安直戦争


参戦軍(辺防軍)

第一次大戦が勃発すると、日本はヨーロッパ戦線に軍隊を派遣することを真剣に検討する必要が生じた。そして便法として、中国人による一部隊の派遣を視野に入れた。袁世凱の死のあと覇権を握った段祺瑞を支援するという名目(援段政策)で、3個師団を育成、場合によっては連合国側に「参戦」することを計画した。このため、この軍隊は初め「参戦軍」と名づけられ、第一次大戦が終わると、「辺防軍」に変えられた。

段祺瑞政権も裏では南方勢力との衝突に備え、「辺防」軍をつくることに反対はなかった。清国崩壊以降、北洋軍は直隷都督が統帥の任にあたることになったが、省単位での軍事力維持は困難で、戦力は地に落ちていた。北洋軍閥は軍隊のない軍閥になりつつあった。

南苑と北苑に練兵場をつくり、黄寺に講武堂をもうけ下士卒の教育にあたった。馬良・曲同豊・陳文連が3師団長に任命された。

坂西【ばんざい】利八郎(1870〜1950)
和歌山県生まれ。陸士2期、陸大。1902年中国に渡り、日露戦争のさい、袁世凱に局外中立を要請したとされるが詳細ははっきりしない。8年間中国に滞在。その後も短い欧州出張を除き、北京駐在参謀本部付き。1927年、中将で予備役。

訓練にあたったのは坂西機関(坂西利八郎)であった。装備は、陸軍の外郭団体である泰平組合から2242万円相当が提供され、さらに連合国による中国参戦補助金2000万円も充当された。この他に西原借款で参戦借款5000万円余が計上されているが、支払い実態は不明である。

辺防軍の建設によって、段祺瑞は強気になった。1918年に入ると張作霖とも手を結び、直隷派の馮国璋を大総統の地位を追い、代わりに徐世昌を据えた。だが、1919年末になると張作霖は段祺瑞から離反する形勢を示してきた。

この背景には関東軍(長:立花小一郎大将)が、張作霖の「関内出兵」を煽ったことがあげられる。原内閣は絶対不干渉の立場をとったが、出先では応対する中国人に篭絡されたり、「いい顔」をすることが起きていた。

ところが本来、出先を調整し、対中政策を決定せねばならない外務省は、支那通が第二次南京事件によって不遇を篭っていて、中国情報について陸軍出先に頼らざるを得なかった。外務省の中における中国担当は二流なのである。

段祺瑞 Duan QiRui (1864-1936)
字は芝泉。安徽省合肥出身。天津の北洋武備学堂卒業。そのあとドイツに留学。1895年新建陸軍創設に関与した。1901年、袁世凱が直隷総督兼北洋通商大臣になると、袁との関係が決定的となり、北洋の三傑(他は馮国璋と王士珍)といわれた。辛亥革命では、湖広総督に任ぜられ弾圧する側であったが、袁の内示によって、宣統帝退位に賛成する側にまわった。だが、1915年の袁の皇帝即位の企てには反対した。安徽派の代表でもあり、1916年から18年の間、断続的に国務院総理となった。1920年安直戦争に敗れ下野した。1924年、張作霖にかつがれ、再度、臨時政府執政に就任したが、馮玉祥に軟禁状態におかれ短期間で失脚し、隠棲した。

内田康哉外相は1920年7月9日、「辺防軍を国内戦争に使用せざるの保障は唯帝国政府の忠言に対し支那側より言明し来れるものに属し帝国政府は之を強要する義務あるものに非ず、この保障を破ると否とは支那の責任」「今や支那各派が兵を擁して相争へる際一方に対してのみ其の兵力使用の禁止を強制することは自然他方を援助する結果となり、内政干渉一党擁護の謗を免れない」との訳のわからない声明を出した。寺内内閣の下で、援段政策を実行してきていたのだから、原敬首相は政策変更を明確にすべきだった。

このときの情勢は、関東軍は張作霖を応援し、坂西機関は辺防軍の訓練にあっていた。まずこの国軍二分をなんとかすべきであっただろう。もちろん坂西は、東京市中を支那服を着て練り歩き、自慢するような男であり、辺防軍の訓練に実効が上がるはずがなく、中国兵の服を今度は西洋式に着せ替えただけだった。ただ、辺防軍に国費が出ていることもまた事実であった。原敬は「内政不干渉」に政策変更したためか坂西に辺防軍調練を停止するよう要求した。

坂西はこれをうけて、段祺瑞に安直戦争における使用を段祺瑞に諫止したが「乃公出ずれば直隷軍は戦わずして来降するにきまっている」と放言したといわれる。

江蘇の李純、江西の陳光遠、湖北の王占元の動向

第2革命と第3革命によって争われたのはたんに、南北対立ではなく、聯省自治勢力対北方勢力という面があった。聯省自治とは、各省が独立した政府を樹立し、中央政府は軍事・外交のみを担当すればよいという考え方であり、第1次北伐開始まで、ほとんどの省が主張した。ただ、自治は割拠につながり、軍閥の理論でもあった。

聯省自治の代表的な運動が湖南省の趙恒陽政府であった。ところが北京政府=北洋軍閥が武力統一を叫ぶと聯省自治勢力は南方に傾く。すると南北の間にある3省の督軍は、戦乱に巻き込まれることを怖れ、武力統一に反対するようになった。

3省の督軍とは、江蘇の李純、江西の陳光遠(曹と親しかった)、湖北の王占元である。この3人とも北洋軍閥に属してはいたが、段祺瑞に敬服していなかった。

1917年12月、湖北省の荊州、襄陽で石星川と黎天才が自治を宣言し、また趙恒陽が岳陽を攻撃した。このため、北京政府は南方討伐を宣言した。呉佩孚(曹派)と張敬尭(安徽派)が派遣され、岳陽と長沙を回復すると張敬尭が湖南省督軍に任命された。

1918年2月、西原借款による日本からの武器が秦皇島で下ろされ、張作霖に渡された。ところが3月、第2回目の武器引渡しのとき、安徽派の徐樹錚は突然、その一部を江蘇省督軍李純に渡した。作霖は約束と違うと激怒した。そして、南方討伐に参加する条件として、3人の督軍の解任を求めた。さらに天津に参謀処を設立し平津間に常駐するようになった。裏側には関東軍の使嗾があったという。このとき関東軍と坂西らの支那通はすでに対立していた。

また支那通軍人は、直隷派に英米の応援があったように言い張るが、まったくのデマである。呉佩孚にアメリカ人顧問がついていたが、日本人もいた。呉佩孚は若干の武器をアメリカから買っていたが、それは自分に英米の支持がるようにみせかけ大きくみせるためだった。

1918年の夏に入ると張敬尭が湖南の人心を失い始めた。また西原借款によって得た金を段祺瑞は公平に分配するとしていたが、張作霖には180万元しか回らず、関内に入った部隊の軍費に困るようになった。このとき張作霖と争っていた吉林省の孟恩遠には1000万元が渡ったという。

呉佩孚の保定進出

1918年の国会は、第2回総選挙に勝利した段祺瑞与党の安福会が多数派をしめた。このため安福国会と名づけられた、段祺瑞はこれに気をよくして、ライバルの直隷派、馮国璋を大総統から引きずり下ろし、清国科挙官僚の徐世昌を大総統に据えた。

馮国璋は不遇なまま、1920年に死んだが、保定軍官学校では直隷派は依然勢力を保った。これは清国時代の新軍からつながる旧軍の辺防軍に対する反感もあった。また安徽派とは、安徽出身の袁世凱が朝鮮公使として派遣された時代に随従していった安徽省人が中心であって子飼いの将兵をもっていなかった。このときの安徽派=段祺瑞派の軍勢は辺防軍と北京駐防軍しかなかった。

段祺瑞は直隷派の曹を取り込むため、副総統の地位を約束した。ところが、旧研究会系と旧交通系が国会をボイコットしたため定数に達せず、指名が滞った。怒った曹は保定に引きこもった。

は、援粤軍司令の肩書きをもち湖北に留まっていた呉佩孚を前線軍ごと呼び返した。

1920年7月1日、曹と呉佩孚は保定にて、北京政府の軍権を掌握したとして、辺防軍に合流を呼びかけた。段祺瑞は直ちに反応し、両名を軍職から解任した。

奉天軍の介入

7月14日、曹と呉佩孚は「討逆軍」を自称した。そして軍を二手に分け、北京方面と天津に分けることにした。呉佩孚は前線軍司令官となり、北京方面軍約1万人の指揮をとり、北京に京漢線沿いに前進した。

この動きをみて段祺瑞は天津方面が主攻であると判断を誤り、辺防軍2個師団1万5千を徐樹錚に預けて天津方面に向わせた。一方、京漢線方面は弱体とみて曲同豊に北京駐防軍約5千に預け保定をつこうとした。

16日から、呉佩孚軍と曲同豊軍は接触したが、初めは曲が優勢で、高碑店まで押し込んだ。だが戦意と実戦成れで呉佩孚軍が徐々に押し戻し、州、豊台周辺まで進んだ。

一方、18日までに徐樹錚は楊村まで前進したが敵の姿はなかった。討逆軍は信安周辺で停止していたのである。だがその時、張作霖の奉天軍が山海関を越えたとの報告が入った。19日、段祺瑞は即時停戦を求め敗北を認めた。

この僅か5日間の戦争で死者はほとんど出なかった。坂西機関が国費を注いで育てた辺防軍は事実上、一発の弾丸も撃つことはなく、直隷派の手、すなわち呉佩孚の配下に置かれることになった。

7月23日、曹は北京に入城した。直ちに安福国会を解散した。段祺瑞は下野し、徐樹錚は日本に亡命した。

安徽派の軍隊は浙江の盧永祥、上海護軍使の何豊林、福建の李厚基の部隊を除いては、奉天派と直隷派に吸収された。張敬尭や呉光新の部隊は土匪化した。


支那事変に戻る
第一次奉直戦争に続く