シベリア出兵

1918年8月、日本はシベリアに出兵した。直接の目的はチェコ軍の救出だったが、実際はザバイカル州以東に白色傀儡政権を樹立することだった。そして1922年10月、4600人の戦病死者を出し撤兵した。・・・最盛時3個師団(7万人)で4年3ヶ月戦ったにしては軽微な損害だった。

この4年3ヶ月はちょうど第1次大戦と同じ長さだ。

シベリア

世界・日本
1917以前 出兵要請 ロシア革命
1918(大正7) 出兵開始 5・25チェリヤビンスク事件
11・11第1次大戦終了
1919(大正8) オムスク政権の
成立と崩壊
6・28ベルサイユ条約調印
10・6間島出兵
1920(大正9) 尼港事件 4・25ソ連ポーランド戦争開始
1921(大正10) 極東共和国 11・4原敬暗殺事件
1922(大正11) 撤兵完了 4・16ラッパロ条約調印
その後 その後

出兵への評価

当時の日本の世論も出兵を納得しなかった。そして現在でも言われている。何の益もない出兵だと。

しかし出兵に益が伴われなければいけないのか。益とは不動産や資金を意味するのか。日本が出兵するときは領土とか賠償金、駐兵権が必要なのか。そして同盟に加わるとは何か。昭和陸軍はシベリア出兵を政略出兵が故に失敗だったと結論つける。政略出兵とは政治上の要請で、日本の防衛範囲(生命線と称す)以外に出兵することを言うようだ。逆は軍略(戦略)出兵で優れた作戦計画に基づき攻勢に出ることを指す。

田中義一(1864−1929)
陸士3期、陸大卒。長州藩士、田中信佑の3男。1898年から1902年までロシアに留学。日露戦争では満州軍参謀。1915年参謀本部次長。山縣に近く陸軍の実権を握った。1918年原内閣のもと陸軍大臣。1920年男爵。1925年予備役に編入となり政友会総裁。1927年首相。1929年張作霖爆殺事件により、昭和天皇に叱責され、辞職した。直後、錯乱状態になり、芸者置屋で心臓発作を起こし死亡。

陸軍は、この頃から出兵は通常文民政府の要請に従って行われるという認識が欠けてきた。それを修飾するのが無益とか政略という言葉だ。もちろん文民政府は出兵が可能か否か、軍部のアドバイスを求めるべきだ。だが最終的な決定と責任は文民政府だ。これはシビリアンコントロールとは関係がない。対外戦争が外交(政治)の延長である以上避けられないことだ。さもなければ、軍人が政治家・外交官になるしかない。

要するに現在は局あって省なしと言われるが、この頃から権力の分散がひどくなり統一がとれなくなってしまったのだ。第1次大戦の参戦は外相の加藤高明が決めた。この伝で行けば、シベリア出兵は参謀本部次長の田中義一が決めた。

ここに軍部に伸張をみるのは簡単だが実情は違う。ここで政治的な経緯は複雑すぎるので追わない。単純にいえば政党政治家も問題がある。というより訓練を受けていなかった。まず語学で見劣りし、漢文は理解できるが当面の相手国、英米独露とコミュニケーションがとれなかった。

従って欧米コンプレックスと東京コンプレックス(?)のためか大アジア主義者が多くなった。当時こういったコンプレックスを持たないのは留学経験のある薩長藩閥出身者と外交官、エリート軍人だけだった。これらが相互に対立すると国としての政策が打ち出せなくなってしまった。繰り返すが日本の問題は独裁ではなくて常に過度の権力分散だ。これは現在でも変わっていない。

原敬の果たした役割

この出征期間4年3ヶ月のうち原敬は3年4ヶ月首相を務めた。原は農商省および外務省にいたことがある官僚出身だが実質初めての政党政治を開始した人物だった。道半ばにしてテロに倒れたが経綸、人格ともに一流の人物だったことは疑いない。そのような人物がトップにいながらなぜシベリア出兵が長期化したのか。それはこの時代国民の意識と離れて政治がしにくくなったことと、軍部・外務省の情報判断の失敗と下僚の視野の狭さを部門の長が補うことができなかったからだ。そして長期化させたのは尼港事件だった。

外交上の問題はアメリカだった。英仏は日本にシベリア出兵を要請したがアメリカが反対した。少数の陸軍軍人は内心すなわち沿海州での傀儡政権樹立をアメリカに見抜かれたと思った。そして、一部はアメリカ鉄道資本がシベリア鉄道に関心があるため(!)だとすら思った。軍人の欠陥は外国を善意で見ず、常に敵愾心でながめることだ。

また当時今日から見れば面白い現象だがイギリスを軽視しアメリカを重要視する傾向が大衆のなかに存在した。現実の事象ですでに世界経済の中心がアメリカに移行していることを大衆のほうが理解していたのかもしれない。

このとき実はアメリカはボルシェビキとの協調を考えていた。以後の政策から意外かもしれないが第1次大戦でアメリカは途中での部分講和を禁止する1914年のロンドン協約に加わっていない。このため英仏や日本と異なり、ボルシェビキ政権の違約=ブレストリトウスク講和に怒りを覚えなかった。またアメリカの根本的外交政策の立脚点に孤立主義があり、他国に軍事介入することへ常に警戒的だ。そして介入するのであれば、日本と共同歩調をとりたかったのだ。

この点はウィルソン14ヶ条提案の前文によく出ている。この前文は、新聞報道もあまりされずかつ次官の幣原ら外務官僚も大きな注意を払わなかった。幣原が払ったのは国際連盟の提案でアソシエーション(Association)をどう約するかだけだった。アメリカにとりツアー反動政権が倒れたのは、歓迎すべき事態だったのだ。

もちろんマルクス主義がアメリカ社会に影響を持つ事もなく脅威もなかった。この時点ですでにアメリカ社会は日本やヨーロッパと異質だったことがわかる。アメリカは現在に至るまで共産主義イデオロギーに全く脅威を感じずに済む唯一の大国だ。

田中義一は撤兵後、出兵についての利益を尋ねられ、「地図(兵要地誌)を作った」と言った。現在でも米軍の使用する北朝鮮以西バイカル湖までの地図は全て旧軍が作成したものだ。(航空写真では地名までわからない。)確かに役に立ったかもしれないが当初の目的は違う。

田中の目的はシベリア東部3州(沿海州、黒龍州、ザバイカル州)を領土化することだった。留意すべきは既にこういった考え方は時代遅れになっていたことだ。第1次大戦の戦後処理でも国際連盟の委任統治という考えが出てきている。すなわち暴力的手段で不動産のやり取りをすることが文明的でなく思えてきた。そして植民地保有が直接利益を生まなくなったことを人々は理解し始めていた。

兵士にとっての大義

兵士は目的を理解したのだろうか。というのは領土獲得が本意だとしてもそれを広言できる時代では既になくなっていた。田中も広言はしていない。当然兵士は何も説明を受けていない。多くは同盟、すなわち日本は連合国(当時英仏はそのように呼んだが日米ではあまり流行しなかった。アメリカは参戦が遅いからわかるが日本はやや不思議ではある。)の一部に属しており要請されたからだと受け取った。

つまり他国の戦争である。これでは防衛戦争(敵国内で戦うにせよ)に比べ士気はあがらない。普通それでもよいのだ。ただ問題として日本軍はドイツ式に全部、徴兵の軍だった。ここに問題がある。会計上も外征のため徴兵軍を使用すると特別の費用支出という認識が弱くなる。

英仏は同盟とか外征のためには志願兵の部隊または傭兵を使用した。つまり2本立ての軍だった。アメリカは現在でも外征には原則全員志願の海兵隊を第一義に使用する。ところが日本には徴兵軍しかない。当初ハルビン特務機関はこの隘路を打開するため日本人義勇軍を結成した。しかしものの見事に失敗だった。なかなか日本はエリートまたは劣等部隊を認めない。

シベリア出兵は連合国の大義に従った出兵と大半の人間は理解した。領土獲得も地図獲得も徴兵軍を納得させる目的が欲しいために取り繕ったかのようにも見える。第1次大戦でこのように抽象的なすなわち国境に敵軍が並ぶという事態でなく参戦した国にイギリスがある。イギリスはベルギーの中立侵犯を理由に参戦した。そして100万人の戦死者を出した。戦後イギリスには絶対平和主義が流行した。しかし被害の少ない日本はそれすらなかった。

同盟(戦時同盟ではなく)を理由として参戦することは普通次の戦争でその同盟国が味方になって戦ってくれることを期待する。

ところがこれ以降、極東で唯一の大国になった日本に同盟国は不必要だと思われた。そして本来最大の目的、連合国としての行動は忘れ去られ、また将来の味方として期待することも自ら棄てた。現在でも他国の戦争に巻き込まれるな、という声がある。しかしその声に従うと双務的な軍事同盟や中立保障条約を全て否定する事になる。それがシベリア出兵が終了(同時にワシントン会議)してから1936年防共協定成立の間だった。たしかに明治維新以来現在に至るまで最もフリーハンドの完全に独立した国家だった。しかし果たしてよい時代だったのだろうか。

出兵は日本人にでなくロシア人の役にたった

そして軍人も日本の歴史家もとりあげないが、この出兵で貢献できたことがあった。それはこの4年3ヶ月シベリアに飢饉が生じなかったことである。この全期間を通じてヨーロッパロシアは人肉市場ができるまでの食料不足に悩んだ。少なくとも1000万人以上が1919年から1925年までの間に餓死した。

これはヨーロッパロシアの南部穀倉地帯で発生した。これは不思議に見えるが飢饉は穀倉地帯の方が発生しやすい。日本でも米騒動は富山県から発生した。つまり飢饉になると首都などには強制力をもって穀物が集められる。また首都に住む人間は流通ルートを知っているうえ購買力が高い。穀倉地帯の周辺の都市にはそのいずれもが欠落している。

シベリアは元来食料は満州を通過して得ていた。東支鉄道は白軍が一貫して保持していたしその先は南満州鉄道だ。日本軍の補給もボルシェビキの協力(!)もあって順調だった。要するに敵対して生きていける環境にシベリアはない。食料はシベリア全土でほぼ円滑に流通した。また治安も悪くはなかった。結果として白系の人々の脱出に大いに貢献した。

帝政ロシア軍の将校で白軍に加わった人々の60%はシベリアを経由し脱出した。またその後もパリの将校団がボルシェビキのスパイと化したのと比較して誇りをもって生きる環境が極東の方により存在したようだ。多くは上海へと向かい、その後渡米した。日本軍が撤退したあと、シベリアはラーゲリ(強制収容所)と軍事基地の集積地に転落した。

この戦いに参加した日本兵は延べ約22万人だった。参加した兵士は参戦の理由に納得がいかなかったと戦後も長く語った。始めはともかく政治家、軍人、外交官すべて後半は形作りで駐兵の理由などなかったのだろう。

徴兵軍の兵士は考える。それでも日本軍の兵士は国の要請に従い、それが義務だと思い戦った。ある者は極北の地に倒れた。そして彼らの倒れた早春の頃、想いだそう。やはり彼らは英雄だったと。

彼らはおそらく第1次大戦で最後に倒れた兵士だった。彼らを描写する言葉は全てが始まった時1914年9月ロイドジョージの演説がふさわしい。

「国家にとって必要な永久に続く偉大なこと、それは平和の時代には忘れられている。名誉、義務、愛国心だ。輝く白衣につつまれて犠牲の偉大な尖塔ははるかなる天空を指している。」

そして4年3ヶ月はシベリアが流刑地でなかった短い一瞬でもあった。


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