バルチック艦隊マダガスカル島3カ月碇泊の謎
バルチック艦隊は、1904年10月15日、ロシア領リバウ軍港を出て、その年の末、仏領マダガスカル島周辺に到着し、3カ月強、北部のうら寂れた湾、ノシベに停泊した。阿片戦争、アロー号戦争、北清事変においても、ヨーロッパから極東に遠征した艦隊はあったが、マダガスカルまたはアフリカ東海岸に長期滞在したケースはない。
なぜ、バルチック艦隊はマダガスカルにいき、そこに3カ月も停泊したのであろうか?
通商破壊戦
日露戦争の大半は極東で戦われた。これは陸軍については当然であるが、海軍については当然ではない。イギリス艦隊は、ナポレオン戦争では長崎港にいたオランダ船を襲撃し、クリミヤ戦争では黒龍河口を遡って(当時沿海州は清国領であったが)ロシア極東艦隊を攻撃している。
アメリカ南北戦争では私掠船の許可を民間船舶に与えるといって、北部(ユニオニスト)政府を脅している。いったん戦争が起きれば、全世界の海面で海戦または通商破壊戦は発生しうる。
戦時国際法では、軍艦"Man of War"は、いかなる民間船舶をも臨検でき、戦時禁制品の押収が可能である。ロシアは紅海に砲艦2隻を遊弋させ、日本とヨーロッパ間を航行する船舶を臨検した。日本からヨーロッパへの民間人の郵便を戦時禁制品であるとして押収し、日本政府はロシアに猛然と抗議した。
ロシアは、ギリシャ領クレタ島のスダに海軍基地をもち、そこに砲艦を配置し、時に応じて出撃させていたのである。通商破壊戦で、ウラジオ艦隊によるものを除けば、ロシア海軍の活動として目立ったものはこれだけである。
1897年の露土戦争
日本海軍も黄海海戦が終了した1904年8月以降、極東ロシアと旅順について封鎖を宣言し、日本近海に近づくあらゆる船舶を臨検した。シベリア鉄道の輸送力には限界があり、現在でも極東ロシアの民生品はほとんど津軽海峡と対馬海峡経由の海運に頼っている。
民生用物資の不足をきたした沿海州政府は、ウラジオに到着する外国船には懸賞金を渡して優遇するという措置を実施した。外国海運業者は保険金狙い(ボロ船を運航し、臨検のさい撃沈させ保険金をせしめる方法)と懸賞金目当てで船舶をウラジオに向かわせ、日本海軍はそれを撃沈せず、拿捕しまくったという記録が残っている。沿海州住民は、食糧・燃料不足とにより大量にヨーロッパ・ロシアに逃散した。
ともあれ、日露両国の通商破壊戦のスコアはあまり芳しくなかった。
無線・電信
1904年は無線・電信においては特異な時代に属した。
マルコーニが無線機を発明したが、英陸海軍人を前にしてソールズベリー平原で公開実験を行なったのは1897年であり、じっさいに無線機を販売したのは1900年になってからであった。
無線は紹介されたばかりであったが、その有用性は明らかで(とくに海難時)、すぐにほとんどの軍艦に搭載された。マルコーニ社の仕様説明では、無線機の通信可能範囲は10マイル(16キロ)から300マイル(480キロ)までとなっていたが、いかなる無線技師も50マイル(80キロ)以上、無線通信できたとは報告しなかった。
中波を使用したため、同調させることは簡単であって、無線発信機さえあれば妨害、受信機があれば傍受は可能であった。ロシアは山東半島の芝罘に領事館があったが、そこと旅順要塞とを結ぶ海底電線は開戦早々切断され、孤立した旅順要塞と無線通信をはからねばならなくなった。
領事館の屋根に大きなアンテナを張りめぐらしたが、120キロの距離はいかにも遠すぎた。出力をあげたため、毎夜アンテナは青い火花をあげ、住民は気味悪がった。清国官憲は電波帯の無許可使用は中立違反になるので取り止めることを命令した。
伝書鳩も試したが、これも距離がありすぎ失敗した。最後に頼ったのは中国密輸ジャンクで、金さえ払えばいくらでも集まった。事故などにより1割は連絡が途絶え、少数は日本海軍によって拿捕されたという。
次に電信(有線)であるが、ロシアにとり重大問題があった。それは中継所がだいたいイギリス政府によって運営されていたことである。イギリスは地球上の主要港湾をめぐる海底電線網を敷設しており、その中継所は原則として有料でどの電信文も受け付けていた。
依頼する電信文そのものはハードコピーで渡すしか方法がなく、読まれ記録が残ることを覚悟せねばならなかった。当時の暗号技術は幼稚であって、日清戦争においては清国の軍用暗号、日露戦争においては日本の外交暗号が傍受解読されていたことが現在までに知られている。
ロシア政府は在外公館からの公文についてすら、軍事機密については電信を利用しないことを規則としていた。軍機に係る連絡は古くからある方法、手紙の手渡しと面談しかなかったのである。
ロシアは自前の通信網をもたず、時代は通信機器大発展の一歩手前であった。
諜報活動
現在のソ連またはロシアと比較すれば驚きかもしれないが、帝政ロシアは海外諜報網ももっていなかった。諜報網や破壊活動組織の人員は、スパイ(政府職員)とエージェント(金銭などで雇われた人間)とに分かれるが、ロシアの在外公館は公開情報収集・分析業務すら負わされておらず、兵要地誌作成の任務を与えられた陸軍人の接遇、宿泊施設供与程度の責任を負うだけだった。
陸海軍省が軍事情報収集の中枢であったが、所属軍人のスパイ訓練はまったくなかった。これでは戦時、エージェントを雇い情報収集にあたらせることは難しい。情報流出をむしろ警戒していたが、ここにもロシア的杜撰さは顔を出した。
バルチック艦隊乗組員が泊地で手紙を出す場合、宛先は全部、ペテルブルグ海軍省とした。海軍省は集まった手紙を検閲を実施せず、造船士官ポリトゥスキーによるロジェストウェンスキー批判など貴重な記録が後世に残ることになった。
逆の乗組員家族の艦隊への宛先は「ギンスブルク商会オデッサ支店第二太平洋艦隊」であった。ギンスルブルグ商会とはユダヤ人経営になる総合商社で、バルチック艦隊にたいする全ての民生品供給契約を結んでいた。ベトナムカムラン湾にいたバルチック艦隊へ水兵用の制服や靴の引渡しに成功している。
大艦隊の7カ月にわたる外洋航海は、さまざまな難問を解決せねばならぬ大事業であって、ロジェストウェンスキーはインド洋をいく艦隊をながめて、
「艦の索条とは洗濯物を干すためのものか?今後我が艦隊をランドリー屋艦隊と名づけよう」
というくらいであった。晴れた日、バルチック艦隊は洗濯物をなびかせながら航海したのである。ギンスブルク商会の衣服・靴の配達は乗組員の士気向上に大いに役立ったことだろう。製品はいずれも中国製であり、なぜ、日本側諜報網がギンスブルグ商会の活動を摘発できなかったのか疑問は残る。
ロシア海軍が、この大航海について、もっとも警戒したのは途中における水雷攻撃であった。けっきょく日本海軍は対馬海峡まであらゆる攻撃を控えたので、杞憂にすぎず、愚かしい懸念だと思えるかもしれない。ロシア人ですら例えばウィッテは、回想録に(すなわちあとになって)、
「ロジェストウェンスキーは愚物であると思った。なぜかといえば彼は真顔で、泊地において商船に化けた日本の軍艦が奇襲水雷攻撃をかけてくることに警戒せねばならない、と説いた」
と書いている。これは典型的なアト講釈である。真珠湾攻撃をみれば、水雷による奇襲はやはり警戒せねばならないことがわかる。さらにいえば、日露戦争のときでも、クロンシュタットやレーベリに艦載の水雷艇による自殺特攻を命じたとすれば、日本海軍には志願者はいくらでもいただろう。東郷平八郎はそのようなことをしなくとも勝てると思い、命じなかっただけである。
ロシア海軍省は日本による水雷攻撃の情報収集のため奇策を思いついた。すなわち内務省に相談し、秘密警察(オフラーナ)の国内革命党対策のスパイ網を海外に転用することにした。早速、数百名のエージェントがヨーロッパから紅海、シンガポール、サイゴンにばらまかれた。オフラーナのスパイは、エージェントとの契約を「出来高払い」にした。
「日本水雷艇発見」「日本水雷艇存在懸念」「某国の日本水雷艇停泊許可」の順番で報酬を支払うことにした。これは致命的な失敗であった。エージェントは自分の受け持ち地域において、発見できなくとも「日本水雷艇発見」と、イギリス海底電線を使って打電しまくった。さもなくば、エージェントは生活できないのである。ロジェストウェンスキーに情報として届けられたのはいうまでもない。
ロジェストウェンスキーも、東征への大航海における最大の関門が水雷艇による奇襲であると考えた。ロシアの情報収集能力からはごく自然な結論である。ロシア帝国とはじつは、外部情報から遮断された「裸の帝国」であった。
ウラジオの結氷
日露戦争が勃発したのは、1904年2月10日であったが、海軍軍令部長、ロジェストウェンスキーはすぐさまバルチック艦隊の極東派遣を考えた。ニコラーエフ海軍士官学校における図演の結果は、既存の極東配備の艦隊では、日本艦隊に勝利できないという判定であった。派遣艦隊の中軸となるべき最新鋭ボロジノ級戦艦の艤装がまだ完了しておらず、航海のための資材積み込みとあわせ、準備に6カ月が必要と予想された。
ニコライ二世は急ぐ必要はなく、マカロフを旅順艦隊司令長官とする人事により当面しのげると考えた。彼は一貫して日本の軍事力を侮っており、いくら冒険的な外交方針をとっても日本が立ち上がることはないと思っていた。戦争が始まっても、日本艦隊は卑怯な手段でなければ活躍できないと信じていた。
4月13日、そのマカロフが機雷によって戦死すると、ペテルブルグいな全世界は、
「ロシアはこの戦争に簡単に勝てない」と思い始めた。ニコライ二世もバルチック艦隊を派遣せねばならないと考えだした。4月30日、ロジェストウェンスキーを第2太平洋艦隊司令長官に任命した。これが東征を前提としていることは明らかだった。
果断な国家であれば、この時点で戦艦と巡洋艦だけからなる艦隊を派遣したであろう。戦艦2隻と巡洋艦2隻の艤装は終了していなかったが、工事は洋上において不可能ではなかった。
ヨーロッパから日本近海への航海は3カ月みる必要がある(純粋の航海は1カ月半であるが、石炭洋上積み込みを考慮せねばならない)。ウラジオ及び渤海湾は12月に入ると結氷することがあった。当時は今よりも地球はかなり冷え込んでおり、ウラジオの結氷期間は場合によれば4カ月に及んだ(これがロシア極東艦隊主力が旅順に配属された理由である)。
極東の結氷を避けるためには、8月までにヨーロッパを出発せねばならない。この方法は早々と断念された。原因の一半はニコライ二世の開戦時の逡巡にあるとみてよい。
8・24御前会議
外国情報から遮断され、海外基地はクレタだけで、海底電線網はイギリスに支配されているとなると、ロシアが頼ることができるのは海外植民地を多くもつ同盟国フランスしかない。日本はイギリスと同盟しており、その海外基地機能を自由に利用できるのではないかと思い込んだ。
「リバウから先の海には日本の水雷艇が充満している」とどのロシア海軍人も信じた。
イギリスが「局外中立」を宣言している以上、妄想である。これは同様に、「局外中立」を宣言しているフランスの海外基地を自由に利用できるのではないかという思い込みにつながった。
黄海海戦大敗北をうけ、御前会議が開催された。司馬遼太郎は、
「この艦隊を送るべきかどうか。ということにつき、最終の会議がひらかれたのは、8月10日であった。この日、旅順艦隊の大半が黄海海戦で撃沈され」と書いている(『坂の上の雲』4 文藝春秋)。児玉襄は、
「8月23日、司令長官である中将の戦略構想を聞くための御前会議がひらかれたのである」
と書いている(『日露戦争』第4巻 文春文庫)。これは両方とも誤りで、その原因はロシア海軍軍令部編纂になる『露日海戦史』に、「8月10日に御前会議が開催された」と書かれているためである。
当時、ロシアはユリウス暦を使用しており、日本や欧米諸国が使用したグレゴリオ暦とは13日異なる。司馬のミスはこういった暦日上の初歩的な無知からきているが、ロシア要人や軍人が黄海海戦を無視して艦隊東征を決めると思わせ、読者にロシア人は愚鈍であるという印象を与えかねないという点で重大である。
児玉のミスにつながった1日のズレは、『露日海戦史』を作製した軍令部の若手が前日開催の各省間連絡会議と混同したため生じた。この事実からは、8月24日の会議が各省の事前根回しを経て行なわれたことがわかる。会議の冒頭、ロジェストウェンスキーは、
「7隻の巡洋艦が絶対に必要だ。チリとアルゼンチンから買い付ける必要がある。そしてバルチック艦隊とマダガスカルで合流する必要がある。これがためにはクロンシュタットからの出港を数週間待つ必要がある。すなわち、マダガスカルを発ち、3月に結氷明けのウラジオストックに着くことだ」と熱弁をふるった。
出席者の皇帝、アレクセイ大公、アレクサンダー海軍総裁、サハロフ陸相、アベラン海相、ラムスドルフ外相の全員がうなづいた。この冒頭の説明が各省の意向に沿い、皇帝の了解をも概ね取り付けられていたことは確実である。前提となっていたのは、旅順の失陥と旅順艦隊の全滅、そしてアルゼンチンとチリからの巡洋艦の買付けであった。
いったい、アルゼンチンまたはチリからの巡洋艦買付けは可能であったのだろうか?
ガリバルディ級巡洋艦
19世紀のイタリアは海軍先進国であった。その中で、アンサルド社とオルランド社の2大造船会社が争っていた。1894年、チリは軽巡エスメラルダ(和泉)を日本に売却し、代わり金で装甲巡洋艦の建造を開始した。これにアルゼンチンは大いなる刺激をうけた。両国は、パタゴニアをめぐって領土を争っていたのである。
アルゼンチン大統領ジュリオ・ロカは、ロペツ戦争で活躍した陸軍人であったが、軍艦の買付け方法を知らず、ヨーロッパのあらゆる造船所に巡洋艦買付けオファーをだした。内容は、チリの巡洋艦オヒギンズとブランコ・エンカルダを上回る性能と低価格であった。だいたいのところからは無視されたが、1895年秋唯一、アンサルド社から船台にあるジュゼッペ・ガリバルディ売却の申し出があった。
ロペツ戦争
日本も6・6艦隊の趣旨に沿ってこのころから装甲巡洋艦浅間の建造を開始した。ところが、浅間の排水量は1万トン台であるが、ジュゼッペ・ガリバルディは7千トン台であり、にもかかわらず、性能はほとんど変わらなかった。
ガリバルディ級の設計者エドワルド・マスデアは従来のイタリア巡洋艦をベースに、艦隊決戦に参加できる戦列艦としての能力と20ノットの「低速力」で満足するという新概念を打ち出した。これがため船体を必要以上に細くすることを避け、船体の重心に1本マストを置き、前後をほぼ相似形にして縦動(ピッチング)を抑え航洋性を向上させた。
アンサルド社は、イタリア海軍からジュゼッペ・ガリバルディを注文されたのであるが、議会で予算案が通らず、いっこうに前渡金すら払われなかった。このままでは倒産だと業を煮やしたアンサルド社は船台売りを決意したのであった。
いわば投売りであって、価格は75万ポンドと破格の安値であった。アルゼンチンはこの艦にガリバルディと名づけ、1896年に引き渡された2週間後、さらにサンマルタンとベルグラーノをオルランド社に発注した。スペインがアンサルド社の2番艦クリストバル・コロンを買い、またもや予算抜きでイタリア海軍もアンサルド社に3番艦を発注した。
チリは、これを「買う」と横槍を入れた。だが、資金繰りがつかなくなり、軽巡イースター島モアイを日本に売却しようとしたが拒絶され、断念せざるを得なくなった。今度は、アルゼンチンが横取りの動きに出て、プエイルドンとして買付けに成功した。
サンマルタン、ベルグラーノとプエイルドンはいずれも1898年度中に引き渡され、アルゼンチンはガリバルディ級4隻を保有することになった。アルゼンチンはこの4隻の好調な運用に気を好くして、1902年初頭、さらに2隻をアンサルド社に発注した。
アルゼンチン・チリ建艦競争の終焉
その1902年夏、両国はパタゴニアの国境線引きについてアルゼンチン有利で突然合意に達した。これは現在の国境線でもある。アルゼンチンの建艦努力がみのったのであろう。さらに1903年初、両国が外国に発注している戦艦(チリはイギリスに戦艦2隻を発注していた)と巡洋艦の購入契約を全てキャンセルすることが、極秘裏に取り決められた。
アンサルド社はアルゼンチンから発注をうけていた2隻、リバダビアとモレノをほとんど完工させていた。1903年6月、日本から両艦の買付けオファーがきて、しかも受注価格を上回る好条件であった。アンサルド社は大いに喜びまたアルゼンチンは利鞘をとることにも成功した。両者に賄賂がいきかったことは想像にかたくない。
日本は日進・春日と名づけ、1904年1月、本国に回航した。
1904年2月、日露戦争が勃発した。当時の国際法では局外中立国は、交戦国に軍艦を売却・貸与することができない。ロシアは国際法を無視して、開戦直後からアルゼンチンとチリにガリバルディ級巡洋艦売却を働きかけた。目的はバルチック艦隊を増強することであった。
なぜガリバルディ級を欲しがったかといえば、バルチック艦隊に装甲巡洋艦がオレーグとオーロラしかなく、またその2隻とも砲塔式主砲をもたず、戦列艦としては不適格であったからだ。日本には戦列艦として使える装甲巡洋艦が6隻あった(じっさいには日進・春日の参加により8隻になっていたが、ロシアは戦後になるまで確証がとれなかった)。
ロシアがアルゼンチンとチリから7隻のガリバルディ級巡洋艦買付けに成功すれば、装甲巡洋艦のパリティをも逆転させることができる。さらに、バルチック艦隊の新鋭戦艦は5隻と東郷艦隊の4隻(じっさいにはロシア側は機雷によってもう1隻撃沈したと思い込み3隻と推測していた)を上回っていた。
駐アルゼンチン、駐チリの日本外交官も必死の巻き返しをはかった。再度大統領となったロカは、手持ちのガリバルディ級4隻をロシアに売却することを真剣に考えた。鞘抜きによる私的利益に目が眩んだのであろう。ロシア側も、
「第3国のセルビア、モロッコまたはボリビアをかませたらどうか」と無法な提案をした。この3カ国とも海軍などない。最後はイギリスが説得につとめ、
「もし、日露戦争に介入して、日本海軍がラプラタ河口に現れたらどうするのか?軍艦がなくなれば防衛しようもないではないか」といいケリがついた。
ロジェストウェンスキーの思惑
ロジェストウェンスキーのアルゼンチン巡洋艦購入提案は、このときには確かに脈があったのである。成功すれば、マダガスカルは実に地の利を得ている。アルゼンチンからマダガスカルまでの距離は、喜望峰経由であればそれほどのことはない。
乗員についての疑問は残るが、アルゼンチン人乗員込みのレンタル、あるいはアテネ経由での黒海艦隊からの乗員派遣に可能性をみたのではないだろうか。
御前会議における購入可能性のある7隻という数については、ロシア側諜報能力の低さを表すものであり、さらにガリバルディ級という革新的な巡洋艦についての着目が遅すぎたともいえる。
砲術では、ロジェストウェンスキーはロシア海軍の第1人者であり、いち早く、マカロフ流の6インチ速射砲射撃の限界を悟り、主砲射撃に着目した。徹甲弾による主砲射撃にも先鞭をつけが、日露戦争で使用した徹甲弾はまだ威力不足であり、日本側の榴弾射撃に一敗地に塗れた。司馬遼太郎の
「何よりもかれが一度も実戦を経験したことがない軍令部長であるからであった。さらにいま一つ信じられないことは、かれの海軍歴は陸上勤務がほとんどで、艦隊勤務というものにはまるでといっていいほど経験がない。かれはただ皇帝の官僚にふさわしいスマートさと、宮廷遊泳術によって海軍軍令部長にまでなったのである」というロジェストウェンスキーの経歴なり性格の説明は、根底的に誤っている(『坂の上の雲』4 文藝春秋)。
第1に、ロジェストウェンスキーは露土戦争で海戦を経験している。海戦とは滅多に発生するものではなく。艦隊決戦が発生すれば、それは世界史的事件である。この当時、海戦を経験したことがある海軍軍令部長は、ロジェストウェンスキーの他は、日清戦争の黄海海戦を経験した伊東佑亨くらいであった。宮廷に入ったことは一度もなく、父も無名の軍医であったにすぎない。経歴の大半は艦隊勤務である。
ロジェストウェンスキーがもっていた「侍従武官」という肩書は、じっさいに宮中に伺候する職責ではなく、軍功にたいして与えられる勲章のようなもので、日本における侍従武官とは完全に異なる。
ロジェストウェンスキーは砲術家の眼から、ガリバルディ級の有用性を認識したのである。宮廷遊泳術をこらし、地位を守りたいがために、巡洋艦を増やせと主張したのでは断じてない。
再び御前会議
ロジェストウェンスキーのマダガスカル3月まで待機論に思わぬ方向から支持がきた。陸相サハロフは、
「陸軍は来年3月まで攻勢に出られない。したがって、陸海協調で攻勢に出るとすれば、3月以降が適切である」と述べた。この発言の伏線は、満州におけるロシア陸軍の連敗を認め、旅順要塞も3月まで持ちこたえられないと予想したことにあった。なぜならば、旅順は結氷しないので冬季寄港が可能であり、3月以降をいうのは事実上ウラジオにいけということであった。アレクサンダー大公が反応し、
「それであれば、フィンランド湾の結氷明けまでまち、またアルゼンチンからの巡洋艦が到着してから、ここを発ったらどうか」と示唆した。アレクサンダー大公は、陸軍がウラジオストックさえ持ちこたえることができないのではないか、と疑問を呈したのである。海軍からみれば、基地のない場所に進発させられてはたまらない。ロジェストウェンスキーがこの議論を引き取った。すなわち、
「やはり今秋に出発した方がいい。というのは現在までに大方の準備は終了しているが、これをもう一度春にやるというのは途方もない負担である。そのうえ石炭購入契約を既にハンブルグ=アメリカン汽船の間で締結済である」と述べた。アベラン海相も石炭購入契約に力点を置いて賛成し、出席者全員が了解するところとなった。
閉会後、ニコライ二世はロジェストウェンスキーを引きとめ、アレクサンドラ皇后と8月12日に生まれたばかりのアレクセイ皇太子に引き合わせた。そしてロジェストウェンスキーに皇太子のためにも、ロシア海軍の手によってこの戦争に勝利せよ、と激励した。
マダガスカルへ
ロジェストウェンスキーは、10月15日、ロシア領最後の軍港リバウを発ったとき、希望にあふれていた。まず、アルゼンチン巡洋艦の買付けに成功し、マダガスカルで合流できれば、東郷艦隊に十分張り合える。次にこれに失敗しても、マダガスカルに存在することによって、すなわちフリートインビーイングとして機能すれば、東郷艦隊への牽制となる。日欧の通商遮断も可能であって、陸軍のいう長期戦に十分有効であろうと思った。
ロシア海軍当局は、11月4日、バルチック艦隊がモロッコのタンジールに立ち寄ったところで、
「ボロジノ級戦艦は喫水が深いので、スエズ通過は困難なため、艦隊主力は喜望峰周りとなる」と発表した。これは真っ赤な嘘である。同じ型式をもつ旅順艦隊所属のツェザレウィッチはスエズ運河を通過しているのである。
真の狙いは、老朽化した艦艇をスエズ周りとして、確実に存在するとみられた日本水雷艇の活動を牽制することであった。あるいは、アルゼンチン近海を通るとみせかけることにより、多少の刺激を加えたかったのかもしれない。
1905年1月9日、マダガスカルのノシベ泊地に到着した。ロジェストウェンスキーは、タンジール出港から12月29日のマダガスカルのセントマリー軍港でフランス官憲を経由した本国との連絡以外、まったく外界から遮断された。
ロシアの通信不備・情報組織の立ち遅れは如何ともしがたかった。
バルチック艦隊はノシベに3月16日出港まで、3カ月半碇泊した。ノシベにはフランス官憲が経営する小さな電信局があり、パリ経由ペテルスブルグと連絡が可能であった。だが、フランス外務省は電文の内容を逐一把握しており、一部を駐フランス日本公使本野一郎に洩らしていた形跡がある。
ロジェストウェンスキーは、ガリバルディ級巡洋艦7隻が手に入れば、ウラジオ結氷明けの4月上旬、対馬に突入したかった。11月下旬、買収工作の不調がはっきりした。この連絡が入ったのはノシベに到着してからであった。希望が失われ、次の決心がつかなかったが、ロジェストウェンスキーは、
「現在の戦力では東郷艦隊と戦うには力不足である。したがって、艦隊決戦を挑むのではなく、ウラジオストック遁入を狙いたい」とニコライ二世に上奏した。真意は、ウラジオ遁走目的では、バルチック艦隊を消耗させるのに見合わず、ここにいるしかない、という意味であった。
「何もせずに帰投する」とはいえず、
「ガリバルディ級巡洋艦購入失敗は戦争敗北を意味する」ともいえなかった。
これから堂々巡りの電文が行きかうことになるが、ニコライ二世は、あくまで艦隊決戦を挑み、日本近海の制海権を得るべきだという決心を変えなかった。もともと日露戦争の帰趨は海戦で決定されるとみていたのである。
極東ロシアの海岸線は長い。もし、日本軍が制海権をもち、任意の地点、ペトロパブロフスク・ニコライエフスク・ポシェト湾などに陸軍部隊を上陸させたとするならば、ロシア軍は補給を維持しながら陸路増援軍をおくることは不可能である。
満州やシベリアでは、鉄道線路に沿うか、海岸上陸地点周辺でしか、陸軍部隊は戦闘できない。鉄道線路沿いで戦うにしても、戦場はペテルブルグから7000キロ先の終点である。
ニコライ二世にとって、バルチック艦隊東征を断念することは日露戦争の敗北を自認することに等しかった。足許が革命に脅かされ、ヨーロッパ正面に宿敵ドイツが控えている以上、極東でことを構えること自体、国家にとり何の益もない。ニコライ二世がそれに気づくには、もう何カ月か必要であった。
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