第1報
独ソ戦第1報は、4月16日、東京にもたらされた。大島駐独大使は4月10日、リッペントロップと会談し、このようにいわれた。
「ソ連の出方如何によっては、ドイツはあるいは今年中にソ連に対して戦争を始めるかもしれない。・・・ドイツは現在ソ連攻撃に充てる十分な兵力をもっている。もし戦争を開始するならば数ヶ月でこの作戦を終了させる公算がある。情況如何によっては、ソ連の準備未整に先立ち、これを撃破することが有利と考えている」
このとき松岡外相はレニングラードでバレーを観劇しており、リッペントロップはその間隙を狙ったのであろう。ところが大島はこの情報を握りつぶした。あまりにも重大なため、うろたえたのである。
14日、大島はスターマーに会い、独ソ戦情報の裏をとりにいった。スターマーは、
「陸軍は御承知の通り、昨冬以来、総統が一般に無用と思われるほど予備役を召集し、現在240個師団に達している。対ソ戦開始は冬季は不可能であるので、今夏、対英上陸作戦と並行して実行される可能性がある」と語った。
スターマーにはバルバロッサ作戦は通知されていなかった。
外交官はジャーナリストではないから、自分の意見を無視して、相手国外相の言辞を正確に伝えればいいのである。戦間期の外交官は、すべて政治的に動くのが特色であった。じっさいに東京に伝えた段階では、日ソ中立条約はすでに大本営連絡会議で承認されていた。
大島は意見として、
「ドイツは対ソ戦に十分な自信をもっており、必ずしもわが共同攻撃を期待していない如くである。・・・日本はこのさい焦って北方に手を出すことなく、好機の時期を選ぶこととして、まず大東亜共栄圏の大道に邁進し、これを阻害する根本原因である在極東英米勢力の拠点シンガポールの攻略に専念するのが妥当と認められる」と付け加えた。
この意見は重大な誤りであった。バルバロッサ作戦開始直後、ドイツは日本の加勢を要求してきた。大島も松岡同様、気分は昨年9月のままであり、ヒトラーの豹変についていけなかった。
4月22日、ドイツから永津八津次大佐が帰国、大島大使から陸軍首脳への極秘メッセージ「対ソ感情悪化せり。対ソ戦決意するが如し」を伝えてきた。大島の16日の意見とは違っており、陸軍は混乱し「怪電文、情勢は複雑怪奇なり」という有様となった(種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房 1985)。「電文」の意味は不明であるが、陸軍はすでに近衛首相による独ソへの情報漏れを疑っており(爾後ゾルゲ事件として的中した)、政府部内には伝わらなかった。大島は外交電報ではなく軍用電報を使用した可能性がある。
5月13日、坂西一良駐独武官が帰国、独ソ開戦必至と伝え併せて山下奉文軍事視察団の至急帰国が望ましいことを勧告した。5月15日、参謀本部部長会議が開催されたが「独ソ戦はない」で一致した。
確報
5月28日、松岡は何を考えたのかリッペントロップに次のようなメッセージをおくった。
「現下の我国をめぐる国際情勢および我国国内情勢に鑑み、本官としてはドイツ政府がこの際能うる限り、ソ連との武力衝突を避けらるるよう希望す。右はむしろ友人として率直に申しあぐる次第なればこれに関し御意見あらば折り返し淡白に御教示を願いたし」(長谷川進一『松岡外相渡欧日記』)
この電報は外務省経由で発せられた。
松岡はこのときでも4国同盟の望みを棄てていなかった。この自分の希望にドイツの国策を合わせようとしたのである。もし、松岡に軍事学の教育があれば途方もない失敗と認識できたはずである。なぜならば、ドイツ軍事学では動員から作戦まで通貫させる。すでにドイツ動員が200個師団以上となったことを承知すれば、作戦計画のまま独ソ国境を突破するものの考えるべきであろう。
参謀本部部長会議の結論が頓珍漢であるにしても、外務官僚の軍事知識の欠如は呆れるばかりである。じっさいにはバルバロッサ計画にはヒトラーの指示通り、作戦計画が含まれていなかった。つまりドイツ軍は算をなしてソ連に飛び込んだだけであり、極めて杜撰だったのである。
6月3日、4日、大島大使はヒトラーのベルヒステガデンの山荘に呼ばれた。
ヒトラー 独ソの関係はますます悪化し、独ソ戦争はおそらく不可避である。ソ連のドイツにたいする態度は外面友誼的であるが、実際は常に全然反対である。とくにユーゴが三国同盟に加入した際クーデター直前に不可侵条約を締締し、またソ連参謀将校がユーゴの作戦を直接援助したことなどは明らかにドイツヘの敵対行為であり、このようなソ連の態度は全然承服しえない。自分はソ連にたいし譲歩することは常に絶対禁物と信じている。自分は相手に敵意のあるのをみとめれば常に相手より先に刀を抜く男である。
リッベントロップ 最近にいたり独ソ関係はとくに悪化し、戦争となる可能性甚だ増大した。いまソ連をたたいておけば、すでにヨーロッパ大陸で制覇せるドイツはいよいよ英米かなんとも手をつけえない地位を確保することになる。すなわちソ連をたたくことは対英攻撃のためにも絶対必要である。・・・ドイツとしては、もし日本が準備の関係上南方進出が困難であるのなら対ソ戦に協カされることを歓迎する。
ヒトラーの山荘
さしもの大島もことの重要性に鑑みて、即刻内容を打電した。そのなかで彼自身の判断を次のようにしるした。
「(1)両人ともに対ソ攻撃を決定的なものといわず、若干の余地を残して語っていたが、ムソリー二との会見の翌日急ぎ本使の来訪を求めた点、ならびに一国の元首であるヒトラーが明白に本電内容のごときことを述べた点からみて、独ソ開戦はいまや必至とみるのか至当である。
(2)開戦の時期については両人とも明言しなかったが、・・・ヒトラー従来のやり口に徴して一度決心するときは速やかにその実行に着手するところから短時日のうちにこれを決行するものと判断される」
6月2日、ヒトラーはブレンナー峠でムッソリーニと会談した。内容はイギリスへのUボート攻撃、イギリスに飛行してドイツを脱出したヘス事件、バルカン情勢であって、バルバロッサについては一言も触れなかったという。
じつはムッソリーニはバルバロッサ作戦についてすでに情報を得ており、ヒトラーに反対の意向を伝えてあったのである(ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』訳永井淳 集英社)。
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誤断
この電報にもかかわらず松岡=外務省は依然独ソ戦勃発に否定的な態度をとった。6月6日、松岡は参内、
「避戦6分、開戦4分」(『木戸日記』6月6日条)
と言上した。ヒトラーから「公式」に独ソ戦勃発を告げられながら未だ半信半疑という世界各国の外政史上でも希な誤判断に陥った。日本の官僚の無能を示して余りある。
最大の理由は逆転したイデオロギー的発想であろう。参謀本部を主導した田中新一は「アメリカが欧州戦争に参戦するのは時間の問題である」という信念をもち、「英米の自由主義者は常に日本を謀略に落としこめる」と考えていた(『田中作戦部長の証言』芙蓉書房)。
他国を謀略に落としこめようとしているのは、国家社会主義者のヒトラーと共産主義者のスターリンなのであって、防共協定に反するモロトフ=リッペントロップ協定、バルバロッサ作戦を日本に開示しないヒトラー、疑心暗鬼の中で日ソ中立条約を締結したスターリンをみれば明らかであろう。
ところが、田中新一ら陸軍統制派の軍人は社会主義者への同情を断ち切れないのであった。もちろん霞ヶ関外交を標榜し役人による役人のための外交で凝り固まっていた外務官僚も一緒であった。
6月7日、大本営連絡会議が開催され、松岡は自信たっぷりに、
「大島に反対するのではないが、ヒトラーは共産主義をたたきつぶすのが信念であるといっている。それで戦争するだろうか。戦争が二、三十年つづいてからやるのではなかろうか。また英独妥協ということも相当警戒を要することと思う。独ソ開戦する場合にも、独には大義名分を必要とするからまず条件を出し、その後開戦すると思う」と述べた。
松岡の論は旧態依然たるものである。侵略自体がパリ不戦条約で違反とされたので、第二回ハーグ万国平和会議で決められた開戦規約は意味がなくなり、奇襲開戦が当然になったのである。満州事変における石原莞爾ら、チャコ戦争におけるボリビヤ、支那事変における蒋介石、ポーランド戦におけるヒトラーはいずれも大義名分を説くことなく奇襲開戦に訴えた。
大義名分など時代がかって出して、奇襲が成立しなくなるなど愚かな所業であろう。
これをきいた杉山元参謀総長は、それならば何もしないといった。事前通告を受けながら、日本は6月22日まで静観していたのである。そして近衛などは実際に独ソ戦が発生するとヒトラーに欺かれたという感触が強くなった。三国同盟とはじつは四国協商の先行形態だとして日本は取り組んだのであるから、これは当然であった。
6月14日、ゾルゲはスターリンに22日、バルバロッサ作戦が発動されると打電している。日付からみて5日大島電には「22日開始」が含まれていたと考えざるを得ない。
情報が近衛文麿から尾崎秀実、ゾルゲと流れていったことは確実であろう。スターリンはゾルゲを信用していなかったので、この情報が有効に生かされることはなかった。
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三国同盟推進派はいずれも社会主義者であったため、社会主義独ソの「不信」体質が見抜けなかったのである。独ソ戦を予告されたのであれば、三国同盟を解消するかまたは独伊にたってソ連に参戦するかが合理的判断であろう。
ところが、日本は何もしない道を選んだのであった。
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