。善耆は芳子を妾として浪速に差し出した。
芳子はその後、テロリストの岩田愛之助、モンゴル王室のカンジャルジャップ、綏遠工作のさい田中隆吉と関係をもった。政治工作としては満州事変のさいの溥儀室の婉容救出が有名である。戦後まもなく国府軍により処刑されたが、「僕がほんとうに死んだら、君とおやじと僕の骨をひろって、福ちゃん(注・可愛がっていた猿の名前)と掘り出して埋めてくれな。僕は人間とは一所に死度くない、猿と一所でけっこうだ、猿は正直だ、犬も正直だ、ポチはどこへ行ったかね、今頃は寒い事だろうね、猿も犬も没収する国家は珍しいね、ずい分ひどい所だ」との言葉を残した。
高山は、大アジア主義者でもあった参謀本部次長福島安正に「粛親王兄弟は満州蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地により、他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」と電報した。
福島は高山らを満州に移転させ、人数を増やすまでのことをした。
元来、青木機関や坂西機関などの北京武官府の活動は参謀本部による兵要地誌の作成が目的であった。ところが日露戦争のさい、清国の漢人系軍官僚、とりわけ袁世凱に中立を働きかけたことが、ヒマな参謀将校に何か「やり甲斐」を与えてしまった。
趙爾巽 Chao NiXuan(1844-1927)
養子になり漢軍正藍旗人になった。字は公
。出身は盛京省鉄嶺。1874年進士に合格した科挙官僚である。1905年奉天将軍になった。この職はそれまで満人に限られており、漢人がつくのは初めてであった。東三省の軍権を握る職掌なためだが、日露戦争の戦場となり権威が落ちたのであろう。そのあと四川総督、湖広総督を経て、1911年東三省総督兼奉天将軍。1913年引退し、青島に落ち着く。翌年、袁世凱に依頼され清史館の館長となり『清史稿』の編纂に取り組む。1925年、参政院議長となった。1927年、清史稿は脱稿したが、その年に亡くなった。
辛亥革命発生時、満州では、総督兼奉天将軍趙爾巽が「国体堅持」を主張、清朝支持を明確にしていた。趙爾巽は統領張作霖、呉俊陞らに命じ、尖山口に逆上陸した革命派と対峙し解散させた。奉天にいた革命派であった藍天蔚(かつて日本に留学したことがあり、そのときは「拒俄義勇隊」の後身である『学生軍』の隊長であった)は1500人の兵士を束ねて海路南下し、山東半島芝罘に上陸した。その後、兵は散り散りになり自滅した。これで満州の革命派はほとんど消滅した。
11月12日になると諮議局の呉景濂が「奉天国民保安会」をつくり清廷を離脱し、満州を独立させることを主張した。だが、趙爾巽と張作霖が反対し、黄龍旗に代わり黄色旗を掲げる「奉天国民保安会」がつくられた。要は中央の動向を見守ろうということだった。1912年2月12日、趙爾巽は、宣統帝退位を知ると、袁世凱支持に機敏に動いた。川島らは満州独立をいって、張作霖とも一致していたが、この突然の変心で、一挙に孤立した。
日本政府は、辛亥革命にたいしては、日英同盟の趣旨から日英協同してあたることにした。袁世凱も、朝鮮問題に深入りした関係から、外交については慎重であった。日本国内の支那通の動きは活発であったが、政府の外交方針に影響を与えるほどのことはなかった。
このとき、清朝・袁世凱・南方勢力(さらに孫文・黄興・連省自治に分かれた)のどれかを選んで承認するというのは難しい判断であった。イギリスのグレイが内政不干渉の立場を打ち出すと、日米ともにそれに従った。現代の中共や台湾国民党の外国が中国に干渉しようとしたという見方は、まったく誤りで、各派ともに外国を引き入れようとしていた。ただしイギリス駐支公使のジョルダンは袁世凱と個人的な関係をつくっていて、本国から叱責されている(ジョルダンはその前、駐韓公使で袁世凱をよく知っていた)。川島浪速らの動きと同じ任地惚れである。革命・動乱のさいの現地派遣要員の意見には慎重にならねばならず、一斉召還も一手であろう。
2月16日、イギリス駐日大使クロード・マクドナルドは外務省に粛親王善耆と川島浪速の動きを報告し善処を要望した。趙爾巽が袁世凱経由、イギリスに伝えたものであろう。
外務省(大臣内田康哉)はすぐさま参謀本部に警告した。参謀本部次長福島安正は「革命ゴッコ」どころではなくなり、現役軍人を召還し、川島に帰国を要求した。
川島は従わなかった。ただし活動舞台を東三省から、内蒙古に移すことにした。多賀宗之と松井清助もことの成り行き上、引くわけにいかず、蒙古王族カラチンやパリンを連れて内蒙古に入った。趙爾巽は、鄭家屯駐在の呉俊陞に川島の配下である松井清助が率いる輜重隊の攻撃を命じた。松井らはどうにか鄭家屯から離れるのに成功し、「大蒙古勤王軍」を旗揚げした。呉俊陞は追跡し、6月8日、タイシャポーで捕捉に成功、大敗させた。蒙古側死者は五十数名に達し、日本人も13人死亡したとされる。
この事件は第1次満蒙独立運動と呼ばれることがある。
この事件の原因が福島安正にあることは明かであった。福島は営門中将止まりになった。さらにこの事件は第2次満蒙独立運動につながり、尾を引いた。
3月10日、袁世凱が北京で大総統に就任すると、西園寺内閣は列強に先駆けて、新中国承認の音頭をとった。
北洋軍閥
五色旗 漢・満・蒙・回・蔵の五族協和を表わす。
清国時代、袁世凱は新建陸軍の建軍に参加したが、北洋陸軍の世襲司令官ではなく、いわんやカリスマ性をもって率いたのではない。民国時代、本人は「帝政」を夢見たことがあり、将兵の忠誠の対象になっていたかのように誤解した。
いわゆる北洋陸海軍とは、北洋通商大臣が戦時において指揮下に置くことが出来る軍隊である。そして直隷総督が北洋通商大臣を兼務するのが建前であった。清国では総督(直隷省を除いては二つの省を管轄した)が軍隊を統帥する。北洋陸軍とは、じっさいには、直隷省に衛戍地を設けている陸軍であり、北京は直隷省にあるので、首都防衛軍も含まれることになった。
ただし、近代的軍隊とは徴税能力のある政府によって給与、兵装が支えられることが必須である。中国においてもそれは例外ではなく、北洋軍は直隷省の省財政と国家財政により負担されていた。清国では官吏の任命権は皇帝または愛新覚羅家が握っていたのであって、北洋通商大臣も例外ではない。つまり清国時代、北洋軍は決して個人に忠誠を誓うものではなかった。ただし、もちろん皇帝や愛新覚羅家にたいしてでもない。そのときの直隷省と国家財政を握る者、すなわち北洋通商大臣という職に隷属していたのである。
辛亥革命が発生しても、中央政府や天津を本拠地とする直隷省政府は安定していたため、かつて北洋通商大臣であった袁世凱の下で、北洋陸軍も微動だにしなかった。そして袁世凱の肩書が「大総統」に変化しても、北洋陸軍は動揺しなかった。それ以降、大総統に隷属するようなったためである。
辛亥革命以降、北京政府に隷属する軍隊として北洋軍閥は発生したのである。
つまり、清国正規軍が大総統の私兵と化した。これがため南方派も含めて、あらゆる地方軍閥が、北京を占領することがあたかも中国全体の権力を獲得する近道であると考えた。北洋軍閥(大総統)は7代+1、16年間北京政府をつくり対外的に中国を代表した。
北京政府
7代とは、袁世凱・黎元洪・馮国璋・徐世昌・黎元洪・曹
・段祺瑞であり、+1は張作霖である。
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\ |
期間 |
大総統 |
国務院総理 |
外交総長 |
備考 |
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1 |
12/3-12/6 |
袁世凱
安系 |
唐紹儀 |
陸徴祥 |
「混合内閣」 |
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2 |
12/6-12/9 |
陸徴祥
梁如浩 |
趙秉鈞 |
「超然内閣」 |
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3 |
12/9-13/7 |
趙秉鈞 |
梁如浩
陸徴祥 |
宋案(宋教仁暗殺事件) |
|
4 |
13/7-13/7 |
段祺瑞 |
陸徴祥 |
2週間の短命 |
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5 |
13/7-14/2 |
熊季齢 |
陸徴祥
曹如霖
孫宝埼 |
「一流人材内閣」 |
|
6 |
14/2-14/5 |
孫宝埼 |
孫宝埼 |
中華民国約法施行 |
|
7 |
14/5-16/4 |
徐世昌
陸徴祥
徐世昌 |
孫宝埼
陸徴祥 |
21カ条要求
袁世凱帝政宣言 |
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8 |
16/4-16/6 |
段祺瑞
安系 |
陸徴祥
曹如霖 |
6月6日、袁世凱死亡 |
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9 |
16/6-17/5 |
黎元洪
直系 |
段祺瑞 |
陳錦濤
夏詒霆
伍廷芳 |
府院の争い(黎・段の争い) |
|
10 |
17/5-17/5 |
伍廷芳 |
伍廷芳 |
5日間の短命 |
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11 |
17/5-17/7 |
李経羲 |
伍廷芳 |
張勲復辟事件 |
|
12 |
17/7-17/11 |
馮国璋
直系 |
段祺瑞 |
汪大燮 |
孫文広州軍政府樹立 |
|
13 |
17/11-17/11 |
汪大燮 |
汪大燮 |
段の辞任に伴うつなぎ |
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14 |
17/11-18/3 |
王士珍
銭能訓 |
陸徴祥 |
段、張作霖と結ぶ |
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15 |
18/3-18/10 |
段祺瑞 |
陸徴祥 |
段の南征失敗
第二回選挙 |
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16 |
18/10-18/12 |
徐世昌
清朝官僚
安系 |
銭能訓 |
陸徴祥 |
南北和平会議 |
|
17 |
18/12-19/6 |
銭能訓 |
陸徴祥 |
5・4運動 |
|
18 |
19/6-19/9 |
心湛 |
陸徴祥 |
つなぎ |
|
19 |
19/9-19/11 |
雲鵬 |
陸徴祥 |
つなぎ |
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20 |
19/11-20/5 |
雲鵬 |
陸徴祥 |
直安奉の対立激化 |
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21 |
20/5-20/8 |
薩鎮氷 |
陸徴祥 |
安直戦争勃発 |
|
22 |
20/8-21/12 |
雲鵬 |
顔恵慶 |
直奉対立 |
|
23 |
21/12-21/12 |
顔恵慶 |
顔恵慶 |
ワシントン会議内閣 |
|
24 |
21/12-22/1 |
梁士詒 |
顔恵慶 |
張作霖主導 |
|
25 |
22/1-22/4 |
顔恵慶 |
顔恵慶 |
ワシントン会議終了とともに辞任 |
|
26 |
22/4-22/6 |
周自斉 |
顔恵慶 |
第一次奉直戦争 |
|
27 |
22/6-22/8 |
黎元洪
直系 |
顔恵慶 |
顔恵慶 |
南北宥和に失敗 |
|
28 |
22/8-22/9 |
唐紹儀 |
顧維鈞 |
唐紹儀は来京せず |
|
29 |
22/9-22/11 |
王寵恵 |
顧維鈞 |
羅文幹案 |
|
30 |
22/11-22/12 |
汪大燮 |
王正廷 |
10日間 |
|
31 |
22/12-23/1 |
王正廷 |
王正廷 |
直系反発 |
|
32 |
23/1-23/6 |
張紹会 |
施肇基 |
張は直系 |
|
33 |
23/6-23/10 |
ー |
高凌 |
顧維鈞 |
大総統不在 |
|
34 |
23/10-24/1 |
曹
直系 |
高凌 |
顧維鈞 |
国会で賄賂いきかう |
|
35 |
24/1-24/7 |
孫宝埼 |
顧維鈞 |
孫は清朝官僚 |
|
36 |
24/7-24/9 |
顧維鈞 |
顧維鈞 |
つなぎ |
|
37 |
24/9-24/10 |
顔恵慶 |
顧維鈞 |
第二次奉直戦争 |
|
38 |
24/10-24/11 |
段祺瑞
安系
(馮玉祥
親ソ
呉佩孚
直系
張作霖
奉系)
|
黄郛 |
王正廷 |
小清廷追放 |
|
39 |
24/11-25/12 |
ー |
沈瑞麟 |
「臨時執政」制 |
|
40 |
25/12-26/2 |
許世英 |
王正廷 |
許は責任内閣制を訴え辞任 |
|
41 |
26/2-26/4 |
賈徳耀 |
王正廷
顔恵慶
胡惟徳 |
大沽口事件(日本の駆逐艦砲撃さる)
三一八残案(排外主義学生天安門前で射殺さる) |
|
42 |
26/4-26/5 |
胡惟徳 |
胡惟徳 |
呉佩孚と対立 |
|
43 |
26/5-26/6 |
顔恵慶 |
施肇基 |
呉佩孚と張作霖対立 |
|
44 |
26/6-26/10 |
杜錫珪 |
蔡廷幹 |
軍閥抗争激化 |
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45 |
26/10-27/6 |
顧維鈞 |
顧維鈞 |
第一次北伐開始さる |
|
46 |
27/6-28/6 |
張作霖
奉系 |
潘復 |
王蔭泰
羅文幹 |
安国軍政府
張作霖爆殺をもって終焉 |

萱野長知『中華民国革命秘笈 附中華革命軍陣中日誌 支那革命実見記』 星雲社 2004
内藤順太郎『正伝袁世凱』博文館 1913
辛倍林『軍閥列伝』上田正一訳 学陽書房 1990
近藤邦康『辛亥革命』紀伊国屋親書 1972
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