7月28日に南部仏印進駐が発表された。これは6月30日の大本営連絡懇談会ですでに決まっていたものであるが、南部仏印3カ所の飛行場設営準備に1カ月程度時間がかかった。6月22日の独ソ戦開始以来初めての日本の行動であり、世界を聳動させた。
その翌々日の7月30日、海軍軍令部総長永野修身は昭和天皇に突然、対米開戦を直訴した。この突飛な行動(ただし、軍令部総長が戦時[支那事変]中の作戦や人事[評価、考課、大佐以上の異動]について天皇に上奏することは、明治憲法11条から恒例であった)は、昭和天皇を驚かせた。
「確しか八月の初旬か或はその少し前か永野[修身]軍令部総長が戦争の計画書を持参した。
米国の十月の軍配備状態を予想して之に対する攻撃の計画である。私は之を見て驚いて之はいかんと思い、その后及川に対し軍令部総長を取替える事を要求したが及川はそれは永野の言葉が足らぬ為だから替えぬ方が良いと云うのでその儘にしたが、・・・」(『昭和天皇独白録』文藝春秋1991)
この事件について海軍軍令部側は全ての史料を湮滅しており何も残らない。戦後生き残った軍令部員は、この7月、「ハワイ作戦に反対した」などとウソを語るが、軍令部総長の上奏内容や書類について、軍令部が組織として関与していないことは考えられない。
昭和天皇は翌31日に木戸内府を召し、会談の模様を伝えた。木戸は7月31日条日記に書き残した(『木戸幸一日記』下東京大学出版会1966)。この日記は東京裁判に提出されている。なお7月30日条には「4時半、武官長、御名により来訪、軍令部[総]長今夕拝謁、言上の意見につき話ありたり」とある。木戸は当日に永野上奏について蓮沼蕃武官長(陸軍、騎兵畑)から概要を得ていた。
『木戸幸一日記』7月31日条
十時十五分より十一時迄、拝謁、対米施策其他につき、永野軍令部[総]長の拝謁の際御下問に対し奉答につき御話あり、其の要旨左の如し。
一、戦争に関する考へ方は伏見前総長宮と同様、出来得る限り避け度しとの意見なり。
一、三国同盟には強く反対なるものの如く、之ありては日米国交調整は不可能なりと見居る様なり。
一、国交調整不可能なりとし、従って油の供給源を失ふこととなれば、此儘にては二年の貯蔵量を有するのみ、戦争となれば一年半にて消費し尽すこととなるを以て、寧ろ此際打って出るの外なしとの考へなり。
一、然らば両国戦争となりたる場合、其結果は如何と云ふに、提出したる書面には勝つと説明しありたる故、自分も勝つとは信ずるが而し日本海々戦の如ぎ大勝は困難なるべしと御下問になりたるに、永野は日本海々戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否も覚束なしと奉答せり。
一、斯くてはつまり捨ぼちの戦をするとのことにて、誠に危険なりとの御感想にて、真に恐灌に堪へざる次第なり。
右に対し左の如く奉答す。
一、永野の意見は余りに単純なり。
一、先般の日米国交調整交渉の際にも米国は三国同盟の存在は承認せる次第にて、米国としては国際条約を極めて尊重する国柄なれぱ、今日之を日本が廃棄することが果して米の信頼を深むる途なりや、或は軽蔑を買ふこととなるにあらざるや、頗る疑問なり。
日米国交調整については未だ幾段階の方法あるべく、粘り強く建設的に熟慮するの要あるべし。
此点篤と首相の考慮を促すことに致すぺし。
正午、及川海相と面談、永野総長の奏上せる意見につき懇談す。
一時、武官長釆室、同上の件懇談。
二時二十分近衛公来室、拝謁後面談
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日記なので仕方がない面があるが、箇条書きの条ごとに主語が異なっている。このため東京裁判の英訳でほとんど意味不明になった。改めて主語を加えて、この7月31日条日記を書き直すと次のようになる。
(7月30日、昭和天皇vs永野)
永野 私は伏見宮殿下のあとを継いで軍令部総長に就任したが、宮と同じく、戦争についてはなるべく避けたい考えである。
永野 海軍は三国同盟には反対であったが、成立した以上、米国と敵対関係に入ることは避けられない。もし国交調整不可のままであれば石油は二年の備蓄しかなく、戦争になれば一年半しかもたない。この際、打って出るしかない。
天皇 戦争になって勝算はあるのか?
永野 提出した書面では勝てるとなっているが自信はない。
天皇 日本海海戦のような大勝利は困難だろう。
永野 そのような勝利はもちろん勝つことも覚束ない。
(7月31日、昭和天皇vs木戸)
天皇 永野は(対米)開戦といっているが、捨て鉢な戦争というしかない。危険な考え方ではないか。
木戸 永野の言い方は単純すぎます。N工作の続きの日米交渉でもアメリカは三国同盟を認めて(譲歩してきて)おり、もし三国同盟を廃棄すればかえってアメリカの信を失いかねない。あるいは軽蔑を買うかもしれず、頗る疑問である。日米国交調整については紆余曲折は免れず、粘り強く交渉せねばならない。首相に考慮を促したい。
永野は海軍砲術家であり、外交について経緯も含めてわかかっていた人物ではない。日本が第一次大戦に参戦したのは、公式の開戦詔書では「日英同盟の誼」であるとしている。じっさいには中央同盟諸国と連合国と2分した戦争になり、三国同盟以来の怨念を晴らすべく、またドイツ軍が極東までは来ないという理由から、連合国に組したものであった。
ところが、このときの相戦う陣営は、英ソvs独伊であった。永野の対米開戦は両陣営に加わるのではなく新たに敵(アメリカ)を求める点で突飛であった。
木戸幸一
ところが木戸は三国同盟を廃棄してはならないと天皇に力説したのであった。戦後の回想ではあるが近衛文麿は、独ソ戦開始はヒトラーの背信であるとして、三国同盟を離脱すべきと思った、と書いている。これに反して、木戸の親独感情は異様とも思えるほど強かった。
木戸は永野から三国同盟成立協力を咎められたかのように感じ、「米国は三国同盟の存在は承認せる次第」と極端な議論を昭和天皇に吹きかけた。
三国同盟好き、親独癖について、木戸は近衛を上回っていたことは確実であった。ここで大きな疑問が生じる。
「内大臣としての職責」からはどうであろうか?昭和天皇が三国同盟締結に反対し、親英米路線をとることを主張したことは木戸も十分知っていたはずである。内大臣の職責は政治分野における秘書であり顧問であった。
天皇の意思に反して、自分の親独癖を主張することに疑問をもたなかったのであろうか?
『木戸幸一日記』8月2日条
十一時過、近衛公来室、対米強硬論漸次海軍部内に台頭し来る形勢にあり、将来の政情を深憂せられ、統帥部との円満なる協調にも不安を懐かれ居る様子なり。
余は米国にして油の供給を断つが如き政策に出る場合には石油の給源を失ふに至るべく、而して貯油量は多く見積りても二年を出でず、左すれぼ余程外交工作等を慎重にせざれぱ取返しのつかざる国難に遭遇すべし、就ては至急陸海軍大臣と国策の根本につき徹底的に論議し、若し意見合はざれぼ挂冠するも不得止べし、其場合には後は陸海軍をして収拾に当らしむるの外なかるべし、と意見を述ぶ。
秘書官長と右の件につき打合す。
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海軍統帥部(軍令部)が天皇に対米開戦を求めてきたのは異常な事態である。近衛文麿が不安になることは無理がない。問題は後段の木戸の意見である。
8月2日、米国政府は日本への石油禁輸措置を発表した。これによって海軍は対米開戦で勢いづいた。石油備蓄が尽きると実戦力が失われるので海軍の滅亡=国家の滅亡になるというのである。この場合の有力な選択枝は「南部仏印進駐」を取り消すことであろう。
だが、いったん決まった軍事作戦を外国に中止せよといわれて出来るものではない。日米のこのときのパーセプション・ギャップは、独ソ戦開始がイギリスに有利とみるか不利とみるかであった。南部仏印進駐とは、シンガポール攻撃の準備であった(じつはハワイ作戦の陽動であったが)。この軍事措置が日米戦を招来することが必至であると木戸は、この時点で見通していたのである。
外交的方策としては、日本からの三国同盟無効力化しかなかったであろう。だが、木戸の親独感情からの動かぬ信念は同盟堅持なのである。そして苦し紛れの対策が近衛文麿の辞職であった。近衛が危機に遭遇したとき常に言い出すのが辞職であった。そしてそれを諌めてきたのが木戸であった。
今回は木戸は盟友近衛の辞職を止めようとしなかった。木戸は三国同盟を死守したかったのである。独ソ戦勃発以前、アメリカを対日宥和策に動かすことができたのは三国同盟であるが、勃発以降はアメリカが対日強硬策をとる原因になっていることは否定できず、そのジレンマの打開を近衛に期待できないとみなしたのであろう。
『木戸幸一日記』8月5日条
十時二十五分より十一時二十分迄、拝謁。
十一時半、近衛首相より使を以て書面到来、太平洋を中心とする問題を解決する為め、首相自ら渡米、ル大統領と直接商議せむとの決意を覚書として陸・海両大臣に示したる旨申来る。
昭和十六年八月五目近衛首相より送附越
別紙の如き意見を昨夜陸海両大臣を招き開陳致候。右御参考まで。
米国大統領も、"wish to leave nothing undone"と云ってゐる位で、此の際、つくすべき事はつくす事は吾次の義務なりと考へる。今日迄の日米の話合の裏には種々誤解もあり、又感情の行き違ひもあり、双方の真意が徹底してをらぬ憾あり。
此のまゝづるづると、戦争に這入ると云ふ事は、世界の平和特に日米の国交を最も御軫念遊ぱさるゝ陛下に対し奉ても又国民に対しても為政者として申訳ない事と考へる。つくす丈の事はつくして遂に戦争とたると云ふならぱ、之は致し方なし。その場合には吾カも腹も据り国民の覚悟もきまる。
欧洲戦争前に英のチェンバレン〔Neville Chamberlain]が再三ヒットラーと会見する為めに大陸に赴いた事は、結果から見て、ヒットラーにだまされた貌ではあるけれ共、英国民の覚悟をきめささせる上には相当の効果があったと思はれる。
此の際は全く危機一髪の時であって、野村大使等を通しての交渉では時機を失するおそれあり、むしろ総理自ら大統領と会見の上、帝国の真意を卒直大胆に、披露すべし。其の際、彼にして了解せざれば、席を蹴て帰るの覚悟を要するは固よりなり。
従て対米戦の覚悟をきめてかかる事柄で、大統領と直接会て遂に了解を得られなかったと云ふ事であれぱ、国民に対しても、真に日米戦止むを得ずとの覚悟を促す事になり、又一般世界に対しても侵略を事とするのではなくして太平洋平和維持の為には此れ丈け誠意を披灌したのである事がはっきりして、世界輿論の悪化を幾分にても緩和し得る利益あり。
大統領のホノルルに来る事は最初の了解案にもある事なるを以て、必ずしも実現不可能とは思はれたい。又、話合も、必ずLも最初より之を絶望視する要なし。勿論日本の主張は大東亜共栄圏の確立に在り、米国は九ヶ国条約を盾としてゐるので、此の両者は相容れない。
併しながら米国も合法的たる方法に依る九ヶ国条約の改訂には、何時でも相談に乗る用意ありとも云てゐるし、又一方日本も理想としては大東亜共栄圏確立を目指すものであるけれ共、此の理想の全部を一挙に実現すると云ふ事は今日の国力の上から見て無理なのであるからして、日米の話合と云ふものは双方が大乗的立場に立って話をすれぱ出来ない事はないと考へる。
此の会談は急を要する。何となれば、独ソ戦の見透しとしては、大体九月には峠が見える。若し今日一部の人の予想するが如く戦線膠着すれば、独乙の将来は楽観を許さない。斯かる形勢明かとなった場合には、米国の鼻息も強くたり、日本からの話などは寄せつけない事になる。逆に独ソ戦が独乙に有利に展開するとしても、此の会談は日本にとって大なる不利をもたらさない。
独乙の日本に対する感情の冷却するおそれはあっても、独乙の世界制覇とか独乙の対英米完勝は有り得ず、従て日独の関係は如何やうにも展開の途はあり得る。故に此の際は独ソ戦が独乙に有利にたる場合は深く心配するの要なく、むしろ、独乙に不利となる場合を考へて一日も早く対米の手を打つ事が急務であると考へる。
併しながら間題は何でも米と話合をつけると云ふ事に急なるの余り媚態となり、屈服の観があってはならぬ。要するに、尽す丈けの事をつくす、そして出来なけれぱ止むを得ぬ、つくす丈けの事をつくすと云ふ事が、対外的にも対内的にも、必要であると考へるのである。
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近衛の陸海軍にあてた日米会談への要求事項が以上である。内容としては独ソ戦戦局についてドイツ不利と見通している。このとき陸海軍とりわけ海軍は頑強なドイツ有利説を唱えていたので、かなりの反撃である。日米戦は、独ソ戦におけるドイツ勝利を前提にせねば成立しない。なぜならばドイツが敗北すれば日本は全世界を敵にまわすことになる。日本にやれる事は日独同盟の希薄化だけであったろう。
そのうえヒトラーは、モロトフ=リッペントロップ協定と独ソ戦開始という二度の背信をやっていたのである。
近衛が日米戦に反対であれば、ドイツの背信を頑強に説明すべきだった。ところが、日米交渉にあたって日本が譲歩すべき点について、まったく陸海軍に要求していないことが近衛の奇異な点であろう。
近衛は、アメリカの九カ国条約改廃容認を言い、満州国を認めさせ、それによる中国からの撤兵を言いたいのであるが、東條は内蒙駐兵という小事にこだわった。他方、アメリカは日本の世界にたいする責任を問うていたのである。
『木戸幸一日記』8月7日条
武官長再度来室、近藤〔信竹〕軍令部次長と面談の結果につき話ありたり。
一時五分より一時二十分迄、拝謁、近藤次長の拝謁の際言上せる海軍の意向につき御話ありたり。一時半、小倉大蔵大臣来室、資金凍結の善後処置等につき話を聴く。
二時半、武官長来室、海軍の動向等につき懇談す。
三時半、近衛首相参内、拝謁の後、四時より四時半頃迄、懇談
一、荏苒日を過すことは許されぬ。遠に政府統帥部の撤底的なる協議により方針を決定するの要ありと思ふ。
一、今日迄余の獲たる資料では、対米対ソ両面作戦は余程困難たりと思ふ。
一、而して見様によっては間題は極めて簡単に還元されたとも云へる。即ち油の問題だ。
一、油は海軍が二年、是とても戦争をすれば一年半しかたいと云ふ。陸軍は一年位とのことだ。
一、そこで、結論から云へば、右が事実なりとすれぱ、到底米国に対して必勝の戦を為すことは出来ないと云ふ外はない。
一、米国を外にして手近に油の供給源を求むれぱ蘭印と北樺太しかない。
一、蘭印を攻略するにはシンガポール、フィリッピン等を先づ制覇するにあらざれば困難であらう。而して之等の行動中に油井は破壊さるゝであらうから、必要量の油を得るには到底一年半では難しいと思ふ。
一、蘭印に手を出せぱ、米国は参戦するであらう。そうすれぼ仮りに油が出るとしても、英米の潜水艦航空機の脅威下に長距離の輸送は非常に危険率多く、果して所期の成果を挙げ得
るやは頗る疑はしい。
一、若しそこに誤算があったとすれぱ、由ゆ敷大事で、我国は油の不足丈で手を挙ぐる外ないと云ふことになる。
一、翻って今日の情勢を単的に云へぱ、国力足らずして思ふことが出来ないと云ふことであって、表面の形は変って居るが、日清戦後の三国干渉の場合と同じ決意をする外ないと云ふこ
とではないかと思ふ。
一、即ち今後十年を目標とし臥薪嘗胆の決心をなし、
一、差当り日米国交の調整を為し所要の物資を得ると共に、
一、国内にありては窮極の目的を南進に置きて、此の目的達成の為めに大体十年を目標とし、
一、重工業、工作機械工業の確立、
一、人造石油工業の急速なる確立、
一、遠洋航路船舶の大拡張、等に全力を挙ぐること。
而して右計画の基礎として至急に国土計画の実施を促進すること。
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近衛はここで大胆な日米避戦論を言った。ただその理由は海軍が俄かに言い出した石油問題なのであった。石油がなくなれば海軍は無力化する。だから日米戦だという論理の飛躍をつかず、その論理に乗せられているのである。
『木戸幸一日記』8月11日条
十時四十分より十一時四十分迄、拝謁す。
昨今の日米関係につき深く御心配被遊、大要左の如き御話ありたり。
過日、近衛首相の奏上せるル大統領との会談が成功すれぼ兎に角、若し米国が日本の申出につき単純卒直に受諾せざる場合には、真に重大たる決意を為さゞるべからずと思ふ。
従来の御前会議は如何にも形式的たるを以て、今回は充分納得の行く迄質問して見たしと思ふ。
それについては之が構成について軍務局長等事務の者は加へず、大体左の如き構成でやっ
て見てはどうであらうか。
首相、外務・大蔵・陸軍・海軍各大臣、企画院総裁、参謀総長、軍令部総長
之れに三元帥閑院宮載仁親王・伏見宮博恭王・梨本官守正王〕を加へた方がよいと思ふ。
是等の点につき首相ともよく相談して置いて貰ひたい。
右拝承す。
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近衛は日独同盟希薄化を言い出せず、対米戦について「臥薪嘗胆」で延期しようという説得策を思いついた。一方、海軍の日米戦開始の理由は「ハワイ作戦」なのである。論争の勝敗はみえているではないか?
ここで昭和天皇は、戦争開始の是非が日米会談によってしまうことについて危機感を抱いたようだ。ただし御前会議の改組などは実現せず、儀式のままで、運命の9・6御前会議を迎えてしまう。
木戸日記ではこのあと突然日米戦の記述が消え、9月5日まで現れない。木戸幸一の日常はいつもゴルフや情報屋との面会、料亭での革新貴族との会食に占められており、国家や政治についての関心があまりにも薄かった。軍人へ自ら働きかけることはできない性分であった。ドイツ好きという自らの社会主義者特有の感情すら客観的に見ることが出来なかった。
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