黄海海戦

旅順は欠陥要塞だった

 東郷平八郎は日露戦争後になって「本当は日本海海戦より黄海海戦の方がしんどい戦じゃった」としばしば語った。黄海海戦がなく、バルチック艦隊と旅順艦隊+ウラジオ艦隊が合流可能になれば、もっと「しんどい」ことは確実であろう。バルチック艦隊東征は日露戦争勃発時にロジェストウェンスキーが提案しており、戦争の論理的帰結であり、山本権兵衛海相は開戦上奏においてそれに言及しており、日本側においても予期するところであった。

 それまでにより強力な旅順艦隊をまず減殺せねばならない。旅順攻防戦について「陸軍にとって必要なかった」(司馬遼太郎)という説は今に考えられることで、当時の陸軍首脳陣とりわけ山縣有朋は「海軍にとっても、陸軍の遊兵排除にとっても、要塞は攻略されねばならない」と思っていた。開戦直後に旅順攻略を目的とした強力な第三軍結成が準備され、乃木希典が司令官に想定され本人に伝えられていたことはその証左である。

 乃木第3軍は、8月7日、旅順外側防衛線にあった大孤山をあまり抵抗を受けず占領した。第2軍の上陸地点も大孤山であるが、これは海岸線にある地名で、それとは別であり紛らわしい。連山ではなく孤独峰のうち大きな山を意味し、「固有名詞」かどうかも疑わしい。

 漢族が満州に入植を開始したのは、1850年代からである。それ以前、清朝は満州が満州族固有の土地であるとして漢族の入境を禁止していた。東部満州には東三省(盛京・吉林・黒竜江)が設置されたが、そこに軍政を敷く総督は「奉天将軍」と呼ばれ、将軍府を奉天(瀋陽と明朝時代の古地名に変更されたのは、中共政府成立以降)に置いた。

 秋季から春季にかけて満州には寒波が到来し、盛京省(現在の遼寧省)一帯の陸行はほぼ不可能になり、人間の往来は山東半島の芝罘(チーフ、現在は煙台)経由旅順の海路になった。芝罘=旅順の線の内側は渤海湾と呼ばれ、黄海から名前を変える。

 ここは現在も部分結氷するが当時、沿岸部は全面結氷した。一方、黄海では河口付近を除いて結氷は少なかった。日露戦争が2月10日から始まったのは、この結氷時期とキャンペーンシーズンを考慮した結果であろう。満州では遼東半島南部を除いて、冬季キャンペーンは無駄死を招く。

 日本軍による大孤山占領は決定的であった。ここから守備隊司令部の置かれた旧市街まで約6キロであった。重砲の射程距離はこのときでも約16キロあった。それゆえ、要塞守備の外縁防衛線は補給中心から16キロ以上離す必要があった。

 大孤山を塹壕もつくらずそのまま放置したことは、孤独峰であり防衛線を敷くことが困難であったにせよ、旅順要塞には初めから欠陥があったことを示す。砲撃によって堡塁を破壊することはできるが、泥でできた塹壕を破壊することは不可能である。要は穴を深く掘ればよいのである。ベトンの堡塁と違い塹壕は動かすことができる。

 旅順要塞を攻略することが困難だったのは「ベトン」(仏語でコンクリートの意味)のせいだとする戦訓は誤っていた。戦場感覚で戦訓をとることもまた危険なのである。ガダルカナル攻防戦はヘンダーソン飛行場を取巻く塹壕線突破に失敗したため、日本側の敗北に終わった。
だが、旅順と同じく10キロ以内までに達し重砲設置には成功した。ここから旅順の戦訓をとれば「海上補給・封鎖」のみに専念し、ピストル・ピート(米兵がつけた日本軍重砲へのあだ名)で、陣地転換しながらランダムな時間に滑走路目がけて時限式砲弾を撃ち込めばいいのである。そのような滑走路から飛行機は発着できない。

第3軍司令官乃木希典は戦略目的をはるかによく理解していたし、連合艦隊司令長官東郷平八郎は第3軍支援のためあらゆる手を尽くした。トラックにいて動かなかった山本五十六とは対蹠的である。

乃木と東郷が明治の終わるまで旧交を温めたことは自然であった。さて、8月6日、第3軍と海軍重砲隊は前進し、陣地構築を終了し、大孤山に観測所を設けた。ここから旅順港の大部分を瞰制できた。380門の重砲・野砲が砲列をそろえた。対する旅順防衛のロシア軍は海岸砲を加え460門であった。

 もちろん攻撃側は照準を特定地点に集中できるが、防禦側は見える範囲でバラバラにしか砲撃できない。この時点で旅順の「軍港」としての機能はほぼ喪失されたとみてよい。たとえ外周防衛線を突破されてもその内側で防衛すればすむが、補給中心から重砲の射程距離16キロの範囲に敵砲兵陣地があれば、兵站そのものが困難になり、守備を続行することは徐々に困難になる。そのうえで、旅順攻防戦を戦ったロシア軍はじつに強靭であった。

乃木希典は旅順攻略後、イギリスの観戦武官イアン・ハミルトン(第一次大戦のガリポリ攻防戦の敗者)に、「今回の攻囲攻撃で市街地や港を防禦するさいには、その付近より遠い圏外にある堡塁を一層厳重に固める必要があることを学びました。少なくとも8マイル(12・8キロ)は離れておらぬと、徒に敵のため贅沢な標的をこしらえてやるようなものです」(『思ひ出の日露戦争』)と語った。乃木の戦訓を真摯にとろうとする姿勢は立派であり、生涯、軍事学を磨こうとした。

「艦隊出て行け」

マカロフが機雷により戦死したあと引き継いだ旅順艦隊司令官(代理)ウィトゲフトの思想は旧弊であった。陸戦の司令官であったステッセルに「要塞艦隊論」を唱えた。アメリカの兵学者マハンが主唱した議論であり、要塞内の軍港にある軍艦は、地上戦にその砲力で貢献できるというものであった。

戦史における実戦例もないが要塞艦隊論はステッセルを苛立たせた。要塞は「外見」からはベトン製の兵舎や砲台、塹壕・鉄条網でできているが、防衛にあたるのは「人」なのであって、攻撃する敵兵に対し逃げずに射撃を止めない兵士こそが核心であった。ステッセルが困っているのは兵力であって、もし艦隊が港内にいるとすれば、水兵を動員して防禦に当たらせたかった(じっさいに最終場面ではそうなった)。

日本人には馴染みが薄いが、ロシア人の防衛の方法は、突破されそうな場所に中隊程度に編成された兵士を送り込むことであった。だが塹壕なり胸壁なりをつくられると、増派された兵士は同一地点に次から次へと現れる的(マト)になるだけである。

 中隊は片道切符になり、士気を落とすことになるが、ロシア人は「戦争とは、そのようなものだ」と思っており意に介さない。独ソ戦スターリングラード攻防戦におけるソ連側の異様な大量戦死もこの方法が原因である。

要塞防衛に当たる陸兵はロシア艦隊を獲物であると思って、日本軍が執拗に攻撃すると考え「艦隊出て行け」を絶叫した。ウィトゲフトの真意はバルチック艦隊の合流戦術を見越して、艦隊保全こそ最善と思っていたに過ぎない。

 ウィトゲフトはステッセルらに押され、6月23日、旅順口外にチョコっと出かけすぐ戻った。これはポーズだけの行動である。ただし、湾口付近で戦艦『セバストポリ』が自軍敷設の機雷に触れ大破した。この修理が完了したのが8月5日であった。

包囲下の旅順の陸海対立が頂点に達したころ、ロシア陸軍省に8月8日、「大孤山占領さる」の一報が入った。いかに、旅順とペテルブルグの連絡がついたかは「謎」であるが、清国のジャンク船により、ロシア芝罘領事館に密書が伝わり、それが仏領事館のもつ海底電線網によりペテルブルグに伝わったとされる。

日本人は戦争における民間人殺傷を嫌がり、中立の清国ジャンク船を無差別に撃沈することを好まなかったのである。ジャンク船多数を曳航する日本の駆逐艦の写真が残っている。だが戦争と慈悲はなかなか両立しない。日露両国は死闘中なのである。中立船舶であっても指定したピケットラインに侵入したら即座に撃沈すべきであった.

日本人のある種の「優しさ」が原因であるが「営利」の中立船舶は撃沈せねば「示し」がつかなかったのではなかろうか。ロシア陸軍省は「大孤山が占領されると、旅順市街地と港湾に重砲弾が達する」とすぐさま海軍省に連絡した。それを受け、皇帝の親電をも取り付け、直ちに旅順艦隊司令部に「即刻、ウラジオストックに向け出港せよ」と命令が発せられた。

ウィトゲフトには8月8日夜、芝罘領事館の無線機(当時のマルコーニ無線機では、旅順に届くには約2000KWの出力が必要で、屋上アンテナからは毎夜不気味な青色の火花が散ったという)から親電が伝わった。セバストポリの修理も終了し、直ちにウラジオストックに到着するための石炭積み込みが命令された。

9日早朝から積み込みが始まったが、石炭バージ(ハシケ)が戦艦『レトウィザン』に接舷中、海軍重砲隊の一弾がバージに命中した。バージは『レトウィザン』に衝突し、舷側に穴を開けた。

旅順は浅水港であって、口外に出られるのはこの季節、朝夕9時前後の満潮時に限定された。渤海湾や黄海は日本近海に比べ海深が浅く、潮の干満が激しい。日本には有明海沿岸にこの種の港があるが、日本人には馴染みが薄い。

10日朝9時(日本時間)、旅順艦隊は戦艦『ツェザレウィッチ』『レトウィザン』『ポビエタ』『ペレスウェート』セバストポリ』『ポルタワ』の順で出港、巡洋艦『アスコリド』『パラーダ』『ディアナ』『ノーウィック』が続いた。のちのバルチック艦隊は石炭船を随伴したが、ウィトゲフトは常設の石炭庫までしか積み込まなかった。これではウラジオ到着ギリギリの線までしか行けない。

『ツェザレウィッチ』の常設の石炭庫の積載量は780トンであり、これでは9ノットの巡航速度で走って、800海里しか到達できない。ウラジオまでは1200海里あった。海戦があれば石炭消費量は激増する。ただし巡洋艦の航続距離は戦艦と比較して長く常設の石炭庫で十分ウラジオに到着できたと推定される。

『ノーウィック』は海戦のあと膠州湾で一杯に石炭を積み込み、太平洋周りウラジオに向かったが途中石炭が尽き、樺太南岸で再度石炭を積み込もうとし『対馬』『千歳』によって撃破された。当時の蒸気レシプロ・エンジンでは速度を上げると逓増的に石炭を消費した。『ノーウィック』は巡航9ノットをわずかに上回る10ノットで走った結果、1500海里で石炭が尽きた。

東郷平八郎と連合艦隊先任参謀秋山真之はロシア側の動きを完全に読みきっていた。この二人は情報収集能力ではなく「情報分析能力」に優れていた。大孤山占領と浅水港という特質から10日朝、旅順艦隊は大挙出港と予想し、旅順湾口から内部を見通せる地点や大孤山頂の偵察員から港内の動きの報告も受けていた。

連合艦隊出動

裏長山列島碇泊地にあった連合艦隊は9日夕刻に出発、10日払暁には円島(旅順東方44海里=80キロ)付近に到着した。見事なまでにロシア艦隊の動きに即応した。だがそこからが問題であった。潮の干満から湾口を9時ピークに10隻が通過する。秋山真之は旅順艦隊が「顔見世興行」のように出てすぐひっこむ可能性を否定しきれなかった。

湾口からどの航路をとってウラジオに向かうかも予想できなかった。円島から戦艦『三笠』『朝日』『富士』『敷島』イタリア設計のガリバルディ級巡洋艦『日進』『春日』の6隻、巡洋艦(いずれも砲塔式主砲をもった装甲巡洋艦)『八雲』『浅間』軽巡『笠置』『高砂』『千歳』の5隻が単縦陣をとって旅順湾口に殺到した。

邂逅までの航路は秋山が計画したものであろう。というのは米西戦争サンチャゴ・デ・キューバ海戦において、アメリカ艦隊(サンプソン)はスペイン艦隊(セルベラ)と湾口を出た直後に衝突し成功した。ただし、スペイン艦隊はアメリカ艦隊と比較して速度・砲力とも大幅に劣っていた。
秋山はこの海戦を観戦武官として実見していたから、私淑したサンプソン提督と同じ事をやりたかったのであろう。これがそのあとの敗着を招いた。旅順艦隊の進行方向を日本艦隊は、東北から西南に横切るように進んだ。

そのまま進み、1時、日本艦隊は二度左8点一斉回頭(左へ90度左折。三笠以下8隻の単縦陣の艦隊は2度回頭後いったん逆順となる)した。1時15分、距離1万メートルで、『ツェザレウィッチ』は1弾試写を放った。これにより第1回戦が開始された。回頭終了後から三笠は後続6隻がそろった事を確認し反撃した。この砲戦は三十分程度であり、距離もあって双方ともに命中弾はなかった。

日本艦隊は逆陣では戦いにくいから再度二度右8点一斉回頭した。これによって三笠を先頭とする単縦陣に戻り進行方向は元の航路に戻ることになった。時間の経過について記録は残っていない。一斉回頭自体は、理論的には三笠以下6隻同時のその場の回転であるが、かなり難しい操艦でそうなったかはっきりしない。

ところが旅順出港直後、ウィトゲフトは日本艦隊を発見し、反航戦を挑むかのように向かっていったあと、突如、右8点(90度)順次回頭した。これは後世、ウィトゲフトのフェイントまたは肩透かしといわれるようになった。さらにウィトゲフトは左4点(45度)程度順次回頭した。

旅順艦隊はZ字運動をなし、日本艦隊をやり過ごし済州島方面に向かおうとした。予想を上回る高速度で日本艦隊の後方をすり抜けた。

ウィトゲフトの猛速度

日本艦隊は翻弄され、2時8分、12点(138度)の順次回頭をなした。ところが旅順艦隊の戦闘速度は異様に速い13ノットであった。秋山真之はウラジオまでの距離を考慮し、旅順艦隊の出せる速度は10ノット程度が限度と予想した。

3時には日本艦隊と旅順艦隊の距離は30キロ(17海里)にまで拡大した。日本艦隊は15ノットであったから3時間以上の追撃になった。5時38分(日本時間、日没9時)『三笠』はようやく旅順艦隊の後尾に追いつき、8000メートルの距離でただちに砲撃、第2回戦が始まった。

後方から角度浅く追いつく同航のT字戦となったが、旅順艦隊は後方からくる先頭の『三笠』に射撃を集中できた。『三笠』には6インチ以上の砲弾20発が命中した。徹甲弾が中心であったが、一弾は司令塔に命中し、参謀ほか3名を戦死させ参謀長以下多数を負傷させた。この海戦における日本側戦死者は300、ロシア側は260であった。

このとき『三笠』砲術長加藤寛治が公算射撃(パターン射撃)を始めて実施したが、ロシア側の単純な斉射も効果的であった。射撃戦が1時間も続いた6時38分、巨弾がツェザレウィッチの司令塔に命中しウィトゲフトを戦死させた。このとき『三笠』主砲斉射の4弾のうち3弾が命中した。「夾叉弾」を与えたのであった。

操舵も不可能となり、『ツェザレウィッチ』は同一地点を転回し始めた。ツェザレウィッチは深夜独領膠州湾に逃れ、そこで抑留された。石炭残量は200トンであった。さらに破壊された姿を全世界に暴露した。6インチ以上砲弾の命中弾は32発であり、上部構造は破壊されていたが、機関部はまったく損傷を受けなかった。

上部構造破壊と石炭切れ

嚮導艦(先頭)『ツェザレウィッチ』が沈められたり、航行不能になったりした場合、『ペレスウェート』艦長ウフムトスキーに譲られる規則であった。ウフムトスキーは暫く、どの航路をとるべきか逡巡した。だがその間、、巡洋艦『アスコリド』(上海に逃走。そこで抑留)、『ディアナ』(サイゴンに逃走)、『パラーダ』(旅順に戻る)はバラバラに逃走した。

ウフムトスキーは残る戦艦5隻を引き連れ、翌朝9時の満潮に合わせ湾口に入るべく、死地旅順に戻った。しかしながら、いずれの艦も上部構造はかなり破壊されていた。

下瀬火薬は焼夷弾(司馬遼太郎)ではなくて、威力があったのであり、旅順に逃げ修理できた艦は皆無であった。船底や舷側の穴はパッチを貼って完璧に修理できるが、上部構造の修理は本国から部品を取り寄せねば手立てがなかった。事実上、旅順艦隊はここで全滅した。

ロシア側敗因はウィトゲフトの決心、ウラジオストック遁走策であり、とりわけ出港後13ノットの高速を追求し、石炭残量が不足したのが失敗であった。10ノットでも13ノットでも相手が15ノットを出せば、海戦のイニシアチブをとることはできない。また、実戦で示された通り速度が遅くとも砲戦においてそれほどの不利はない。

要は遅い側は、T字が切れず、イニシアチブがとれないだけである。石炭節約しか旅順艦隊ウラジオ到達の夢は果たせない。また海軍省が「ウラジオ遁走」を強要したならば、民間石炭船を準備すべきであった。ロシア商船隊は日本よりも劣り、アメリカ船舶をチャーターするしかなかったが、大金につられる命知らずのアメリカ人は沢山いたであろう。

日本側苦戦の原因の一つは秋山の135度の反航戦という航路設定の拙さにあった。サンチャゴデキューバ海戦実見に影響されすぎ、湾口決戦を狙ったためであった。一時泊地の円島と旅順湾口南への出港の角度は135度であった。いったん、やりすごすべきであった。それと東郷の2回の一斉回頭である。これでは時間合わせが難しい。両方動くのであった。

両方とも日本海海戦への貴重な教訓となった。