日露戦争

日露戦争は19世紀と20世紀における二国間の戦争のうち最大規模のものである。

日露戦争時代の外交史を調べていて驚くのは、戦争がヨーロッパ政局に与えた影響の大きさである。日露戦争の前、ロシアの仮想敵国はドイツでなく、イギリスだった。そして英仏は植民地をめぐって対立しており、イギリスはドイツとの同盟を模索していた。

これが日露戦争とその結果によって大きく変動し、英露仏とそれに対抗する独墺という図式が確定し、そのままの形でヨーロッパ各国は第一次大戦に飛び込んでいった。すなわち、第一次大戦は日露戦争の後遺症の側面がある。

これと第二次大戦と比べてみよう。第二次大戦は時間的なずれを考慮すれば、ヨーロッパにおけるヒトラーの戦争と日米戦争とに分けることができる。そして日米戦争は、ヒトラーの戦争、フランス戦と独ソ戦に触発されて発生したものである。目米戦争とヒトラーの戦争の関係は日露戦争と第一次大戦の関係と逆である。

もちろん、明治の為政者は戦後ヨーロッパ情勢を考慮しながら、日露戦争に入ったのではない。

朝鮮半島がロシアの勢カ圏におかれることは、日本国民がロシアに奴隷化される第一歩とみなし、戦争を決意したものである。欧米の指導者の大半はこの事情を理解していた。

日露戦争は少なくとも当時わかりやすい戦争だつた。

そして次に意外なことは、日露戦争において日本の海軍が用いた方法(ソフト)と装備(ハード)が世界第一級、さらにその上を行くものがあったことである。

海戦のためのハードの大半はイギリスからの輸入品だった。だが、輸入したイギリス製品はイギリス海軍も十分使いこなしていないような最先端品ばかりだった。つくれなくとも技術評価はできていた。維新から三〇年ほどしか経たず、このようなことができるのかと驚くと同時に、明治人の受容性、応用力に脱帽せざるをえない。

ところが、日米戦争におけるハードの大半は国産だったが、世界第一級といえるものではなく、また新技術にしばしば対応できていなかった。

ハードやソフトの評価は次世代をみるとわかりやすい。

例えば、海戦における艦砲の時代は第二次大戦の太平洋では終了していた。艦砲は最大三〇キロしか弾丸を飛ばせないが、飛行機は五〇〇キロ以上飛ぶことが可能である。その結果、一九四五年以降、戦艦や巡洋艦は古語となった。日米戦争における日本海軍のハードやソフトの大部分は旧弊なものとして忘れ去られた。

ところが、日露戦争で日本海軍が実践した方法は模範として戦例となり、第一次大戦の海上決戦の基礎をなしているのである。要するに、外交にしても戦争にしても、明治から昭和にかけて日本人が単純に進歩したと考えてはならない。ある局面では日本人は退歩したり、技術競争に敗北したりしている。

さて、東郷平八郎である。

東郷はわかりやすい男である。そして多方面にわたる才能があった。語学だけとっても、夏目漱石を超える英語能力があった。そして、ルールをよく守った。第一次大戦から暫くすると、帝国海軍に条約、艦隊両派による派閥抗争が発生した。東郷は艦隊派の長でもあった。

この派閥抗争は日本でよくみられる人事や人間関係をめぐってのものではない。珍しくも、軍政・艦政をめぐる政策論争だった。

根本には、海軍は誰のものか?海軍軍人は何のために戦うか?という問いがあった。

東郷にとって、この質間にたいする回答は簡単だった。海軍は天皇の国民のものであり、立憲君主制の下の天皇(内閣の輔弼による〜助言と承認を得て)の命令により海軍軍人は戦う、すなわちイギリスの立憲君主制と同一である。これが艦隊派の基本であり、艦隊勤務をやる者の基本でもあった。

条約派はこう考えない。最後の海軍大将であり、山本権兵衛に淵源を発する軍政畑かつ条約派の井上成美は次のように書いた。

「軍隊は国の独立を保持するものであつて、政策に使うのは邪道と見ている。独立を保てぬという時は戦争をやるが、政策の具に使ってはならぬ。政策に使われた時、軍人は喜んで死ねるか。第一次大戦に駆逐艦を出したのは不可と思っていた」

井上成美の論の間題は、国の独立の保持を誰が判断するかという点が欠落していることだ。

おそらく、井上はそれを海軍軍人だと考えたのだろう。そうなれば立憲君主制の否定に向かう。

井上が、国体(=立憲君主制)の改廃をめぐって、米内光政と最後に対立したことはいかにも筋を通した行動である。

反対に東郷は、海軍軍人は天皇の命令、政策に忠実であるべきだと信じていた。満州事変の最中、東郷は条約派の谷口尚真海軍軍令部長を叱責した。谷口が「山海関に艦隊を派遣することは英米の介入を招く」といって反対したためである。東郷からみれば、英米介入について考えるのは内閣や外相の仕事であって、海軍軍人が考える必要はなかった。

また井上の論難する第一次大戦中の駆逐艦の地中海派遣は、当時の大隈重信内閣の打診に応え、海軍省軍務局長だった秋山真之が主唱したもので、確かに「政策」に従ったものである。だが、こういった小戦闘への参画と「国の独立の保持」との関係を判断できるのもやはり、海軍軍人ではなく、政治家や外交官ではないだろうか?

現代におきかえてみよう。内閣と議会が決定した「インド洋派遣≒小戦闘への参画」という政策に海上白衛隊員は反対すべきだろうか?現代のマスコミは時折「政治の道具に使われる自衛隊員は気の毒だ」と書く。井上の論は、これと同一線上にある気がしてならない。

日露戦争における陸海軍の将領は、みなニコニコしている写真を残している。兵士も同じである。兵士の写真は、まるでオモチャの兵隊さんを連想させる。この点で現代の白衛隊と共通性がある。

だが昭和軍人は明らかに異なっており、考えるあまりの苦痛の表情を浮かべている。明治維新から日露戦争までの間、日本は成功した国だった。そして一九四五年から現在までもおそらく成功した国だろう。だがその間については失敗したことが否めない。

昭和軍人は自分達の戦争が終ったあと、敗因は経済力にしても政治体制にしても日本が外国より劣っていたからだと説明する。条約派の堀悌吉と山本五十六は「日本の文明は、欧米の先進国と比べて国民の覚醒において、百年は遅れている。学術界においても三十年遅れている。そして、わが海軍は十年遅れている」と第一次大戦直後、認め合ったという。

こういった海軍は欧米よりも遅れている、国民は更に遅れているという確信が、政府の決定=政策に従わず、海軍は政策の具にはならないという誤つた考え方につながった可能性を否定しきれない。

東郷平八郎は、日本や日本人に自信をもっていた。

第一次大戦の決戦のマルヌ会戦に勝利し、また東郷の知りあいでもあったフランスの将軍ジョフルは戦況不振を伝える下僚に「お前はフランスを信じることができないのか」と叫んだ。

東郷平八郎も昭和軍人に「お前たちは日本を信じることができないのか」と叫びたかっただろう。

井上成美のいう軍人にとり「喜んで死ねる情況」をみつけることは「青い鳥」を捜すようで難しい。だが、暗い表情をせず、近代人としての白我をすてさる勇気も、軍人が戦場に臨むとき必要な資質かもしれない。