アロー号戦争

アロー号戦争

アロー号戦争

阿片戦争が終了し、英中間で南京条約が結ばれ、それに続いてフランスと黄埔条約、アメリカと望厦条約が相次いで締結された。

南京条約第二条には「大ブリテーン・アイルランド女王陛下ハ監督官マタハ領事官ヲ任命シテ前記各市城ニ居住セシメ該地方ノ清国官憲ト右商人トノ間ノ通信ノ仲介者タラシメ下ニ定ムルゴトキ清国政府ノ税金及ビ料金カ適当ニイギリス国臣民ニヨリ納付セラルルヤウ監督セシムヘシ」とあった。

この条文からは、イギリス領事と清国官憲の間に対等な外交関係が発生するとしか読めない。ところが中国側は驚くべき解釈を持ち出した。すなわち、外事について代表する両広総督が、イギリス領事と面会せず、通信も北京に取り次がないといいだしたのだ。

イギリス人と中国人の間の喧嘩騒ぎがしばしば起こった。1845年、福州でも領事館通訳のパークスが駐防八旗兵に泥石を投げられた。

1848年上海西方の青浦でメドハースト"Medhurst"ら三人の宣教師が、貢米輸送船の水手によって殴打される事件が起きた。イギリス領事オルコック"Ratherford Alcock"が上海道台に抗議すると、排外意識の強い道台は「夷漢雑居して、平民が殴打事件を起すのは、犬が兎を追うようなものだ」と言い放った。これは些細な事件であったが、清国の官吏が民衆の排外意識を助長し利用する傾向は既に始まっていた。オルコックは、そのあと初代駐日本領事となった。そのとき、東禅寺事件に遭遇した。四カ国艦隊による下関攻撃事件に独断で参加、解任された。1865年に駐清公使に復職した。外科医出身であるが軍功もあげており、戦闘的と評される人物であった。

さらに広東では入城問題が起きていた。広東では南京条約締結直後から情勢は不穏であった。民衆が外国人を殴打する事件、十三行街における示威行動ののちの略奪事件が発生し、首謀者が斬首されるありさまとなった。1844年にはアメリカ国旗掲揚のための旗ざおも先端にあった風車が、「疫病流行の原因」であるとして民衆が騒擾した。

1846年には黄埔周辺で狩猟中のイギリス海軍将校が、一群の民衆に襲撃された。商務監督のデービス"Davis"は両広総督の耆英に広東城内における面会を要求した。それまで耆英は、英夷との交通を望まない道光帝に意を受けて、「多忙」を理由にイギリス人の城内入場を拒否していたのである。

耆英はここにいたって、「中国も外国も同じく一家であり、広東以外の開港地では入城を許したのに、広東だけ拒絶するわけにはいかない」という布令を出した。これは耆英の策略で、下僚には反英行動を引き起こすよう命令した。布令が城内に貼りだされた途端、その貼り紙は焼かれてしまった。ある土紳は、別の貼り紙をつくり、英夷撲滅を訴え、イギリス人との間の連絡の任にあたっていた広州知府を襲撃、知府署を焼き討ちした。

知府署では、群集が「役人どもは道を清めて洋鬼を迎えようとしている。きっと民衆を酒の肴にして食べるに違いない」とささやき合った。耆英の薬はききすぎたのである。

だが、デービスは民衆の騒乱に驚き、本国に訓令を仰いだ。本国は、入城は2年間(1849年4月まで)猶予すべきだとの意見であった。だが、1847年度中も外国人が歩行中、投石をうける事件が頻発した。耆英はこれを喜び、道光帝に「大勝利」と報告した。デービスもたまりかね、本国に報告すると「暴行事件については、事毎に賠償請求をなせ」との回訓があった。

耆英がこれを拒否すると、デービスは広東出兵を決定した。4月、珠江河口の砲台を陥落させ、英公館前に上陸した。耆英は屈し、暴行者処罰と広東対岸地の租借を認めた。

1948年2月、耆英は道光帝に呼ばれ免黜され、徐広縉が代わった。一方3月、デービスもボナム"Bonham"に代わった。ボナムは着任早々、翌年4月に迫った入城問題について徐広縉に照会した。ところが徐広縉は「耆英が2年後入城を約束したのは一時的便宜に過ぎず、広東の民衆は剽悍で、もし入城するようなことがあれば、官も到底抑制できない」と脅迫に近い言辞を吐いた。

1860年、広東近郊で撮影された中国「民衆」兵。木の盾と木の棍棒を装備している。旗や服は清国制式である。ただ、子供も混じっている。撮影情況は「ヤラセ」であろう。官蔵の武器を放出し、農民を徴募したものと推定されるが、このような兵装でどうして英仏軍に対抗を試みたのか疑問は残る。

ところがボナムはこの言葉をきいて途端に弱気になり、

「兵力で民衆を排除し入城して何の意味があるか」と思い悩むようになった。

ボナムは中国における民衆騒擾が全部、官の差し金とあるということに気づかなかった。9月、ボナムは徐広縉に面会したが、2年後入城の約束を反古にするといわれ、

"The question at issue rests where it was and must remain in abeyance."(問題はその辺りにあるんでしょうか、まあ保留にしておきましょう)と訳のわからぬことをいった。通訳の宣教師グツラフ"Gutzlaff"は訳に困り、「将来の解決に委ねるので、誤解なきよう」と伝えた。だが当然のことながら、中国側は広東入城を無期限に延期することを承諾したとうけとった。

「イギリスは入城権を諦めた」と徐広縉が上奏すると、道光帝は大いに喜び、

「かかる困難な交渉にあたって、顔色を変じることもなく、断乎たる態度を示して、ボナムを屈服させたことは軍功に匹敵する。広東土紳の徐広縉を誉めそやす手紙も多くきている。まさに10万の軍隊に勝るというべきだろう」と絶賛した。

一方、パーマストン外相はことの顛末をきいて、

「交渉にあたって曖昧な表現をとるな」と激怒した。そして、ボナムに次のように北京政府に通牒しろと命じた。

「北京政府は広東総督や民衆の排外感情を煽り立てている。英国政府が隠忍自重しているのは自らが弱いと思ったからではなく、その圧倒的な力を自覚していればこそである。いつでも広東城を屠ることは可能である」

これは明らかな脅迫である。だが、ボナムはその語気に驚き、1850年6月、商船レーナード"Reynard"をチャーターし、大沽に向った。だが、ちょうど道光帝が崩御し(1月)、咸豊帝即位間もない時期であった。その咸豊帝はまた比類なき排外主義・科学拒否の人物であった。北京近くまでくるという無礼を働くボナムの乗船が汽船ときくと、ただちに放逐せよと命じた。

道光帝の旧臣であり、南京条約を締結した穆彰阿【ムチャンガ】を免黜し耆英を降格した。

ボウリング(1792-1872,John Bowring)
エグゼターで服商人の子供として生まれた。13歳でロンドンに出て、セールスのためヨーロッパ各地を旅した。26歳になり独立して商売を営むが失敗し、著述業に移る。そのころ膨大な量の翻訳書を手がけている。

1821年、哲学者ジェレミー・ベンタムと知り合い、ウェストミンスター・レビュー誌の刊行を手伝い、政治部編集長になった。このころバイロンとも手紙を通して友人となり、ギリシャ行きを勧めている。バイロンがそこで客死するとラム酒漬けになった遺体はボウリングに寄託された。

1835年、自由貿易を支持するリベラル(ラジカル)に組して下院議員になった。そして、通貨10進法を推進した(もっとも全部ペンスに統一されたのは1971年であった)。だが、株式投資に失敗し、1848年に破産した。そしてパーマストンは債鬼から免れさせるため、1849年、広東領事に任命した。さらに1854年、ボウリングは香港総督に昇進した。その後の英シャム条約、アロー号戦争はボウリングの仕業といってよい。

1858年帰国後は、ユニタリアン教会の信徒総代の職務につき、熱心に伝道に参加した。この時代には若いころの金銭的失敗は忘れられたようである。語学については、100ヶ国語を喋れると豪語した。後世の研究者によると会話可能な言語が7、読み書き可能な言語が8ということのようだ。

ボウリングの信念は自由主義であった。あるとき「我々は人権擁護と宗教の自由の偉大な先駆者であらねばならない。ユニタリアンが軍隊の最先頭にたって戦うことは義務である。要塞を中央突破する決死隊でなければならない。そして自由の旗を掲げよう。『全てに自由を!全てに平等を!個人の判断による正義と義務を!』」と演説した。

ともあれ、ビクトリア時代の鬼才である。

イギリスでも変化が起きた。1850年、パーマストンが下野した。また1954年から56年の間、クリミヤ戦争が発生し、海戦は極東にも波及した。1854年、クラレンドン外相はボウリングを貿易監督官兼香港総督に任命した。

清国でも1852年、葉名が両広総督になった。

1854年、ボウリングは米・仏を伴って、葉名に条約改訂を要求、埒があかないとみるや、軍艦を伴って北上、上海をへて、8月下旬、大沽へ入った。清廷は低い身分の長蘆県塩政の文謙を派遣して交渉にあたらせた。咸豊帝は、

「(文謙は)英夷と接見するさいには、まずその驕慢な態度をへし折り、喋り出した途端に反論し、決して『はい』と返事してはならない。北京までの道程には、まず海岸に砲台を築き、白河に沿って防衛拠点を設け、天津の練軍が待っていると英夷にいってかまわない。いったん上陸すれば、無益かつ大損害がでるといってやれ」と指示した。同時に直隷総督桂領には、

「夷の頭目と軽々しく会うな」と命じた。

ボウリングは文謙が小賢しい理屈を並べ立てるのを聞きつつ、武力を伴わねば何事も成立しないと観念し、また結氷期までいるのは得策でなく、空しく帰還することを決意した。咸豊帝は、

「交渉によって英夷を撃退した。両広総督、巡撫はよく会談記録を読むように」と訓令した。清国皇帝は対等の外交を認めないのである。

アロー号事件

1856年10月8日、広東前面の海珠島に碇泊していた、英国旗をかかげたアロー号が突然支那官憲の臨検をうけ乗組員12人が拘引された。

パークス(1828-85, Harry Smith Parkes)
鉄工所経営者の息子としてスタフォードシャーのウォルサルで生まれた。子供のころ両親に死なれ、13歳で従兄弟のグツラフ夫人を頼り、マカオに渡った。そこで中国語を勉強中、阿片戦争が勃発した。

戦争末期、通訳としてポッティンジャーの幕下に入り、南京条約調印に立ち会った。そのあと開港地の領事業務開設準備のため、広東・アモイを移動し、福州の領事館員に採用された。ここの領事はオルコックであった。1849年、休暇でイギリスに戻り、ヨーロッパで外交業務を研修し、1951年、再び中国に戻り、領事通訳となりアモイと広東領事館に勤務した。1854年、アモイ領事補となり、バンコックにおける英・シャム条約の交渉を担当した。

1856年、中国に戻り、広東領事代行となった。そしてその10月、アロー号事件が発生し、葉名深と渡り合った。1857年12月、セーモア艦隊が広東城を砲撃、占領するとパークスは城内に最初に入り、葉を逮捕した。そのあとパークスは広東市占領委員となり3年間、広東を統治した。

1860年、パークスは北京に向ったエルギン艦隊に同行を命じられた。そして、講和条約のための予備会議をもつため通州に向ったところ、そこで記者などとともに中国側に捕縛されてしまった。10日間、北京の牢獄に入れられ、そのあと寺院に軟禁された。エルギンは報復として円明園を焼却した。解放後、広東に戻り、さらにイギリスに召喚され、バス勲章を受賞した。1865年、短期間の上海領事のあと、駐日本公使に任命された。当初イギリス公使館は高輪東禅寺にあったが、そこで攘夷武士によるテロを3回受けている。このポストには14年間いて、薩長を応援、イギリスをして日本における外交的地位第一位に引き上げた。今に残る半蔵門前のイギリス大使館敷地は明治天皇からパークスの活躍を賞して下賜されたものである。

1882年、駐清公使に任命されたが、マラリアに罹り、死亡した。パークスは「東洋人は強く出れば、必ず折れる」という信念をもっていたようだ。中国における経歴からすれば、当然であったろう。ともあれ、19世紀の外交官中、異色の人物であり、また一代の傑物であった。

駐広東イギリス領事パークスは、アロー号はイギリス船籍であるとして、直ちに隊長に乗組員をイギリス領事館に送致することを求めた。だが隊長が拒否したため、パークスは、葉名に、

「公然と加えられた侮辱は、公然と償われねばならない。乗組員を自分の面前に送致されたい。犯罪嫌疑があれば改めて、両国官憲によって審査すべきである」と抗議した。

葉名はパークスに返事した。

「アロー号は中国人所有船であって、イギリス船ではない。拘引した者のうち2名が海賊であることは明らかだ。さらに一人は厳重尋問の必要がある。残り9人は船に送還する」。「そもそも、アロー号は英国船籍ではない。もし英国旗が掲げられていれば、ただちに英国船だとすれば、英国旗をどこからか買ってきて、英国旗を船尾に掲げれば、みな英国船になってしまう」。

ここから押し問答になった。名は、国旗に関して帳簿がどうしたの類まで申し立てたが、理屈になっていない。国旗は必要条件であって、領事などの船籍国官憲の認証が十分条件なのである。パークスが英国船籍だといえば、名に反論の余地はないのである。ただ、14日までに話し合いがつかないことがはっきりした(じっさいにはイギリス人船長は登録料支払いをケチり、10日ほど前に船籍は切れていた。このことはイギリス議会でも問題になったが、重要ではない)。

パークスからの報告をうけ、ボウリングは武力行使を決め、10月23日、セーモアの率いるイギリス艦隊は出動した。だが、名は傘下水軍に戦闘をを命じず、自らは城内に1万以上の民衆を盾に立て籠もった。セーモア艦隊は城内に砲撃を加えた。名は、

「夷の目的は広東城攻略にある。英夷に約束を守り入城するなと説得したが、英夷は戦端をひらいた。だが、こちらは英夷との戦闘はしないという約束を守るので、うろたえることなく、敵愾心をもち続け、防衛だけを心がけよ」と布告した。さらに、イギリス人の首に懸賞金をかけた。

セーモアは砲撃を加えれば、名が交渉に出てくるのではないか、武力を示せば妥協するのではないか、とみたが、いっこうにその気配はなかった。そして、その隙に11月、中国民兵によって広東十三行街の商館は全て焼かれた。パークスは報復であるとして、広東城外約千戸を焼き、外国商館隣接の中国人店舗も破却した。1月、セーモアは引き上げた。

これをみて名は「大勝利」と上奏した。咸豊帝は、

「もし英夷頭目が連敗によって、損害が重大だと認識、後悔し、戦闘行為をいっさい停止するようであれば、名珍は自分の判断でさまざまな方策を講じて構わない。そうすれば争いの発端をなくすことができるであろう。ただし、英夷が戦闘的態度を改めないとすば、断じて講和するようなことがあってはならない。耆英の一味のように国を誤ってはならない。要求を認めればつけあがるだけである」と上諭した。

この上諭をうけとると名はつけあがり、

「英夷は民家に火をつけたが、風向きを誤って、自らが火をかぶってしまった。そして十三行街が焼亡したことにより、各国は英国に損害賠償を要求している」と上奏した。

咸豊帝は十三行街の焼亡に驚き、

「もし攻撃にでれば、敗亡させることは難しくないだろう。ただ外夷と戦うことは匪賊を取り締まるほど簡単ではない。以前、林則徐が『英夷は戦争能力がない』を誤って信じたことにより、戦端を開いてしまった。そして定海が失陥してからは連敗した。この例を参考にしないわけにはいかない。もし英夷の頭目が前非を悔いて和を求め、攻撃しないと約束するのであれば、自らの信じるところにより妥協して構わない。そうすれば再び戦火が起きることはない。但し、安易な妥協をすると、つけあがることも忘れるな。朕は一々指示はしない」と上諭した。

イギリスが前非を悔いる可能性はゼロであるから、これでは不可能問題である。

イギリス議会解散、総選挙

1957年2月、アロー号問題は議会で大論争を引き起こした。コブデンは、パーマストン首相の提出した政府報告書が立証能力を欠くとして、中国との貿易状態調査のための委員選任の動議を提出した。これは事実上の政府不信認であった。

この動議に、グラドストン、ディズレリ、ラッセル、セシル・ローズ(ソールズベリー)、リットンが賛成した。動議は上院で否決されたが、下院では可決された。パーマストンは直ちに下院を解散した。選挙戦中、パーマストンは、

「広東で中国の権力者は、野蛮にも、イギリス国旗を侮辱し、条約を破り、イギリス人の首に懸賞金をかけ、あらゆる方法でイギリス人を殲滅しようとしている。私と我が党は、友人的徒党を組む政治屋から非難された。もし彼らが政権を握れば、英国は野蛮人に謝罪し、賠償を支払うことになる。英国民はかかる愚劣なる政争を営む政治屋を支持していいものだろうか」と演説した。

2月、総選挙は施行され、保守党148議席(24万票)、自由党176議席(46万票)で、パーマストン自由党は圧勝した。このときは極端な二大政党選挙のようにみえるが、まだ近代的とはいえない選挙慣行が行なわれていた。すなわち限定選挙で、一選挙区2000票程度であるから、候補者演説会で選挙人が500人程度集まるのは普通なため、それで候補者選考がなされた。自由党はこの段階ではパーマストン派(ラジカル)・ラッセル=コブデン派(ホイッグ)・ピール派に分裂していた。だが、演説会で少数しか集められなかった候補者は多数派に事前に譲り、最後は自由党候補者一人となった。まだこの時代は、党首=首相が「公認証書」(クーポン)を出すことはなかった。

また、得票のわりには保守党の議席数が多いのは、選挙区が田舎に片寄っていたためだ。

イギリスの広東城攻撃

パーマストンは総選挙圧勝を知るや、3月3日、清国に宣戦を布告した。

パーマストンは直ちにエルギン"Elgin"を全権大使に指名し、清国との紛争いっさいの処理を委任した。またフランスとアメリカに派兵を誘った。フランスは、1856年2月の宣教師シャブドレーヌが、広西省西林県の知県の命令によって、斬首された事件の報復を考慮していた。フランスは犯人処罰を要求したが、名は、「多忙」を理由に面会を断っていたのである。イギリスの申し入れは渡りに船であった。

一方、アメリカも条約改訂を名に要求していたが、1857年に新大統領となったブキャナンは武力行使を拒否した。

エルギンは直ちにロンドンを出発したが、折からインドでセポイの乱が発生し、足止めされた。1857年8月、ようやく2900人の兵を率いて香港に到着した。そして10月、フランス全権グロも到着した。そのあと、アメリカ公使リード、ロシア公使プチャーチンも到着した。1857年12月、英仏連合軍4000人は香港を出港し、直ちに広東城攻撃に向った。

アメリカ全権委員"Commissioner"リードは、名に調停を試みたが、

「どうせアメリカも英仏の仲間だろう」といって調停を拒絶し、その一方、広東城の防衛力も計ることもなかった。名は非武装・外交拒否という驚くべき態度をとった。

12月12日、エルギンは、広東入城許可などを認めれば、10日間は広東への攻撃を猶予すると名に連絡した。だが、名は直ちに、

「条約とは万古不変である。アロー号はイギリス船でない。シャプドレーヌは反乱幇助をなしたので斬首は当然である」と返事した。

12月28日、英仏軍は広東城攻撃を開始した。名は皇帝に、

「イギリスは武力行使に積極的でない。もし私が堅持すれば、英夷は進退極まって屈服するだろう」と上奏した。咸豊帝は感服し、大いに褒めた。

翌日、城門は爆破された。広東巡撫柏貴は何か譲歩し和を講じるよう勧めたが、名は、

「堅持あるのみ」と答えた。イギリス兵は広東城内の捜索を開始し、夜間、左都統署で発見した。名は動こうとしないため、両脇をかかえて、船にのせた。そのあと黄埔で汽船に乗り換えさせられ、カルカッタに幽閉された。1859年、葉名は病をえて、その地で死亡、イギリスは遺体を栄誉礼をもって広東に送還した。

「不戦不和、不守不死、不降不走、戦わず和議にも応じず、防備も固めなければ自殺することもなく、降伏せず逃げることもない。このように立派な気構えで、大きな抱負をもつ朝臣は過去みたことはなく、ただ今いるのみである」と地元民は囃した。だが、ただの愚か者であろう。

第一回遠征

葉名が拉致され、広東城失陥が広東省巡撫柏貴から報告されると、咸豊帝は自らの命令をまるでロボットのように墨守した葉を「融通が利かない」と非難し、後任に黄宗漢を任命した。そして柏貴に、

「英夷と法夷とよく議論し、もし彼らが頑なで広東城を引き渡さないのであれば、周辺の県城から民兵を徴募して、一気に夷を駆逐せよ」と諭した。

1858年2月、エルギンとグロは香港を出港、北上を開始した。リードとプチャーチンも同行した。途中、上海に寄港したが埒があかず、4月14日、白河河口に到着した。これより以前、咸豊帝は、英仏艦隊の北上を知り、大沽口防備強化を命令していた。

5月20日10時、英仏艦隊は大沽砲台への砲撃を開始、11時までに陸戦隊が上陸、砲台を占領した。大沽砲台には200門以上の海岸砲、3千人以上の守備隊がいたが、ほとんど抵抗でいず天津方面に逃走した。英仏艦隊はそれを追って、白河を遡行した。エルギンは、5月30日、天津に到着し全権使節の派遣を要求した。

耆英(1790〜1858)
清の宗室出身。字は介春。満洲正藍旗人。順調に官僚の道を歩み、1825年、内務府大臣になった。1829年、礼部尚書・都統に上った。1838年、盛京将軍。阿片戦争が始まると1842年、広州将軍。まもなく奕経が浙江で敗れたため、代わって杭州将軍となった。伊里布とともに欽差大臣となり、イギリスのポッティンジャーと南京条約の締結交渉にあたった。

1843年、両江総督。翌年、広東で通商章程を交渉し、虎門条約を締結した。1844年、アメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を結んだ。1848年、大学士に任ぜられた。1850年、咸豊帝が即位すると、免黜された。1858年、桂良らとともに天津におもむいて、英仏連合軍と交渉した。まもなく命令を待たず北京に帰ったため、咸豊帝により処刑された。生涯、官僚以外の経験がなく、いかにも視野の狭い人物である。

咸豊帝は、英仏軍到着をきくと、大学士桂良と吏部尚書花沙納【ファサナ】を欽差大臣に任命して、天津に派遣した。そして別に耆英をこの両名とは別に派遣した。しかも、

「まず桂良と花沙納が、夷と議論し、第一の結論を出す。だが、不満なところもあるだろうから、耆英が口を出し、いくらか譲歩させたうえで、完全なものにせよ」と密命を与えた。

小賢しい交渉テクニックであるが、咸豊帝は本気なのである。そして関防印を耆英に与えた。これは、耆英が残り二名の上にたつことを意味した。

天津和約

6月4日、エルギンは桂良らと天津城外海光寺で会見した。これから後は、副通訳のレイ"Horatio Nelson Lay"があたった。レイはイギリスの要求として次の7項目を示した。

  • 使臣の北京駐在
  • 軍費と広東事件に係る賠償
  • パスポート携帯のイギリス人の内地旅行権、揚子江の通商開放
  • キリスト教宣教師の保護
  • 税率表改正についての委員任命
  • 海賊鎮圧のための協力
  • イギリス中国宛公文の英語採用、条約文について英語を正文とする

レイはとりわけ使臣の北京駐在が重要であると指摘した。そして、英仏軍が北京に進軍するようなことがあれば条件はさらに過酷になると警告した。

桂良は「使臣の北京駐在」と「内地通行権・揚子江通商開放」の2点を除いて口頭で了解した。

6月8日、耆英は天津に到着し、エルギンとグロに面会を求めたが拒絶された。そのうえではというので、6月10日、桂良らとレイとの交渉に帯同した。

ところがこの日、咸豊帝から耆英に

「桂良らが上奏してきた承諾すべき諸点について、すべてまかりならん」と諭してきた。

耆英は、レイが二人に口頭で了解した5点について書面で了解せよと迫ったとき、慌てて制止した。するとレイは、

「いかなる策略でそのようなことをするのか」と詰問し、耆英が1850年に書いた『中国弁理夷務』をテーブルに広げた。それは広東城で発見されたものであった。そこには、

「外国人を操縦するには。さまざまな機略が必要である。あるときには『軍容を荘にして威圧する』、あるときには『平等の礼で交際を許し感動・喜悦させる』、あるときには『外夷の策謀・詐欺を見抜きながら、見過ごしたフリをする』、『深く事の軽重を争そわない』などして事態を破局に導かないようにする。また、いったん平等の礼で交際を許し、次に排斥したり面会を拒否したりして動揺を誘う」と書かれていた。

エルギン(James Bruce, 8th Earl of Elgin, 1811-1863)
スコットランド系貴族である7代目エルギン卿の次男として生まれた。父もまた植民地官僚として有名な人物である。イートン、オックスフォード(クライストチャーチ)で教育をうけ、政治学において優秀な成績を修めた。1840年、サザンプトン選挙区で下院議員に当選した。ピーライト(保守党ピール派)に属したが、当年兄が死に、翌年父が死ぬという不幸に見舞われ、伯爵位を継承することになり、下院議席を断念した。1842年、ジャマイカ総督、1847年カナダ総督となった。そこでは、英系住民と仏系住民の暴力的対立があり、エルギンは仏系住民の権利擁護にまわった。そして、総督の役割を後退させ、1848年、実質的に自治政府をたちあげた。これは最終的にカナダがアメリカに併合されなくなった処置とも評することができる。1854年、イギリスに戻ったが非政治的活動に終始した。アロー号戦争や日本との通商条約締結でも重大な役割を果たし、1861年、インド副王に任命された。だが着任して翌年、心筋梗塞によりインドで客死した。

エルギンが怒って耆英との面会を拒否したのはこのためだったのである。桂良は驚いて、咸豊帝に、

「どうも英夷は、以前の交渉で、耆英から愚弄されたと思っているようだ。報復の意図は明らかであり、それについての中国側損失については予測しがたい。耆英がいることは交渉上不利になりかねない。したがって、耆英を北京に戻し、外夷の行動について報告させるのではどうか?」と上奏した。

耆英もイギリス人が我を恨み、嫌っていると感じ、桂良の上奏を知り、直接北京に帰還した。

だが咸豊帝の反応は、

「朕の命令をないがしろにするものだ」と耆英の無断帰京だけを責め、続けて、

「どうして耆英は上奏のあと、勝手気ままに、『重大事を説明したい』とだけいい帰京するのか?そして、『どうして面会ではなく、文書で報告しないのか?』と耆英に尋ねると、『墨筆の形にするのが難しい』と答えた。天津で交渉せよという命令をうけ、重大事が発生し上奏の必要があったとして、文書で報告できないような機密とはあるのだろうか?命を失うのが怖くなったのではないか?自分勝手に職場を離れ、罰をうけても免黜されるのが関の山と思い、要は、家で悠々としたかったのであろう」といった。

耆英は自分の存在が交渉上不利になると感じ、当然のこととして帰京したのである。これにたいし咸豊帝は、夷人は気に入らない外交交渉の相手方を殺害するとみなしていた。その現れで、耆英はイギリス人から嫌われたので、殺害されることを怖れたと邪推したのである。まったく外交を理解しようとしない皇帝だった。外交の結果における国益よりも、個人的な感覚を重視したのである。

咸豊帝は叱責するのに止めず、空いていた紫禁城の一室に閉じ込め、耆英に自殺を強制した。

だがイギリス側は、このような経緯はいっさいわからない。そのうえ、今回の遠征は、イギリス議会を解散したうえで民意を問うて決定しているのである。もとより議会対策上もあって、中国側への要求が過大なものであってはならず、エルギンも初めから最低条件のものとして俎上にのせたのである。

交渉ははかどらず、イギリス側はいっさいの妥協を拒絶した。6月17日になると、咸豊帝はイギリス軍の北京進撃を食い止めることが最重要と思い始め、

「桂良は、北京駐在と内地旅行権について、後日ならば可ではないかというが、それでも後日問題となるのは必至である。ロシア公使を篭絡して、イギリスに交渉させるのはどうか?イギリス側は、桂良に気を許し始めているようだ。もしロシア公使にいわせて失敗すれば最早、認めるしかない。とにかく目先、決裂させてはならない」と諭した(潘頤福『東華録』)。

だが、イギリスの事情を知悉しているプチャーチン公使は、イギリス側と話そうともしなかった。そして6月21日、イギリス側が暫く交渉を続ける意図があるとしるや、

「鎮江の開港は暫く待てないか?というのは連年戦火を浴び疲弊している。民衆と外夷との衝突も予想される。総じて揚子江沿岸の開放は民衆の生業圧迫の可能性がある。外夷の内地通行もそういった点で不安があうことを知らせしめよ。またもし、使臣が3年または5年に1回、北京を訪問することができれば北京駐在の必要はないのではないか?もちろんロシア人のように、留学にきた学生が中国風の衣装を着て、中国風の礼節に従えば問題はない。イギリス人には何の益もないとは思うが」と咸豊帝は前言を翻し、諭した。

一方6月13日、ロシアは、英清の交渉が長引くと、北京常駐と内地通行権をあきらめ、さっさと条約を締結してしまった。これは5月28日に愛琿【あいぐん】条約が締結され、プリアムール州と沿海州の広大な領土割譲をうけたためではない。咸豊帝はこれを知ったうえで、プチャーチンを利用しようとしたのだが、愛琿条約は現地交渉で成立したため、ロシア側の回訓が間に合わなかったようである。プチャーチンは、最恵国待遇(もしイギリスが有利な条約を締結すれば自動的にその内容が露清条約にも均霑される)条項を得て満足したようである。

また、アメリカとフランスも、北京駐在と内地通行権を除き、最恵国待遇条項挿入で満足し、6月23日までに条約を締結した。

だがいっこうにイギリスは屈しなかった。エルギンはレイを従えて、6月26日、桂良らと会談し、7項目、56カ条全てを承諾させた。

それとは知らず、28日咸豊帝は、

「ロシアやアメリカは、北京駐在を断念した。イギリス公使が北京にきて三跪九叩など中国の礼節に従い、毎年1回を超えず、長期滞在しないというのであれば、イギリスにも認めてよい。その場合、軍艦で天津に乗り入れたりせず、条約を援用したりせず、入京の節は事前通告し、公館はこちら側が準備することでなければならない。開港については商船の入港を許すにすぎず、岸上に洋館を建てたり、銃砲を携帯したり、軍艦で入港したりすることではない」と桂良らに諭している。

エルギンも桂良の調印では納得しなかった。引き続き皇帝が了解したとの書面をみせること、さもなくば北京に進撃するとした。咸豊帝は驚き、7月3日、

「桂良らが関防印を押捺した条約について、批准しないことがあるだろうか?桂良らによると朕自らの書き込みのある書面が必要だとしているようだが、すでに『議論に従い』と書き込んだところである。これで長く平和を維持し、夷人を懐柔できることを期待する」と上諭し、書面を発送した。

エルギンはこれで満足し、7月6日、天津を引き上げ、上海に向った。そして、日英修交通商条約の調印とエンペラー号贈呈のため、日本に向った。

エルギン卿の中国と日本への派遣記録

咸豊帝やその廷臣は、外夷に武力で抗し得ないことを承知しながら、三跪九叩などの屈辱的な「中国の儀礼」を要求している。そして、ロシア人の歓心を買うため、広大な領土をあえて割譲した。そして公使など外交使節が互いの首都に滞在することは互いの外交努力の便宜のはずであり、かつヨーロッパでは常識とされていた。この時代の中国人はヨーロッパ外交について十分な知識をもっていた。そのうえでの、皇帝の上諭をどう理解すべきなのであろうか?

第二回遠征

外夷が京師から消えると咸豊帝はまた強気になった。

1858年11月、桂良に「北京駐在・内地通行・揚子江交易・広東城回復の4条件を挽回せよ」と命令した。だが、桂良からみてこの4条件は同時には困難であり、また広東回復は批准があれば達成できると思った。すると軽重をつければ北京駐在の停止が喫緊の課題となる。

一方、英仏は批准が1年以内であるので、全権使節としてブルース"Bruce"とブルブロン"de Bourboulon"をそれぞれ任命した。

咸豊帝はさらに、天津和約の条文に反し、批准書交換を北京ではなく上海で実行せよと命令した。

ここまでくると咸豊帝の意思ははっきりわかる。すなわち天津和約に調印したことは、すべて外夷を去らせるための策略であって、履行する気がそもそもないのである。

1859年6月6日、ブルースらは上海に到着した。桂良は早速、ブルースに会見を申し入れた。だが。ブルースはマームズベリー外相から、中国側は北京入場をあくまで拒むだろうが、絶対にうけいれず、北京で批准書を交換せよと厳命されていた。ブルースは拒否するしかなかった。

咸豊帝は、ブルースの拒絶をきくと桂良に

「北京に進むことは絶対に許さない。4条件挽回は必須である。もし夷船が天津にきたら、必ずや桂良の責任を問うことになり」と脅した。

一方で、防備強化もしつつあった。僧格林沁【サンゴリンチン】をして大沽砲台を修築し、ロシア輸入砲をとりつけ、白河に木柵をたて内地侵入を防ぐ防備をなした。

イギリス艦隊は小規模のうえ、艦隊司令官は猪突猛進する男であった。防禦柵を突破しよとするとき、巧みに隠蔽された砲台から砲撃を加え、大損害を与えた。1859年5月25日、白河水戦では、戦死者89人、負傷者345人を出した。これは中国におけるイギリス軍最大の損害であった。

白河で大敗したあと英仏艦隊は上海に退いた。だが、ブルースもブルブロンも、北京で批准書を交換するために、小規模の艦隊で大沽に向かい、障害除去中、砲撃をうけたという認識であって、敗北感など更々なかった。

1860年2月26日、ブルースは上海で、両江総督何桂清に最後通牒を交付した。内容は4項目からなり、

  • 大沽事件への謝罪
  • 北京で批准書を交換するため自国艦船でいくことの保障
  • 天津条約の完全な履行
  • 大沽事件ほかの賠償金

であり、30日以内の回答を求めた。だが、咸豊帝4月、何桂清に諭旨を下した。

「英仏両国には道光年間から、5口開港が認められた。通商は好調であり、十数年間平和が維持され戦争がなかった。ところが1857年になって、理由なく広東を侵略し、翌年天津を攻撃した。桂良の指導によって条約を成立させたが、昨年また天津を攻撃して、防備施設を破壊した。初めに攻撃し、勝手に将兵を失ったことは、自業自得であり、中国に責任はない。ただ何桂清の上奏によれば、中国や外国の商人の商人は商売が不振となることを恐れ、再度戦争が起きることを怖れているようだ。

ブルースもこの事情を知るべきであるし、天津和約の修正にも応じるべきである。もしブルースが悔やみ反省していないのであれば、何桂清も恩義を与える必要はない。

もしブルースが心底から平和を望むようであれば、朕は商人どもの立場を憐れみ、請うところを許さないわけでもない。道光年間の条約では、権限の限定された吏臣同士が、通商について話し合い、中央政府の許可を求める形式を定めた。

何桂清は上海において議論し、英仏人一行を北にくることを防がねばならない。もし再び白河河口にくれば、必ず攻め滅ぼすことになろう」

咸豊帝は、外交とは吏臣が適当な和約を結び、それをもって外国との武力紛争を免れることであるとみなしていた。天津和約のさい、自ら承諾したことについては、まった触れていないのである。外交を国内政治のやり方の延長線上で可能であると考えたのであろう。中華皇帝は「綸言汗の如し」(君主のいったことは取り消せない)ではなかった。

英仏両国は、三度大沽に向かい、北京にも進軍する準備を開始した。イギリスは、エルギンを再び全権、グラントを陸軍司令官、ホープを艦隊司令官に任命した。一方、フランスは、グロを特命全権、モントーバンを陸軍司令官、シャールナを海軍司令官に任命した。イギリスは、今度は本気であり、陸軍兵士を1万人動員した。フランスも8千人であった。

第三回遠征

英仏連合軍は8月1日、大沽を無視して突然北塘に上陸した(白河河口には、北塘・塘沽・大沽という三つの町があった)。

そのあと、海岸線の沼沢地を通って、南に向かい、塘沽を簡単に占領した。これによって、大沽は背後から脅かされた。守備にあたっていた僧格林沁は、守備は困難であると伝えた。咸豊帝は場合によれば、通州まで撤退することを許した。

直隷総督恒福は、8月6日、エルギンに、

「いっさいのことを商議する諭旨があった。会談の日時と場所を定めたい」と申し入れた。

8月12日、僧格林沁の騎兵部隊は北方から北塘方面に突出、新河で戦いが発生し、清軍は大敗した。8月14日、大沽対岸の唐児沽【とうじくう】は占領された。恒福は、商議の準備はできているとして、軍事行動の停止を呼びかけた。エルギンは最後通牒への回答ではないとして攻撃を続行した。

14日、15日、恒福はエルギンに北京で批准書交換ための儀式の準備ができているとエルギンに連絡した。だがこのとき、清国側には2月26日のブルース提案を受け入れる意志は、まったくなかった。

8月16日、恒福は、エルギンに再度会商を申し出た。しかし、英仏とも、大沽、天津まで軍を進めると、北塘における会商を拒絶した。だがその日、清廷は、西寧弁事大臣文俊、武備院卿恒祺を北塘派遣、批准書交換のため入京するための使臣の護送を命じた。

桂良は、英仏の大軍をみて抗することはできないとみて、条件を全て呑む前提で皇帝の許可を求めた。だが、咸豊帝は強硬であった。

「決裂を恐れることはない。今は戦う時期を選び、どのように終了させるかを考えるべきだ。桂良は誤って、将来取り返しのつかないことをしてはいけない。外夷は猛り狂っており、話し合いで説得することは難しい。必ずや北に侵攻する。戦いの決心をなせば、交渉上も有利となる。憚る必要もなくなる。もともと外夷が悪いのであるから、本件について桂良を責めたりはしない」

8月20日、大沽砲台は陥落した。

大沽砲台。8月21日に撮影された。英軍は榴弾・榴散弾を使用した。

8月25日、桂良はエルギンとグロに、「恒福と共同して、いっさいの条約交渉を議事する権限と関防印を受領した」と連絡し、31日に天津に到着すると連絡した。この日、ホープは天津に無血で到り、恒福を艦上に招き、「天津を統治下におき、パークスを臨時行政官に指名する」と伝えた。

エルギンも、8月26日、天津に到着した。桂良と恒福は、「天津条約の完全履行、3月8日の最後通牒受諾、軍事賠償金の支払い方法協議」を直ちに申し入れた。

エルギンは桂良の提案が和平の前提をなしていると認め、「満足であり、協定案策定のうえ軍事行動の取り止め、天津条約批准書交換、女王親書のための入師」を伝えた。そのうえで9月5日晩、ビクトリア女王の親書奉呈の手続きについて照会するとともに、賠償金については多少減額する提案を恒祺に与えた。このとき恒祺は、8日には調印できるのではないか、と話したという。

桂良は、事態は好転しつつあるとみなし、早速内容を上奏した。咸豊帝の強硬な姿勢は変わらなかった。

「思うに、桂良と恒福は両目ともふさがっているのではないか?英仏が戦闘を停止するというが、本当に自信をもって、そういうのか?」「僧格林沁が士気が落ちることを警戒し、講和を主とすることに反対することは当然である。だがそれとは別に平常心をもって、和を講じることも必要である」。

これでは、両義にもとれる。

ウェードとパークスは8日、恒祺邸を訪問し、エルギン提案を示した。

  • 中国皇帝は、前年のイギリス使臣の入京を大沽で妨害したことを謝罪する
  • 英女王は使臣の北京常駐または随時入京の選択権を得る
  • この協約成立後、中国政府はイギリス使臣の入京のための準備を行なう
  • 天津和約はこの協約に定められた点を除き、批准書交換とともに直ちに発効する。この協約の発効は批准手続きを要しない
  • この協定調印後、直ちに天津河口は開港する
  • 天津和約で定められた以外に、中国はイギリスに800万両を支払う
  • 天津和約批准書交換のあと舟山列島から撤退し、100万両支払いとともに大沽、天津地区から撤退する。賠償金が全額支払われたのちは広東全域から撤退する
  • 中国皇帝は天津和約が発効したことを地方官に告諭して、遍く、人民に徹底する

だが、恒祺は猛反発した。

「批准交換の手続きをなさずに、効力を発する」など、いずれの中国人もなしえないことだというのである。パークスは、

「そういうことをいうのは全権がないためではないか」と指摘し、押し問答となった。すると奥から病気で臥せっていたと称した恒福がでてきて、関防印をもっていると、現物をパークスにみせた。パークスは、

「それであれば捺印すればよい」というと両者は押し黙り、全権を保有していないことが明らかになった。この事態をエルギンに報告すると、

「彼らは欽差大臣であると、あたかも皇帝から指しまわされた使節であるかのように自称したが、全権があるかのようにみせて、我々を欺くのが目的だろう。協約ができあがり調印する段となれば、やはり上奏し許可を求めればならないといい、時間稼ぎを狙っている。おそらく越冬が難しいとみてのことだ」と激昂し、グロに会談内容を伝え、通州まで前進することで一致した。

桂良は直ちに「200万両など、2カ月の海岸防衛費にすぎず、天津開港など現に占領されているのだから認めてもよいのではないか」と上奏した。

だが、咸豊帝は強硬な上諭を下した。この上諭が以降の戦闘を決定的づけた。

「中国は天下そのものであるが、蠢く害虫のような外夷によって災いをうけて、すでに20年になる。戦いは困難であり、誠に嘆かわしい。だが、国家を経営する者は、なるべく長期の計をなし、変化に対応せねばならない。それには要点を的確に理解する必要がある。決戦は早くても遅くとも宜しくない。軍令に従って、我が長所を利用して、敵の短所をつくしかない。もし、翌年になれば、敵は黒夷(インド兵)を募って、4国総力で攻めかかってくるだろう。再度、長髪賊(太平天国)と誼を通じて、遠攻近攻をなすだろう。これでは、兵力や費用がいくらあっても足りない」。

9月9日を期して、英仏軍は天津を発ち、楊村に向かい、11日に到着した。咸豊帝は、

「朕自ら軍隊を率いて通州にいき、天討によって、迎撃する」と朱で書き込みした。だが、勇ましいことをいっても、自信がなかったのか、桂良らを免黜した。そして新たに、怡親王載垣と兵部尚書穆蔭を欽差大臣に任命した。

楊村では、載垣と穆蔭が「桂良らが咸豊帝の意図を承知していなかったため、代わって我らが交渉を担当する。あわせて河西務に清国軍が集結中である」と書簡をおくったが、エルギンは通州到着までは交渉に応じないと返答した。英仏軍は、13日、河西務に到着した。9月15日、咸豊帝は、

「英仏軍が批准書交換のため兵隊を連ねて、首都郊外まで接近というのは、何を目的としているのかわからない。思うに、決戦終了後、外夷が後悔するところがあれば、種々の点で議論すれば、中国も譲歩するとが可能だろう」と上諭した。咸豊帝の(自信がないながらも)好戦的な態度は一貫していた。

9月14日、前日河西務を出発したパークスとウェードの先遣隊は、通州に到着した。両名は東岳廟で載垣と穆蔭に会見した。エルギンは、このときすでに、中国側は屈服しており、北京入城の具体的な打合せでしかないとみなしていた。載垣も、2月26日要求や最後通牒の内容については認めた。だが、記名・調印の方法、すなわち通州に英仏軍が兵装を解かずにくるか、また北京入城の目的、皇帝への親書提出では、なんとも譲らなかった。そして、英仏軍の張家湾手前での停止を要求した。パークスはエルギンに内容を復命したが、中国側がなぜ二つの点で強硬になるのかわからなかった。

軍使拉致

英仏軍は張家湾南方5支那里の野営地点に向け前進を続けた。エルギンはパークスに停戦ライン策定と糧食徴発について中国側と交渉することを命じ、17日再度通州に向わせた。

パークスが本題に入る前に、載垣は国書親呈についてあくまで反対であると固執した。そこにフランス使節ドバスタールも現れた。載垣とパークスは午後6時に交渉を再開した。そこで載垣は

「国書問題については、パークスはエルギンの了解がなくとも自らの判断で決定できるのではないか」といい、パークスは「自分はたんなる通訳だ」と反論した。そしてパークスは、国書問題を留保して、「張家湾における糧秣庫の設定のための中国側委員の選定、民衆への布告文の検討、エルギン卿の大行李のための馬車準備」などについて合意され、午後8時には交渉はまとまったものと思い、別れをつげた。パークスは通州で仮眠をとり、18日午前8時、張家湾南方に向おうとした。

すると張家湾南方方面の街道両側には清国兵が充満していたため、本隊に一報を入れるとともに、通州に戻らざるをえなくなった。だが、載垣はパークスに

「自分一人の判断で、決定できるにもかかわらず、決定しないのである」といった。これでは埒があかぬとみてパークスは、26名の随員・兵士とともに辞去しようとしたが、捕らえられてしまった。載垣は咸豊帝に、

「パークスが僧格林沁の官兵を撤退させるよう要請してきたので、事情を説明したが、納得せずその場を逃走しようとした。直ちに僧格林沁に連絡し、開戦させ、擒【とりこ】にした」と報告した。パークスは捕らえられたのち僧格林沁の前に突き出され、打擲【ちょうちゃく】された。

さらに通州に残っていたドパスタール以下13名も人質となった。

英陸軍司令官は僧格林沁の張家湾南方への前進を知り、また至急をつげる伝令から急を知り、直ちに前面の敵との交戦を決意した。そして数時間の交戦のうち撃破し、張家湾を占領した。河西務にいたエルギンも、中国の不信行為に怒り、北京占領を命令した。

9月21日、英仏軍は八里橋において、僧格林沁の部隊に大勝し、潰走させた。清国軍は部隊の半数を失ったという。

この交渉団拉致事件の真相はどのようなものであろうか?

じつは9月7日、咸豊帝は載垣らに、通州においてパークスとウェードを拉致することを命令していたのである。なぜかといえば、パークスとウェードは中国語ができたため、英仏軍総司令官と誤解してしまったのである。中国人政治指導者は、中国以外を知らないため、中国語ができる者が全能と信じてしまうのだ。

「パークスとウェードは英夷の首謀者である。また明常(内通者と思われていた)とも背後で連絡しあっているようだ。ゆえに、パークスとウェードとその随員を通州で拉致し、配下と連絡する道を切断し、戦勝のあと講和を有利にすすめる材料として使い、そのあと放免せよ」

このように、パークスらの拉致は皇帝自ら係った犯罪行為であった。

恭親王奕(1832〜1898)
道光帝の第6子で咸豊帝の弟。咸豊帝即位後、恭親王に封ぜられた。アロー号戦争のあと辛酉政変を自ら首謀し、東太后・西太后の摂政のもと議政王大臣に任命された。また軍機処・総理衙門の大臣として内治・外交を掌握し、曽国藩らを採用、太平天国の乱を鎮圧し、同治中興と言われる平和を実現させた。1865年、西太后から遠ざけられ、いったん失脚した。その年、軍機大臣に復したが、1884年一切の官職から退き引退した。しかし日清戦争が起こると、三度、軍機大臣になり、戦争を指導した。1898年、軍機大臣在職中に亡くなった。自宅は現在でも北京で名園として保存されている。

9月22日、咸豊帝は、八里橋の大敗北をきいて北京防衛は不可能として、「木蘭秋猟」(秋の定例狩猟)と称して、熱河省常徳にある山荘に遷幸した。一方、載垣と穆蔭を解任し、代わって、皇弟恭親王奕【えきぎん】を欽差便宜行事大臣に任命した。

エルギンも八里橋に到着したが、性急な攻撃は人質の安否に係るので、交渉の道を探ろうとした。だが奕は使者が報復として人質に捕られることを怖れた。エルギンは奕を待ったが、9月25日ついに、3日ののち北京を総攻撃するとの最後通牒を声明した。

このとき奕は北京城外にある円明園に隠れていた。奕は、

「私は皇族に属している。皇帝からとくに派遣されて交渉を任されているのであって、従前の大臣とは権限が違う。天津和約については全部認める。国書奉呈の件については、もし貴大臣が来京するのであれば、適当なところを選び、香炉をのせた机を挟んで、私が国書をみて、考案し、そして敬意を払う。前に通州で捕縛した者については、貴国の職責や人種によって分別し、安置している。病気の者は治療し、好待遇につとめている。もし貴国が北京を攻撃するのであれば、我が守備兵やその家族も城内にあり、城外とは比較にならない激戦となるだろう。それに加え城外にも、将兵が待ち構えている。もし強攻すれば、貴国の捕虜は、先行して害をうけることになる。また大軍が城内に入ったとしても、いつまで駐兵が可能だろうか?」と人を介してエルギンに手紙をわたした。

内容は愚かしいというほかない。使者を捕縛し人質とし、殺害しないので、攻撃しないで欲しいと依頼しているのである。このような人質交渉をされて、応じる国家はあるだろうか?

このとき、僧格林沁・瑞麟・勝保・綿勲・伊勅東阿が率いる部隊は士気は沮喪し、将領も兵士も、

「刀槍・弓箭でどうして敵の砲火に抵抗できるのだろうか?」と口々にいいあっていた。

エルギンは奕に、

「手紙をみたが、一つとして要領を得ない。すでに3日間の期限は過ぎた。このようなことでは、局面打開の意志があるとは思われない。陸軍司令官のアドバイスをきき、そのようにする積もりだ」と回答した。

また、奕は「天津和約」については全部認めるといっているが、これは本心ではない。これが中国的交渉術であるが、いったん認めるとみせかけて、相手が兵を引くことを期待しているのである。もし、前面に兵がいなくなればまた居丈高になり、理由をつけて認めないといいだす積もりなのである。

また、イギリスは国書奉呈については重要な問題と初めからみていない。このようなことを否定することは誠意をもって批准書交換する意思がないと疑った。批准書交換とは対等の国同士であれば事務上の手続きである。ところが中国は、事務上の手続きを否認することにより、署名された条約を否認するのを常套手段としていた。それゆえ、何か儀式をやって、互いの誠意を示すしかあるまいと考えた。そうすれば、国書奉呈により、至上の皇帝がコミットしている外観を、諸子百官にみせることができる。

10月3日、英仏軍は前進を開始し、フランス軍を待つため一時休止したあと北京城外の黄寺に到着した。10月6日、フランス軍は北京城外西北の円明園に到着した。そして翌7日、フランス軍は円明園を組織的に略奪した。奕は身一つで裏門から逃げ、広寧門外の長新店に落ちついた。

人質の監視役であった恒祺は、パークスに助命嘆願書を書かせ、エルギンに渡す役回りであったが、このとき奕と一緒であり、同じく身一つで逃れた。人質管理のため夕方北京城内に入ろうとしたが、城門は全て閉ざされ、竹篭で城壁上に吊り上げてもらったという。

その恒祺は7日、ウェードにパークス書状を手渡そうとしたが、ウェードから

「くだらぬことはやめにして、徳勝門外で会おう」といわれた。恒祺は、

「北京城内のイギリス客人を適当な礼をもって送還したいから、軍隊を若干里遠ざけて欲しい」と要求した。これにたいしウェードは、

「人質を即時引き渡さねば、即時全面攻撃に移る。そのうえで犯人は必ず処罰する。もし、人質を引き渡すのであれば天津和約批准書調印のための交渉が可能である。だがそのさい、約束実行の担保として、一城門の引渡しが必須である」と回答した。

恒祺は8日午後4時を期して人質を解放することを約束せざるを得なかった。

パークス、ロック、インド人騎兵、ドローチェル、フランス兵4人合計8人の人質が釈放され、フランス軍は円明園を離れ、イギリス軍に合流した。また10月12日午後、インド騎兵8人、フランス兵1人合計9人が釈放された。

10月10日、エルギンは安定門の引渡しを要求した。奕は、

「英仏国は文明国と自称しているのに、どうして円明園を略奪したのか。司令官はこれを知らなかったのか。安定門占領について、代わりにどういった条件を示すのか返事を待つ」と返答した。

あるいはその周囲の官僚は、使者を人質にとるといったテロ行為についてまったく触れず、また軍事的に確保不可能な地点を明け渡すことで何か代償を得ようとしていた。きわめて中国的レトリックといわねばならない。

エルギンは奕の返答を無視し、13日正午まで安定門を引き渡さねば直ちに砲撃を加えると通告した。

北京城内では、どの守備部隊長も抵抗は不可能であるとしたが、城外にいた勝保一人は、

「各省から援兵を得て(募兵し集中するのに3カ月以上かかるが)、一戦するべし」と主戦論を唱えた。それを聞いた承徳山荘の咸豊帝は大喜びし、勝保を「忠勇性成、赤心報国」と絶賛、欽差大臣に任命した。咸豊帝はすでに結核が進行しており、まともな判断ができなくなっていた。

13日正午、北京城外に英仏軍歩兵が銃を構え、土嚢陣地に据えられた大砲が火を吐こうとしている瞬間、安定門が開いた。

16日、人質のうち殺害された11人の遺体が引き渡された。いずれも顔面に損傷が加えられていたいたほか、身体の一部が切除された惨たらしい状態であった。なお、ブラバゾン英軍大尉、仏人宣教師ドリュックは不明であった。中国側の記録では勝保が八里橋の敗戦後、その附近で2名を惨殺させたということである。

円明園焼毀

エルギンは、10月17日、奕に最後通牒を発した。

「(奕が、)人質が安全であると連絡したときすでに、拷問を加えられ殺害されたことは明白である。こういった虚偽の説明をうけては、北京城を攻撃しなという約束を反古にせざるを得ない。この残虐な犯行についての謝罪がなければ、これ以上の和議は不可能である。当面、イギリス軍は自由に行動することになる」「イギリス臣民の死について30万両の賠償金を22日までに支払い、23日までに天津和約批准交換、天津8カ条署名を実行するよう20日午前10時までに回答せよ」「さもなくば紫禁城を占領する」

10月18日、19日、イギリス軍は円明園を焼毀した。これについて、エルギンは本国政府に、

「円明園は皇帝の住居であるから、それを焼毀することは、その尊大さを失わせることの一助になる。人質の一人の証言によると、皇帝はここで人質を拘禁し拷問を加えた。そして円明園を捜索したところ、犠牲者の遺品が発見された。円明園はフランス軍によってすでに略奪されたあとであるから、イギリス軍が略奪者といわれることはなく、たんに復讐のためであるとわかるだろう。これは無辜の中国人へ損害を与えるのではなく、皇帝への懲罰であることもわかる。皇帝の責任は、人質拉致の指令、円明園における人質への拷問、外国人殺害に懸賞金をかけたことで明らかである」と報告している。

は、ロシア公使イグナティエフの勧告に従い、20日朝、無条件・無要求で最後通牒を応諾した。

10月24日、エルギンは安定門より入城、礼部衙門にて奕と面会、北京条約に調印、南京和約の批准書交換を行なった。

11月7日、エルギンはすでに駐清公使に任命されていたブルースを北京に招致することを指令し、領事官アドキンスをしてイギリス公使館を開設させた。ブルースは、1861年3月25日に到着した。

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