対馬へ!

ロシア人にとっての対馬

ロシア人にとって対馬は願ってもかなわぬ夢の島だった。南から極東ロシアにいこうとするとき、なんとしても対馬を通過せねばならなかった。南端にそびえる二つの山、竜良山と萱場山はいつも全山緑の高木で覆われていた。岬に光るしし豆酸崎灯台と萱場山の中腹にあるコンクリートの建物は確かな文明を感じさせてくれた。

しかしながら、灯台を守っているのは日本人、コンクリートの建物はいずはら厳原要塞の砲台であった。

ロシア人船員は、この愛すべき光景に敬意を表し、対馬を『二つのロバの耳を持つ島』と名づけた。ペテルブルグにあるロシア海軍省は、この島の戦略的重要性を考えずにはいられなかった。対馬領土化は1861年と1900年(馬山浦買収計画)の2回試みられ、いずれもイギリスの妨害によって失敗した。

対馬は島であり、海軍が優勢でなければ領土化できない。海軍が優勢になるためには対馬が必要である。この難問を解こうとしたのがロシア陸軍による、全朝鮮半島領土化の第1歩、竜巌浦の基地化であった。

この当時の(現在も同じく)日本人の多くは、ロシア人が対馬へ脅迫観念をもっていることに気づかなかった。多くの政治家は、満韓交換論(ロシアは満州を、日本は朝鮮を「影響圏」とすること)で日露間は妥協できると考えていたのである。

ロシアの狙いは対馬、または海峡であって、そこを制する基地をつくるためには、後背地を確保し、策源地と陸上交通を円滑にせねばならなかった。朝鮮半島で日本に譲るわけにはいかない。

日露戦争後、ニコライ二世は、ブキャナン英大使に開戦理由を問われ「対馬が、スカゲラックやダーダネルス・ボスフォラスのような海峡問題になることは、なんとしても防ぎたかった」と語っている。

18世紀と19世紀に戦われたロシア・スウェーデン戦争、クリミア戦争、露土戦争と同じく、ロシア人にとっての日露戦争は「海峡」戦争であって、もっとも完膚なきまでに敗北した戦争であった。

ロシア人が対馬への脅迫観念をもっていたことは、ロジェストウェンスキーがバルチック艦隊を対馬にもっていった理由の説明にはならない。対馬通過にもっとも明確な反対論を述べたのは、リヤンコールド岩場(竹島)の降将、ネボガトフであった。

ネボガトフの反対論

ネボガトフは、降伏責任を問われ、軍法会議に詳細な疎明書を提出した。その中で、ロジェストウェンスキーの対馬通過を激しく論難した。

「艦隊の全滅をもたらした大きな理由の一つは、疑いなく、ウラジオストックに向かうにあたり、対馬海峡を通過したことである。ロジェストウェンスキー提督が選ぶことができる海峡は3つあった。対馬、津軽そしてラペローズ(宗谷)である。この3つの海峡からウラジオまでの距離は似たようなもので、およそ450海里だ。だが地勢的には大分異なっている。

対馬の近くには大軍港佐世保がある。我が艦隊が対馬を通るとなれば、日本の艦隊はその大軍港を頼りにできる。日本の艦隊は佐世保付近に碇泊して、来るべき海戦に備えた。余計な有害な資材は港に預けることができた。日本の艦隊は海戦直前に機械やボイラーを良好な状態に整備できた。基地近くのため、もちうる全部の水雷艇を用意できた。我が艦隊が対馬に接近したとき、日本海軍は万全の監視体制をしくことができた。

反面、自分達の碇泊地や主力艦隊の様相は隠蔽できた。北支那海は東、琉球列島から日本本島、西、クエルパート(済州島)から朝鮮半島で囲まれている。日本人はその好きな場所に無線機をもった望楼を設けることができた。巡洋艦や商業船舶が我が艦隊を発見すればもちろん日本の艦隊本部に通報するだろう。敵は我が艦隊がいつ現れるか正確な時間を知っていた。あとは一番好都合な時間と場所で海戦を始めるだけだったのである。

日本艦隊はこのように有利な条件にあったが、さらに数点を加えねばならない。例えば、艦隊が基地近くにいれば、乗組員は疲労することなく、病人も退艦させられる。もし、ロシア艦隊がラペローズ海峡を通過したならば、ここは日本艦隊の主要基地から500海里離れている。周辺の海岸には、軍用であれ民間用であれ、港湾そのものがなく、もちろん艦隊もいない。つまり、ロシア艦隊は日本艦隊と同一の条件で、ラペローズで会敵することになる。

5月には、ラペローズ海峡から韃靼海峡にかけて濃霧が発生する。霧が出れば、我が艦隊はウラジオ遁走への絶好の機会が与えられることになる。日本海軍は、ウラジオストックからまたは我が領内の無数の湾から出撃してくる水雷艇対策に多大のエネルギーを割くことになるだろう。もし、ラペローズ通過に成功したならば、我々の朝鮮海峡における運命、よく準備され無傷の艦隊に出会うことは避けることができた。

対馬に接近するにあたって、我々は敵艦隊について、なんら情報を持ち合わせていなかった。これにたいしサハリン(樺太)では、東西両海岸に望楼を設営することができ、そこを基地として蒸気カッター船、端艇、商用船舶を事前に計画された位置に配置することもできた。必ずや、敵情報を得ることができたであろう。もしロジェストウェンスキー提督が、私または別の士官と会議をもてば、対馬通過案は大反論に会っただろう。このような重要な決定について、司令長官一人に全決定が受任されていたとは道徳律から認められない。我々になんら情報を提供しないことにより、彼は多くの人命を対馬海戦で喪失させた。一方で我々のごとき生存者をもさらに苦痛なる状態に陥れたのである」。

津軽海峡

ネボガトフは、いくつかの重要な点を伝えている。ただし、軍法会議にかけられたとはいえ、海軍士官であって、軍事機密については守秘義務が課せられていた。疎明書は公開されるので、慎重に軍機について触れることを避けたとみるべきである。

目につくのは、通過可能な海峡について3つをあげながら、津軽についてはまるで論及していないことである。これはとりもなおさず、津軽は通過不可能であり、最初から除外されていたことを意味する。

中国(華北)と朝鮮の北米航路は対馬と津軽を通過する。津軽海峡の最小幅は12海里であって、現在は日本の領海に含まれる(ただし日本政府は国際海峡と指定)が、当時(沿岸3海里)は公海であった。

日本海軍は、前年12月以降、臨検を実施していたが、商業海運を全部止めることは、もとより不可能であった。ロシア側は何らかの手段で、中国向け船舶から対馬海峡と津軽海峡の警備体制の情報を得た可能性が強い。

海軍は、津軽海峡に浮遊水雷(海軍は独自に開発を済ませていた。4、5個の浮上する水雷をロープでつないだ)を大間崎方面に準備し、竜飛崎方面に電気水雷(海底に沈置し、電気スイッチで爆発させる)を敷設していた。機械水雷でなく管制可能な水雷を敷設したのは、漁業と沿岸航路を維持することの他に、連合艦隊を日本海から太平洋に緊急移動させる必要があったためだ。

陸軍も大間崎方面に海岸砲を新たに設置した。さらにネボガトフは触れていないが、海軍は大湊(青森県陸奥湾内)と函館2カ所に要港部、商港をもち、水雷艇隊と仮装巡洋艦を配置していた。前年のウラジオ艦隊の太平洋突出に懲り、津軽海峡警備のレベルは格段に向上していたのである。司馬遼太郎は、

「(大本営は)ただ十に一つ、津軽海峡へ来るかもしれないということを想定して機雷を敷設してある。もっとも機雷のことは鎮海湾の連合艦隊には報せていなかった」
と書いている(『坂の上の雲』7)。

後段については考えられない。海軍省に属する「津軽海峡防衛隊」は、前年12月に発足しており、そのとき連合艦隊から水雷艇や仮装巡洋艦が分離されており、海軍省が事情を説明しないわけにはいかなかった。また、海軍省が連合艦隊に津軽海峡防衛隊を秘密にする理由は何もない。

前段についていえば、津軽海峡の水深(最狭最深部)は120メートルあり、日本の機械水雷(機雷)のワイヤー長が72メートルであるから、敷設は不可能であった。ただし、日本側が「新兵器」、ワイヤー長のより長い機械水雷、潜航艇を出してくる可能性をロシア側は排除できなかった。

津軽海峡防衛は「来るかもしれない」という理由ではなく、「通過する気をなくさせる」という抑止への期待が中心であり、目的は十分に果たしたのである。野村実(防衛研究所・戦史研究室長)は、

「(連合艦隊が)北進し、津軽海峡で待ち伏せする作戦をほぼ実行に移しかけていた」
と書いている(『日本海海戦の真実』講談社現代新書)。

連合艦隊が、竜飛崎沖の松前大島に集合することを予定していたのは事実である。しかしながらそれは、津軽海峡で待ち伏せするのではなく、太平洋に突出または宗谷に向かうためであった。

津軽海峡では、海流は西から東に流れるが、汐の干満によっては、日中逆転することがあり、津軽海峡防衛隊は、浮遊水雷運用のため日夜潮流を研究していた。

この研究書類1件も防衛研究所に現存している。野村が津軽海峡防衛とそれをロジェストウェンスキーが察知する可能性をいっさい捨象しているのは「日本海海戦の真実」を探求するにしては、まことに奇妙な姿勢である。浮遊水雷や海岸砲があったならば、敵艦隊は海峡突入を諦め、他にまわってしまい「待ち伏せ」にならない。そのうえ、浮遊水雷が漂流している海面でどうやって海戦をやるのか?

日露両海軍とも津軽については初めから捨象していたのである。

宗谷海峡・国後海峡

宗谷についてはどうだろうか。ネボガトフは霧がバルチック艦隊にとって有利であったとする。
前年、ウラジオ艦隊は房総から宗谷に向かおうとしたことがあった。千島列島通過には国後海峡(国後島と択捉島の間)と択捉海峡(択捉島とウルップ島の間)の二つの航路がある。択捉海峡は国後海峡(瀬戸)よりも幅は広いが、海図が十分ではなかった。

ウラジオ艦隊は、国後海峡突破を試みようとしたが、けっきょく霧で断念し、津軽海峡を再度通過した。濃霧となれば、この当時安全に航海する方法があったと思えない。

それでは国後海峡を突破したロシア艦はあるだろうか?

じつは、前年8月の黄海海戦のさい、軽巡ノーウィックが、膠州湾に遁入、石炭積み込みのうえ、屋久島灯台の南25海里を通過して、太平洋に回り、国後海峡を突破したことがあった。
国後島アトイヤ岬に設営された望楼(無線機を常備していた)が発見に成功した。石炭不足となり樺太のコルサコフで給炭中、軽巡明石と対馬に攻撃され自沈を余儀なくされた。

千島列島・東北海道から三陸にかけての太平洋岸は寒流の親潮と暖流の黒潮がぶつかるため濃霧が発生しやすい。だが、霧がないときもあり、そのときの視界は開ける。国後海峡の幅は11海里しかない。バルチック艦隊が発見されずに通過できる可能性は高くなかった。ロシア側はアトイヤ岬の日本側望楼を知らなかったし、国後海峡の天気も予想できなかった。

ロジェストウェンスキーがわかっていたことは、国後海峡周辺には暗礁が多く霧が多い、前年太平洋周りをやったノーウィックが日本側に発見された、であった。ネボガトフが国後海峡に向かう航海についての不安を書いていないことは、我田引水の感は免れない。「霧」は賭けなのである。

仮にオホーツク海に到達できても、そこからがまた問題である。樺太に石炭ヤードはほとんどない。戦前、極東ロシアはカロリー数の高い石炭は日本炭または仏印ホンゲイ炭を入れていた。

当時、ウラル以東では石炭を産せず、戦中はドネツ炭田からウラジオへ5千キロを運ばねばならなかった。樺太には備蓄した石炭少量しかなかったのである(明治時代を通して日本は石炭輸出国であった)。

コルサコフには小さな石炭ヤードがあったが、バルチック艦隊50隻に給炭する能力は到底なかった。宗谷海峡で待たれた場合、まさに袋の鼠の公算が強かったのである。くわえて、津軽・宗谷の方と、国後・宗谷はほとんど等距離である。

連合艦隊は、竜飛崎沖(松前大島)に構えていれば、アトイヤ岬の望楼からの報告があってから、宗谷に向かって十分間に合う。津軽海峡通過ができれば、出し抜きが可能だが、宗谷では不可能である。函館は、商港扱いではあるが、船舶修理設備や病院、船員クラブは整っていた。佐世保と大きく差をつけることはできない。

石炭過剰積載

ネボガトフは、給炭問題については別に章を設け、次のように語っている。

「全ての艦船が過剰積載になっていた。ロジェストウェンスキー提督の命令によるもので、喫水線は危険なほど下降していた。加えて、余りにも多くの石炭を積み込んだため、装甲は2フィート(60センチ)ほど水面下にあった。艦艇の装甲は言葉の上だけのものに過ぎなかった。実際のところ装甲は商船と大差がなかったのである。石炭は貯炭庫、水兵室や通路だけではなく、上甲板の士官室、上甲板そのものにもうず高く積まれた。

小型の装甲巡洋艦では艦長室にまで積まれた。戦艦アプラクシンには、戦闘が終わった5月28日、依然として定格の積載量を20%超過する量の石炭があった。このような過剰積載は船底の汚れと相まって、速力を落とすことも明白である。例えば戦艦ニコライ一世の場合、蒸気圧力を最大にしても時速12ノットが精一杯であった。

いずれの艦艇もこの状態で海戦に立ち向かったのだ。当然の疑問が生じる。どうしてロジェストウェンスキー提督は常に、石炭を大量に積み込もうとしたのか?我々の推計によれば、最終給炭地点から出発するとき3千海里分の石炭を積んでいた。だが、そこからウラジオまでは900海里しかない。これは致命的な失敗ではないだろうか?」

艦隊司令長官の海戦前にあたっての最重要問題は、石炭をどの程度積むかであった。石炭推進の軍艦は、石油推進に比べ、5分の1ほどの航続距離しかなかったからである。

ロジェストウェンスキーは、カムラン湾を出航するときすでに、3千海里分の石炭積込みを命令しており、そのあと2回の給炭は小刻みなその補充にすぎず、ネボガトフの証言はほぼ正しいのではないかと思われる。

ネボガトフは一方、戦闘速度と巡航速度では、石炭費消に大差が生じることを言及していない。

アプラクシンはバルト海の沿岸小国の砲艦に対抗するための戦列艦であったため、定格の石炭積載量は1千海里分ほどしかなかった。5月28日朝、定格の20%を上回る量しか残っていなかったということは、2日間と戦闘半日の550海里走行で3千海里分積んだ石炭の6割を費消したことを意味する。

これでは、降伏地点のリヤンコールド岩場からウラジオまでの400海里(10ノットで40時間かかる)の間に、もう一度海戦を挑むことは不可能であろう。むしろネボガトフは降伏の理由をここに置いた方がよかったのではないか。

当時の大型艦の機関室とは、サウナ風呂の中央に石炭ストーブを置いた状態であった。汽機(ホットコンデンサー)と汽管(スチームパイプ)は年中、故障していたといって過言でない。
接合部とバルブからは常時高圧の蒸気が漏れ、機関兵は「石炭クベ」の重労働とあいまって、日本の水兵ですら連続3時間以上室内にいることに耐えられなかった。機関将校は「任務トケ」と同時に卒倒するのが常であった。

この機関室上部に弾丸が命中すると、貫通することは稀であったが、裏面剥離は避けられず、相当のショックも生じる。汽機や汽管はうなり声をあげて故障した。あげく煙突に命中すると蒸気が逃げ、石炭を大量に費消しても速力が出ないことになった。

黄海海戦では、戦艦ツェザレウィッチにこれが生じた。旗艦であったために、砲弾が集中し2本の煙突ともに穴があき、燃料効率が悪化した。ボロジノ級戦艦は元々、日本の戦艦と同じく航続距離を重視せず、定格の貯炭庫には1200トンの石炭しか積載できなかった。

ツェザレウィッチは、他の戦艦が旅順に戻ることができたにもかかわらず、石炭不足のため近くの中立港独領膠州湾に遁入、抑留された。このとき石炭残量は定格にたいし15%しかなかった。

ボロジノ級戦艦は巡航速度10ノットだと1時間にカージフ炭(カロリー数は三池炭とほぼ等しいが、無煙炭であった)1トン費消する。ツェザレウィッチの航跡は、410海里に過ぎなかったが、石炭を1千トン費消した。この効率だと3千トン積載しても、1230海里しか進めないのである。結論としてロジェストウェンスキーの石炭大量積載は理にかなったものであった。

輸送船による曳航

ネボガトフとその艦隊は、5月9日にカムラン湾に到着した。その日、ロジェストウェンスキーとネボガトフは旗艦スワロフで5時間余り話し合っている。

中心的話題はもちろん、3ルートのいずれをとるかであった。ネボガトフは疎明書の通り、ラペローズ(宗谷)通過を主張した。このときロジェストウェンスキーは聞き役に回った。ネボガトフの意見をきいたうえで決心したかったのである。最後に司令長官は、

「石炭はどうするのか?」ときいた。カムラン湾から宗谷経由だと3700海里ある。ドイツ石炭船は、ベトナム以北の給炭を拒否した。ここからは、随伴させてきた石炭船8隻に頼るしかない。ネボガトフの回答は驚くべきものだった。

「軍艦は輸送船に曳航させればいい」。

これにたいするロジェストウェンスキーの反応は残っていない。全艦隊は、5月14日に出航した。この間、わずか5日間であった。ロジェストウェンスキーは妻にベトナム最後の手紙を書いた。

「数日後、どういった結果が出るにせよ、決してロシアの名誉となるものではないと断言できる。ウラジオストックに達するためには敵と決戦になる。敵に最大の損害を与えるのみである」。このとき決心したのであろう。出航の日、翌日開封条件で密封命令書が全艦長に手渡された。そこには「対馬へ」とあった。

日本列島の形

ロジェストウェンスキーは、ネボガトフがくる前、幕僚とともに黄海海戦敗北の理由を真剣に検討した。

――もっとも傷めつけられたツェザレウィッチも、沈没することなく膠州湾にたどり着くことができた。ボロジノ級戦艦は砲戦では不沈であろう。バルチック艦隊の主力戦艦、スワロフ、ボロジノ、アレクサンドル三世、アリヨールはいずれも同じボロジノ級である。旅順艦隊がなぜウラジオに到着できなかったかといえば、速度を上げすぎて、石炭を費消しすぎたに違いない。これを回避するには、速力を落とし、ウラジオにより近い場所に海戦域を設定することである。

――黄海より対馬からの方がウラジオまでの距離は短い。旅順艦隊は出航するとすぐに会敵することを覚悟せねばならなかった。バルチック艦隊は最終給炭地から対馬に着くまでは、予備の石炭を使うことができる。海戦が始まるとき、より十分な石炭積載量をもつことになる。

ニコライ二世は、最後まで「日本付近の制海権を得る」ため艦隊決戦を要求した。ロジェストウェンスキーもネボガトフも、艦隊決戦に勝利し制海権を握る可能性は薄いとみていた。二人ともニコライ二世の要求を拒否し、ウラジオ逸走策を最善としたのは同じである。

ロジェストウェンスキーがとった航路は、バシー海峡(ここで第1回の給炭)、宮古海峡(宮古島と沖縄本島の間で幅133海里と広い)、温州沖東200海里(ここで第2回最後の給炭)、そして対馬東水道であった。バシー海峡と宮古海峡は商業船舶の航行が少なかった。大半の商船は台湾海峡を通過する。

ロジェストウェンスキーはなぜ、ネボガトフが熱心であった宗谷通過案をとらなかったのか?
最大の問題は、日本列島が房総半島=新潟線を軸に曲がっていることだ。東京=福岡はほぼ東西、東京=札幌は南北である。これがため、バシー海峡から国後海峡への最短距離をとると、房総半島先端野島崎をかすめてしまう。野島崎は東京湾口を扼している。

ロジェストウェンスキーはネボガトフが、輸送船で戦艦を曳航させるといったとたん、国後海峡行きを断念したに違いない。敵国の首都の眼前を、輸送船に引かれた戦艦がノロノロと進むという策をいったいどこの国の提督が採用できるだろうか。

バシー海峡で給炭作業を実施したとき、バルチック艦隊には5000トンクラスの石炭船が8隻あった。もし、国後海峡に向かうのであれば、国後海峡手前で洋上石炭積み込みを実施せねばならなかった。途中で発見され海戦が発生し、無防備の石炭船が狙われ撃沈されれば、残りの艦船は漂流するか降伏するしかなかった。

東京湾口から離れるため、太平洋を大きく迂回すると、かなり距離を無駄にするうえ、給炭地からウラジオまでの距離をも遠ざけてしまう。発見されないためには、商船航行密度が高い海域を避け、速度をあげ、航跡をなるべく短縮することである。宗谷回りで発見されないことに賭けるのは、あまりにも確率が低かったのである。

砲術

対馬を選んだもう一つの理由は砲術であった。ロジェストウェンスキーは、ロシア随一の砲術家として自他ともに認める存在だったが、今次東征にあたっては従来のロシア海軍の砲術を一新する腹案をもっていた。バーアンドシュトラウト社のトランスミッター(電送盤)の採用と砲術長による統一砲術指揮である。従来は砲台ごとに距離や苗頭を修正していたものを砲術長の示した数字・目標に全て従わせることにした。

この方法はサルボ・ファイアリング(斉射)といわれ、従来の艦の動揺だけ中立化させるブロードサイド・ファイアリングよりも一歩進んでいた。ただし、距離や苗頭を各砲台に連絡するには、伝声管ではなく、電気的に連絡する方法が必要で、トランミッターが必須となった。

サルボ・ファイアリングでは、砲手はいわれた数字に目盛を合わせるだけで、訓練は砲弾装填以外あまり必要でない。砲術長が測距儀で距離を測定し、敵艦隊の進行方向と時速から苗頭を計算し、トランスミッターで連絡すれば十分なのである。急遽集められ未訓練の予備役水兵が多いバルチック艦隊には適していた。

黄海海戦で、日本側の高速走行下の遠距離射撃が良好であったため、ロジェストウェンスキーは日本側がサルボ・ファイアリングを採用したのであろうと推定した。ロジェストウェンスキーは考えた。

――東郷平八郎は黄海海戦と同じく、15ノットの高速をもって、後方からT字を斬るだろう。この作戦の下では、彼我の速度差が大きいほど砲戦時間は短い。サルボ・ファイアリングで互角の砲戦が挑めるとすれば、砲戦時間が短いほど被害を最小限に抑えられる。速度を落とす方が有利であろう。

ロジェストウェンスキーは、戦闘速度を黄海海戦の旅順艦隊より2ノット低い11ノットに設定した。温州沖200海里地点から、3000海里分の石炭を積載し、対馬東水道に直進し、あとはウラジオの方向、北から23度東の方向を維持する方針で臨んだ。不沈であり砲戦で互角であれば、どうしてウラジオに到着できないことがあろうか。

東郷平八郎の決心

東郷平八郎はロジェストウェンスキーの思考の逆をたどり早くから、バルチック艦隊は対馬に現れると確信していた。もちろん、他のルートをとった場合のオプションを閉ざしていたわけではない。

索敵情報については、「敵艦をみた」という確報以外はいっさい取り上げなかった。情報とは数が増えれば質が低下することを知っていたのである。この方針は徹底しており、国民にたいしても情報提供を求めることがなかった。

当時の海戦では、艦隊司令官に全てがかかっていた。戦史において、司令官の決心はじっさいの命令、じっさいの機動によって判断するしかない。

ところが、『極秘明治三十七八年海戦史』にある事前の参謀同士の暇つぶしとしての交換電報から、東郷の決心を測ろうとすることが一部戦史家の間で流行している。それの代表的な論客、野村実は、交換電報から連合艦隊が動揺したとし、

5月24日または25日に「連合艦隊は会敵の目的を以て、今より北海方面に移動せんとす」といった内容の密封命令が出され、加えて、「東郷および連合艦隊司令部が(鎮海湾)で待とうと決心していたことは事実と異なる、はっきり違うといってもよい」
 と断言する。

これは正しいのだろうか?

参謀同士の交換電報は『極秘明治三十七八年海戦史』に掲載されているが、内容については関係者の証言と合致しており、誤りはないとみられる。ところが、交換電報が東郷の決心とつながっているかは疑問である。参謀長や先任参謀は軍令部と間では、司令官名で意見交換することは普通だからだ。

密封命令そのものは、東郷の決心をうかがう材料になる。野村は次のように書いている(『日本海海戦の真実』平成10年)。

「太平洋戦争前に刊行された日本海海戦に関する書籍・資料の数はおびただしいものであったが、公刊戦史以外も含めて密封命令に触れているのは、筆者が調査したかぎりでは水野広徳の『此一戦』のみである」。

野村の「調査」に反し、密封命令に触れている記述が『戦袍余薫 懐旧録』(第2輯、日露戦役の巻、財団法人有終会、大正15年)にある。その中の「和泉」艦長石田一郎の回想「海戦前後の和泉の行動」の一節である。

「5月26日に至り―中略―出動に際し口達命令と一封のシールドレッターを授けられたのである。其の訓令の要旨は『出動中に敵の艦隊出現せば、豆酸崎に来たりて第6戦隊に合すべし』というのであったが、何となく気懸かりであったのはシールドレッターの内容である。所が指定時刻に至りて開封すれば、矢張想察の通り、『二十八日に至るも敵が対馬海峡方面に出現せざる場合には、津軽海峡方面に単独急航すべし』との意味であった」。

はっきり26日に渡されたと書かれており、野村の24日または25日というのは完全に誤りである。事実関係からしても、連合艦隊は、5月27日朝には鎮海湾にいてまったく動揺していない。

どうして野村はこのように誤断し、『極秘明治三十七八年海戦史』はそのような理解を誘う書き方がしてあるのだろうか?

理由は単純で、財部彪軍令部参謀(山本権兵衛女婿、のち海相。条約派)が、天覧に供されるべき『極秘明治三十七八年海戦史』を書く役回りになり、「自分が北行したがる東郷平八郎を抑えて、鎮海湾におしとどめた」と偽りの功績を誇りたかっただけである。

「極秘」となれば、関係者以外にわたらない。それゆえ、実戦に参加した将兵からのチェックが入ることがない。そもそも「極秘」と銘打たれた「戦史」は史料価値が低いのである。
同様に「極秘」でない『公刊戦史』がなぜ密封命令に触れていないかの理由も明らかで、東郷平八郎の無謬性を壊したくなかったのである。

東郷の決心は、石田のいう密封命令(Sealed Letter, Sealed Orders)、「27日までは鎮海湾に留まれ。28日以降、対馬に現れねば、太平洋回りの公算があるため、松前大島に向かえ」から推測すべきである。

索敵情報のうち、東郷が重視したのは次の2本であった。

@ 5月19日、ノルウェー船オスカル二世が、バシー海峡にて30隻以上からなるバルチック艦隊から臨検をうけた。
A 5月25日夕刻、露国義勇艦3隻、運送船5隻が上海に到着。

情報@については、3日後、オスカル二世(三井物産のチャーター船であった)が島原・口の津に入港、直ちにもたらされた。情報Aについては26日未明である。

バシー海峡は台湾とフィリピンの間にあるから、バルチック艦隊が(本国に戻ったり、台湾海峡を通ったりするのではなく)台湾東岸を通過しようとしていることは明白になった。だがこれだけでは、3ルートのいずれを通るかはわからず、ただ露領極東に向かうことだけがはっきりした。

情報Aは難解である。露国運送船(石炭船)が、仏印方面に戻らず、上海に保護を求めた。石炭船を離したことは、給炭が終了したことを意味する。給炭はいつどこで行われたのであろうか?ロシア船が台湾海峡通過に伴う日本海軍からの攻撃を怖れて上海に遁入したとみなせば、地点は太平洋ではなく、東支那海であろう。

時期は5月24日であると予想される。東支那海最深部から対馬までは530海里である。10ノットで走行し、53時間、2日余りで対馬に到着する。

情報を得た26日、ただちに警戒態勢がとられ、また、時間を調整したとしても27日中には対馬周辺に出現する。それまでに東支那海で発見されなかったとすれば、上海遁入自体が大掛かりな陽動作戦ということになり、それはバルチック艦隊が太平洋に回ることを意味する。
密封命令は、索敵情報からすれば至極当然のことで、なんら詮索に値しない。

東郷平八郎の信念「敵は対馬にくる」が動かなかった、と断言できる。なぜかというと、東郷は、東支那海北部(北支那海)をグリッドで仕切り、哨戒船を配置していた。この警戒態勢を、密封命令出状後でも変えていないのである。

北行しても、北支那海で発見すれば早期に引き返す体制を維持していたのである。敵艦隊を待ち伏せした場合、最悪の失敗は「逆モーション」である。これを防ごうとした。前年7月、上村艦隊はウラジオ艦隊が房総沖に出現したという情報を得て、南九州から太平洋に出ようとした。ところがウラジオ艦隊はそのまま津軽海峡に戻ってしまった。 
 
上村艦隊は太平洋を回っても、再度、九州を回っても、追いつけないのである。ウラジオ艦隊が日本1周できるほどの石炭を積載できないという計算を忘れた失敗であった。
東郷平八郎もロジェストウェンスキーも一流の提督であった。両者とも自らの注文に相手をのせたのである。

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