1905年5月27日の日本海海戦により、日露戦争は終末に近づきつつあった。6月6日、セオドア・ルーズベルトが講和斡旋に乗り出し、日露とも受け入れ準備にかかっていた。日本は講和条約の果実を確実にするため6月、樺太作戦に出た。満州戦線では、陸軍は奉天会戦のあと鉄嶺・長春まで進撃、そこに守備線をつくった。
ロシア軍は奉天会戦で約20万人の損害を出した。4個軍団に匹敵し、1カ月1個軍団の輸送能力しかないシベリア鉄道の輸送能力では復旧に4カ月かかると見込まれた。そのうえ、既存部隊は弾薬、被服、糧食とも欧州からの輸送に頼るしかなかった。日本側は糧食については営口における調達が軌道にのり、国内給養の必要がなくなった。補給では日本軍が断然有利であった。
ニコライ二世は意気軒昂であった。というより、そでなければならなかった。既に国内における生産活動は労働者のストにより半減し、とりわけ鉄道輸送に支障をきたしていた。このうえ日本に軟弱な態度をとることは国内情勢をさらに悪化させるとみなされた。
ところが、欧州から軍隊を極東に派遣することはロシアのヨーロッパ正面の防衛を弱体化させる。ニコライ二世はきたるべきポーツマス会議を有利に進めるためには、ドイツと了解をとる必要があると考えた。
邂逅
1905年7月23日、ウィルヘルム二世ののった『ホーエンツォレルン号』とニコライ二世ののった『北極の星号』は、フィンランド湾に入ったビヨルケ海峡で落ち合った。
両者は共通の敵をイギリスに見出して、このような場所を選んだ。スカゲラック海峡を越えれば、そこはもうイギリス海軍の支配する場所だったのである。ドイツにとってはタンジール事件を引き起こしたものの、ヨーロッパ各国ともフランスに同情する声が強かった。折から成立した英仏協商に対抗するうえからも、ロシアとの了解が必要であった。
ウィルヘルム二世は、このときのニコライ二世の様子について、
「ツアーはドッガーバンク事件でのイギリスの態度に怒り、ロジェストウェンスキーがコーチシナでフランス官憲によって、日本人ドモの手に追い立てられたことについて、悲しんでいた」と報告した。
ウィルヘルム二世はニコライ二世を弟のように扱う癖があったが、この打ちひしがれた様子を内心では喜んだことであろう。そのまま、ニコライ二世に"suum
cuique"「めいめい与えられた地位」を享受すべきといいながら、内ポケットにある条約案をみせた。
ニコライ二世は自室キャビンにカイザーを招きいれ、「これは素晴らしい」と直ちに述べた。そして随員のビリリョフ提督だけに承諾を求めるだけで、翌日24日朝、署名したのであった。
ビヨルケ密約
密約の全文は、
- 両帝国の一つがヨーロッパの一国から攻撃された場合、他の一国はヨーロッパにおいて全陸海軍をもって支援する。
- 締結国はいかなる敵とも単独講和しないことを約束する。
- 本条約は、ロシアと日本との間に講和が締結されたと同時に発効する。
- ロシア皇帝は、この条約の発効後、フランスにこの条約について通知し、フランスを同盟国として参加させるために必要な措置をとる。
であり、ビリリョフとチルシュキーが副署した。直ちに『ホーエンツォレルン号』に随行していた『ベルリン号』にニコライ二世が訪問、盛大な昼食会が開催され、両国協調が謳われた。
発効延期
ニコライ二世がペテルブルグに戻り、外務当局に説明すると、ラムズドルフ外相が猛反対した。露仏同盟と両立しないというのである。さらにポーツマスに全権として派遣されるる予定にあったウィッテも猛反対した。密約の目的が日英同盟に対決するものであり、日露了解を不可能にさせると考えたのだ。
ポーツマス条約がロシア側有利で決着し、ロシアにおける革命も沈静化しニコライ二世の権威が再度上昇するとドイツ側も動揺した。宰相ビューロウは、フランスの密約参加は不可能であり、そうするとロシア海軍力が失われたとき、ドイツ海軍がロシアに利用されるだけと考えた。英露戦争にドイツが巻き込まれることを恐れたのである。
ウィルヘルム二世は、ビヨルケ密約に日本をも参加させる構想を抱いた。フランスはクレマンソー内閣の下、英仏協商を締結した直後であり、ビヨルケ密約にはまったく関心を示さなかった。
11月23日、ニコライ二世は第1条からフランスを対象とすることを除外する条項を付加することを提案した。ウィルヘルム二世はこの申し出を拒否、ビヨルケ密約は歴史の闇に消えていった。

英露協商