ロシア戦艦はなぜ沈んだか
東郷平八郎の奇術?
日本海海戦において、バルチック艦隊の戦艦はもろくも6隻が撃沈された。それまで戦艦は水雷によって喫水線下が破壊されねば不沈と信じられていた。日清戦争の清国の戦艦は砲戦では沈没せず、日露戦争の黄海海戦でも旅順艦隊の戦艦は沈まなかった。
当然、バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキーは、砲撃戦による戦艦不沈を信じて作戦計画を立てた。アルフレッド・マハンは日本海海戦におけるバルチック艦隊の戦略を「二兎を追う」、すなわち、艦隊決戦とウラジオ遁入の両方を追求したと批判した。
これは誤っている。ロジェストウェンスキーはたんにウラジオ遁入を狙ったのである。戦艦は戦艦同士の砲撃戦では不沈であるから、たとえ上部構造が大破しようともウラジオにはたどり着ける。そこで「フリート・イン・ビーイング」(艦隊温存策)を戦略とすれば、日本艦隊を牽制することができる、と考えた。
遁入策の最大の障害は敵の水雷攻撃とみた。ロジェストウェンスキーはなんらかの手段で日本艦隊が佐世保ではなく、朝鮮半島南部に集結していることを知っていた。すると日本の駆逐隊と水雷艇隊は西から、すなわち左舷から来ることになる。これがため2列縦隊としたのである。
後方左には囮と予定されてネボガトフの「浮かぶアイロン」艦隊と巡洋艦隊を並べ、水雷艇の攻撃に備えさせた。なぜ後方としたかといえば、東郷は、敵前回頭ではなく定石通り後方からT字を斬ると予想したためであった。2列縦隊は水雷攻撃を念頭におけば理想的な陣形であった。
司馬遼太郎は「ロジェストウェンスキーはじつは定石どおりに単縦陣でもって戦いたかった」(『坂の上の雲』(八)文春文庫)と書いている。これは4隻単位の戦隊における単縦陣と、全艦隊の単縦陣と混同しているのである。単縦陣の最大の目的は4隻のもつ副砲(当時は6インチ砲が砲力の中心とみなされていた)を敵の一艦に向けることであった。病院船・石炭船を含む全艦隊が単縦陣を組むことは意味がない。
ロジェストウェンスキーは砲術家であり、日本艦隊と並行戦となっても砲戦の命中率で劣ることはないとも信じていた。主力の4戦艦スワロフ、ボロジノ、アレクサンドル三世、アリヨールは同型艦であり、6インチ砲はいずれも砲塔式で長砲身の45口径であった。この点では日本の戦艦を上回る。だが砲塔式連装6インチ砲はあまり活躍できなかった。砲戦開始30分にして、命中弾を浴びすぎて、多くの砲塔の基盤に歪みが生じ、回転ができなくなってしまった。
主力4戦艦は、それ以降、一方的に撃たれたといって過言でない。ロジェストウェンスキーにとっては誤算であったろう。武人であるがゆえに、並行戦になったとき、針路の変更を肯んぜず、撃ち合いを選んだ結果であった。
『和泉』の石田艦長はバルチック艦隊を当初みたときの印象として、「威風あたりを払い肅肅として進航し来り、各艦は煙突を黄銅色に塗抹し、遠路東航中焚火法は大いに練熟したと見えて煤煙を吐出せず」(『戦袍余薫・懐旧録』有終会)と書いている。バルチック艦隊は逃げも隠れもせず堂々と対馬東水道を突破せんとしたのであり、発見されることや、海戦が生じることはもとより覚悟していた。
バルチック艦隊の煙突の色についても、多くの戦史家は「黄色」と書くが、そうではなく「黄銅色」が正しく、また白く塗ったものが煤煙で変色したのである。平時においてロシア軍艦は船体を黒く、艦橋や最上甲板から上を白く塗るのが原則なため、ロジェストウェンスキーは煙突だけは白く残したいと思ったのかもしれない。
ロジェストウェンスキーは下僚に厳しく孤高を貫いた提督であったが、劣勢を承知しながら正面からの戦闘を挑んだのであり、「東郷の奇術の前にほとんど無策でいた」(司馬遼太郎『坂の上の雲』(八)文春文庫)ということはなかった。日本海海戦におけるバルチック艦隊の敗北は「量」と「質」(兵器とその使用法)の2点でもたらされたのであり、東郷平八郎は奇術など使わなかった。
ただし昭和海軍人が、軍機に包まれたこの海戦について日本側は奇術によって勝ったのではないか、我々も奇術を開発せねばならない、といった感想をもったことは否定できない。
ロシア戦艦の奇怪な沈没
砲戦による上部構造大破と、撃沈は別の話である。第一次大戦のユトランド沖海戦ではイギリスの巡洋戦艦3隻が砲戦で撃沈された。この海戦では英独両軍ともに徹甲弾を使用した。沈み方は劇的なもので、上空1千メートルに及ぶ爆炎を上げ、一瞬のうちに轟沈した。徹甲弾が複数の甲板または舷側を貫通し、艦底にある火薬庫にまで達し、誘爆したのである。船体は二つに折れたり、傾斜したりしながら沈没した。
当然、両軍将兵の見守る中で発生した。夜間に入り、ドイツ巡洋戦艦が破口によって生じた浸水を食い止められず、徐々に沈没、廃棄されることも起きたが、兵員には「総員退去」がかかり、相当数が救助された。ドイツ側も30発以上の命中弾を受けた艦があったが、艦底にまで達するような致命傷にならなかった。ところが日本海海戦におけるロシア戦艦は、そのどれにも当てはまらず、誠に奇怪な様相で沈没しているのである。
日本側が使用した主な砲弾は、重量比10%の下瀬火薬(ピクリン酸・トリニトルフェノール)を炸薬とする鍛鋼榴弾で、伊集院信管と呼ばれる極めて鋭敏な信管をつけていた。この火薬の爆発力は強力であるが、装甲を貫くことは難しい。即ち、上部構造破壊が目的であった。
第一次大戦のドイツ徹甲弾に比べ、日露戦争で使用された徹甲弾は威力不足であった。ユトランド海戦において砲撃戦の主力をなしたドイツ巡洋戦艦の主砲は11インチが多く、日本海海戦における三笠の12インチよりも小さい。射撃距離においてもユトランドでは、1万から2万メートル、日本海海戦では2千から8千メートルであった。砲弾重量の2割程度の差は決定的でなく、射撃距離が短ければ威力が増大するというのも俗説であろう。
ドイツ徹甲弾は、被帽付(CAP)であったが、それだけではこの威力増大は説明できない。ドイツ人がどのような工夫をしたのか、じつは現在でも謎として残っている。第二次大戦終了後、米英軍はドイツ海軍省から機密書類を押収し、ドイツ艦の抗堪性について防火扉と中央隔壁の廃止に秘密があることを発見した。しかし、ドイツ徹甲弾の秘密解明には到らなかった。
日本側も徹甲弾を使用したが、ハーベイ鋼の装甲を貫通できたと証明されたのは戦艦アリヨールに浴びせた1弾だけであった。日本海海戦における日本側命中弾は異常な大数に達している。アリヨールに与えた命中弾は6インチ以上で3百発を超えている。黄海海戦におけるツェザレウィッチへの命中弾59発と比べれば、5倍以上であった。
一度は嚮導艦になったスワロフ、アレクサンドル三世、ボロジノの被害は想像に絶するものがあったとみてよい。だが、いずれの艦に対しても徹甲弾が有効であったと思われない。東郷平八郎の10%下瀬榴弾の主力使用は正しい決心であった。
反面、東郷平八郎も戦艦の撃沈は不可能であり、修理不可能なまでに上部構造を破壊すれば十分であると考えたと推定される。黄海海戦のあとでも蔚山沖海戦のあとでも大破したロシア艦が活動を再開させることはできなかったのである。
これについて、司馬遼太郎は、「浪高し」を原因として、
「風浪のためにロシア軍艦がたえず動揺し、腹(水線以下の無防御部分)を見せるためにそこへ日本の砲弾が命中し、海水の防弾力を借りる条件に乏しかった。このためそこから海水が入り、さらに一方、波浪が奔騰するため、水線以上の薄い部分に日本砲弾が命中して大穴をあけた場合も、海水がどっとそこから入った。このため艦はかたむき、ついにひっくりかえって海底に沈むという物理的結果になった。
もしこの日『浪高し』でなくても夜問の魚雷攻撃によって似たような結果になったかもしれないが、日本砲弾の威力が驚異的に高まったのは激浪のたすけによるところが多く、さらに東郷が風上へ風上へと自分の艦隊をもって行ったことは、日本の全砲門の照準をたやすくさせるのに大いに効果的であった」(『坂の上の雲』(八)文春文庫)
と波浪原因説を書いている。この説は第二次大戦後、旧海軍士官によって唱えられが、部分的にしか正しくない。戦艦の「腹」といえども二重艦底であり、1トン近い機雷でも1発で撃沈させることは困難であった。4百キロしかない三笠の10%下瀬主砲弾では艦底を貫通することは不可能である。
さらに喫水線上の非装甲部分に穴が開いた程度では戦艦は絶対に沈まない。というのは艦内に均一に海水が入れば、むしろ転覆しにくくなるのである。海水は底に落ちるはずだから重心はむしろ下がる。
では、どのようにして対馬でロシア戦艦は沈んだのであろうか?
連繋水雷
沈んだロシア戦艦は6隻である。ボロジノ、アレクサンドル3世、スワロフ、オスラビア、シソイ・ウェリキー、ナワーリンで、初めの3隻はボロジノ級に属する同型艦であり、旅順艦隊のツェザレウィッチと同一設計であった。
このうちシソイ・ウェリキーとナワーリンは内海であるバルト海における作戦を目的としたイタリア型砲艦(イタリアン・モニター)であった。イタリアン・モニターの船体断面は、タライのような形をしている。発想としては、復原力よりも傾斜が生じないことを重視したのである。
19世紀において、イタリア造船界は世界最先端を走っていたが、如何せんイタリアの位置は地中海中央である。イタリアの軍艦は、波が静かなため航洋性が要求されない。波による動揺が生じること自体が少ないのである。さらに乾舷が狭いため装甲せねばならない面積も狭い。当時、横からの艦影が小さいことは、砲弾の命中率を低めると考えられていた。
この2隻の沈没の情況は、両方とも生存者がいるため、ある程度判明している。ナワーリンとシソイ・ウェリキーはともに昼間の戦闘で大打撃を受け、ニコライ二世に座乗したネボガトフ率いた本隊と分れ、ウシャーコフを連れながら、朝鮮半島のどこかに座礁させ船体を破壊しようとした。
先頭にたったナワーリンは、鈴木貫太郎の第4駆逐隊(朝霧・村雨・朝潮・白雲)に襲撃され、連繋水雷によって撃沈された。乗組員8百名のうち救助されたのは3名だけであったが、1名は機関兵であり、「総員退去」が出たのちの沈没であった。2名はイギリス商船に救助されており、沈没の直接原因が、同時に両舷に命中した2発の水雷であると証言している。
連繋水雷とは、浮標水雷2個をロープでつなぎ、それを2隻の駆逐艦で引くもので、日本海軍が編み出した「新兵器」であった。発明したのは小田喜代蔵で、日露戦争勃発の前から1号機雷という浮標水雷を発明(触発によって爆発する機雷のうち、浮遊するものは1907年ハーグ条約により禁止となった。しかし、浮くものであってもロープや電波などでコントロールできるものは合法である)していた。
事情としては魚雷が改悪によって命中率が著しく低下したためである。当時の魚雷は冷走式といわれるものでヒーターがなく、圧搾空気のみをエネルギー源として、速度22ノット、走行距離500メートルが一杯であった。これを日露両軍とも速度12ノットとして走行距離を伸ばすという改悪をやったのである。
日露戦争で停止した艦以外にたいして、魚雷で損害を与えたという記録は、日本海海戦における第2駆逐隊(長、矢島純吉、朧・電・雷・曙、『電』には米内光政が乗り組んでいた)によるナヒーモフ以外見当たらない。つまり魚雷を抱いた水雷艇や駆逐艦はほとんど活躍できなかった。ナヒーモフに魚雷が命中したかについても疑問が残る。というのは、『朧』に乗り組んでいた内藤中尉は、
「その日は艦の動揺がいかにも激しく、発射管を右舷正横に向けておきましたが、ややもすれば魚雷がのめって飛び出す始末。丁度奔馬の轡に手綱を食はしたやうに左右から綱を採って、両端を水兵に持たせ、それに依って、辛うじて魚雷の奔出を防ぎ得ました様な次第でした。
自分は照準器についておりましたが、漸次時機が近づいてきましたから、狙いを定めて水雷を発射したのであります」(『戦袍余薫・懐旧録』有終会)と書き残した。
ここでは魚雷と水雷を区別している。『朧』が1号機雷をなんらかの手段でナヒーモフに中てた公算を否定できない。第4駆逐隊は連携水雷によってシソイ・ウェリキーにも大被害を与え、翌日、欝陵島に座礁させた。小田喜代蔵は、対馬の竹敷要港部で特別部隊として指名された第4駆逐隊に連繋水雷の特殊訓練を実施しており、その効果が発揮された。
旧海軍士官が編纂した『日本水雷史』では、日本の水雷の父として、小田喜代蔵と鈴木貫太郎の2名を挙げており、これは妥当であろう。ただしこの本では、連繋水雷の具体的方法は既に忘れられており、いかに海軍が軍機として厳しく扱ったかがわかる。
突然転覆
初めに沈没した戦艦はオスラビアであった。この艦は2列縦隊の左側、第2戦艦隊の先頭を占めていた。後続はナワーリン、シソイ・ウェリキー、ナヒーモフであったが、この3隻とも備砲は旧式で装薬が黒色火薬であり、遠距離射撃は不可能であった。
ロジェストウェンスキーは会敵すると直ちに、オスラビア以下の第2戦隊をアリヨールに後続さしょうとした。これがためには、第2戦艦隊を停止させねばならない。『三笠』以下6隻の連合艦隊第1戦隊はスワロフに砲火を集中させ、第2戦隊がオスラビアを狙った。
2時27分、敵前大回頭を終えた第2戦隊は、8インチ主砲によってオスラビアに砲火を集中した。ロシア側描写によれば、日本側試写の段階で前部砲塔が電気系統へのダメッジのため回転不能になったようだ。T字を斬られているので、オスラビアは前部砲塔でしか反撃できず(ナワーリン以下は遠距離射撃が難しかった)、その後は一方的に撃たれる展開となった。第1戦隊は優速なため2時47分にスワロフ以下をオーバーランした。砲撃を中断し、左6点に一斉回頭した。
第2戦隊は後続なため、目標をオスラビアから、アレクサンドル三世以下の第1戦艦隊に変更し、頭を抑えながら、3時10分に左に回頭した。このときスワロフは脱落したとされる。さてオスラビアであるが、『公刊戦史』は、それと同時の3時10分に沈没したと伝える。だが、朝日新聞社刊『日露大戦秘史』(海戦篇)では、
「既に戦闘力を失いたるオスラービヤも4時10分に沈没し、孤立せるクニヤージ・スウオーロフは益々大破して其一檣二煙突を失い、全艦煙焔に包まれて操縦する能わず、混乱せる爾余の諸敵艦も更に多大の損害を受けつつ、又其針路を東方に採れり」と書かれている。
プリボイの『バルチック艦隊の潰滅』も3時10分を主張している。やはり4時10分が正しいのではないか?というのは、ロシア側はサイゴン時間で戦闘に臨んでおり、日本時間より1時間遅く、3時は4時に相当する。
『公刊戦史』の筆者は、日本側の誰もオスラビアの沈没をみていないので、捕虜を尋問し、時間をそのままとったのではあるまいか。沈没までの情況はすさまじいもので、喫水線直上に命中弾があり、そこに再度命中弾があり、破口は馬車が通れるほどであったという。電気系統の故障のため電動ポンプが動かず、排水が不可能で左舷前部から徐々に沈んでいった。
最後にベル艦長は艦橋に留まり煙草を吸い、「総員退去」を命令し、声を励まして「艦からもっと離れろ」と叫んだという。左舷からひねるように転覆し、艦尾を宙に浮かせて沈んでいった。乗組員9百名のうち4百名以上がいったん駆逐艦3隻に救助された。
ポンプが動かなかったことは不幸であるが、前後・左右均一に海水が浸入すればそれでも大艦が沈むことはない。オスラビアは砲撃戦ではないときに転覆で沈んだ。
次に沈んだのはアレクサンドル三世だが、時間はボロジノやスワロフとほぼ同時の7時半前後と推定される。7時になって戦列から離れ、突然左舷から転覆したという。この姿は後続したナヒーモフとモノマフから目撃された。しかし、両艦が兵員救助に向かったとき、あたりは日没で生存者を発見することができなかった。
すなわち乗組員9百名は全員戦死したのである。
一方、アレクサンドル三世を継いで嚮導艦となったボロジノも、その沈没地点1万メートルほど北西で沈没した。『三笠』艦上で唯一望見できた沈没であった。『三笠戦闘詳報』には「7時30分、敵ノ1番艦南西微南ニ当リ突如水烟ノ中ニ全ク沈没ス」と書かれている。
乗組員9百名のうち、日本の駆逐艦『朧』に救助されたユーシチン(ユシチェンコ)だけが生き残った。ユーシチンは戦後、沈没のさいの情況を語っているが、見る範囲で士官は全員死亡しており、士官室内部は原型を留めていなかったという。捕獲されたアリヨールの上部構造も、滅茶苦茶であり、同様であったろう。
それでもボロジノは列からはずれることなく北方に進んでおり、砲撃戦も終了(『三笠』の「打ち方止め」は7時10分)していたが、暫く後、突然転覆し沈没した。アレクサンドル三世も同様だが、こういったことはあるのだろうか?
最後はスワロフの沈没である。舵が傷ついたスワロフは、3時ごろ戦列から離れた。『日露大戦秘史』(海戦篇)は
「千早及び広瀬(順太郎)駆逐隊が午後3時40分の頃、鈴木(貫太郎)駆逐隊が午後4時45分の頃、敵の廃艦スウオーロフに対し、勇敢なる水雷攻撃を決行したることにて、前者の奏功は確実ならざりしも、後者より発せし1水雷は、敵の左舷後部に命中し、須臾にして艦体10度許り傾斜するを見たり」と書き、その後の水雷戦でダメッジを受けたようである(ロシア側は否定)。さらに
「富士本水雷艇隊は突進してクニヤージ・スウオーロフを襲撃し同艦は尚艦尾の小砲1門を以て最終の抵抗を試みしも、遂に我が水雷2発の下に沈没せり。時に午後7時20分なり」と付け加える。
『公刊戦史』もスワロフ撃沈の功を富士本水雷艇隊に与えている。ただし富士本自身は、スワロフの突然転覆を目撃しただけで、のちに「水雷を発射したといえと誘導された」と語っている。
明治の日本人は軍事機密を守ることはできてもウソをつき通すことができなかった。ロジェストウェンスキーの随行者を除いて、スワロフにおいても生存者はいない。また工作船カムチャッカが近くにいたが直後撃沈され、生存者はこれまたいなかった。
また当日の日没は7時35分ごろであった。オスラビアとボロジノ級戦艦3隻はいずれも砲撃戦の最中でないときに、ほぼ同じ時刻に突然転覆して沈没した。浸水しながら沈没したオスラビアを除いて、乗組員は文字通り一人しか助からなかった。転覆した場合、退去命令が出ないため生存は期し難い。
タンブル・ホーム
バルチック艦隊8隻の戦艦のうち、モニター艦であったナワーリンとシソイ・ウェリキーを除くと全て、タンブル・ホームという独特の船形をもっていた。ワインを飲むタンブラーに似て、フランス造船界が発展させた。日本の艦船でも、三景艦と呼ばれた巡洋艦はこれであった。
ところが山本権兵衛海相は、六・六艦隊を創設するに当たり、タンブル・ホームを一切採用しなかった。『畝傍』沈没事故で航洋性に問題ありとみたのであろう。タンブル・ホームの利点は艦の喫水線下の容積を増し、浮心(喫水線下の面積の加重した中心)を下げることにあった。第二次大戦における軍艦で両舷にバルジをつけているのがあるのも、同様の効果を狙った。これによって上部構造における重量負担を増加させることができる。すなわち兵装を増やせるのである。
スワロフなどボロジノ級戦艦が、兵装は同様にもかかわらず、『三笠』より排水量トンが少ないのはこのためである。すなわち、鋼材を節約できる、予算を節約できるのである。明治時代の政府や議会は予算節約よりも事故発生を警戒したともいえる。
ロシア戦艦突然転覆の謎を解く鍵は、タンブル・ホームと過剰艤装である。その上、どの艦も海戦に備え石炭を過剰積載しており、多くは喫水線下に置かれた。これがため、戦闘行動中に石炭を多く費消すると重心が上がってしまう。
転覆のメカニズムは複雑である。一般にいくら傾斜しても、メタセンターが重心より高ければ転覆することはなく、復原力を残す。喫水線下の平均のとれた浸水は、重心を下げるので、むしろ転覆を防ぐ。傾斜すると浮心が移動する。浮心の直線上と中心線の交差した点がメタセンターである。メタセンターが重心の下のままだと、復原力がなくなり一挙に転覆する。
タンブル・ホームはある程度の傾斜までは比較的浮心が移動しにくい、または移動幅が小さい。傾斜が大きくなって、メタセンターが重心の上になる。重心は積載物により、浮心も喫水線の移動と傾斜により変化する。内海であれば波浪は低く、大きな傾斜が加わることはない。
ところが当日、日本海の波浪は大きかった。このため大きなカーブを切ったところで波浪があった場合、予想外の傾斜が発生し、砲甲板に海水が入る虞があった。排水に成功したり、石炭庫が空になったりすると重心が上がり益々危険である。プリボイは、アリヨールが転覆しそうになった場面を描写した。
「オリヨールはぐーと左へ廻った。と同時に円を描いていく艦の外側、つまり右舷が傾斜しだした。上甲板や砲甲板あたりで、薄気味の悪いざーッという水の音が、司令塔まで聞こえてきた。昼間の戦闘の際、日本側の砲火を蒙って、本艦の傾斜計は残らず壊されてしまったが、傾斜計がなくても、本艦はもう少しで危険という限界まて傾いていることは、感じだけでも判った。艦が傾斜するとき、いたるところの鉄がぶるぶるッと震えた。司令塔にいた者はみんな、八度の傾斜が限界ということを知っていたので二言も発するものがなかった。おそらくみんなは、私と同じく、かねて覚悟していた椿事(カタストロフ)の瞬間にはいったのを感じていたに違いない」(『バルチック艦隊の潰滅』)
バルチック艦隊はクロンシュタットを発つとき、戦艦には全て造船技師を随行させた。ロシア人もタンブル・ホームの航洋性について疑っており、重心の上昇、喫水線の低下(浮心の上昇)について危険視していたのである。アリヨールにも造船技師が派遣されており、8度の傾斜で転覆すると計算し、回頭のさいには急角度にならないように細心の注意を払った。
アレクサンドル三世、ボロジノ、スワロフ(この艦に派遣された造船技師は妻にバルチック艦隊東征の詳細について書いた手紙を送ったので有名なポリトウスキー)は、いずれも回頭のさい急角度にすぎたか、波浪が加わったかの事情で、突如、転覆したに違いない。派遣された造船技師はそれまでに戦死していたのであろう。
ボロジノ級の原型はフランスのラセーヌ造船所で建造されたツェザレウィッチである。ロシア海軍はライセンス料を支払うことなく、ツェザレウィッチのデッド・コピーをボロジノ級としたのである。日本海海戦のあと、ロシア海軍関係者はフランス造船の技術的欠陥がボロジノ級転覆の主因であろうと非難してまわった。これにたいしてフランス前造船総監ベルタンは次のように『ジェーン』(戦う船)に意見を表明した。
「私は『ジェーン』(戦う船)誌の要請に完全な形で返事を書けないのを残念に思う。対馬海戦に関与した不運なロシア艦船の正確な積載量について、今のところ正確な情報が得られていない。また転覆前の船体への損傷についても正確な知識を得ることも難しく、私が十分に書けないことを理解して欲しい。
私はこの15年間にわたり表明してきた軍艦の安全性に関する懸念について、今、私がこの悲劇と関連づけることは困難なのである。私のいえることは、事実が私の懸念を証明するだろうということだけだ。
私はツェザレウィッチの仕様について、どの程度、ロシア人が指定したのか全く知らない。加えて、どの程度フランス建艦思想に合致していたのかもわからない。対馬で沈没したボロジノ級というロシア戦艦がどの程度、ツェザレウィッチを原型としたのかもわからない。ボロジノ級はあらゆる海軍にとって共通のある型を代表しているようにも思える。
ロードネルソンやレパブリケはロジェストウェンスキー艦隊のボロジノ級戦艦隊の不幸な欠点からは除外されている。しかしながら現在のレパブリケを有利とするような所から結論を下してもいけない。英戦艦の改善点については、ウィリアム・ホワイト計画に従ったマジェスティックにまで遡る」
フランスの最新鋭戦艦レパブリケはタンブル・ホームを採用せず、航洋性を向上させたことに言及し、暗にタンブル・ホームの欠陥を認めている内容である。さらに『三笠』とマジェスティックは姉妹艦であった。しかしながら、大半がタンブル・ホームの船形をもっていた旅順艦隊は転覆艦を出していない。鏡のような黄海では十分に活躍できたのであり、同様にバルト海や地中海であれば、問題はなかったであろう。
元々、外洋に出ることを考慮しなかった海軍が、太平洋と日本海の制海権獲得に乗り出したところに無理があった。
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