|
コルサコフ海戦 |
|
コルサコフ海戦 |
|
コルサコフ海戦 |
|
コルサコフ海戦 |
|
コルサコフ海戦 |
黄海海戦が終了するとロシア旅順艦隊は四分五裂になった。海戦のあった1904年8月10日の日没は7時7分であった。ロシア太平洋艦隊司令長官代理ウィトゲフトは戦死し、艦隊の指揮権をペレスウェート艦長ウフトムスキーに譲った。
ウフトムスキーは直ちに信号旗をあげたが、ペレスウェートの両マストは破壊されており、日没近くになると艦隊の指揮をとることは難しくなっていた。結果としてペレスウェートからの命令を受け取れなかった艦はめいめいその判断を下すことになった。
各艦とも最大の問題は石炭残量が不足し、ウラジオまでの達することが難しいことであった。第一にウィトゲフトは石炭積載量を定格の石炭庫に積載可能な分しか積ませなかった。これだと「巡航速度8ノット」で、戦艦の場合、2500海里ほどしか航行距離がなかった。
もし戦闘速度とり15ノットに上げると、航続距離は300海里までに下がる。この当時のレシプロ式エンジンでは、速度向上のためには、かなりの犠牲を払わねばならかった。初めから戦闘速度では、ウラジオストックに自力でたどりつくことは不可能だったのである。
そのうえ、ウィトゲフトは黄海を13ノットの高速で走りぬけようとした。これでは対馬まで到達できたかどうかすら疑わしい。
夜間に入ると旗艦ツェザレウィッチは石炭不足となり、自らの判断でドイツ租借地である膠州湾に向かうことにした。抑留覚悟の決心であったが、艦は短期間で修理不可能なほど破壊されており、世界はその姿に驚くことになった。
巡洋艦アスコリドと駆逐艦グロゾウォイは上海にいきそこで抑留された。巡洋艦ディアナはサイゴンで抑留された。いずれの艦も損傷が激しかった。レシテヌルイは芝罘で格闘の末、捕獲された。
この他にノーウィックと駆逐艦3隻が膠州湾に向かった。ノーウィックは軽巡であって、航続距離(巡航5000海里。戦闘500海里)が長く、石炭残量に不安はなかった。旗艦に随行したのであろう。膠州湾に入った4隻のうちノーウィックだけが中立港24時間滞留権を行使した。
ノーウィック出港
ノーウィックは、11日朝、膠州湾に入り、石炭積み込みのうえ、12日早朝に発った。黄海海戦における被害は命中弾3発で被害はさほど大きくなかった。
日露戦争は第一次大戦と違って、航空機と無線機が実用に供されなかった。この二つは近代戦争において重大な役割を果たしたことはいうまでもない。ただし、無線機についてはモールス式(日露戦争のあと鑽孔タイプ方式が実用化された)があって、能力距離50キロ程度のものが存在した。だが、艦隊運動を統制するには十分ではなかった。
艦船は、30キロの目視の範囲から僚艦と離れれば、陸上以外とは連絡が断たれた。ノーウィックが単艦で膠州湾を出てウラジオストックに向かう決心は非常であった。艦長マクシミリアン・シュルツは浦塩艦隊が蔚山沖で敗れたことも知り、太平洋コースをとることにした。
ノーウィックは済州島沖バルロー島南南西8海里を南東方向に進行中のところを海軍望楼から発見された。そのあと一路国後海峡まで10ノットで進んだ。この判断は大いに疑問であろう。8ノットで巡航すればウラジオストックへ石炭無補給で到着できた可能性がある。あるいは、ロシア海軍がコルサコフに小さな石炭ヤードを準備していたことが、むしろ誘ったのかもしれない。
ノーウィクはコルサコフに20日未明に到着した。そこで1日薪水の補給をうけ、深夜に宗谷海峡を突破することにした。
千歳と対馬
神威崎(岬の先端にはアイヌ語で「神」の名をもつ高さ41メートルの巨岩がそそりたつ)
第2艦隊(司令官上村彦之丞)の指揮下で蔚山沖海戦に参加した千歳と対馬は、15日午後6時、対馬竹敷要港部に入港した。そこで連合艦隊司令長官から高木千歳艦長に対馬を率いて、「津軽海峡に向かい索敵すべし」と命令を受けた。
このため急遽石炭積みを開始した。東郷はノーウィックが、14日朝5時半、屋久島燈台の南25海里を東方に進行中であるとの連絡を受け、ただちに追跡を命令したのであった。
済州島南から屋久島南まで290海里あるので、津軽方面(残り1080海里)には18日午後5時の到着するものと予想された。千歳は13ノットで函館に向かった。千歳は11日には駆逐艦を追撃したため、気缶の復水器に漏洩を生じており、一杯の速度であった。
18日午前6時、竜飛岬望楼に無線で敵情を聴取したものの得るところはなかった。午後2時、函館に入港し、再度石炭積みを実施し、「宗谷海峡に向かう準備をなせ」と命令され、正午に出港した。19日午後3時53分、積丹【しゃこたん】半島先端の神威【かむい】望楼から、「ノーウィックは今朝午前8時、国後瀬戸を通過せり」との信号を得た。これは国後島アトイヤ岬に臨時望楼を設けた成果であった。
20日午前7時半、宗谷燈台を望見した(なぜか宗谷岬に望楼が設けられたのは翌年であった)が、濛気海面を覆い、風波は高かった。附近の索敵を開始し、対馬はコルサコフ湾に突入した。すると午後4時22分、高く伸びる煤煙を発見した。
コルサコフ海戦
直ちに軽巡2隻と1隻の海戦が開始された。ただし、ノーウィックは速力のみに重点をおいてドイツのシュテッツェンで造られた艦で、姉妹艦はなく、いわば実験艦であった。このため兵装は4・7インチ6門と劣った。
緒戦では、ノーウィックと対馬の一騎打ちとなった。
砲戦では、6インチ砲8門をもつ対馬が圧倒した。30分後、ノーウィックは5発の命中弾を受け、船室甲板まで浸水し、アニファ湾奥へ遁走した。湾口は狭かったが、対馬は後を追った。するとノーウィックは突然旋回し、反撃に転じた。対馬は命中弾2発を受け、艦は左舷に傾いた。
対馬は湾口をみる位置で千歳の到着を待つことにした。千歳も砲撃音を聞きつけ、午後5時50分、対馬の位置に到着した。日没が近づき、高木は湾からノーウィックが出るまで待つことを決心した。
21日朝、戦闘準備を整え、湾口を望見できる地点に達すると、ノーウィックは傾斜したまま擱座していた。兵員は陸上に荷物を運搬していた。午前6時半、8500メートルで砲撃を開始したが反撃されず、2500メートルまで接近した。斉射を1回加えたが、艦の回復の見込みがないことが確かめられ、砲撃を中止した。
両艦はそのまま宗谷燈台にいた信号員を経て軍令部長に報告、石炭補給を小樽で実施したのち函館に帰投した。津軽海峡には、両岸の全商船・漁船が竜飛崎沖から函館湾に集まり、満艦飾で出迎えた。この海戦以降、ロシア海軍の通商破壊戦は完全に停止し、日本の沿岸航路と漁業の安全は戦争終了まで確保された。
ノーウィックは砂浜に乗り上げ、機関部を破壊されていた。乗員は陸路ウラジオストックに脱出した。戦後になり艦は引き揚げられ『鈴谷』と命名され通報艦とされたが、1913年、スクラップとして売却された。ノーウィックは旅順艦隊で唯一、ロシア領内に戻ることができた艦であった。その功業と勇気は疑うべくもない。
日本側のこの海戦の最大の功労者は各望楼の観測員・信号員である。国後にまで有線通信を延長させていた海軍軍令部の功績でもあった。
コルサコフで自沈したノーウィック(novik)
就航1901年
排水量3080トン
全長110メートル
全幅12・2メートル
設計25ノット
日露戦争に戻る