1925年(大正14年)5月15日、華中にある在華紡多数でストライキが発生した。在華紡とは、大阪に本社があった十大紡(東洋紡、鐘紡、日本紡績など)と重なるが、華中や山東省などにあった日系工場を指す。
特徴は太番手(45番手以下が太番手と呼ばれる。45番手は現在の中高生の学生服に使われるが他に用途はない)生産と対日輸入自粛であった。このころ日本では綿糸の用途は下着などに使われるメリヤスが中心となり太番手は用無しになっていた。このため十大紡は日本で不要となった太番手用紡織機械を中国に持ち込み、そこから中国国内やインドに輸出しようとしたのである。
在華紡は極めて多額の投資を中国に投入した。投資自体は1927年がピークで累積11億円に達し、それからは減少に転じた。同年の日本のGNPは240億円と推定され、異常な多額であり、この時代の世界でも、このような多額の投資が行われたケースはなかった。国策が関与した形跡もなかった。中国へ投資した理由は市場立地と電力供給、工場内温度、低賃金であろう。
その中でも上海内外綿は一番先発であったが、労務管理(当時の日本人は中国人男女労働者をよく殴った)が厳しいとされ、激しい争議に発展した。2月初め、内外綿は共産主義を宣伝する労働者数名を解雇した。
すぐさま争議は他の日系六工場に波及した。2月15日、豊田紡績が襲撃され日本人監督が胸を撃たれた。さらに数名が拉致され蘇州河に投げ込まれ、うち1名が死亡した。
5月に入ると内外綿で再度、ストが発生、工場が閉鎖された。すると5月15日、日払い給与受け取りを要求する中国人労働者と日本人が衝突、それに租界警察が介入、顧正紅という中国人が射殺された。
大阪毎日新聞は、この事件の直後、学者と在華紡関係者の座談会を開いた。
内藤湖南 租界内の秩序が保たれざるは各国の足並が揃わぬためじゃ。各国みな自分だけよい子になろうとするからじゃ。みたまえ米国の如きは支那に何の仕事ももっておらぬ。それが日本や英国と本当に苦楽を共にしてくれるわけはない。そこを日本人はよく考えなければならぬ
児玉一造(東洋綿花専務) そうかもしれませんが、日本が日本だけで何か運動でも開始すると、すぐ排日をかつぎだされて困る
内藤 それは日本の政府が悪いからじゃ、外務省内にくだらぬハイカラ論が多くて本当の対支外交というものをやらぬからじゃ。同時に又実業家諸君も悪い、諸君が外務省の連中を鞭撻されぬからいけません
矢野仁一(京都大学文学部教授東洋史/『阿片戦争』などの著作があり、戦時中、国策に協力した) 租界内や工場地帯が荒らされるのは平生からそれ相当の防備をしていないからではあるまいか
武居綾蔵(内外棉頭取) そこが問題なのです。ただ困ることは、そうした防備から間違いでも起るとすぐ日本人がやったと日本人に難癖をつけられる、実際日本人が一番馬鹿をみているのです
阿部房次郎(東洋紡副社長) 日本は紡績だけでも二億円からの資本を支那に下ろしている。到底このまま引揚げるわけにはいかぬ。だから今度こそは徹底的に解決してもらいたいと我々は思うている。こんなことが度々おこるようでは実際日本の対支貿易も何もメチャメチャですからな
内藤 騒動がも少し大きくなって静まれば向う十年位は二度と起りっこはない。之は歴史が証明している。決して私の想像ではないから諸君はそのつもりでグングン仕事を進めてゆけばよろしい。諸君はややもすると政府を頼りにするが、日本の外務省にソンな強硬な腰があるものですか
阿部 それでは今日の支那学生中から日本の維新当時のような志士は出て来ぬでしょうか
内藤 出ますものか。出たってしれたものです
小寺源吉(大日本紡重役) 将来支那が強くなったら日本はどうなりますか
内藤 支那の新思想は強くなるということを問題にしていません。そこがいわゆる新しい所で同時に我々が考えてみなければならぬ点です
小寺 犬養さんが仮に支那へ行くとして、日支親善をどう実現すべきでしょうか
内藤 駄目です。親善等要するに程度の問題で、少くも今日の支那の新思想家たちと真の提携などできるものではありません
内藤 日本の雑誌が社会主義のことを書かねば支那はそう悪化せぬ
矢野 そうです。西洋の雑誌が社会主義のことを書かねば日本はこう悪化しません(大笑い)
誠に浅はかな対談というべきであろう。内藤や矢野は漢学者ではあるが、外務省の英米派や社会主義者に敵意を剥き出しにしている。在華紡関係者は政府による保護と中国政府が日系資本を「特別扱い」することを望んでいるのである。
低賃金を利用するには相応のリスクが生じることについて経営者としての覚悟がなかった。全員、中国政府・中国革命家に期待し英米を敵とみなそうとしていることは明らかである。現代日本と酷似していることに驚くべきであろう。
反英運動
5月30日、顧正紅追悼集会が開催された。中国共産党の指導した学生などが上海で、反英・反日を叫び南京街に出て暴力デモに訴え警察署を襲撃した。租界警察は直ちに反応し、学生数人が射殺された。共産党系の中華総工会は6月1日からゼネストに入ることを決定した。そのあと日・米・伊が海兵隊を上海に上陸させた。
6月4日、発電所の1300人がゼネストの呼びかけに呼応した。10日までに107の工場で13万人がストに参加した。
この辺りから、工場ストライキは反英運動に変化した。6月4日、上海総商会会長虞洽卿は上海総領事矢田七太郎に「内外綿争議と租界警察による発砲事件とは別に取り扱う」と申し入れた。この種の事件で必ず発生する中国人の常套手段、外国間の分裂を狙う「以夷制夷」策であった。
6月12日、国民対英対日外交大会は「イギリスは阿片戦争以来の敵である」と宣言した。
6月23日、暴動は広州に飛び火した。広州沙面にあった共同租界で5万人がデモに参加し、発砲音が聞こえた。租界警察も応じ、少なくとも52人の中国人と1人のフランス人が死亡した。この事件をきっかけに反英ボイコットが始まった。
百日維新で下関条約反対を唱えた梁啓超や北京政府の顧維鈞外交総長はこともあろうに「租界警察に対してのみ戦うべき」と発言した。日系工場におけるストを反英運動に転換させたのは、当時資本主義の牙城がイギリスであるとみなしたソ連の指導に盲目的に従っていた共産党の策略である。ところが中国の政治家というのは民衆が排外行動に出ると、それが「民意」だと思い、承知していても卑劣にも靡こうとするのである。
ところが日本人の中にも安堵する気持ちになるのが多数いた。
6月13日、北京外交団会議がもたれた。安堵したのは日本人だけではなかった。イギリス人以外は租界警察のやり方をイギリス的だと批判した。イギリス委員ベレカー(George
Verker)は、「エジプトとインドでの長い間の歴史と経験によって、イギリス人は東洋人の扱いをよく知っている」と発言した。
この傲慢な発言は他の委員全員の反発を招いた。7月6日、外交団は租界参事会の国際法上の性格を問題にし、総参事でありアメリカ人のスターリング・フェッセンデン(Stirling
Fessenden)と警察(上海公共租界巡捕房)署長イギリス人ケネス・マッキューエン(Kenneth McEuen)について非難する決議を採択した。だが租界参事会は受け入れを拒否した。
イギリス外相オースチン・チェンバレンは、参事会と外交団の対立に危機感を抱き、5・30事件の全面的司法調査に乗り出そうとした。そのため日本とスクラムを組むべきと思い、エリオット駐日大使に幣原喜重郎外相と調整するよう訓令した。
7月7日、幣原・エリオット会談がもたれた。幣原は租界参事会を非難する一方、フランス「独立租界」をもち対英批判の急先鋒にたったフランスも同時に批判した。幣原は、チェンバレン提案の5・30司法調査に同意した。イギリスはアメリカの同意もとりつけ、9月半ば、英日米三判事による司法調査が開始された。10月2日、マッキューエンは解任された。
日英協調
日本のこのときの首相は加藤高明であり、日英強調の姿勢を崩さなかった。イギリス批判の急先鋒であった仏伊に従わなかった。日本外交の歴史では珍しく機会的ではなく対応した。この方針に反対したのは、むしろ在華紡であった。
日清戦争以降、日本人は内地雑居を認められていたが、日本人以外の外国人には認められていなかった。1名が死亡した豊田紡織の児玉一造は、
「租界や租界警察はうまく機能しないから、治外法権は廃止し、中国のすべての事件に対して中国政府が責任をとるようにすべきだ」と意見を述べた。
これは一見当然であるが当然ではない。日本人を除く外国人は内地雑居を認められていなかった。もし治外法権が否認されれば、中国人の外国人への刑事事件について全面的に責任を負うことになるが、中国政府にそのような能力はない。中国は法治国家ではない。
要するに治外法権とは内地雑居=内国民待遇賦与と表裏の関係をなす。児玉にはこの国際法上の知識が欠けていた。そのうえ外務省はこの事実を承知していたが、居留民の要求に徐々に屈し、そのあと陸軍支那通と一緒に欧米各国に対して租界回収を働きかけるなどの理不尽な要求を出すにいたっている。
外交に商売をからませることの危険に気づかなかった。
翌1926年6月23日、在中イギリス企業代表がジャーディン・マセソン商会に集まり、租界における共産勢力浸透について話し合われた。そこでは宥和政策で中国の歓心を買うことはできず、英米日が一致して、中国の反英・反日に向かうべきだと一致した。そしてアメリカより日本への働きかけがより重要だとされた。
だがイギリス外務省は、5年前のワシントン会議で彼らイギリス人企業家が日英同盟廃棄を熱心に主張したことを指摘し、
「5年で態度を変えることができれば外政は不要である」と批判した。イギリス企業家も日本人と同じで目先の商売のことしか考えられなかったのである。このとき、イギリスのアメリカや自治領を除く対外投資の半分が中国に向かっていた。日本のそれは四分の三であった。
第三次南京事件に続く