左8点一斉回頭
艦隊ダンス
司馬遼太郎は、日本海海戦における第1日午後2時58分の「左8点の一斉回頭」(先頭艦に従い順に回頭する順次回頭と異なり、各艦が同時に回頭すること)を無用の「艦隊ダンス」(『坂の上の雲』八)と口を極めて非難した。東郷平八郎と加藤友三郎への批判であり、この「艦隊ダンス」の描写は文庫版で15ページにも及ぶ。以下がその抜粋である。
「加藤友三郎は三笠の艦橋でたえずからだの位置を移していた。(中略)
予感していたことが、ついかれの先入主になった。敵艦隊が北走するのではないか、ということである。ところがその予感どおりにスワロフが北へ回頭しはじめたのである。加藤ほどの男が、この進行中の事実を冷静に観察するよりも、自分の予感のほうに判断を短絡させてしまった。(中略)加藤は、東郷の横顔をのぞきこんだ。(中略)
『こちらも、左八点の一斉回頭をしましょうか』
と、加藤は砲声のなかでどなった。東郷は双眼鏡をのぞきつつうなずいた。
『左八点、一斉回頭』
加藤は、甲高い声をはりあげた。(中略)
三笠のマストに、旗?信号が点々と揚がった。(中略)ところで、東郷の塵下のなかでただ二人だけが、(スワロフは回頭したのではない。舵機の機能をうしなってよろけはじめたにすぎない)
と認識した者がいた。ただ二人だけではなかったかもしれないが、それを認識し、同時に異常な単独行動を決断した者が二人いる。第二艦隊の旗艦出雲の艦橋にいた参謀佐藤鉄太郎中佐がそのひとりであった。佐藤の横に、司令長官の上村彦之丞がいた。この両人である。(中略)
佐藤は、旗艦スワロフを注視しつづけていた。スワロフが北へ頭を振ったとき、三笠の東郷たちとはちがい、
(舵の故障だ)と、おもった。
『舵の故障ですな』
と、佐藤は出羽訛の軋むような発音で、横の上村に行った。上村も眼鏡を持って注視しつづけていたのだが、このとき即座に、「まちがい無か」と、ゆっくり、しかし大声でいった。(中略)
ついでながら、昭和十年代に、当時新潮杜の社員だった八幡良一氏が、隠棲中の佐藤鉄太郎に会ったとき、たまたまこの「誤認」の語が出た。八幡氏がおどろいて、そのことをなにかに書いてもよろしゅうございますか、ときくと、佐藤ははげしく手をふって、
『それはいけない。どうしても書きたければ僕が死んでからにしてくれ』
と、いったという。このくだりは、筆者が八幡氏から聴いた。(中略)
『左八点の一斉回頭』
をやるという失敗をおかしたために、これをあと二度やらなければもとに復せず、敵にも近寄れないというかっこうになった。戦いはたけなわで、いわば敵をにがすか撃滅するかの正念場であるはずだのに、東郷はそののんびりした艦隊ダンスに熟中していなければならなかった。(中略)
この間、ロシアの戦艦戦隊と四つに組んでたたかっていたのは、装甲巡洋艦という、戦艦に対してはやや非力とされている艦種で編成された上村の第二戦隊であった。それも浅間が洋上で舵機の修理中だったため、出雲以下わずか五隻である」(前掲書)
左8点一斉回頭
司馬の記述には、看過し得ない事実誤認がある。まず「点」(point)とは11・25度であって、8点とは90度を意味する。「左8点一斉回頭」を命じたら、艦隊は縦陣ではなく横陣になる。これでは砲戦ができないのは自明であって、2時57分と3時3分の2回、「左8点一斉回頭」を東郷は命じたのである。
2回「左8点一斉回頭」をやったので、艦隊は前後逆となり、先頭が『日進』、殿艦が『三笠』となった。この事態は予期されていて『日進』には臨時司令官(三須宗太郎)まで配置されていた。これから46分後「左8点一斉回頭」を2回命じて元に復した。このときとった航路は、新たに同航して接敵するには最短であろう(航跡図参照)。
第一回目の「左8点一斉回頭」の理由を、『三笠戦闘詳報』では『ゼムチューク』が「水雷発射をなさんことを慮り」、『公刊戦史』ではバルチック艦隊主力が「後方から北方へ逃れる算段をなした」とする。これにたいして司馬は、『スワロフ』の舵機故障を東郷と加藤が見誤ったという新説をなした。
ロシア側記録によれば第2艦隊(上村艦隊)は、2時45分までと第1艦隊(東郷直率の戦艦隊)よりいくらか長く砲撃を続けた。これも当然のことで、第2艦隊は後方を航行していたので砲戦を遅くまで続けられる。だが、司馬のいうように「四つに組んで」常時接敵していたわけではない。
さらにあまり知られていないが、殿艦だった『三笠』は3時10分、ボロジノ級戦艦と「イ」の字のような形で反航しながら遭遇した。東郷はこのとき12听(ポンド)砲(5・44キロの砲弾を発射できる砲)での攻撃を命じている。
この砲は普通、駆逐艦や水雷艇対策のため装備されているのであって、主砲・副砲を休ませる意図があったものと推定される。第1艦隊は反航したまま距離を開け、3時30分、「主力また幽かにしてその姿を失いたる」(『三笠戦闘詳報』)所まで離れた。当日は海面に濛気が停滞し、展望5、6海里であった。日本側の速度は15ノット、ロシア側は11ノットなので、20分たつと8・6海里(16キロ)離れることになり、双方主力同士が姿を見失ったことは事実であろう。
かしながら、バルチック艦隊は38隻からなる延々9海里以上に連なる大艦隊であって、たとえ主力艦を見失っても、後方にある艦はのぞけたはずである。ドイツのハンブルク=アメリカン汽船が石炭供給を担当していたが、ベトナムのカムラン湾や上海沖で引き渡した石炭は日本の筑豊炭であった公算が強い。当時、日本は石炭の輸出国であり、アジアにおける石炭供給を独占しており、同社はシンガポールで石炭を購入した記録が残るためだ。
筑豊炭のカロリー値は高いが朦々たる煤煙を上げることが特徴であり、日本艦隊が全体としてのバルチック艦隊を見失ったことは考えられない。
上村「独断専行」説は誤りだ
これだけでも東郷平八郎はかなり思い切った艦隊運用をやったことが判明する。さらに、第1艦隊と第2艦隊の分離は計画されたものである。司馬はそれを東郷=加藤がバルチック艦隊の進行方向を見誤り、上村=佐藤は正しくみて独断専行したとみるのである。また驚くべきことに『坂の上の雲』が出版されたあと、旧軍海軍参謀将校が独断専行説に賛成した事実がある。
独断専行説はまったくの誤りである。連合艦隊司令部は『連合艦隊戦策』という小冊子を前年明治37年11月に発行しており、そこではT字戦法とZ字戦法が取り上げられた。T字戦法とは敵の先頭艦に味方主力(この場合、第1艦隊戦艦『三笠』『敷島』『富士』『朝日』装甲巡洋艦『春日』『日進』の6隻)に砲火を集中させるため、敵の縦列(Tの↑棒)に味方が前方を遮りながら縦列(Tの→棒)で進行することである。
Z字戦法とは、このT字戦法が終了したあととるべき方法であって、川字のように縦列3本で戦うことである。中央が敵艦隊として、その両側を同航しながら十字砲火にかけるのである。両側とは第1艦隊6隻が左側とすれば、第2艦隊6隻(『出雲』『吾妻』『浅間』『八雲』『常盤』『磐手』)が右側を進行することであった。当然、第1艦隊と第2艦隊を分離する必要がある。
一般に海軍作戦は二つの方法で策案される。一つは図上演習(図演、シミュレーション法)と呼ばれるもので、じっさいの艦を海図に置いて、刻々の情勢変化(例えば砲弾の命中具合は賽の目で決める)を追うものである。全般を俯瞰することによって、おおまかな作戦の方向を決定できる。
この方法はフランス人が陸戦用として開発し、アメリカ海軍において発達した。秋山真之が米西戦争のころ駐米アタッシェであり、この方法を日本に持ち帰ったといわれる。司馬遼太郎が称揚する秋山真之の「日本海七段構え」の陣などはその具体的な策案であったろう。しかし、この方法ではバルチック艦隊が砲戦で勝利したとき、あるいは水雷によって艦隊が散り散りになったときの対策は何も示されない。
シミュレーション法は、自軍にとって都合のいいことが連続して起きることが、暗黙の前提に成り勝ちである。これに対する方法はオールタナティブ・メソッドと呼ばれるもので、イギリス海軍で発達した。やり方は事前に重大な情勢変化を予想しておき、それに対する対策も事前に準備しておくことである。
例えば、ミッドウェー海戦において島嶼攻撃中に敵空母が出現した。この情勢変化は事前に予想できる。だが、シミュレーション法だと「起きない」(じっさいに草鹿機動部隊参謀長が「かかる事なきよう処置する」(宇垣纏『戦藻録』)といって図演の席では議論が打ち切りになった)として次のシーンに飛んでしまうことが発生する。このとき草鹿の部下だった源田実航空参謀は戦後になって、
「わが空母群の飛行機隊の半数以上が、ミッドウェー空襲にでかけた後に、敵の機動部隊に発見されて、横合いから殴り込みをかけられたら、どうなるのか…。そういった場合をいろいろ想像すると不安でならないものがありました」(源田実ほか『日本海軍の功罪』)
と述懐した。源田は、なんら事前に対策をたてないまま不安を抱えて、海戦に臨んだのである。敵機動部隊の出現にそなえ、ミッドェー攻撃隊の収容はせず全機不時着させる、予備攻撃隊機はいつでも敵空母攻撃できるよう甲板上に並べておく、などの準備や気構えがなかった。一方、T字戦法やZ字戦法は、条件を設定したうえでのオールタナティブ・メソッドであった。
オールタナティブ・メソッド
昭和期の海大教育の8割は図演で占められており、作戦発動前の参謀による事前準備については粗末に扱われた。一方、東郷平八郎は英国留学のさい、ケース・スタディの重要さを学んだとしており、オールタナティブ・メソッドについても承知していたに違いない。本来、シミュレーション法とオールタナティブ・メソッドは矛盾するものではなく補完的である。昭和に入ってからの海大教育法は、足が地面につかなかったということであろう。
加藤や秋山真之は、T字が成功したあとはZ字と決めていた。ところが、同航戦に入るための運用は簡単ではない。というのは連合艦隊の戦闘速力は15ノットと速いため、かなり前方に出てしまっていた。いったん逆行し、そこから追いつく必要がある。4回の「左8点回頭」はそのための手段であり、事前に検討済みのものであったに違いない。
源田は、
「いつでも自分の起案した命令案が、スラスラと通ってしまう。抵抗がなくていいようなもんだが実は違う。自分だけの考えで起案したものが、いつも上の方で、何のチェックも受けずに、命令となって出ていくと思うと、そら恐ろしい」(淵田美津雄、奥宮正武『ミッドウェー』)
と同僚に語った。当然予期される危険性についての対策や問題点を上司にはかることなく、上司が図演で満足し何もいわないことに恐ろしく感じるという参謀としての職責放棄が太平洋戦争期の海軍参謀の特色であった。彼らが日本海海戦について、すべて幸運や天命によって事が運んだと思い込むことは自然なのである。
腔発問題
またT字からZ字への移行については、腔発問題もあったに違いない。?発とは主砲などの大口径砲を連続して発射したとき、砲腔内で弾丸が爆発する現象である。陸上砲でも発生し、陸軍はそれを腔発と呼んだ。ただし陸上砲は通常口径も小さく、数千発一つに起きるにすぎなかったが、艦砲では20発を超えると頻度高く発生した。
黄海海戦でも『三笠』前部砲塔で起き、伏見宮博恭王が負傷した。いったん?発が起きると連装砲は、1門が空に舞い、衝突することにより他の砲身も曲がり両方とも使用不能になる。戦艦の場合、主砲四門のうち半分が使用不能になれば、夾叉(straddle)弾のうち命中弾を与える確率は減少し、弾着観測も難しくなる。戦力は半分以下になるであろう。
これからあと?発問題は、砲身が赤熱したため、砲弾がそこを通過するとき信管が誤作動することによって発生すると原因が解明された。だが、日本海軍を含め各国海軍はこの問題を極端な軍機事項として扱った。各国海軍の初期弩級戦艦のうち、日英独の砲塔は巧みに三連装、背負型を避けていることがわかる。米仏伊墺は意に介さなかった。
日英独は腔発問題を知っていたため、主砲配置に工夫したのである。日英は日露戦争から得た知識であったが、ドイツがどのように腔発問題を知ったのか歴史の謎である。また第一次大戦直前になって、信管が改良され誤作動が避けられるようになった。
連合艦隊司令部はこの問題解決に頭を悩ましたと思われるが、暫定策は主砲にホースを巻き海水で常時冷やすことであった。また12インチ主砲命数は120発程度であり(ビッカース社のマニュアルでは180発、当日積み込みは1門当り120発であった)、翌日の戦闘も予想すれば、1日60発程度発砲に限定される。発射速度を3分と長めにとる(マニュアルでは2分)と1回1時間の砲戦で20発(斉射)が限度であった。
1日3回、海戦時間が5時間20分(当日略2時砲戦開始。日没7時20分)だと予想できると、砲戦間に砲身冷却に各1時間挟み込むことは合理的である。日本海海戦では、じっさいにそのような展開になったので、日本側のイニシアチブで進められた以上、加藤友三郎以下の連合艦隊司令部の策案能力は圧倒的であったと評することができる。
また連合艦隊は斉射法採用による主砲射撃に力点を置いた。バルチック艦隊主力のうち唯一、沈没を免れた『アリヨール』への命中弾は、12インチ12個、8インチ7個、6インチ20個であった。12インチ砲弾は戦艦の主砲弾、8インチは巡洋艦の主砲弾、6インチは戦艦と巡洋艦の副砲弾であった。
これにたいし、日本側で最大の被害を受けた『三笠』への命中弾は、12インチ2個、6インチ29個であった。日本側は主砲弾を命中させ、ロシア側は副砲弾であった。日本側は主砲に信頼を置いたのである。日清戦争黄海海戦における戦い振りと逆(10年前起きたが、巡洋艦の6インチまたは4・7インチ砲で清国の戦艦を圧倒した)であり、日露戦争の日本海軍はいかにも進取の気風に富んでいた。
ロシアのマカロフやロジェストウェンスキーは、日清戦争や米西戦争の戦訓から6インチ副砲主戦力説を信じていた。じっさいにも、ロシアの巡洋艦には砲塔式主砲がなかった。日本側第2艦隊の巡洋艦がいずれも8インチ砲塔式主砲をもっていたのと対蹠的である。連合艦隊司令部は主砲射撃を重視して全てを計画したのであった。
佐藤鉄太郎の私怨
最後に司馬遼太郎のあげる加藤友三郎のスワロフの舵機故障誤認説はどうであろうか?結論からいえば、これも誤りである。三笠以下が「左8点回頭」の命令を出したのは、2時58分であるが、このとき『スワロフ』はまだ戦列に残っていた。プリボイは、
「3時ごろになると(スワロフの)火災は前甲板一ぱいひろがり、上部舵機室、前艦橋、艦橋室を包んだ。(中略)『アレキサンドル三世』が敵艦隊の後尾を突っ切って北の方へ突破しようと試みた後で、戦列から逸脱してうろうろしていた『スワロフ』は、味方艦隊の縦陣から飛び出して、味方と敵艦隊の中間に入ってしまった」(『バルチック艦隊の潰滅』)
と書いた。日本の『公刊戦史』によれば、戦列から逸脱したのが、3時05分ごろであり、ロジェストウェンスキーに扈従していた将校も同様の証言をなしている。しかも戦列を脱すといっても徐々に脱落していったのであって、縦陣から飛び出したのではない。
ところが司馬のいう通り、佐藤は加藤が誤ったかのような証言を大正15年に行った。
「後になって加藤参謀長に聴きました所が、スワロフが取舵を取ったのを見て、是は第2艦隊の後部を通って、浦潮に逃げるのを見た。そこで間に合わぬことを虞れて、好い位置を占める為に斉動をやったといふ事でありました」(有終会発行『戦袍餘薫懐旧録』)
と発言したが、縦列に残っている『スワロフ』が取舵をとったのならば、Z字移行のきっかけとみたことに無理はなかった。このとき『三笠』以下第1艦隊は、所定の弾丸を撃ち尽くし、バルチック艦隊の先頭とは4海里以上離れ、先行していた。左8点回頭は計画にもとづいた大胆な正面転換の艦隊運用であり、「ダンス」などでは断じてない。
一方、第2艦隊のこのときの運用は満足のいくものではなかった。第2艦隊は、4時からの第2回目の攻撃のさい、「川」字を形成せず、「リ」字のようになり第1艦隊後方に位置してしまった。プリボイは、
「やがて三十分もたつと、左舷水平線上に、日本側の艦影が現われた。ふたたび装甲艦十二隻になっていたが、それは巡洋艦『浅間』が修理を終え戦列に加わることが出来たからだった」(『バルチック艦隊の潰滅』)
と述べており、第2艦隊の運用の拙さを語っている。第2艦隊が右側に位置すれば左舷の未使用6インチ砲が活用できたはずであった。ただし、第3回目にはZ字を完成させており(航跡図参照)、大勝利の前に必ずしも重要なことではない。
佐藤鉄太郎は『帝国国防史論』の著者でもあり、小笠原長生(東郷平八郎の伝記作家)や岡田啓介(首相)とも縁戚関係にあった。加藤友三郎への批判はいかにも大人げない。あるいは大正12年、海相であった(ワシントン会議首席全権)加藤友三郎に予備役に編入されたことにたいする私怨であろうか?
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