服部機関とウィロビーとの癒着
服部卓四郎(1901〜1960)
秋田県出身。仙台陸幼、陸士34期。陸大。関東軍参謀。1939年、参謀本部(大本営)作戦課長。
日本に来た米軍は、ポツダム宣言履行を保障占領するために来た。米軍は日本に総司令部(GHQ)を丸の内の第1生命ビルに設置した。このビルは東部軍司令部が設置されていた。
GHQに参謀2部(G2)があり、部長はウィロビー(Charles Andrew Willoughby)中将であった。ウィロビーにつけたマッカーサーの綽名は「私のファシスト・ペット」であった。ウィロビーの担当は「情報」であった。ただし朝鮮戦争のさい「中国軍鴨緑江渡河」の情報を握りつぶしてマッカーサーに渡さなかったことで有名である。
ウィロビーは終戦直後から帝国陸軍参謀本部作戦課に異様に興味をもった。終戦時参謀次長であった河辺虎四郎の「河辺機関」と元大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎の「服部機関」をつくった。つまり占領経費と支払われる日本の国家財政から給与を払って雇ったのだ。そもそも保障占領業務からの重大な逸脱であった。
終戦時、支那派遣軍の第13師団歩兵65連隊長であった服部卓四郎を急遽復員させ、そのうえ「追放」(陸海軍将校全員が対象であった)の例外とした。
服部機関の大多数はGHQ歴史課に所属し、米国から見た太平洋戦史編纂(へんさん)の業務を担当した。東京・丸の内の郵船ビルで、第一復員局(旧陸軍省の後進の第1復員省の後身)の史実調査部長にも任命された服部卓四郎元大佐が兼務で勤務することになった。
服部機関では、稲葉正夫、西浦進、堀場一雄ら十数人の元陸軍参謀将校が活動した。ウィロビーのこの危険な人事について、
「占領軍の方でも、日本を占領してから、戦争中のことをいろいろ聞くために、特に作戦関係、軍を動かすことについては服部さんは欠かすことができないと考えたようです。それで特別指令で服部を早く戻せと呼び返した」(大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集』)と述べた。
昭和24、5年、服部機関の主要幹部は、週に1回か2回、服部の自宅に集まり、「復活帝国陸軍将校団の編成表をつくった。じっさいにも陸大卒元将校の復員先まで連絡をとった。参謀本部にいた堀栄三は25年春「服部機関」を名乗る人物から「至急上京されたい」電報を受けた。
しかし脳卒中を患っていた父の堀丈夫元中将が反対した。
「やめておけ、1度失敗した連中がいまから、まだ何をしようとしているのだ、それに服部はノモンハンでも失敗した男だ、性懲りもなしに」
「戦争を敗戦に導いた人間たちは、戦争指導に携わった連中だ。この人たちが責任を感じないでどうするのだ」
堀丈夫は省部の奥の院で戦争を起案した「亡国の参謀」と戦場で命を賭けて戦った「戦闘軍人」を区別していた。戦争を開始し指導しながら失敗して責任を取らない輩を、最も軽蔑していたのである(堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文春文庫)。
服部の下に参集した陸大卒エリート軍人は相変わらずの「イニシアチブ重視」であった。「第三次大戦の可能性が高い」「日本は、第三次大戦は見送り、四次大戦に参戦すべし」と論じた。彼らは「攻められること」は一切想像できず、軍隊を使用して「今ある情況を打破すること」しか考えられなかった。服部らの国際情勢への認識は、米ソ戦の延長でソ連が北海道に侵攻することだけだった。
国防計画書『国防軍の中央機構』をつくり、陸海2元統帥を廃止し、陸軍参謀総長が国防軍司令官になり、司令官の幕僚が参謀本部および国防省を兼任することを考えていた。
服部卓四郎は所詮、陸軍統制派の枠を脱せず、ルーデンドルフが残し、ゼークトが首領となったドイツ・ワイマール共和国国防軍を夢見た。バーデンバーデンの密約の永田鉄山からまだ出られなかった。服部の死後も「国家総動員体制」「陸軍軍人だけによる国防」を夢見る人材は残り、「官僚統治」「国民不信」を信念とした。
警察予備隊
昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。このとき在日米軍は4個師団で編成されていた。いずれも定員まで充足されず、第7師団が、東北・北海道、第1騎兵師団が関東、第25歩兵師団が関西、第24歩兵師団が九州にあった。マッカーサーは第24歩兵師団(ディーン)を直ちに朝鮮半島に向かわせた。
第25歩兵師団は九州に移動しようとしたが、7月18日に騎兵第1師団と第25歩兵師団も朝鮮半島に集中を完整させる命令が下った。このときまだ、日本にはGHQ要員および家族25万人が居住していた。
第二次大戦中は、ルーズベルト民主政権の下で戦われた。副大統領のトルーマンが、大統領に昇格したが、外交では色濃く、戦時同盟の影をひきずった。すなわち、アメリカの宿敵は、戦争が終了してもドイツのナチズムと日本の軍国主義であった。ソ連も変わらず友邦であり、中国はアメリカの友好国のはずであった。
金日成による南侵は一挙にその外交的夢「世界の紛争を常に中立的善意から仲裁するアメリカ」の夢を打ち砕いた。在日米軍不在の間、日本国内で親北朝鮮勢力の決起、ソ連の日本への侵攻が急に現実味を帯びた。
6月中に日本人による軍隊の創設をトルーマンはマッカーサーに命令した。マッカーサーも兵力不足を認識し、直ちに7万5千人の「警察」を編成するよう要請する書簡を吉田茂におくった。ポツダム宣言の連合国協定細目では日本に20万人の警察力配備を認めていた。この枠にはまだ7万5千の余りがあり、憲法9条の抵触覚悟で日本における兵力の真空を埋めようとしたのである。
8月10日、「連合国総司令官」マッカーサーは、「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)を指令した。政令といいながら、国会の議決を経なかった。ポツダム宣言受諾に伴う「勅令」にもとづくものと「国内法理論」から整理されるが、明治憲法からも戦後憲法からも逸脱であろう。市場(統制)立法でなく、多額の予算を費消する立法である。マッカーサーは「軍命令」として実行し、米国務長官や大統領も決裁したことは確実であろう。
ウィロビー(Charles
Andre Willoughby1892-1972)
ドイツのハイデルベルク で生まれた。旧バーデン公国の貴族ワイデンベル家(von Tscheppe-Weidenbach)
の当主とボルチモアのエミー(エマ)・ウィロビーの間の子であった。1910年に訪米するまで、独仏西語を身につけていた。1913年、ゲディスバーグ・カレッジに進み、ROTCに参加した。1914年、少佐として米陸軍に入隊した。1916年、実戦参加を希望するも「親独」と疑われた。1918年、ヨーロッパ戦線に陸軍航空隊教員として向かった。終戦後、南米諸国にアタッシェとして派遣された。
1940年、マニラに派遣されマッカーサー付の情報担当参謀。真珠湾のあと、バターン半島を脱出し、バターン・ボーイズの1人。
1952年、中将で引退した。その後もニューヨークで反共運動を支持した。その後、スペインに渡り、フランコの軍事アドバイザーとなった。日常、ムッソリーニを尊敬し「イタリア敗北の記憶を伝統的な白人優位主義で拭い去ろうとした」と述べていた。極右団体のJohn
Birch Society や the Minutemenと関係があった。
1972年、フロリダのネイプルズで死亡。"The Economic and Military Participation
of the United States in the World War (World War I) and MacArthur
1941-1951."という長い題の著作がある。
GHQ内部ではホイットニー率いる民政局とウィロビーを首領とする参謀第2部の間に対立があった。7月9日、マッカーサーはこの争いに関係がないシェパード少将に警察予備隊創設準備を命じた。
服部機関を中心とする統制派軍人は、帝国陸軍の復興であり、自らがその支配者になる機会であると興奮した。
吉田茂の服部卓四郎「参謀総長」案拒否
吉田茂は朝鮮戦争勃発数日後には警察予備隊の件をマッカーサーから得ており、7月1日、増原恵吉に警察予備隊本部長就任人事を内示していた。
服部や有末精三ら旧陸軍グループからも、警察予備隊復活後も服部を「参謀総長」のようなポストにつけよとの要求が、吉田茂首相の手に数多く届けられた。これには吉田も激怒した。吉田は「決して旧軍指導部を寄せ付けるな」と洩らした。
昭和25年7月18日、岡崎勝男内閣官房長官は、「吉田首相は、このたび警察予備隊本部長官となるべき人物を選定した」と記者会見で発表した。増原は内務官僚(警察畑でこのとき香川県知事)であった。
7月22日、増原はシェパード(警察予備隊への)軍事顧問団長を表敬訪問した。しかし増原は、3週間の猛特訓を経たものの英語は不自由であった。この訪問でもニッキー遠藤が通訳をつとめた。この事実から吉田は、少なくともウィロビーらにこの人事をまったく相談せず、おそらくGHQと無関係にこの人事を決定したとみてよい。
すでに終戦から5年を経過しており、米国は日本への内政干渉を避けるべきと考え出していた。吉田茂が参考にしたのは内務官僚の意見であった(『サンデー毎日』2010年6月27日号、保坂正康「第12部「最大の官僚機構、内務省、陸軍省、海軍省解体の日(22)」)。
後藤田正晴は、こう語った。
「旧軍の作戦部門にかかわった参謀たちは本来なら戦犯に値するといってもよい。今またGHQの力を借りて復活を図ることなど決して許さない」
海原治は、
「旧軍幹部はプロとして戦争に負けたのである。その失敗の責任者はもう新しい舞台に出てこなくていい」
と証言した。後藤田や海原の発言は警察予備隊または保安隊、自衛隊からの陸軍の「亡国参謀」の排除を狙ったものであった。コワルスキーは、陸軍参謀将校の思想について、
「状況によっては、命令違反そのものが美徳となることもあった。この矛盾は東京にあった参謀本部が、現地司令官の幕僚に付職される将校の人事を行い、更にその将校には東京からの命令にのみ従うよう、暗黙の訓令を与えて派遣する方針をとったことに由来する。参謀将校は師団司令部の命令を無視することができたし、またしばしば故意に無視した。このために勝つべき戦闘にもしばしば敗れた」(フランク・コワルスキー『日本再軍備米軍軍事顧問団幕僚長の記録』中公文庫)と書いた。
増原恵吉の服部卓四郎についての説明
25年の夏ごろでしたか、やや独走した形でウィロビーが服部氏を呼んで、「お前が今度できる制服の隊長になるのだ」ということをいったようです。ちょっとおかしいところがあるのですよ。
服部さんがそれをシェパード少将のところにいうてきたんですよ。シェパード少将も面くらったらしい。それで私に照会したんです。私もびっくりして、服部君に、
「これはあんたどういうことだ」といったら、
「ウィロビーがぜひお前出てきて制服組の長になれといった」というんです。私は「それはあんたに聞くのがはじめてだが」といったら、
「予備隊の長官には増原というのがなるが、増原には連絡しないようにしたほうがいいということで、制服はお前になれといわれた」ということでした。
「服部さん、新しい警察予備隊をつくるためにはそれは具合が悪いから、少なくとも私にあんたはよく連絡をとってくれなければいかん。私は予備隊長官になるのだから、日本人としてよく連絡をとってやろうじゃないか」といったんです。
安藤良雄『昭和経済史への証言』上、毎日新聞社 1966)
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増原恵吉は、内務省畑であって、地方において吏僚を使いこなすことには慣れていた。しかしながら、制服組であろうが背広組であろうが、人事権を手放す意図はまったくなかった。
服部卓四郎の「国防軍中央機構」論は、議会政治の下では、軍部大臣は政党政治家が任命され、当然人事も掌握するシビリアン・コントロールを逸脱していた。服部の論は、参謀総長が陸海軍人事を掌握し、軍事作戦(終戦クーデターを見ればクーデターそのものも)を専決できるという暴論であった。マッカーサーが憲法9条を承認したのもこれが理由であった。
増原は、軍人が自分の人事を取り仕切り、軍隊を自分の野望を達成する手段とすることを警戒した。
服部が範を置いた第二帝政ドイツ軍やワイマール共和国ドイツ国防軍も、軍、軍団司令官は付けられた参謀を革職できたのである。日本は司令官にこの権能がなく、参謀暴走を食い止める手段がなかった。終戦クーデターのさいは、司令部の参謀4人が一致してクーデターに賛成し、あげく師団長を殺害するという暴挙が発生した。
このあとも自衛隊では、制服組(防衛省内局に属さない自衛隊員)の人事を、「防衛省設置法」によって、防衛省内局(幹部は国家公務員上級試験通過者)が実行している。あくまでも政党政治家が内局をスタッフとして高位軍人の人事を決定せねばならないとした。このシステムには「シビリアン・コントロール」に名を借りてとの批判が強い。
しかしながら、このシステムは、陸軍統制派の流れを組む服部卓四郎が、このとき主張した「国防軍中央機構」論の反発から生じたのである。廣田弘毅内閣で武藤章によって外相就任の機会を奪われ、皇道派色の強い東久邇内閣で外相になった吉田茂は、陸軍統制派の、クーデター・テロや太平洋戦争における「島嶼籠城」といった愚かな行為を否定したかったのである。
殺吉田
昭和25年(1950年)9月、国会で社会党の猪俣代議士は、大橋法相にクーデター計画があるのではないかと迫った。
「朝鮮事変以来どうも何となく世間の風潮が、また終戰前のような空気がただよつているような感じをわれわれは持つのでありまして、ことに昨日も申しましたが、いわゆる辻参謀の名をもつて聞えております辻政信だとか、あるいは海軍中将でありました小林省三郎だとかその他今申しました三浦義一氏だとかいうような一派が、どうも最近猛烈に活動をやつているのじやないか。
これは昨日も特審局長に言つたのでありますが、新潟県下におきまして最大の発行部数を持つております新潟日報の紙上に、この辻政信が朝鮮事変前に現われて、士官学校の卒業生を全部集めて、われら立つべき時が来たというような演説をやつたということもあるのであります。
かような人物、これこそ国家を破壊すべき重大なる人物であると思うのでありますが、かような人物に対しての特審局の調査、監督ということが、どうも手ぬるいのじやないか。かような右翼の浪人、その他の軍人上りの連中の動向に対していかなる関心を持つてこれを指導されておるか、法務総裁の御決心のほどを承りたいと思うのであります」。
昭和25年のクーデター未遂事件は服部卓四郎が計画したものである。海軍の小林省三郎(元霞ヶ浦航空隊長)をかつぎ、三浦義一から資金を得ようとしたもので、じっさいある程度進行したようである。小林は十月事件でも海相にかつがれており、余程かつぎやすかったのであろう。
三浦は、日本発送電9分割問題をめぐってGHQの間を周旋し、大金を得たといわれる。日本発送電とは国家総動員体制の下で、1938年、民営電力会社5社(東京電燈・日本発電など)が合同国営化されてできた。このとき配電局が全国9ブロックにつくられた。GHQは三浦と一緒になって、日本発送電を9分割し、かつ配電局をそれにくっつけたのである。現在の9電力(沖縄を加えれば10)地域独占体制の始まりで、電力・電灯料金高止まりの原因をつくった改悪であった。
『やまと新聞』の後身の『新夕刊』のオーナーでもあった(そのあと『国民新聞』となり、現在『東京スポーツ』)。編集局長は林房雄、尾崎士郎が文芸部長、吉田茂の息子で英文学学者の吉田健一は渉外部長であった。
6月、朝鮮動乱が勃発し、スターリンと毛沢東から後方攪乱のため武装蜂起を要求された日本共産党は、四全共を開催し、「武闘方針」を決定した。志田重男が「軍事委員長」になり、神楽坂の料亭に流連して、2300ともいわれる山村工作隊へ指示を出した。共産主義者が、戦前軍部の跳ね上がり分子の真似をして料亭革命家を志した(志田はそのあと、党費横領の嫌疑で除名された)。時局は騒然としていたのである。
日共の「武装蜂起」方針は、近藤栄蔵の下関料亭豪遊で始まり、志田重男の神楽坂の料亭流連で終了し、そのあと2度と試みられることがなかった。橋本欣五郎から服部卓四郎のクーデターも、この日共の武装闘争方針に対抗しようとしたものではなく、補完をなすものであった。社会主義が歴史の中で姿を消すと両方ともなくなった。
昭和23年に帰国した辻政信は、『潜行3千里』がベストセラーになり、一躍時代の寵児となった。辻はかつて服部卓四郎に愚直にまで仕えていた。服部は戦後、生活のためかGHQのウィロビー機関に職を得ており、朝鮮動乱勃発とともに警察予備隊をつくるため、旧軍将校に声をかけた。この時期と辻の「われら立つべき時が来たというような演説」をした時期は一致する。ウィロビー機関には河辺虎四郎や辰巳栄一もいて、こちらも同様の活動をしていた。吉田茂はとりわけ辰巳に信頼を置いており、服部を排斥した。
服部と辻は昔の作戦課のコンビを復活させ、警察予備隊への就職とバーターで、「殺吉田」「服部元帥」を認めさせようとしたのであるが、資金で吉田とも親しい三浦を頼みにするくらいで、情報は吉田側・米軍側に筒抜けであった。
最後は、辻政信が旧軍将校が笑うだけであったのをみて、昭和27年7月、服部卓に引導を渡し、やめさせたという。
彼らは社会主義を信奉し、陸軍官僚による独裁体制を敷こうとし、海軍の提案になる「ハワイ作戦」計画に承認を与えた。ハワイ作戦の論理的帰結である島嶼作戦と海軍の敗北による補給の断たれた陸兵の無残な死を政治にかまけた結果、まったく見通すことができなかった。昭和25年のクーデターは統制派軍人の終わりの終わり、喜劇であった。
警察予備隊の育成
吉田茂もコワルスキーも、ウィロビーや服部機関の介入をいっさい拒否、亡国参謀将校を、いっさい警察予備隊に参加させなかった。ところが朝鮮戦争緒戦における韓国軍の潰走は大きなショックをアメリカ人に与えた。日本から派遣された第24師団は、7月22日までに烏山の戦闘を経て、7250人の損害を受けた。
韓国軍将校たちは、在韓軍事顧問団長ウイリアム・ロバーツ准将が誇らしげに「リトル.ウエストポイント」と呼んだ韓国士官学校で教育された。さらに将校の多くは、更に米国歩兵学校やカンサス州レブンワースにある指揮幕僚学校をモデルにした韓国歩兵学校や幕僚学校で高等教育をうげていた。
しかしそれにもかかわらず韓国軍には何か一つ肝腎のものが欠けていた。韓国の人口は2500万人で、これは北朝鮮の二倍半にあたり、数の上で共産軍のほうが優っていたとは思われない。
つまるところ、韓国軍の将校は兵隊ごっこの要諦をマスターしていたにすぎなかった。彼らは教室で習ったことを上手に復唱したし、図上演習や戦戯も優れた成績を収めた。一人残らず軍人のように働き、練磨し、演習したが、いざ実戦となったら総崩れで敗走した。
朝鮮戦争の初期においては、韓国軍の中隊、大隊や連隊は上官よりの許可も命令もなく、また多くの場合敵との接触もなく、敗走退却した。彼らはただ38度線以北に住んでいるという点以外には異なるところのない同じ朝鮮人の攻撃をうけて、風の中のもみ殻のように飛び散った。なぜ韓国軍は潰走し北朝鮮軍は勇敢に戦ったのか(コワルスキー、前掲書)が、アメリカ軍事顧問団の疑問であった。回答は、
「軍隊の粋な光物や近代兵器など取り揃えても、それだけでは実戦の役に立たない」であった。
9月16日から第一次隊員募集として800人が採用された。競争率は8倍であった。さらに特別任用幹部として、200人の幹部人員を各省庁からの推薦によって採用した。ウィロビーは暗躍して服部機関から400人を推薦させたが、マッカーサーによって拒否された。
河辺機関
河辺虎四郎(中将、参謀本部次長)は、昭和20年9月にウィロビーと面会し「情報機関」を設立した。じっさいには戦犯訴追を受けなかった陸軍将官クラスを糾合したものであった。GHQのCIC(情報部局)の一部でもあり、陸軍将官への「給与支払い」的性格があった。GHQは陸軍将官佐官については、各種機関をつくり、資金提供した。
吉田茂は、陸軍将官クラスに協力者をもっていた。下村定元陸相、辰巳栄一、宮崎周一、上月良夫らであった。
河辺機関は、河辺正三(終戦時航空総軍司令官)を中心として、谷田勇中将、高嶋辰彦(終戦クーデター時の東部軍参謀長)少将、堀場一雄大佐らを中心とするグループで、朝鮮戦争が勃発すると、日本義勇軍を構想し、警察予備隊の人事に少なからず影響を与えていた。
高嶋辰彦や堀場一雄は、統制派に属さず石原莞爾や皇道派に近かった。
ダレス・吉田会談
昭和26年に入ると、日米の立場は完全に逆転し、朝鮮戦争の戦局悪化により、アメリカは日本の再軍備「かつ」米海軍の佐世保・横須賀の軍港利用を吉田首相に哀願す立場となった。
- 1月3日 - ジョン・フォスター・ダレス米講和特使来日。
- 1月25日 - ダレス特使再来日。吉田茂首相との第1回会談で対日講和7原則を提出。
- 2月2日 - ダレス特使、日米集団安全保障・米軍駐留の講和方針を表明する。
- 2月21日 - ダレス特使、離日。その後、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを歴訪する。
- 3月24日 - マッカーサー元帥、「満州と中国沿岸を攻撃すれば、中華人民共和国は崩壊する」との見解を明らかにする。また、3月に共和党のマーチン下院議員に国民政府軍の中国大陸上陸による第二戦線構築を内容とする書簡を送る。
- 4月11日 - マッカーサー元帥、トルーマン米大統領によって連合国軍最高司令官を罷免される。後任はリッジウェイ中将。
- 4月16日 マッカーサー離日。ダレス特使来日。
- 4月18日 - 吉田首相、ダレス特使、リッジウェイ中将、シーボルト対日理事会アメリカ代表が会談。
- 4月23日 - 吉田・ダレス会談。
吉田とダレスは昭和26年前半だけで3回訪日、対日講和条約の下打ち合わせを実行した。ダレスは国務長官の資格で来ており、このときのGHQ司令官リッジウェーが朝鮮派遣軍司令官を兼ねていたことを考慮すれば、最早、日本への内政干渉など問題にならず、民主党政権時代における「社会主義施策」の是正について吉田の要求に答える立場となっていた。
警察予備隊は、昭和26年2月、旧軍から陸士58期以降の245人を採用した。
4月11日、マッカーサーが戦局打開策についてトルーマンによって革職されると、後任のリッジウェーは、北海道侵攻を含むソ連軍介入を真剣に憂慮せざるを得なくなった。服部機関の復活はマッカーサーの失脚によって、かえって実現することになった。
史実研究所
昭和26年5月、落胆した服部卓四郎は「史実研究所」を組織し、自ら所長に収まった。
終戦に際して、陸軍省軍務課庶務担当将校の中根吾一少尉が、高級課員山田成利大佐の許可を得て搬出し、自宅近くの地下にドラム缶入れて埋め、保管した。昭和20年12月、山田元大佐の申し出により、元戦争指導班員の原四郎がこれらの資料の保管を受け継ぎ、原はGHQの追求を逃れるために、原本の表紙を焼却し、「昭和日記 甲」などの表題をつけ改装して保管した。昭和21年12月、第1復員省史実調査部が創設され、調査員がそれぞれ担当年代に応じて分割保存することになった。
昭和28年4月、服部卓四郎は何を考えたのか、自分の史実研究所に一括して保存し個人的利用に供することにした。こうして書き上げたのが服部卓四郎『大東亜戦争全史』(鱒書房、1953、再刊:原書房、1971)である。服部の死後、防衛庁戦史室(現:防衛庁防衛研究所図書室)に移管された。
公職追放令の解除
昭和27年6月5日、リッジウェーは岡崎勝男官房長官に「公職追放令」の全面解除を要請した。吉田茂はそれでも抵抗した。そもそも、サンフランシスコ条約は発効を待つだけになっており、警察予備隊も保安隊に改組され、増原本部長、林敬三統監によって、人事は完全に掌握されていた。
林敬三は、「宇垣流産内閣事件」のさい、陸軍省幹部(梅津・阿南・中島今朝吾)に猛抗議した林弥三吉の息子であった。林について、現在でも多くの自衛隊関係者から内局による制服組人事のコントロールの元凶をなしたといわれなき非難を浴びせられているが、前述の幕僚支配についてのアメリカ人の批判についても解答を出さねば、旧軍の人事相互互選による人事抗争の発生やノモンハン事件や終戦クーデターのようなエリート参謀将校独走の弊害を防げないのではなかろうか。
追放解除は進み、昭和27年12月までには佐官級も含めて、約1000人が「将校」として採用された。昭和26年秋まで吉田政府は服部機関を予備隊の指導的ポストにつけなかった。
服部を筆頭とする旧東條派将校は予備隊本部の文官(内局を指す)官僚を酷評し、入隊候補の旧軍人に回状を送り、入隊を思い止まるように勧めた(コワルスキー、前掲書)。
昭和27年6月、ウィロビーがマッカーサー革職とともに帰国すると服部卓四郎は一挙に力を喪失した。増原と林は、すでに服部の時代は終わったとみなし、服部機関の多くの佐官級として入隊することを認めた。東條の副官といわれた西浦進と井本熊雄が代表例である。
保安隊への改組
昭和27年7月、保安庁法をが成立、総理府の一部門であった警察予備隊を総理部の独立部局の保安庁に移管した。
「管区隊その他の部隊等」は警察予備隊の名称のまま保安庁のに移管したのち、保安隊に改組した。それまでの「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)は、国会の議決を経ていないアメリカによる違法措置であったものを是正した。
自衛隊の創設
昭和29年7月1日、保安隊は自衛隊と名称を変えた。この軍隊は、帝国軍を継承していない。帝国軍のうち少数は国民を信頼できず、地方人と呼び、国家の安全と発展よりも個人的野望を達成することに心を砕いていた。彼らのうち1人は電車内で「席を譲らなかった」として老人に暴行を加え、即座に免職された。
服部機関は、主として陸上自衛隊内に複雑な派閥抗争を持ち込んだ。服部はウィロビーの失脚以降、反米に転じ、ソ連軍賛美を開始した。このころの服部の主張はソ連軍に範を置いた「徴兵軍」で、陸軍佐官級の「現役復帰」によって、「総動員」によって一挙に小銃装備の50個師団の野戦軍をつりあげることであった。頭は相変わらず、第二帝政ドイツの軍隊であった。
陸上自衛隊幹部職員の多くは昭和27年の何月に入隊したかによって、おおよその派閥の見当がつく。
昭和31年(1956年)、国防会議が設置されると服部を参事官の要職につけ、国防計画の調整に当たらせようという発案がなされた。防衛庁内局は反発した。さらに、服部は陸海空の統合司令部をも主張したため、海軍グループ(富岡定俊元軍令部作戦課長、1941年8月16日、ハワイ作戦を服部と決定した人物)も反対した。
だがこのとき、服部がGHQと「密接な関係」をもっていたことが指摘され、ついに実現しなかった。
昭和38年、阿南惟幾に兄事する高品武彦は、その時代遅れに気づかず「三矢研究」を主唱した。中心の題目は「国家総動員体制」論であった。高品は戦争には社会主義体制=官僚独裁がより適していると信じる「統制派」頭であった。高品は昭和27年9月入隊組であった。
高品武彦は広島幼年学校卒、陸士54期の反乱組であった。三矢研究では、小泉純也防衛長長官が辞職を余儀なくされたが、じっさいに立案し立法化を説いた制服組は、いっさい責めを負わず、そのあとも昭和51年10月、東部方面総監、昭和52年10月、陸上幕僚長、昭和53年7月、統合幕僚会議議長と栄進した。
昭和32年、吉田茂元首相は防衛大学1期生の平間洋一に説いた。
「君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。
きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。
しかし、自衛隊が国民から感謝され、ちやほやされる事態とは外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣の時など、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉をかえれば、君たちが日陰者であるときの方が、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの肩にかかっている。しっかり頼むよ」((財)吉田茂記念事業財団編『人間 吉田茂』平間洋一「吉田茂と防衛大学校、一防衛大生の吉田邸訪問記」中央公論社、1991)
自衛隊においても、旧陸軍大学卒業が全員、退役し、防衛大学卒業生が幹部を占めるようになるまで、社会主義や暴力革命主義から完全に離脱することが出来なかったようにみえる。
吉田は鳩山(一郎、そのときの首相)総理の外交姿勢を激しく非難した。その趣旨は日本人自身もっと自分の国に自信を持つべきであるのに、
その外交はソ連に行って「どうか魚を取らせて下さい」と頼んで逆に脅かされ、中国に行って物を買って下さいと頭を下げる。 ソ連との外交は脅かすか、
利益をちらつかせるか、この二つしかないんだよ。 それを誠意を持って話し合いで行くという。 ソ連に話したって聞いていないよ。困った人だなどといっておられたが、
2ケ月前まで自衛隊の最高指揮官であった元総理大臣の悪口に、「はい。 そうですね」といってよいのかいけないのか、 などと考えたことまでは覚えている。
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平成14年にいたっても、石破防衛庁長官は有事立法のさい「国家総動員体制」樹立と言い出したのが沢山いたと述懐した。
有末 精三『ザ・進駐軍―有末機関長の手記』
芙蓉書房
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