吉田善吾海相の煩悶

昭和31年になり吉田善吾【ぜんご】は、第2次近衛内閣までのことを回想している。概ね昭和15年7月16日から9月3日(海軍病院に入院)の間についてである(水交会編『元海軍大将吉田善吾談話収録』)。

吉田善吾の戦後の回想〜日独伊三国同盟問題

昭和十五年七月十六日米内内閣が総辞職して近衛公が大命を拝した。

吉田善吾(1885〜1966)
佐賀県出身。佐賀中学入学(12歳)、海軍兵学校入学(5修)。海兵卒(32期、19歳)。以降水雷畑。日露戦争では巡洋艦『春日』に見習い士官に乗り組み、日本海海戦に参加。海大卒。海軍少将(44歳)。軍務局長(48歳、1933年)。海軍大臣(54歳、1939年)。支那方面艦隊司令長官(57歳、1942年)。1945年6月予備役となり、以降公職につかなかった。写真は少佐のころ。

その直後のこと近衛公から来てくれとのことで公のところに行った。公の曰く「組閣の大命を拝したが、私は自信はない。その内、四相によく相談して御協力を願えるようなら、御引受けをしたいと思うから、よろしく頼む」との挨拶である。

「いつ頃組閣されるのですか」と尋ねると「近衛のことでありますから、組閣には四、五日掛りましょうと陛下に申上げておきました」と悠長なもので、長袖者流と云うものは、こんなものかと頼りなかった。

その翌日か翌々日(七月十九日)に所謂荻窪の四者会談があった。近衛公の外に東条松岡と私の四人が公邸に集った。午後の三時頃だったと思う。近衛公は、ポケット用手帖を開いてメモのようなものを見ながら、色々話された。

話を聞くだけで、東条からも松岡からも纏った話は出なかった。私は枢軸との関係において海軍は同盟は考えていないとその意志のないこと(即ち反対する旨)を述べておいた

夕飯を御馳走になって大臣官房に帰り、一宮副官に会談の模様を口述して、記録をとらせた。次官も同席していたように思う。近衛公邸を辞すると、門前には自動車がずらっと並び、新聞記者が雲集して質問攻めに会った。

そんな訳で、荻窪会談は天下の大問題の如く誇張宣伝されたが会談の内容は極めてアッサリした詰まらないものであった。何も喧しく議論したようなこともない、勿論記録もとってない。(但し東条が陸軍側で用意しておいた要望事項のようなものを、このとき近衛公に渡したかどうかそれは知らない。また鈴木企画院総裁が会談の覚書を作っておるとのことであるが、当日は特に記録をとっておらず、四人以外には誰も列席していないので心当りはない)。

其の後東条が総理官邸廊下で、「防共協定防諜宣伝強化に関する件覚書(陸海外務各局長サイン済みのもの)はあれでよいのですか」と聞かれたので、あれはあれでよいと返事しておいた。

実は私は阿部米内内閣に歴任し、心身共に疲労している上、欧州情勢の急変に伴い、政界多事陸軍がうるさいので、嫌気がさし、第二次近衛内閣には留任しない積りでいた。ところが総長の宮がしきりに奨められる。殿下は十も御年が上でありもう七年も引続き総長をしておられるので、疲れたとは断り切れず、とうく留任することにしたが、これが失敗であった。あの際適当な後任を推薦して辞めていた方がよかった。

結論的に言って、日独伊三国同盟に就いては私の大臣在職中(阿部米内近衛第二次内閣を通じ)公私共に、直接こうしたいと云って来たものはない。一部にそうゆう空気があって、工作をしていると云う噂は耳にしていたが、誰の相談にも与っておらず、自分からも言い出したことはない。

荻窪会談に就いて、鈴木企画院総裁の作った覚書があるとか、斎藤博士(松岡外務大臣の顧問)は申合せ事項があるとか言っておるそうだが、会談には四相しか列席していないので、其の場で記録のとれる筈はない。

或は近衛総理があとで自ら書いたのか、或は内閣書記官に口述して作らせたかしたものであろう。私は全く知らない。

第二次近衛内閣は、昭和十五年七月二十二日に成立、七月二十六日には閣議で基本国策要綱が、また七月二十七日には大本営政府連絡会議で時局処理要綱が決定した。

これは参謀本部と軍令部が協議して起案したものだ。あゝでもないこうでもないと加除訂正したもので、草案を読んでみると、これは木に竹を継いだようなもので、首尾一貫していない。まことに不完全なものだ。ゴマカシだ。同盟は作らぬと言っているがこれでは作ることになる。何月何日迄に出師準備を完成するようなことが書いてあったのでそんな短期間に出来る筈はないとこれは削らせた。

同盟問題は、陸軍に段々押されて、米内海相のときでも、一歩手前まで来ていた。

八月に入ってから、政府で蘭印と経済交渉をするため、特使派遺のことで四相が集った。松岡外相は小磯がよかろうと云う。(中略)

しかし、小磯は条件が容れられないで引受けなかったので、取止めになり丁度よかった。その代りに小林一三が行くことになった。(中略)

小林特使の出発を東京駅に見送った晩から、私は発病し、九月二日まで官邸で休み、三日築地海軍病院に人院、、五日に辞職した。

私は中学校までは至って強壮で病気一ツしたことはない。兵学校でも盲腸炎をやった位なもので、それからも丈夫であった。ところが昭和十一年二月練習艦隊司令官に出てから、第二艦隊長官連含艦隊長官と連続三年半も海上勤務を続け、昭和十四年八月末突如海軍大臣を拝命し、岸和田から上京する頃には、相当に疲労感を覚えていた。末次は艦隊長官を三年続けてヒョロヒョロになったと云うが、私の三年半は前例がなかろう。

米内大将が或る時「平時の大臣は中々よいものだよ」と云ったが、私が大臣になるとやがて欧州戦争が始まる。陸軍のやることは事毎に不愉快で頭が痛む。その上、夏になって下痢を起し、一層疲労が加わった

いろいろやらなければならないことに気はつき頭は働くが、実行する気力がなくなって遂に入院することになった。三週間目位から段々よくなって、月末には退院が出来た。これが、政略病ではないかなどといろいろに取沙汰された訳だが、そんなことはない。ほんとうに全身疲労の結果だった。

九月五日に大臣辞職のときは、伊藤(整一)人事局長が辞表を持って来て病床でサインだけした。後任に及川が大臣になった。私は推薦はしなかった。

私の入院中に、スターマーは来朝し、九月二十七日に日独伊三国同盟が成立した。私は病院でこれを知ってその早く出来たのに驚いた。

退院して暫く転地療養をし、自宅に帰って来ると、十月某日阿部(勝雄)と岡(敬純)が二人でやって来て、急転直下三国同盟条約が出来るようになった経緯を御話しに参りましたと前置きして詳しく話していった。

高木惣吉が某雑誌に吉田海軍大臣は同盟論者と非同盟論者の間に挟まって随分苦労した揚句病気になって入院したように書いてあるが、先にも述べたように私の大臣在職中全然同盟問題は起らず、従ってこれが為に苦労したと云うことは全然ない。大事な時期に病気になって相済まぬと思って苦労した位のものだ。

(問) 八月二十七日に官邸において省部首脳会合し、大臣も出席の上三国同盟問題について検討した旨の記録があるが事実なるや

(答)当時官邸に省部首脳を集めた事実はある。その前日、阿部軍務局長と大臣室で会った際、私から最近陸軍の動向は南方問題(蘭印特使の要望、新嘉披攻略申入等)や国内問題等内外百般のことに狂奔的で、この趨勢は誠に憂慮に堪えない。海軍としては、これに対処して国策の指導を誤らしめないように努カする要あることなどを話したところ、局長から然らば明日官邸にて首脳を集めるから大臣より直接御話し願いたいとの進言により、首脳参集となったもので、もとより三国同盟を議する為に会談した訳ではない。

なお、当日、私は病臥数日前のことで、極度に疲労し十分意を尽して会談することも不可能であったと記憶している。

右参集の数日前、同様の目的で然も夜分伏見総長宮を御訪ねし同趣旨の御話をした。

(問)九月四日(大臣の入院した翌日)四相会議があり、日独伊枢軸強化に関する件を討議し、住山(徳太郎)次官が海軍大臣を代理して出席、これを承知し、当日の決定が三国同盟成立に至る第一歩をなしたと言うものがあるが事実か。

(答)九月三日に私は入院し、五日に辞職した。右の事実は知らない。
三国同盟の成立したあと東条はあれまで急ぐのではなかったと告白したことがあった。松岡と、陸軍の同盟派が、東条にせきたてたのではあるまいか。

及川が大臣になってから、どうして同盟に賛成するようになったかは知らない。

松岡は生温いことは馬鹿にされるばかりだ、しっかりしたものにせねばならぬと言っていたそうだから、欧州情勢あたりとからみ合せて松岡一流の弁舌に、先ず豊田(貞次郎)次官あたりが説得され、次いで及川が承諾するようになったのではあるまいか。及川は対米戦になるようなことはしたくないと言っていた。以上は只私の想像だ。

聡明な総長の宮が、どうして同盟に同意されたか、これが今でも疑問にしている。

吉田はここの中で3点

  • 入院の原因は疲労である。
  • 荻窪会議で3国同盟に反対した。
  • 任期中、3国同盟の提案はなかった

としている。注意せねばならないのは、これが昭和31年における見解表明であることだ。まず入院の原因について疲労からだという説明は疑問である。自ら艦隊司令官より大臣の方が楽だと述べているのである。

吉田の疲労入院説は終戦直後においては主流であった。すなわち、東京裁判において東條英機が3国同盟で煩悶した結果、病気入院したと述べている。近衛文麿は、

「吉田海相は組閣当初に於いて三国同盟枢軸強化ということには同意した。然しながら進んで軍事上の援助を含む3国同盟となっては海軍としては大問題である。果して吉田海相は大いに煩悶したらしい。而して心臓病が昂じ俄かに辞職した」(『近衛日記』共同通信社/カタカナ表記をひらがなに改めた)と書いている。

近衛文麿(日記)と吉田回想とでは三国同盟賛成・反対で真向から対立する。

ところが吉田の死後、昭和40年代に入ってから、相次いで疲労や心臓病入院説に反する証言が海軍関係者から出た。


吉田回想への反証

高木惣吉は、

「現にこの閣議決定(『時局処理要綱』)なり、連絡会議の決定に対して有効な是正対策ができなかった吉田海相は、海軍軍備の実情と、政治情勢の重圧とにはさまれ憂慮の結果神経衰弱から不眠症に陥り、9月には及川大将の登場を見るにいたった」(『私観太平洋戦争』文藝春秋1969〈昭和44年〉)と書いている。

実松譲(開戦時、駐米大使館付海軍武官)は、8月末になると次のような場面がみられるとした。

「ある日のこと、吉田は、秘書官の福地誠夫を呼びつけ、『お前は○○局長のところへ行ってバカといってこい』と命じた」

「軍令部次長の近藤信竹中将が、所用のため大臣室をたずねたときだった。吉田は、いきなり近藤の胸ぐらをとり、『この日本を、どうするのか……』と声をふるわせた」

「8月30日のことだった。大臣官邸にいる吉田に、秘書官の福地誠夫と杉江一三の両少佐が書類を供覧した。長椅子にかけていた吉田は、『このままでは、日本は滅亡だよ』と憮然として独語した。だが、こうした大臣の不用意な発言が、ほかにもれては影響もあろうと考え、『これは、この場かぎりだよ」と秘書官に他言をいましめた」(実松譲『最後の砦』光人社1974〈昭和49年〉)

「9月1日、吉田は、官邸に海軍省の局部長をあつめた。大臣の意のあることをつたえ、奮起一番、決意して時局に対処するためであった。だが、もはや吉田の気力も体力も、消磨しつくしてしまい、思いにまかせなかった」

「(9月1日)夜、吉田は懊悩煩悶をかさね、ほとんど一睡もしなかった。あくる朝見るにみかねた恒子夫人が『大臣をお辞めになったら、いいでしょう』といった。すると吉田は、『このさい、海軍大臣を辞職したとすれば、世界にたいしてどのような影響を与えるかわからない。たとえ病気で辞めても外国ではそうとはうけとらず、かならずや日本の政策のためだと解釈するだろう。それでは大変なことになる。だから辞めたくとも、辞められないのだよ。自分はこんな健康状態だから辞めたい。しかし辞めると変なぐあいになりかねない。また事変の最中に辞めたからといって、陛下と国民にたいして申し訳が立つものではない…』と苦衷を吐露するのであった」

「(−もしかしたら、主人は自決でもかんがえているのではなかろうか)恒子は、ただならぬものさえ直感した。吉田はこともなげにいった。『あのう軍刀はどこにしまってあるのか』恒子はドキッときた。が、そしらぬ顔で、『そうですね、どこにしまったのでしょうか…』恒子は場所をいわなかった」

「吉田は、近藤(軍令部次長)と阿部(軍務局長)を呼ぶという。(中略)ほどなく近藤と阿部がやってきた。吉田は開口一番、『戦争の準備は、できているのか』とただした」

「吉田はまだ自決をおもいとどまっていない。またとんでもないことを言いだした。『軍刀はなくてもいい、ハサミはないか』(恒子)『ハサミで、どうなさるのですか』このままの状態で放置していたのではどうなるかわからない。恒子は、人事局長の伊藤整一に電話をかけた」(前掲書)

こうして、翌9月3日、吉田は築地海軍病院に緊急入院した。実松は『最後の砦』を1974年に上梓したが、その直前に恒子夫人に直接取材したのであろう。叙述は恒子夫人しか知りえない内容を含んでいる。やはり自殺未遂があって、海軍関係者が吉田を病院に運んだのであろう。

不眠による自殺未遂を疲労や心臓病からというのは難しく、神経衰弱からというのは当時の所見(現在、神経衰弱は病名とはみなされない)とすれば妥当であろう。ただし、高木や実松の本の出版は昭和40年代であった。このあと昭和51年に新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録』毎日新聞社1976〈昭和51年〉が出版された。この記録は、昭和20年12月前後に海軍首脳が東京裁判に向けての意見一致(証拠隠滅)をはかったものであった。

この中で及川古志郎(吉田の後任の海相。海兵31期。昭和15年9月5日着任)は、次のように語った

「同盟締結は自分の着任早々であり、前からの経緯もゆっくり考える暇もなかったので山本〈五十六〉長官の上京を求め、その意見を聞いたところ、山本長官も情況もここに至れば止むを得ない。それも一法ならんと答え、他によい方法はないか、一晩考えさせてくれと述べ、翌朝仕方あるまいと答えたり」

及川は山本五十六の意見をとって三国同盟賛成に回っているのである。前任の吉田が山本の意見をとらないということが一体あるだろうか?そもそも、米内内閣がなぜ倒閣されたかといえば、海軍の不信任がその背景にあり、自ら諦めたのが真相である。

米内内閣総辞職

じつは、陸軍側も吉田の意見には非常に着目していた。陸軍省軍務課内務班長であった石井秋穂は、戦後になり次のように語った。

「吉田善吾海相は戦後、米内内閣は阿部内閣同様実行力がないので自分は見切りをつけていたと述懐している。海相にして然り。もはや米内内閣の崩壊は時間の問題であったのだ」(上法快男編『軍務局長武藤章回想録』芙蓉書房1981)。

実行力が三国同盟であることは明らかで、この段階で抵抗したのは昭和天皇、米内首相、畑陸相の3人であった。近衛文麿が荻窪会談で吉田が三国同盟について賛成したと語ったのは真実であろう。また東條英機は、常に情況に押し流され、茶坊主的性格であったが、本来支那通が嫌いであった。

閑院総長宮を筆頭に陸軍参謀本部は支那事変終息を狙い、ドイツの仲介を期待したが、東條はこの考え方に反対であった。関東軍参謀長のとき自ら指揮したチャハル作戦を忘れられず、内蒙独立や内蒙駐兵にこだわっていた。要は、妥協しての支那事変解決をいっさい拒否する所があった。当然、三国同盟にも熱心でなかった。

東條は7月22日大本営連絡会議で採択された『世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱』が、三国同盟に関する方針であった、と最後まで主張した。その中では「外交的措置トハ主トシテ日独政治協定等ニ関スル措置ヲ謂フ」と書き込まれており、軍事同盟をいったん排除していた。

ところが7月30日、松岡外相が起草した『日独伊提携強化ニ関スル件』が現れ(内容は伝わらない)、8月6日陸海軍事務当局が一部修正した。これによって、大島駐独大使はリッペントロップに日本が軍事同盟締結の意図があることを伝えた。ヒトラーは2日間考えて、ゴーサインを出した。この顛末は吉田には伝えられ、三国同盟に消極的であった東條には伝えられなかった公算が強い。東條と武藤はこの後N工作に乗り出すなど、三国同盟形骸化に走った。

吉田が陸海軍若手と組んで、三国同盟締結の急先鋒であった可能性が強く、太平洋戦争敗戦でこの事実を糊塗しようとしたのであろう。ところがこれでも吉田の神経衰弱の説明にはならない。


ビンソン法案の衝撃

1991年(平成2年)『昭和天皇独白録』文藝春秋が刊行されると、吉田の辞職についての詳細が書かれており、それまでの甲論乙駁が整理された。これまでに50年余の歳月が必要だったことになる。

「吉田善吾〔海相〕が松岡〔洋右・外相〕の日独同盟論に賛成したのはだまされたと云つては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬと云ふのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶ独乙種がゐるから之が時に応じて起つと信んじて居た、吉田は之を真に受けたのだ」

「近衛第二次内閣の政策要綱は大変おかしな話だが、近衛、松岡・東条[英機.・陸相]、吉田の四人で組閣の機に已に定めて終つた」

「吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米国は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかゝり、自殺を企てたが止められて果さず後辞職した」

これによって、吉田の水交会編『元海軍大将吉田善吾談話収録』で述べた諸点は、全て虚偽であったことが判明した。すなわち吉田は海軍を代表して荻窪会談の時点で三国同盟に賛成していた。当然、米内内閣の幕引きを促したのであった。そして病院入院の理由は神経衰弱と知った海軍関係者による強制的なものであった。

それでは吉田はなぜ8月後半において神経衰弱なったのであろうか?高木のいう「海軍軍備の実情」と昭和天皇の「米軍は軍備に着手」は見事に一致している。この米軍軍備とは、1940年におけるカール=ビンソン法に関連している。


対米開戦

1940年6月、ヒトラーは第一次大戦で180万人の犠牲を払っても突破できなかった西部戦線の打破に成功し、フランスを降伏せしめた。このフランスの敗北にアメリカ国民は驚愕した。上院議員カール=ビンソンは、そのままイギリスが打倒された場合、ドイツがイギリス艦隊をも吸収し、大西洋の制海権をも掌握することを恐れた。

このため、エセックス級空母24隻建造の権限を大統領に与える法律(第3次カール・ビンソン法案)を提案し、6月可決された。この法案は、三国同盟が締結されたあと太平洋と大西洋両方に展開できることを可能にする艦隊樹立を目指す、両洋艦隊法に発展していった。

じっさいに1番艦のエセックスと2番艦のヨークタウンが竣工、訓練を終え太平洋に配属を終えたのは1943年(昭和18年)10月であって、法案成立から3年4カ月かかった。この期間は戦時ということもあって、破天荒に短いといってよい。このとき正規空母(速力30ノットを超え、50機以上搭載できる空母)は日米ともに6隻(ただし『翔鶴』と『瑞鶴』は1941年秋竣工予定)を保有していた。

もし、日本海軍が空母について対米比同等を維持したいのであれば、1943年竣工を期して、『瑞鶴』級の建造を急げばいいのである。艦隊派であればそうしたであろうが、条約派は日本が生産能力がない地平からスタートしているため、建艦について敗北主義に陥ったのであろう。本来は、1940年この時点から空母建造にかからねばならないはずであった。この予算獲得のため、海相は首相を筆頭とする閣僚に、まず打診せねばならない。ところが、多くの海軍首脳部はそうせずに三国同盟と早期の対米開戦に向かっていった。

吉田が悩んだのはこのうちの対米開戦であった。

山本が対米開戦=ハワイ作戦を吉田に持ち込み航空機増産を要求したのが、8月下旬であり、それが神経衰弱の引き金を引いたのであろう。山本・嶋田(繁太郎)・吉田はいずれも海兵32期の同期であり、早いうちに連絡を取り合っていたことは確実である。

田中陸軍参謀本部作戦部長は、昭和15年(1940年)10月29日と11月5日、海軍側と会談した。内容は全般的な開戦方針に及んでいった。

それまで一致していた7月28日付『世界情勢の推移に伴う時局処理要綱』には、イギリスやフランスの敗北が確定すれば、その東南アジア植民地をできるだけ武力によらないで横取りする内容を含んでいた。それまで陸軍の同盟方針は支那事変解決が主眼で、仲介者としてのドイツに期待した。欧州戦局の推移によって、それは不十分となったため「南方進出」=植民地横取りを狙った。

ところが海軍側(軍令部作戦部長宇垣纏と推定される)の反応は重いがけぬものであった。

田中はこの会談について海軍の言論を左のように手記している

一、支那事変処理は、あせっては仕方がない。長期持久で行くこと。
二、ソ連は、来春くらいまでは欧州に引きつけられよう。その後のことは一に情勢によって決せられる。また彼の対日行動のためには動員集中輸送のため、三カ月を要するとのことであれば、対日関係が切迫したとみるべきではない。
三、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」による南方武力行使も容易でない。結局は、対米戦に帰着するものとみられるようになったので、うかつに南方進出に乗り出すよりは、むしろ対米戦備の強化充実こそが、目下の最優先的急務である。

「時局処理要綱」が、英米可分の判断の上に、立案されたことは明らかであるが、その後海軍側の、この処理要綱に対する考え方が、逐次変わってゆきつつあることを感じていたが、今に至って海軍側が、英米可分論を一擲して、英米不可分の判断に立っていることは、明らかとなった。そして、すべては太平洋に於げる対米決戦を基準として、割り出すべきであるとすることが、きわめてハッキリしてきた。今や日本の戦略と、これを背景とする対外政策は、一大転機に直面している。(田中新一『田中作戦部長の証言』芙蓉書房1978)

田中は純粋軍人であって、外政について他国方針を分析したり、自国の方針を考えることはまったくできず、常に妄想のようなものに根拠を置く痴呆のような男であった。どこと戦えといわれて初めて反応するタイプであった。

陸軍の作戦については、閑院総長宮や沢田茂参謀次長(11/15、塚田攻に替わる)の支那事変終息にかける方針に飽き足りないものを感じていた。イギリス植民地を奪えと命じられれば、シンガポール攻略作戦に熱中するのは当然であるが、本心では伝統の対ソ作戦こそ本命と思っていた。

そこで、海軍側から支那事変終息を諦め、対ソ作戦不用、対英作戦について対米作戦のあとといわれれば驚かざるを得なかったであろう。陸軍軍人には戦略出兵≒予防戦争が自分の実存を満足させるものと考え、政略出兵(外務省にいわれて兵を出す)は歓迎しないという日本人役人特有の縄張り根性があった。ところが、戦略出兵をやるからには陸海軍の合意が必要である。

海軍が対米戦に真剣になっていることを知ったとき、田中は軽い興奮を覚えたことは間違いない。

海軍軍令部が、10月中にはこれまた伝統の対米作戦発動のため、陸軍を説得せねばならないと思ったことは、この記述から確実である。おそらく空母集中使用によるハワイ攻撃という山本五十六のアイデアに従来の漸減邀撃作戦を対置することは軍令部の誰もできなかったのであろう。

漸減邀撃作戦をいくらやっても主力艦比率で劣後する以上、勝てなかったのである。山本五十六と伏見宮軍令部総長を除いた軍令部員は、ハワイ作戦を順序第一にするには、海軍省をまず説得せねばならないと考えたに違いない。


ハワイ作戦実現のためには万難を祓うという狂気の山本、その盟友嶋田と比べれば、吉田はより常識的であった。この後、9月15日の海軍首脳会議で三国同盟賛成が決まったが、ハワイ作戦については、まだ大方は山本の考え方を聞き置く程度であったろう。10月15日の皇紀2600年祭には、山本は拗ね返って出席しなかった。及川古志郎がハワイ作戦について詳細をきいたのが11月であり、それを文章化したものが『戦備に関する意見』であった。

吉田が戦後になって虚偽に満ちた説明をなすことは決して芳しいことではない。戦争(開始)責任を陸軍に押し付け、三国同盟については一貫して否定したという海軍総意のシナリオが描かれたとき、吉田は自らの三国同盟賛成という負い目があって、抗すことができなかったのであろう。


太平洋戦争直前外交に戻る