旅順口急襲

ロシア軍の動員下令

1月25日、ニコライ二世は、旅順口とウラジオストック軍港に戒厳令を命令した。それと同時に騎兵に鴨緑江を渡河し、朝鮮突入軍の援護を命令した。1月30日、佐世保に大艦隊が集結中との密偵情報が入った。

アレクセーエフ極東副王はニコライ二世に動員を下令することを要請した。ニコライ二世は、

「我が方からではなく、日本側から発砲することが望ましい。それゆえ日本軍が行動を開始しない場合、貴官は元山や仁川における日本軍の上陸を妨害すべきではない。しかし、日本の上陸部隊が38度線を越えた場合、先に発砲して構わない」

と指示した。

海軍の出師準備発動

2月5日午後7時15分、山本権兵衛海相は、連合艦隊司令長官東郷平八郎と第三艦隊司令長官片岡七郎に命令した。

露国の行動は我に敵意を表するものと認め帝国艦隊をして左の行動を取らしめらる
一、連合艦隊司令長官並に第三艦隊司令長官は東洋に在る露国艦隊の全滅を図るべし
二、連合艦隊司令長官は速に発進し先ず黄海方面に在る露国艦隊を撃破すべし
  臨時韓国派遣隊の海上輸送中の行動は連合艦隊司令長官之を指示すべし
三、第三艦隊司令長官は速に鎮海湾を占領し先ず朝鮮海峡を警戒すべし

海軍大臣 男爵山本権兵衛

日清戦争の緒戦では連合艦隊にたいする命令は、有栖川熾仁参謀総長宮から出された。明治憲法11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」であった。ことの是非はともあれ、戦時における軍隊への命令は天皇またはその勅を奉じた参謀総長が出さねば憲法違反であろう。山本はこの命令について明治天皇の了解をとったと自称するが、それであれば奉勅命令とすべきであった。

旅順口急襲

2月8日/9日、駆逐隊は旅順口を奇襲した。これが日露戦争の開始である。各駆逐隊は戦闘詳報により概略次の通り報告した。

第1駆逐隊(『白雲』『朝潮』『霞』『暁』)、第2駆逐隊(『雷』『朧』『電』『曙』)、第3駆逐隊(『薄雲』『東雲』『漣』)は、2月8日午後6時、円島の南東方において本隊と分かれ、旅順口方面に向かった。『曙』は前日、特務艦日光丸と衝突し、参加できなかった。

途中露艦と思しき艦に遭遇したため、各隊ごとに行動し、9日午前0時20分、第1駆逐隊は旅順口外に接近した。弦月は昇らず暗夜の中、ロシアのサーチライトのみ海面に浮かび、巨艦が彷彿と発見された。

浅井(正次郎大佐)第1駆逐隊司令は襲撃命令を発し、先頭の『白雲』は左旋回し、0時28分、3本煙突の敵艦に魚雷を発射、さらに一撃を2本煙突の艦に加えた。その後全速で回避し、そのとき爆発音が認められた

2番艦『朝潮』は『白雲』の航路に従い、0時32分、ペレスウェート型を襲い、そのあとレトウィザン型に迫った。その命中するのを聞きつつ南南東に退避した。このとき、ロシア側は敵襲と認め、弾丸が着水し始めた。

3番艦『霞』は『朝潮』にならって左方に回頭し、サーチライトを受けたものの砲撃されないのに乗じて、0時33分、2マスト3煙突の1艦に第1撃を加え、次いでパルラーダ型艦を襲い、舷側より水煙の奔騰するのをみて、南方に退いた。

これより先、第2駆逐隊は各艦分離のため、石田(一郎大佐)駆逐隊司令はその乗艦『雷』を旅順口に向け、0時5分、サーチライトと老鉄山燈台の灯光によって、方位を真北に向け、0時30分、暗闇に艦列を認め、漸次速力を増加し、0時35分、急に右に回頭し、2マスト3煙突の1艦に水雷を発射した。アスコリド型艦から砲撃を受けたが飛弾艦上を掠めて命中しなかった。

第3駆逐隊は第1、第2駆逐隊を確認できなくなったが、北西にサーチライトの光芒を認め、暫く停止して動静をうかがった。すると第2駆逐隊の『電』『朧』が接近してきて、「『朧』は故障し、速力が出ない。『雷』とは連絡がつかず爾後、第3駆逐隊の指揮を受けたい」と伝えた。『朧』は『雷』と接触し、スチームが傷んでいた。

土屋(光金大佐)第3駆逐隊司令は、『漣』の行方が知れないため、『電』に代わることを要請した。サーチライトめがけて進発し、十数隻の敵艦群集碇泊するのを発見した。たちまち発見され、砲撃を浴びた。0時39分、『薄雲』は左方に回頭し、ディアナ型艦に一撃を加え、ついで西隣する1艦を襲った。

2番艦『東雲』も敵に接近し、0時42分、右方に回頭し水雷を発射した。『薄雲』『東雲』ともに南東に退いた。3番艦『電』は砲火をおかして前2艦の中間より突進し、0時45分、左方に回頭し、ディアナ型艦にたいして水雷を撃ち、転じてレトウィザン型艦を襲い、円島方向に転じた。

『漣』は味方を見失ったのち、旅順口燈台を認め艦首を黄金山に向けた。全サーチライトをもって天空を照らしていた。午前1時25分中央に位置するポルタワ型艦を襲撃し、直ちに退航した。

『雷』は応急修理ののち旅順口に向かった。午前1時過ぎサーチライトも緩慢になるのを見計らい、敵艦群に接近、4煙突艦に水雷を発射した。そのあと南東に退避した。


第1〜第3駆逐隊は魚雷12発を発射したが3発しか命中しなかった。『白雲』によるツェザレウィッチ、『朝潮』によるレトウィザン、『霞』によるパラーダである。いずれも第1駆逐隊に属しており、浅井正次郎の軍功第一とみるべきであろう。水雷攻撃は正確に操艦し肉薄せねばならない。この時代、水雷隊長や潜水艦長の個人の能力に水雷による戦果の大半を負った。

日露戦争の日本の魚雷は冷走魚雷といわれるもので、性能は後世の魚雷と比すべくもなかった。そのうえ、軍令部の外波内蔵吉大佐が、速度を落とし航走距離を伸ばすという改悪を加えた。このとき改悪された魚雷を「ヒョロヒョロ魚雷」と名付け徹底的に反対した鈴木貫太郎は、山本権兵衛によって昇級を遅らされた。山本は優秀な艦政家であったが、技術の理解については疑問符がつく。

第1駆逐隊以外の第2、第3駆逐隊の各艦はいずれも距離1000メートル以上で魚雷を発射しており、冷走魚雷では命中しない。同じく外波の発案した甲種水雷攻撃法に従ったものであった。魚雷の遠距離発射は日本海軍の悪癖で、太平洋戦争でも繰り返された。平時における机上演習に頼り過ぎなのである。

このとき日本の駆逐隊は単縦陣で攻撃した。これは誤りであって、集団による水雷攻撃は、横陣または雁行陣によるべきであった。単縦陣は、T字戦法をとったとき、複数艦の斉射により敵の1艦をまず仕留める必要から生じた。水雷戦にはあてはまらない。当時、魚雷の速度が十分でなく、艦の進行方向に発射して加速をつける必要があった。駆逐隊数艦が加速をつけて違う目標に対して魚雷を同時発射するには、横隊でなければならない。

通常時は単縦陣が望ましい。隊長は先頭ではなく隊の中央に位置する方がよい。横陣の操艦訓練は死活的に重要である。日本海軍は田中頼三が、スラバヤ沖海戦で横陣を実践するまで、駆逐隊に単縦陣を強制した。田中はそのあとルンガ夜戦で雁行陣で戦い、「連合艦隊最後の大勝利」を飾ったあと山本五十六によって左遷された。田中頼三は執拗に連合艦隊司令部に意見具申し、嫌われていた。

泊地で停止した艦にたいし11隻の駆逐艦で攻撃し、3発しか命中しないというのは不満は残る。日露戦争期間中、両海軍ともに、本件は唯一の確認された魚雷による戦果であった。

ロシア太平洋艦隊

ロシア側の反応

2月8日夕、太平洋艦隊司令長官スタルクは自宅でパーティを催していた。当日はマリア命名祭で、スタルクの妻の名前がマリアであったため祝賀しようとしたのである。パーティは深夜まで続いたが、突然、砲声が響いた。

満座の将校は陸軍に属する要塞参謀部に照会したが、「旗艦『レトウィザン』が夜間演習を実施中」と回答があった。すると30分後、今度は猛烈な爆発音が聞こえた。幾ばくもなく、警戒警報のサイレンが鳴った。これで総司令官以下大いに狼狽し、総員非常配置につくことが命令された。

アレクセーエフ極東太守が、ペテルブルグにおける日本の国交断絶通知を受けたのは、7日であったが、だが、アレクセーエフは司令官らに通知しなかった。一般の将校が日露両公使の本国帰還を知ったのは公報により、2月9日であった。

旅順は平静で、劇場やカフェーは大盛況であり戦争を予期するものはいなかった。ただし、昨年来、アレクセーエフは戦艦隊と巡洋艦隊の口外停泊を命令していた。旅順口は浅水港であり、満潮時しか口外に出られず、非常出撃に備えたものであった。

このため、常時蒸気を上げており、砲門には実弾が装填されていた。グリゴローウィッチ『ツェザレウィッチ』艦長は、午後11時38分(現地時間)、艦長室で水雷艇接近警報を聞くと、ただちに上着を着用して露天艦橋に立った。すると大連方向から艦尾に向かってくる日本の駆逐艦を2隻発見した。

その瞬間、水雷の突進してくるのを発見するや、艦尾左方に轟音が響いた。最初、右舷に傾いたが、そのあと左舷に反傾し、傾斜は18度に達した。直ちに全蒸気を起し、抜錨した。だが間もなく、別に2発の水雷が接近したが命中しなかった。

いったん戦列を脱し沖に出ようとしたが、舵機が故障しており、エンジン操作によってその方向をとり、のち港口に入ろうとした。すると『レトウィザン』も同様の退避行動をとったため、それを避けようと前進すると干潮のためそのまま擱座した。翌日夕、満潮のさい曳航され西港に入ることを得た。9日の海戦には砲撃に参加したという。

『ツェザレウィッチ』は艦尾をその水線部から9フイート沈降し、船員起居室にまで浸水した。人的被害は行方不明水兵1名に止まった。漏水防止作業中、流亡したとされる。

この日損害を受けたのは『ツェザレウィチ』『レトウィザン』『パラーダ』の3艦であった。

2月9日の主力艦による攻撃

水雷攻撃が終了したころ、司令長官スタルクは、『レトウィザン』と『ツェザレウィッチ』が湾口附近に擱座するのをみて『ペトロパブロフスク』を旗艦と定め坐乗した。口外遠く『アスコルド』と『バヤーン』を偵察に派遣したが、7時45分敵大艦隊発見の報が入った。スタルクは直ちに戦闘準備を命令した。

東郷平八郎も第1戦隊(『三笠』『朝日』『冨士』『八島』『敷島』『初瀬』)と第2戦隊(旗艦『出雲』『吾妻』『八雲』『常盤』『磐手』)を率い、第3戦隊(司令官出羽少将、旗艦『千歳』『高砂』『笠置』『吉野』)を先行させ偵察任務につかせた。スタルクが最初に発見した艦隊は、これであった。

午前9時40分、東郷は「戦闘序列に占位せよ」と命令した。このとき陸岸に濛気があり、海から陸への視界は悪かった。第1艦隊が先頭で12ノットの速度で、単縦陣で東から西に進み、右舷砲で射撃する態勢を整えた。

『三笠』が午前11時55分、最初の試射弾を放った。午後0時11分、三笠が初めて命中弾をポベータに与えた。

各艦とも距離7,8000で停泊中のロシア艦に猛射を浴びせたが、動かない敵艦にたいして命中率はよくなかった。反面、旅順海岸砲からの反撃も甚だしく、とくに最後尾に当った第3艦隊に多く命中した。照準が会ってきたのである。日本側は6インチ砲以上を1223発発射したが、38発が命中した。ロシア側も20発以上を命中させた。『三笠』がもっとも集弾した。他にも『冨士』『初瀬』『敷島』に巨弾が命中した。

ロシア艦のうち『ノーウィック』『アスコリド』『バヤーン』は出撃して奮戦した。とくに『ノーウィック』は距離2500まで接近したという。午後0時37分、東郷は「第3戦隊は砲戦外に避けよ」と命令し、左8点の一斉回頭をもって沖合いに出た。午後0時45分、『三笠』は戦闘旗を撤した。

敷島艦長であった寺垣猪三は、

「じつはこれまで佐世保に待機している間に、我々は随分この射撃術について研究いたしましたが、さて実戦になってみますとなかなか思うように弾丸があたらない。まことにその時には残念に感じました。自分の射った12インチが水柱が立って煙が上らない。たまにあたったかと思うようなのがあるのでありますが、甚だ技術がよくない」

「これまで少し天狗になりかかった敷島でありますが、まるっきり予想に反した不出来な射撃でありました。そのことを我々は感じましたが、それについてはその経験によって、後からの訓練は大分違うことがあったかと思うのであります」(『日露大海戦を語る』東京日日新聞社、大阪毎日新聞社)

この日の射撃成績は、黄海海戦と比べ、劣悪と評すべきであった。寺垣は斉射法訓練に切り替えがあったことも述べている。この面の改善は『三笠』砲術長加藤寛治の登場を待たねばならなかった。主力艦同士の砲戦はこのときから、半年後まで発生しなかったのである。東郷平八郎は海岸砲の掩護下の砲戦を避けたのであった。

射撃の失敗については距離7,8000であったのを距離1万で射撃したためといわれる。このときの連合艦隊は、弾着によって距離を修正せず、予め計算した距離を墨守して斉射したのであった。

旅順口奇襲の問題点

山本権兵衛はこの奇襲開戦によって、日露両海軍の主力艦比率を変え、戦争そのものの終結が可能であるとみた。この判断自体が誤りであるうえ、戦果自体もみすぼらしいものだった。『レトウィザン』『ツェザレウィッチ』『パラーダ』ともに。1カ月半以内に修理が完了した。

日本側に不利に働いたのは旅順が浅水港であったことだ。東支那海から渤海湾にかけては、水深がなく、このため潮の干満が激しいのである。たとえ艦底に大穴が開いても、干潮時にはその大穴が水面上に出てしまう。

そのとき木製の箱を穴にかけ継ぎ目に瀝青を塗る。そうすると満潮時、水圧によって継ぎ目から漏水することなく、修理可能な状態となる。ロシア側はケーソン工法と称したが、日本側はついにこの修理法を見抜くことができなかった。これが閉塞戦に悪影響を及ぼした。

山本五十六は昭和16年1月、及川古志郎海相に手紙を書いた。その中の一節である。

「我等ハ日露戦争ニ於テ幾多ノ教訓ヲ与ヘラレタリ 其中開戦劈頭ニ於ケル教訓左ノ如シ

 (一)開戦劈頭敵主力艦隊急襲ノ好機ヲ得タルコト

 (二)開戦劈頭ニ於ケル我水雷部隊ノ士気ハ必シモ旺盛ナラス(例外ハアリタリ)其技量ハ不    充分ナリシコト 此点最遺憾ニシテ大ニ反省ヲ要ス

 (三)閉塞作業ノ計画並ニ実施ハ共ニ不徹底ナリシコト

吾等ハ是等成功並ニ失敗ノ蹟ニ銘シ日米開戦ノ劈頭ニ於テハ極度ニ善處スルコトニ努メサル可カラス而シテ勝敗ヲ第一日ニ於テ決スルノ覚悟アルヲ要ス」

この山本の説明は当を得ていない。2月9日の主力艦急襲は明らかに失敗であった。2月8日夜の水雷攻撃はロシア戦艦2、巡洋艦1の艦底に大穴を開ける被害を与えた。これは不十分な戦果であるかもしれないが、士気が旺盛でないとか、技量が不足していたといわれる筋合いのものではない。

居留民避難問題

日本政府は、2月6日にロシア及び満州在留邦人に帰国命令を出した。シベリア在住の日本人居留民はウラジオストックから避難し大多数、2月8日までに脱出するのを得た。ところが、満州在住者の場合、いったんハルビンに集結し、そのあと旅順または大連から出港することが命令された。

この処置自体は、太平洋戦争におけるハワイやアメリカ本土居留民に対するものより、はるかに穏当な措置である。また当時、日本以外に居住する予備役は法律上応召義務を負わなかったが、日露戦争勃発とともに、多数が応召のため帰国したことも忘れてはならない。

旅順では、2月8日昼までに英船ラスペラ号によって多数が帰国した。だが多数が乗り遅れ、夜の水雷攻撃のさい不安な状態に置かれた。9日昼、日本主力艦隊砲撃までに、市内の日本人は芝罘行きの温州号に乗り込むことが指定された。8人のロシア兵が船上で警備にあたった。200余人は出帆が許されず、食糧も不足する事態になった。

10日午後10時、アレクセーエフ提督名で米10俵、ビスケット半ダースの差し入れがあった。13日、ハルビンから最終103名の日本人が到着し、総勢304名となった。14日午後4時、出帆許可が下りた。ハルビンからの日本人は途中、ロシア兵によって荷物・金品を強奪され、着用した衣類以外もたなかったという。

出帆後、口外数マイルの地点で、居留民は「大日本帝国万歳」を叫んだ。既に市内では馬賊が横行したり、ロシア兵が盗みに入ったりで治安は乱れていた。また。ポーランド人兵やユダヤ人兵は日本人に戦勝を期待すると声をかけたという。

温州号は、15日、芝罘に到着し、領事館員に迎えられた。ロシア兵による略奪行為はともかく、ロシアとしての日本人居留民の取り扱いは騎士道に則ったものであろう。同様に日本政府は日本に居住するロシア民間人154名にたいして、自由な帰国を許可した。第二次大戦における交戦各国の敵国居留民の取り扱いは非道なものが多かった。

奇襲開戦という手段の是非

戦争とは双方合意で発生するものではなく、一方の作戦計画発動によって開始される。山本権兵衛は水雷艇による敵主力艦艇の減殺、すなわち主力艦バランスを有利にすることにより、一挙に戦争勝利に結びつけようとした。

この当時、先制攻撃による戦争開始は国際法上違法ではなかった。そのうえ、1907年第2回万国平和会議における「開戦規定」が定められる前であって、最後通牒や戦争予告の必要もなかった。

第2回ハーグ万国平和会議

第二次大戦以降、戦争が禁止されても、戦争は発生した。その場合多くは、奇襲によって戦争が始まった。いきなり航空機や戦車を集中使用して敵の主力を殲滅しようとした。この点で山本権兵衛の旅順口急襲作戦は誠に時代を先取りしたものであった。

それでも、奇襲に失敗した。さらに外地居住日本人同胞の苦難をみれば、奇襲開戦はやってはならない手段なのである。山本権兵衛と山本五十六は日本戦史上、二人の鬼才であった。旅順口急襲作戦とハワイ作戦を策案した。だがそれだけに外交や国際法についての理解は欠けていた。一撃で敵を倒すことができ、敵は無抵抗のまま引き下がるという発想は根本的に誤りである。

暫くたち、連合艦隊司令部において水雷攻撃は失敗とみなされたとき、石田一郎司令は、「水雷とはコソ泥のようなもので、サッと攻めてサッと退くものです」と弁明した。仁川においてワリヤーグ撃沈に成功した『浅間』艦長八代六郎は、

「(コソ泥は)亭主を叩き起こして朝飯を食わせてもらうくらいじゃなきゃ割りに合わんだろう」
と発言したという。のちシーメンス事件をめぐって、八代は海相として山本権兵衛予備役編入をめぐり対立した。石田は水雷攻撃に向かない人物なのであろう。当時の魚雷では敵艦に激突する気合がなければ命中しない。

海軍兵学校卒業生

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