東郷ターンの真実
――日本海海戦における所謂「T字戦法」の実態
陣頭指揮と単縦陣
海戦の現場では、いったい誰が指揮するのだろうか?日本人であれば「連合艦隊司令長官」というところだが、太平洋戦争における海戦、例えば真珠湾奇襲作戦において、山本五十六は空母の艦橋にはおらず、また九七艦攻にのりオアフ島に飛んだこともない。瀬戸内海の柱島泊地にいて、じっさいの海戦(空戦)は直接指揮しなかった。
日本海海戦における東郷平八郎は、露天艦橋(司令塔の前にある板敷きのデッキ)にたち、単縦陣となった12隻の先頭にあった三笠のさらにその最先頭にいたのである。
バルチック艦隊司令長官のロジェストウェンスキーも同様に旗艦スワロフの司令塔(艦橋にあって、温室のような狭い場所で装甲はない。弾丸が命中したとき、ガラスなどの破片が飛ぶため、露天艦橋より危険とするのが一般的)にある肘掛け椅子にすわり、艦隊の指揮をとっていた。
日本海海戦で向かい合った両軍の提督は陣頭指揮を実践した。
当時の無線機は信頼性が低く、さらに海戦時には無線封鎖するため、艦橋の索条にかけた旗流信号で後続の艦に連絡しながら指揮するのが普通であった。ちなみに、短距離にのみに限定した無線機が出現したのは1930年代であるが、日本の無線機は性能に劣り、ミッドウェー海戦における散開不足を招いた。
旗?信号による命令(日露戦争時の海軍は旗命と呼んだ)は、とかく誤りを生じやすい。ロジェストウェンスキーの旗命はいつも複雑・多数であって、4番艦アリヨールの士官は
「25枚も旗をビラビラさせて」と不満を書き残している。旗?信号による通信では、散開した複雑な艦隊運動は不可能であり統率上、また目標への集中を要する砲術上、単縦陣がもっとも有利であると認識された。
日露戦争前は、陣頭指揮も単縦陣も目新しいものであった。そもそも海戦とは滅多に発生するものではなく、世界のまたあらゆる時代の大半の国民(20世紀前半の日本人は例外である)はその人生の中であまり経験したことはない。
蒸気船の出現した19世紀後半に起きた海戦は、普墺戦争におけるリサ海戦、太平洋の戦争におけるイキケ海戦、露土戦争におけるドナウ水戦、日清戦争における豊島沖海戦・黄海海戦・威海衛海戦、米西戦争におけるマニラ海戦・サンチャゴ・デ・キューバ海戦でしかない。
リサ海戦は衝角戦法(水面下の船首につけた衝角で敵船舶の船腹を突き破る戦法)、イキケ海戦は飛び乗り戦法、ドナウ水戦は外装水雷による泊地攻撃に特徴があり、いずれも砲戦で決着がついたものではなかった。
豊島沖海戦は拿捕事件、威海衛海戦は泊地水雷(魚雷)攻撃、マニラ海戦は泊地攻撃、サンチャゴ・デ・キューバ海戦は解囲脱出にたいする反撃戦であって、艦隊同士の決戦とはいい難い。つまり日本海海戦の前の砲撃による艦隊海戦は、日清戦争の黄海海戦(坪井航三が初めて単縦陣を実行)、日露戦争の黄海海戦の二つに限られる。いずれも日本側が勝利した。
艦隊運動だけでは海戦には勝てず、砲術も向上させねばならない。大口径砲とは「減る」ものである。三笠の12インチ砲の命数(それを超えると、砲身内部が焼結してしまい射弾が不規になる)は200発程度(作製者のアームストロング社のマニュアルでは140)である。だから、戦艦主砲による実弾射撃演習など滅多に行なわれない。
やっても2〜3発を発射するだけである。演習で砲身をすり減らしては、いくら予算があっても足りない。当時はシュミレーション技術などなく、連続射撃のデータは実戦でしか得られない。海戦を多数経験した日本海軍が砲術において一歩リードしていたことは確実である。
5000メートル超の長距離射撃の命中確率は5%あれば上出来であった。両軍の艦は、角度を変えて高速で移動しているうえ、波浪で動揺(縦動/ピッチングと横動/ローリングがある)する。射手の目や訓練に頼る時代は終わっていた。
当時、砲術は国家第一の機密事項であり、他国海軍から情報を得ることも困難であった。日露戦争の時代、戦艦を保有していた国は現在の原爆保有国より少なかった。そのうえ原爆は、所詮「フール・プルーフ」すなわち馬鹿でも使えるが、海軍砲術は最先端を走らねば意味がなかったのである。
ロジェストウェンスキーは砲術のエキスパートであり、1902年、ドイツのウィルヘルム二世やティルピッツ海相の前で長距離射撃の実弾演習を実施し、賞賛を浴びている。ロシア海軍の砲術レベルが他列強海軍より低いことは決してなかった。
ロジェストウェンスキーの戦略
ベトナムのカムラン湾を出発し、ウラジオストックに向かうとき、ロジェストウェンスキーは明確な作戦目的をもっていた。それは、海戦をできるだけ短時間にして、ウラジオストックに飛び込むことであった。
米海軍出身の兵学者マハンは日本海海戦のロシア海軍について「目的を二つ」(海戦とウラジオ逃げ込み)もったと批判した。これは誤りである。ロシア皇帝ニコライ二世は、西太平洋の制海権獲得のため艦隊決戦を要求した。
ロジェストウェンスキーは、バルチック艦隊が連合艦隊より非力であると認め、これを拒否、できるだけ艦隊を温存することによって、ウラジオに存在し、日本の海上輸送路に脅威を与えるべきと考えた。
この戦略は全滅という結果からみれば、不思議と思えるかもしれない。だが当時、戦艦が砲戦で沈むとは考えられていなかった。すなわち水雷攻撃は別にして、戦艦の装甲を当時の徹甲弾では貫通できず、撃沈できないと思われていた。
日清戦争の黄海海戦でも日露戦争の黄海海戦でも戦艦は沈まなかった。ロジェストウェンスキーは、
――砲戦は発生し上部構造は破壊されることがあるかもしれない。それでも、バルチック艦隊の中軸をなす戦艦5隻は必ずやウラジオストックに到達できる。
と信じたうえで戦略をたてていた。
ロジェストウェンスキーを悩ませたのは、戦艦の不沈性ではなく、石炭補給であった。当時の石炭推進の艦は、石油推進の艦に比べ、航続距離が五分の一しかなかった。
航続距離は石炭庫の容積に左右されるが、ボロジノ級戦艦(スワロフ・ボロジノ・アレキサンドル三世・アリヨールの同型4隻)の場合、9ノットで(設計最高速度は18ノット)、1300海里(ウラジオから対馬まで直線で240海里)分しかない。
ボロジノ級が15ノットの戦闘速度で走ると、航続距離は半分以下に低下する。2本の煙突のいずれかが破壊されると蒸気が洩れ、著しい燃料効率悪化にみまわれるのも確実であった。
旅順艦隊が黄海海戦の砲戦終了のあと夜間ウラジオに遁走できず、日本軍の陸上重砲の射程内にあった旅順に舞い戻らざるを得なかったのは、石炭残量のためであった。
主因は、日中、13〜14ノットの高速で黄海を走り抜けようとしたためである。さらに石炭庫が小さいツェザレウィッチの場合は、旅順に戻る石炭すらなく、最寄の青島にいくしかなくドイツに抑留されてしまった。
戦闘速度では、旅順=ウラジオストック間の連絡をつけることができなかった。これは戦前から気づかれていた問題であって、それゆえロシア海軍は朝鮮半島のどこかに海軍基地を設けようとしたのである。最適な場所は半島南部だが、それがためには朝鮮半島全域を支配せねばならない。石炭補給問題はロシア人にとり脅迫観念となっていた。
ロジェストウェンスキーがウラジオ遁走作戦を成功させるため熟考したのは確実であり、それがため次の対策をうった。
@ 最終石炭積み込み地点をなるべくウラジオストックに近い場所とする。
A 航路は石炭積み込み地点からウラジオストックへのほぼ直線とする。すなわち朝鮮海峡東水道を突破する。
B 石炭船を随伴する。
C 通常時9ノット、戦闘時11ノットの低速とする。
D 水雷艇による攻撃を警戒し2列で進行し、もっとも危険な地点〜朝鮮海峡東水道を目視がたやすい正午に合わせて進入する。
最終石炭積み込み地点は日本の駆逐艦や水雷艇を警戒し、温州沖200海里とした。それでも、温州沖から対馬までの距離は、旅順から対馬までの距離の3分の2にすぎず、石炭節約が可能になった。日本海海戦は、このロジェストウェンスキーの対策に支配されることになった。
東郷の戦略
東郷平八郎の専門は航海術であり、航路設定の難しさについてもよく理解していた。ロジェストウェンスキーも極東(長崎・ウラジオ/ロシア極東艦隊は三国干渉のときまで、結氷するウラジオストックを嫌い、冬季、長崎を根拠地にしていた)とクロンシュタットの間を4回航海しており、日本近海の航海経験が豊かであった。
航海上、最大の問題は石炭である。それが原因で、大英帝国はサザンプトンからシンガポールの間に400海里ごとに港湾植民地をつくった。対馬を通らないとすれば、日本列島を横にみながら、波の荒い太平洋を進行し、一日かかる石炭積み込みをやらねばならない。
その前に海戦が発生し、武装のほぼない石炭船が撃沈されれば、味方船舶がまったくいない大洋を漂流することになる。
東郷はバルチック艦隊が朝鮮海峡東水道をとることを、旅順攻防戦の終盤、次の根拠地を鎮海湾と命令した時点で既に予想していた。ロジェストウェンスキーほどの航海経験があれば、対馬にくると信じた。
東郷司令部を迷わせたのは、バルチック艦隊が戦闘時どのくらいの速度で走行するかであった。黄海海戦のとき、ロシア旅順艦隊は自滅的な高速で黄海を突っ切ろうとした。これがため連合艦隊は反航戦(敵艦隊とすれ違いざまの砲戦)から順航戦(敵艦隊と平行しての砲戦)に転換しようとして敵艦隊に追いつくのに3時間もかかった。速度差が2ノットしかなかったのである。
命数から、主砲弾は一砲門当たり120発ほどしか積載しない。そして主砲の発射速度は2分である。すると連続射撃を実行したとして4時間が限界なのである。この時代の海戦は、だいたい正午以降で始まり日没とともに終了している。
鎮海湾を払暁たって、正午前後に到着するのが朝鮮海峡東水道なのである。個別陣形は単縦陣、司令官は陣頭指揮と共通した見解をもっていた東郷とロジェストウェンスキーは、戦闘海域および時間についても奇妙なほど一致していた。
T字戦法
根拠地から戦場までの距離が近く、低速な艦を随伴する必要がない連合艦隊がバルチック艦隊より優速であることは言をまたない。海戦でイニシアチブをとれるのは、優速な艦隊である。
優速な単縦陣の艦隊が海戦においてとる戦術は、T字戦法である。東郷司令部は1905年1月に『連合艦隊戦策』という印刷された小冊子を連合艦隊の兵科将校全員に配布している。
この中には海戦における注意事項が書きつらねられているが、目をひくのはT字戦法についても触れられていることである。T字戦法が秘密でもなんでもなく、常識であったことを意味する。
1898年からイギリス地中海艦隊はT字戦法のための操艦演習を実施していたし、英国海軍にも"T formation"という用語があった。そしてT字戦法の目的は、まず矢庭に敵の一艦をうちとることである。方法は、T字を切る側が優速をいかして後方から接近し、敵艦隊にすりよりながら、敵の先頭艦を軸にT字を描くことである。
この手段は、日露戦争の黄海海戦と第一次大戦のドッガーバンク海戦で試された。ただ、防御側(速度の劣った側)の方法もすでに確立されていた。後方から単縦陣の敵艦隊が接近してくるのだから、先頭艦に砲火を集中すればよいのである。
T字戦法を実行してもT字の上の線の状態になるまで、T字を切る側は必ずしも優位ではない。現に黄海海戦における先頭艦三笠は他の艦よりも非常な敵砲火を浴びた。ドッガーバンク海戦でも先頭艦であり司令官ビーティをのせた巡洋戦艦ライオンは砲火を浴びすぎて航行不能に陥った。
後方から接近するT字戦法では圧倒的な戦果は期待できない。敵艦の速度によっては振り切られたり、追跡に時間がかかる可能性がある。東郷平八郎は、鎮海湾でバルチック艦隊をまつ5カ月間、この問題の解答を必死になって求めたに違いない。
1905年5月27日
バルチック艦隊は温州沖東方200海里から、二列縦陣となって、ほぼ直線的に朝鮮海峡東水道に向かった。
ロジェストウェンスキーは、東郷艦隊の戦闘速度が15ノットであると黄海海戦の経験者から情報を得ていた。東郷は、水雷攻撃により隊列を崩したのち、後方から接近してT字を切るものと予想した。これにより、戦闘速度を黄海海戦時より遅い11ノットに、全体陣形を二列縦陣に決定した。なぜならば、速度差が大きい方が砲戦時間は短いのである。
希望はできるだけ被害を少なくして、ウラジオに飛び込むことであり、砲戦時間は短い方がいい。さらに二列縦陣は、水雷攻撃にたいしては理想的な陣形である。ロジェストウェンスキーは東郷が鎮海湾にいることを何らかのスパイ情報により知っていた。
東水道を進めば、左から水雷艇、駆逐艦が攻撃してくると予想し、左縦列に撃沈されてもよい旧式艦や囮艦(主に遅れてカムラン湾に到着したネボガトフの率いる艦隊が想定されていた)を配置した。
二列縦陣や戦闘速度について、ロジェストウェンスキーは1905年12月の『ノーウォエ・ウレーミヤ』(新時代)紙上で次のように説明している。
「東郷は速度において優位性をもっていた。遅くまた古い艦という重荷をしょっていなかった。彼の艦隊はよく訓練されており、艦長は正確に必要な操艦を実行した。私の直接率いた戦艦隊について、対馬では『ノロマな群れ』にすぎなかったと酷評されていることは知っている」
「だが、これは事実ではない。ロシア艦隊は決して『ノロマな群れ』ではなく、対馬へ計画された通り、5個から6個のよく組織された梯団になって突入していった。また、ロシア艦隊が奇襲をうけたと評されることがある。これも事実ではない。私は海戦がいつどこで起きるかを正確に予想していた」
「そして二日前、日本の哨戒艦艇の存在についても知っていた。さらに海戦が起きる5〜6時間前に日本の主力艦隊がどの位置にいるかも予想できた。つけ加えれば、東郷を欺くことにも成功した。東郷は後方にあった弱小艦艇から最初に片付ける積もりであったに違いない。だが、我々の正しい操艦の結果、戦艦から手をつけることにしたのだ」。
ロジェストウェンスキーは、速度や艦隊の陣形は計画通りであり、その結果、東郷はT字の定石の後方からの襲撃ではなく「敵前大回頭」を余儀なくされたと主張している。これは正しいのだろうか?

『公刊戦史』付図の東郷ターン
会敵
東郷ターンすなわち「敵前大回頭」について海軍明治三十七・八年戦役『公刊戦史』は次のように描写している。
「次テ二時二分我カ主隊ハ針賂ヲ変シ南西微南ニ航シ先ツ敵ニ対シ反航通過スル如ク装ヒシカ同五分ニ至リ最先頭ニ在ル旗艦三笠ハ急ニ左折シテ東北東ニ変針シ―略―此ノ時敵ノ先頭ハ我カ南微東ニ方リ八千米突ヲ距テテ北東微北ニ航進シツツアリシカ我カ旗艦三笠ノ変針スルヲ見ルヤ機乗スヘシトナシタルモノノ如ク一団ノ白煙『スウォーロフ』ヨリ起ルト齊シク数艦一時ニ砲火ヲ開キテ戦ヲ挑メリ 然レトモ我ハ之ヲ顧ミスシテ益、急航シ二時十分射距離六千米突内外トナルニ及ヒ旗艦三笠始メテ応砲シ他艦モ亦之ニ倣ヒテ先ツ敵ノ左右両列ノ先頭艦タル『スウォーロフ』及ヒ『オスラービャ』ヲ猛射セリ」
これに対し『三笠戦闘詳報』は次のように伝える。
「2時2分、南西微南に変針す 敵は南1/2東9千メートルにあり 同5分、さらに取舵に回頭を始む 敵の先頭艦は南微東8千メートルにあり このとき敵主力の右翼列はその左翼列より少しく前進併合して単縦陣を為さんとの形勢みゆ 同7分、東北東に定針し敵と同行の方向に至るや最近の『オスラビヤ』まず砲火を開きここに当日の海戦は開始せらる 同10分、距離6千4百メートルに至り本艦は右舷前部6インチ砲台の一斉試射を行い同11分に至り並射撃を令す」
この両者の最大の違いは『公刊戦史』は、スワロフが第1弾を放ったとしているのにたいし、『三笠戦闘詳報』では、それをオスラビヤがとしていることである。これはどちらが正しいのだろうか?
現在、『公刊戦史』の原稿が防衛研究所に残されている。それをみると、初めオスラビヤとしている原稿を、あとで朱書してスワロフに訂正しているのである。すなわち「最近」のオスラビヤが第1弾をうったのは確実である。
ロジェストウェンスキーの傍らにいて、艦隊と司令長官の行動を記録する責任を負ったセミョーノフは「東郷ターン」について次のように書いている(『壊滅!!バルチック艦隊』沢田博訳 恒文社、1982)。
「『なんだ、あれは!ご覧なさい。奴らは一体、何を始めようっていうのですか!』
レイドキンが不意に叫び声を上げた。すべての予測は裏切られたのだ。双眼鏡を握りしめたまま、私はついに自分の目を信じられなかった。日本艦隊は、突如単縦陣で『順次に』左へ左へと回りこみ、百八十度の大回頭をし始めたのだ。―略―
今「順次に」針路を変えるとすれば、すべての敵艦は旗艦『三笠』が回頭した位置にまで進出し、そこで回頭することになる。従って、この回頭点は海上の一点におかれた射撃のマトよろしく、とにかくそこに照準を合わせてさえいれば、敵艦の方から順繰りに進出してくれるわけだ。これほど攻撃しやすい目標もないではないか?そのうえ、敵が十五ノットの高速で順次回頭をつづけたとしても、少なくとも十五分はかかる。その問、後続艦は先に回頭した味方艦にさえぎられて砲火を開くことができないのだ。『さあ、こうしちゃいられませんぞ』。いても立ってもいられなくなったレイドキンは、浮き足だって言った。『ものの一分とたたないうちに奴らは火だるまだ!』
すごいぞ、神よ、我らを助けたまえ。私も心の中で祈った。東郷はなにごとか予期しなかった事態に気づいて、急きょ戦を変更したにちがいなかった。確かに危険な賭けではあったが、本心から、我々と同方向の進路をとることが必要だと判断したのなら、なるほどこうする以外に手段はないのだ。―略―
ロジェストヴヱンスキーは、この願ってもないチャンスを逃してはならないと決戦の火蓋を切る決意を固めた。一時四十九分、敵前大回頭を終えているのはまだ『三笠』『敷島』の二艦のみであった。残りの十艦はまだもたもたしている。この時をとらえて『スヴオロフ』はついに砲口を開いた。距離は三十二ケーブル(約六千メートル)、同時に全艦の主砲が一斉射撃を開始した。砲撃音が大気を震わせてとどろく中、私は喰い入るように双眼鏡をのぞきこんだ」。
セミョーノフの文章は、日本側のものと異なり、たんに戦闘状況を描写するのではなく、何か文学的雰囲気をもっている。ロシア側の公刊戦史である『露日海戦史』も、ほぼ同じ内容で当日の戦艦同士の戦いを描写している。当日、ロシア側は出港地であるベトナム時間を使用していた。このため日本時間より1時間遅い時間表示となる。
セミョーノフは1時49分にロシア側は火蓋を切ったと書いている。これにたいし、『三笠戦闘詳報』は2時7分としている。セミョーノフが日本側文書を読んでそれを参考にしたことは、12時49分でなく1時49分としていることで明らかである。
スワロフ艦上のクロノメーターは必ずやベトナム時間の12時49分をさしていたはずである。この二つの事実は、セミョーノフが日本側記録は18分誤りである、と指摘していることを意味する。
セミョーノフはまた「東郷がなにごとか予期しなかった事態に気づいて、急きょ戦を変更した」と書いている。この説は日本側にも多い。とりわけ第二次大戦後になって、旧海軍ライターの多くが反東郷でもあった「条約派」の流れを汲んでいるため、「東郷があわてて『敵前大回頭』を実施した」と書かれることが増えた。
東郷はいったい思いつきで、またはあわてて「東郷ターン」を始めたのだろうか?
東郷ターンの真実
東郷ターンは、正確には「いったん南西微南に変針し(2時2分)それから取舵をとって約120度回転し東北東に定針(2時7分)した」のであって、セミョーノフのいうように、いきなり180度回転したのではない。ただ、三笠は元きた道を戻るような航路をとったので、東郷ターンは2時2分に開始されたとみてよい。
この瞬間、バルチック艦隊は航路23(真北より23度東、すなわち東水道からウラジオストックへの方向)をとっていた。速度は11ノットであるから時速約20キロ、1分間に264メートル、連合艦隊に接近していたことになる。
日本側射撃開始の2時10分のとき、距離6400メートルとされているから、1時49分には1万2000メートル開いていた。ところが、この距離は黄海海戦(第1回戦)においてロシア艦隊が1弾試射をしたのと同じ距離なのである。ロシア海軍はすでに斉射法"Salvo
Firing"を身につけていたが、パターン射撃(弾着位置のパターンを分析することによって連続射撃する方法)まではまだ取り入れていない。
長距離から1弾試射を行い目視で距離を確認する方法をとっていた。やはりこのとき、「最近」のオスラビヤが砲火を開いたのではないだろうか?ロジェストウェンスキーは、目の前を横切っていく射程内の敵艦隊に何もせず放置したのだろうか?
セミョーノフの指摘通り、12時49分にオスラビヤが第1弾を放ったのである。
いったん試射を開始すると連続射撃につなげた方が有利である。このためその直後から、オスラビヤは連続射撃、スワロフは試射を開始したとみられるが、ここで二列縦陣の欠陥が出た。
スワロフはともかくその後続艦は、左側の艦が邪魔になり十分な射撃ができなかった。さらにオスラビヤの後続艦のシソイ・ウェーリキー、ナワーリンなどの大口径砲は装薬が黒色火薬であり、射程距離は6〜7000メートルにすぎず、この距離での砲戦参加は難しい。このためオスラビヤは砲撃と平行して、第1戦艦隊後尾につこうと単縦陣への修正をはかった。
ただ、ロジェストウェンスキーはT字を切られた方の定石―「敵の先頭艦を狙え」には忠実であり、三笠に砲火を集中した。セミョーノフのいう目標を順に変えていく「定点射撃」は、砲術からは考えられない。
東郷平八郎は、敵弾が三笠の周辺に着弾し水柱がたっている中で、「敵前大回頭」を命令したのである。このとき、連合艦隊は敵の先頭を抑えており、反航しながら敵の後尾に回りこむ方法と、元きた道を戻る二つの選択肢があった。
東郷は、あわてて反撃しながら反航する(後尾に回りこむ)方法をとることなく、多少の損害は覚悟のうえで大回頭、すなわち、反撃することなく戻る選択をしたのである。つまりロジェストウェンスキーのいうように、バルチック艦隊の陣形をみてあわてて大回頭したのではない。長距離であれば命中率も低く、目標も絞らざるを得ない。
三笠に敵弾が集中したとしても、そのあと接近した段階で、12隻の主砲火力を敵の先頭艦スワロフ・オスラビヤ2隻に集中すれば、その上部構造を破壊できると決心したのである。
敵前大回頭のあと、6隻の主砲火力がスワロフに集中し、2時41分の「打ち方やめ」までには、ほとんどの砲門の機能を失わせ、連合艦隊の日本海海戦勝利は確定した。
三笠も大きな被害をうけた。全海戦期間中6インチ以上の砲弾が31発命中したが、オスラビヤ砲撃開始から2時15分までに19発うけている。三笠は、21分間にわたり、一方的にうたれたのである。
『三笠戦闘詳報』起草者は敵前大回頭が司令長官の判断ミスではないかと疑い、あえてオスラビヤの発砲開始を18分くり下げ、2時7分とした。『公刊戦史』もそれに従って、この当初のロシア側の猛射を過少にみせようとした(ただし『公刊戦史』はロシア側発砲開始を2時5分としている)。
ところがそうすると2時7分(2時5分)では、二列縦陣修正の関係で、「最近」の艦はスワロフである。このため『公刊戦史』では、オスラビヤをスワロフに訂正したのだ。
日本側も惑わせるほど「東郷ターン」は大胆な決心であった。そしてもしロシア海軍が、英独の第一次大戦のとき使用した被帽付き徹甲弾をもっていたら、三笠は撃沈されていただろう。すなわち敵前大回頭とは、練達した提督のみが、その時代の全てのとりうる戦術を呑み込んだうえで、鉄の勇気をもって実行しうる手段であった。
日本海海戦のこの一瞬以外に成立したとは思えない。そして、これ以降の海戦で敵前大回頭を実行した提督はいない。
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