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松岡ー

松岡訪ソ訪独

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大本営連絡会議

2月3日、大本営連絡会議では松岡(外務省)の提案になる対独、伊、蘇交渉案要綱が討議された。要綱の内容は主として対ソ連対策であった。

  • リッペントロップ腹案(世界4分割)をソ連をして受諾せしめ、英国打倒につき日独伊に同調せしめる。(と共に)ソ国交の調整を期す(以下各項の条件)
  • 北樺太の売却
  • 日本とソ連による蒙古新疆北支の分割
  • 援蒋中止
  • 満ソ外蒙の国境画定
  • 漁業協定
  • 日独貨物輸送の保障

この他に
@アメリカ参戦の阻止についてドイツとの協議
Aソ連満州国攻撃の場合の独伊の参戦
B日本の欧州戦争参加の場合の単独不講和協定
C支那事変和平のドイツによる斡旋

議論が出たのは支那事変和平をドイツに仲介させた場合、日本がイギリスに対し戦争を開始することを要求されるのではないか、という点であった。とりわけ海軍の岡軍令部次長が反対した。ただ全体としてはユーラシア同盟を了解し松岡に訓令を与えた。

じっさいには松岡は、日ソ中立条約をソ連から上記の譲歩を受けることなく締結した。むしろ北樺太石油利権を放棄させられている。松岡外交は相手の言い分はいっさい聞かず、ただくだらない精神論を喋るだけで、相手が拒否すれば、自分の条件はおろし、外国の希望は丸呑みするという出鱈目ぶりであった。

大本営連絡会議といっても提案した省の「要綱」については、各省は口出しをあまりしないのが慣例で、松岡にフリーハンドを与えたにすぎなかった。

3月12日にまでもったいをつけ出発を遅らせた松岡は、東京を発ちシベリア鉄道経由、モスクワに向かった。

永野軍令部総長と杉山参謀総長は東京駅まで松岡を見送り、両脇をかかえて、
――ヒトラーにシンガポール攻略の約束をするな。とすごむと、松岡も頷【うなづ】くしかなかった。

ヒトラーは、3月5日、総統指令第24号を発した。

・・・日本との協力について

日本を加入せしめた3国同盟にもとづく協力の目的は極東で行動的な手段をとらせることである。強力な英軍はそこに引き付けられ、アメリカの利益の重心は太平洋に向けられることになるだろう。

戦争の共同目的はイギリスをして跪かせることであり、アメリカに参戦させないことである。

イギリスの極東におけるシンガポールの陥落は3国の共同戦争における決定的な成功を意味する。


このようにヒトラーはイギリス極東植民地への攻撃は、アメリカ海軍を太平洋に引き付けるものの日独伊いずれかの国への参戦に結びつくものと考えていなかった。世界情勢からみればヒトラーは正しく、このとき日本海軍がアメリカ参戦の危険性を訴えたことは的外れとしか思えない。


3月18日、ヒトラー、カイテル、ヨードル、レーダーが集まった席で、レーダーは日本にシンガポールを攻撃させるべきと説いた。

「このような好機は二度と来ない。全イギリス艦隊は日本に向き合うだろう。米海軍は準備不足であり、現在は日本海軍に対抗できない。シンガポール陥落は英米問題を最終的に解決する。おそらく日本が希望すればアメリカとの戦争も避けることができる」

「だが残念なことに日本は独軍が英本土に上陸せねば、動かないようにみえる」


レーダーの指摘はおそらく正しかったであろう。問題は日本はイギリスを屈服させることができるが、海軍力のないドイツには難しいことであった。もしロンメルがエジプトを奪うことができても喜望峰ルートは残されており、イギリスは包囲されていないのである。

3月17日、ソ満国境を通過、シベリア鉄道の特別列車に乗車した。随員は坂本瑞男欧亜局長以下であった。

3月23日、モスクワ到着、大使館晩餐会に出席。3月24日朝、スタインハート米大使と会見、対英戦の準備ないことを弁明、支那事変調停を依頼した。なぜ正式の外交ルートでなく、こういった会見を利用して「日本のカード」をさらけだすかといえば、他の日本人に知られたくないからであった。帰国子女という特殊な心理的背景があったに違いない。

夕刻、松岡は、モロトフと会談し、そのあとスターリンが加わった。1時間のうち50分を以下について喋りまくりった。

――八紘一宇の説明。
――日本人は政治的・経済的共産主義を信奉しないが、道徳的共産主義者である。
――日本人はアングロサクソン自由主義が入り込み、思想的に混乱している。
――新秩序を建設するためにもアングロサクソンとの闘争は不可避

その夜、モスクワを発った。松岡はドイツとの会談を前にして、日ソ協商については何も触れなかった。日本へ戻るさい、再度会談があることを読んでいた。

3月26日夜、松岡はベルリンに到着した。松岡は27日から29日までの3日間、リッペントロップと3回、ヒトラーと1回、会談をもった。この3回の会談は全世界の注視を集めており、英仏以外の大量の記者団がウィルヘルム・シュトラッセに集まっていた。

この日同時に、ユーゴスラビアでクーデターが発生、親独政権が打倒された。

松岡・ヒトラー、リッペントロップ会談

27日朝、松岡の前にリッペントロップが現れると、前年10月とは完全に違うリッペントロップがそこにいた。相手に喋らせまいと随分古いグラモフォン・レコードをかけながら、独白に及んだ。

リッペントロップ 枢軸国は戦争に決定的に勝利した。イギリスが敗北を認めるか否かは時間の問題だ。

一呼吸おいて

リッペントロップ シンガポールへの攻撃を要請する。イギリスと急速な決着をつけるためには重要な要素となる。

通訳のシュミットはリッペントロップの相矛盾する論理に松岡は身じろぎもせず、どのような印象をもたれたのか悟られないように押し黙っていた、と記録している。

リッペントロップ ルーズベルトがチャーチルに希望を与えなければ、イギリスがすぐにでも屈服することは疑いない。3国条約はアメリカをたじろがせる目的をもっている。アメリカの参戦とイギリスへの支援はあらゆる手段で防がねばならない。シンガポールを陥落させれば、アメリカの参戦を防止することができるだろう。なぜならば、アメリカ海軍は日本近海に艦隊を派遣するという危険を犯すことができない。

ルーズベルトは困難な位置にある。

ヒトラーは松岡にバルバロッサ計画について知らせないことを命じたが、リッペントロップは論理の一貫性から何事か知らせようとした。

リッペントロップ ソ連との付き合いはあるが良好ではない。もしロシアがドイツに敵対すれば、総統は直ちに粉砕するだろう。もし戦争になれば数ヶ月もかからないだろう。

ここで松岡はまばたきしながら警戒的な視線を投げかけた。

リッペントロップ スターリンが賢明でない策を追うとも思えないが・・・

ヒトラーがここでユーゴ危機に関連してリッペントロップを呼び出し、午餐は中止となった。午後になるとヒトラーが加わった。このとき政務秘書官として同行した加瀬俊一は「二時間半の会談中は総統幕僚とともに隣の控え室に待機していた」「不思議に思ったのは、間断なく伝令兵が駆けこんでくることである。硬直した姿勢で、高く右手を挙げ『ハイル・ヒトラー!』と叫ぶ」(『評伝アドルフヒトラー』文藝春秋1978)と描写した。

このころ、ユーゴスラビアでシモビッチが決起して反枢軸政府を組織した。

ヒトラー イギリスはすでに戦争に敗れた。それを承認する通知を待つばかりである。それでもイギリスは二つの国に希望をつなぎ、戦いを続けている。ソ連とアメリカである。私はリッペントロップよりもソ連について楽観的でない。

ソ連との戦争の危機が生じるとは思っていない。現在、対ソ防衛のため160から170個師団を保有している。

アメリカについていえば三つの可能性に直面している。自力による軍備拡張、英国への援助、または別の戦線をつくることである。もし、英国に援助すれば自らの軍拡は不可能である。もし英国を見棄てれば、孤立して3国と戦わねばならない。アメリカが別の戦線をつくるとは思えない。

今ほど日本が太平洋で戦争を始める好機はない。このような好機は二度と到来しない。歴史的に極めてユニークな時機である。

松岡 その通りである。しかしながら日本を領導する権限は与えられていない。

28日、第2回会談がもたれた。

松岡 日独ソ条約の可能性について、総統はかつて考慮したことがあるか

リッペントロップ 否。軍の精神的基礎は他の国民全部と同様、ソピエトとのより緊密な協力に反対であるため、それは絶対に不可能である。日独は国家的に考えるのに、ソビエトは国際的である。ソビエトは家族を毀損するのに反して、ドイツはそれを擁護する。ドイツはソピエトを挑発はしないが、スターリンの政策が総統の是とするところと一致しなけれぱ、総統はソピエトを粉砕するであろう。

松岡 日本は現在ソピエトを怒らせることを避けている、日本はドイツがバルカンで戦勝を完了するのを待っている。ドイツの尽力とその力なくしては、日本は日ソ関係を完全に改善する機会をもたないであろう。::自分は帰途モスクワに少々長く滞在し、ソビエトと不可侵条約またば中立条約について交渉すべきであろうか。ソピエトが三国同盟に即時参加することは日本国民は決して承知しない。それはむしろ日本全国に憤激の叫びをもたらすであろう。

リッペントロップ ソビエトの三国同盟加入は問題外である。またこの問題は現在の時局と完全にそぐわないかもしれないから、できることならモスクワでこの問題にふれるべきではない。

29日、松岡はリッペントロップと第3回目の会談を行った。

リッペントロップ 現下の情勢では、あまりソ連との交渉を大きく前進させるべきではない。情況がどう変化するかも保証できない。一つだけは確実だ。もしソ連が日本を攻撃すればドイツは直ちにソ連を攻撃する。この保証によって日本は後顧の憂いなく南進することができる。

現在、ドイツ陸軍の大部分は帝国の東部国境にあり、いつでも攻撃できる準備は整っている。しかしながら、私はソ連が戦争を避けるものと思っている。もしドイツがソ連と開戦すれば数ヶ月でソ連は降伏するだろう。

そうなれば、日本はより安心してシンガポールを攻撃できる。もちろん、対ソ関係がどのように変化するのか予想できないが。スターリンが現在の反独政策をどう緊張させるかについては、はっきりしない。

いずれにせよ、ソ連との衝突は可能な域にあると指摘したい。天皇陛下には帰国したときドイツとソ連との間の戦争はない、と報告しないで欲しい。反対にかなり蓋然性が高いといって欲しい。

松岡 シンガポール攻撃についてはフィリピンの米潜水艦部隊とイギリスの地中海、本国艦隊も考慮する必要がある。

リッペントロップ レーダー提督と話してみた。彼は今年度については英海軍は地中海・本国両艦隊とも1隻も極東に派遣できないだろうといっていた。またアメリカ潜水艦隊については実力が疑問であり、気にする必要はないのではないかとも。

松岡 日本海軍は英海軍については能力が低いとみている。米海軍についても簡単に打倒できる。ただ問題は米海軍が出てこない場合だ。こうなると戦争は5年以上長引くかもしれない。

リッペントロップ アメリカはシンガポールを陥落させても何もできないのではないか?ルーズベルトは参戦するに当り、2点考えるだろう。1点は日本を打倒したところで何も得られないこと、2点目はフィリピン喪失の可能性だ。これは威厳の失墜になる。それから不適切な軍備しかなく挽回は難しい。

松岡 今のところイギリス人にたいしてはシンガポールについて不可侵であることしかしていない。日本はイギリスの鍵となる地点について何の意志もないかのように発言し行動している。それゆえ、言葉でも行動でも友好的にみえると思う。ドイツはこれに騙されないで欲しい。

これはシンガポールを奇襲するまで、イギリス人を安心させると同時に、国内の親英米派を安心させるためである。国内が統一されたならばシンガポールを奇襲するであろう。

リッペントロップ 成功させようとしなければ何事も成功しない。

松岡 日露戦争直前に日本のある政治家が「発砲せよ。そうすれば国はまとまる」といったことがある。日本人は目覚める必要がある。けっきょく、東洋人は運命と思って諦める。もしシンガポールを攻撃したさいの英国の助力を聞かせて欲しい。

リッペントロップ それについては大島大使と話し合っている。今、シンガポールの地図を求めているところで、そうすれば現在の軍事作戦における最高峰であるヒトラー総統から意見を得ることができる。

ドイツの空軍の専門家についてもいかにでも利用できる。欧州の経験から報告書を提出できる。というのは近くの空軍基地から急降下爆撃機を発信させ、シンガポール海軍基地を攻撃できるのではないか?そうすれば艦隊は出て行くであろう。

松岡 要塞陥落はともかく、イギリス艦隊については心配していない。

リッペントロップ 総統はマジノ線やエベン・エマエル要塞などの強化地点攻撃について新手法を編み出した。これについては説明可能だ。

松岡 親しい海軍士官によるとシンガポール攻略には三カ月程度必要との意見だ。ちょっと、これは甘い気がする。6ヶ月に限れば、アメリカからの脅威も排除できるだろう。しかしシンガポール攻略に1年以上かかるとすると、アメリカとの関係は危険になる。

これについては検討がつかない。避けることができれば蘭印には手をつけない。油田に放火されかねない。1〜2年あとになろう。

リッペントロップ もしシンガポールを攻略させることができれば、蘭印に決定的な影響力を及ぼすことができるだろう。

さらにシンガポール攻撃を要請したが、松岡はこれには言質を与えなかった。

3月31日から4月3日の間、松岡はローマに滞在した。4月1日、松岡はムッソリーニとチアノ外相と会談した。

4月4日、再びベルリンに戻り、そこでヒトラーと会談した。そこでの会談は通訳を除いて二人きりあった。

ヒトラー アメリカとの戦争は好ましくないが、計算の中にはすでに入っている。アメリカの軍事的能力については評価しない。

ドイツは準備はしており米兵をヨーロッパに上陸させることはしない。ドイツはUボートと空軍で断然たる戦いをすることになろう。経験もあってアメリカが対抗できるものではない。それにドイツ軍兵士はアメリカ人よりはるかに優秀である。

もし、日本がアメリカと戦闘状態に入ることがあれば、ドイツは必要な措置を一気にとることになろう。

この約束を松岡は理解できなかったようなので、繰り返した。

ヒトラー 日米戦が惹起されたならば、ドイツはすぐさま参戦する。

松岡 今度の話についても今後は電報のやり取りはやめて。必要な場合はクーリエを交換しましょう。日本では機密がすぐに洩れるのです。ドイツの機密保持には信頼が置けますが、日本はそうは参らないのです。

三国同盟実現の前にシンガポールを攻撃したかったが、できなかった。ヒトラーは千年に一人出るか否かの英雄である。

リッペントロップとの最後の会談(4月5日)

最後の松岡・リッペントロップ会談についてドイツ外務省は次の通り要約した。

@ドイツ側からは、日本のシンガポール攻撃によってイギリスの降服を早めることが望ましいと要望された。.この場合ソビエトが対日軍事介入に出れぼ、ドィツは全カをあげてソビエトを攻撃することをドイツ側は確約した。
A松岡から、日ソ中立条約締結の意図をほのめかしたのに対して、リッペントロップから、日ソ関係の深入りは時宜に適せず望ましくない、という考えが示された。その理由として、独ソ関係はどうなるかわからぬ、ことが言及された。ドイツ外相は、松岡に対して日本に帰ってからも、独ソの衝突はあり得ないことだたどとはいわないようにしてもらいたい、と述べた。リッペントロップは、ヒトラーも独ソ国境には150コ師のドイツ軍が集結しているとはっきり述べていると言った。
B松岡は、日米衝突が不可避であること、日本のシンガポール攻撃は既定の方針で、実行は時間の問題である、と確言した。

4月5日、ユーゴスラビアはソ連と不可侵条約を締結した。6日、ヒトラーはユーゴスラビア侵攻作戦を発動した。同じ日、松岡はモスクワに向かった。

よくよく無能な人物を外相にしたものである。外交官が交渉するさい、自説を述べることは要求されず、多くは首相や他省庁の要求について代弁すればよいのである。日本の外務省は幣原喜重郎外相が就任以来、この点がよくわからなくなってしまった。

加えて相手のいう趣旨を理解し、本国に伝えることは必須であろう。永年「霞ヶ関外交」を唱え、あたかも本省外務官僚による独自外交が成立するかのような錯覚が、松岡洋右の登場とともに、失敗の極みに達したといってよい。

ともあれ滞米経験のある日本人女性、とりわけ帰国子女は、アメリカ人には何か親近感からくる「じゃれつき」から居丈高な態度に出、西洋諸国の中心ドイツでは、劣等感から日本の悪口をいいたくる。そういった態度はなんとも卑屈というべきであろう。

リッペントロップは独ソ戦を濃厚に仄めかしたが、松岡はついに理解できなかった。こうった無能外交官がいることを普通の国は理解できなかったに違いない。松岡はこのあとモスクワに向かい好条件(すなわち北樺太石油利権を放棄)で「中立条約」を提案した。

スターリンとモロトフは、この提案について、ヒトラーの了解を得てのことと確信したに違いない。スターリンが、6月22日の独ソ戦開始のさい奇襲に何も備えていなかったことは有名であるが、この背景の一つに「松岡の誤解」があるのではないか?すなわち、日ソ中立条約は独ソ戦のさいソ連の背後を安全にするものであるから、ドイツが了解したことはドイツは奇襲しないことにつながる。

スターリンは日ソ中立条約締結以降、急に対独宥和姿勢に転換した。

  1. 4月12日、対独石油供給契約に調印
  2. 4月15日、独ソ北部国境についてソ連譲歩で決着
  3. 5月6日、スターリンはドイツが忌避するモロトフに代わり首相就任
  4. 5月9日、ベルギー・ノルウェー両亡命政権の承認取り消し
  5. 5月9日、ユーゴスラビア政権の承認取り消し
  6. 5月12日、イラクの親独ラシド・アリ政権承認
  7. 5月15日、ソ連政府はゴム4000トン輸送のための特別列車を提供した
  8. 6月3日、ギリシャ亡命政権承認取り消し

このソ連の譲歩をみれば松岡外交の波紋がいかなる形で広がったか看取することは容易であったはずである。


日ソ中立条約(松岡=モロトフ協定)

4月7日昼、松岡はモスクワに到着した。4時からモロトフと本格的会談に入った。松岡はまず北樺太買収を提案した。これにたいしモロトフは寸分も妥協の姿勢を示さなかった。

4月9日、第二回会談が行われた。この日、松岡は不可侵条約ではなく中立条約を提案した。モロトフは相変わらず無表情に自説を固執して北樺太の利権解消を求めて退かなかった。松岡は焦れて、内蒙・北支を日本、外蒙・新疆をソ連とする勢力圏分割を提案した。モロトフからは「後日検討したい」として逃げられてしまった。

その夜、松岡はモスクワを去りレニングラードにいきウラノーバの主演するバレー「ロメオとジュリエット」を観劇した。11日朝、モスクワに戻った。

4月13日、調印を終わってクレムリンで手を組んだスターリンと松岡

4月11日4時、松岡は北樺太利権除去についてコミットすることを約束し、これで駄目ならば、未調印のまま帰国するとモロトフに申し入れた。この松岡の譲歩は訓令違反であり、昭和19年戦局不利のさい日ソ間の紛糾を招いた。

12日午後、スターリン・松岡会談が実現した。北樺太については「問題を数ヶ月以内に解決すべく努力する」という文言で妥協することになった。

13日3時、クレムリンで調印式が行われた。その後宴会が催され、スターリンは松岡を駅まで見送った。これは従来にないことで、各国外交団や記者団を驚かせた。スターリンがこの条約に満足したことは確実である。

4月22日第17回大本営連絡懇談会が開催され、大橋外務次官から以下の松岡外相の電文が紹介され、これにもとづき本当に「日ソ中立条約」が締結された。

「松岡外相ヨリノ電文」
四月九日午後四時ヨリ七時半迄「モトロフ」総理ト懇談続行建川大使列席

前回会談ノ際本大臣ヨリ強硬二北樺太ノ譲渡ヲ主張シタルモ此ノ際之ヲ応諾入ル見込ナキモノト観取シタルニ付本日ハ本大臣ヨリ簡単直載二不侵略条約案ヲ撤回シ先方提出二係ル中立条約案(北樺太利権二関スル附属議定書ヲ除ク)二本大臣滞在中建川大使ト共二連署スル様致度キ旨申入レタル処「モトロフ」氏ハ極力北樺太利権ノ処理二関スル附属議定書ヲモ此ノ際成立セシムルコトノ必要ヲ縷説ス結局十一日「レニングラード」ヨリ帰リ午後四時再会スル迄二本大臣ノ申入レニ付審議再考センコトヲ求メ別レタリ

尚北支及内蒙古ノ日本勢力範囲タルコトヲ認ムルニ対シ外蒙古及新彊ノ「ソ」聯勢力範圏タルコトヲ認ムル秘密議定書ヲ作リテモ好シト述ヘタルニ対シ「モ」ハ斯カル問題ヲ議スルトキハ暇
取ルコトニモナリ右ハ後日二譲リテ可ナリト思フ旨ヲ答ヘタリ

但シ右返答ハ極メテ軽キ意味ニテ何レノ途一応「スターリン」二伺ハサレハ全部二付確答出来サルコト明瞭ナリ
以上御含、ミ迄不取敢電報ス(了)

条約締結は外務省の専権であって、近衛首相が反対せねば、各省は了解してしまうのである。前述のようにリッペントロップは独ソ開戦を仄めかしていたが、松岡は「贔屓の引き倒し」でこれが理解できなかった。当然、国内にいた出席者も独ソ戦開始後については何も考えず、前年のドイツのイギリス戦の戦後処理「世界四分割」案がまだ成立するものとして考えていた。

松岡帰朝報告

松岡は帰国後次のように報告した。

日ソ関係

「モロトフ」トハ三度会見シタカ「モロトフ」自説ヲ固持シテ譲ラス 条約ハ到底モノニナラヌト考ヘ、イロケ抜キテ自分ノ考ヘヲアツサリ述ヘ又英文ノ手紙ヲ将来ノ参考ノ為ニト「モロトフ」ニ渡シタ

其ノ夜明日「スターリン」ハ何時テモ会フカラト電話カアリ午後五時カラ会フコトニ約束シタ。

翌日五時「スターリン」ノ部屋テ挨拶ヲ述へ、此ト際ハカリ八紘一宇ニ就イテ話シ出シタ「スターリン」ハ机ノ上ニ中立条約ノ議定書ト「モロトフ」ニ渡シタ自分ノ手紙トヲ置キ、八紘一宇ノ話ヲ聞キ乍ラムズムズシテ居ツタカ、ソノウチ「スターリン」ハ「俺ハオ前ヲ信スル、又近衛ヲモ信スル」ト述へ条約ノ修文二就テ話ツ出シタ。

条約文中二満洲国ノ事カアツタノテ、独立国ヲコソナ風二取扱フノハ具合悪イト述ヘタル所「スターリソ」モ同意シタ、

「スターリン」ハ地図ヲ取リ寄セ南樺太ヲ「ソ」二売レトシキリニ主張シタノテ、自分ハ樺太ハ十六世紀以来日本ノモノテアツタノヲ「ソ」二取ラレ、国民ハ共後長イ間北半部ヲ取リ返ソウト念二燃エテ居ルト述ヘタ、

之二対シ「スターリン」ハ東ハ「カムチャツカ」西ハ沿海州二「ノド首」ヲシメツケラレテ居ルドウニモナラソテハナイカト述フ、

自分ハ地図ヲ示シ乍ラ、地図ヲモツト大キク見ナケレハイカン、

印度「イラン」方面ニ「ソ」連トシテ出ル方カ宜イテハナイカ。日本ハソレニ対シテハ目ヲツブルト応酬シ逐次話カ面白クナリ遂ニ条約成立ノ運ヒトナッタ。

「ソ」連カ何故条約を結ンタカ其真意ハ分ラヌカソウ云フ気運ニアツタコトハ確カテアル。

独「ソ」関係

「リツペン」二「フインラソド」「ブルガリヤ」「トルコ」等二関シテハ独「ソ」間二予メ諒解カアツタノテハナイカト尋ネタ所何モナイト云ウタ。

「リツベン」ハ「独カ独「ソ」不可侵条約ヲ結ソタノハ巳ムニ巳ブレヌ事情二依ルモノテアツテ、独トシテハ何トカシテ「ソ」ヲヤツツケ度イト思フ、今ナラ三、四ケ月間テヤツツケラレルヤツツケタ結果ハ「ソ」ハ四分五裂スルト思フ。

又日本カ「シンガポール」攻略ヲヤルトシテモ北方ハ後顧ノ憂ハナイ。「ギリシヤ」ノ降伏ハ既ニキマツテ居ルカ「バルカン」ニハ英ノ手カ相当伸ヒテ居ル。「スターリン」ハ用心深イ男タカラムヤミニ動ク様ナ事ハセント思フト等述ヘタ。

尚英本土攻撃ハ「バルカン」攻撃ノ前ニヤルカ後ニヤルカト質問セル所、「リツペン」ハハツキリ答ヘラレヌト述へ回答セス。

自分ハ日「ソ」条約ハ昨年七月カラ「ソ」二提案シテ居ツタカ其後情勢ハ変ツタノテ今度ハアツサリシタ形式テヤリ度イ、若シ「ソ」カ食ヒツイテ来タラ条約ヲ結フ考ヘタト述ヘタ所、「リツベン」ハ「ソウダ」ト云ウタ。而シ「リツベン」ハ条約ハ出来ント思ツテ居タラシイ、今度ノ成立ヲ見テキツト彼ハ驚イテ居ルタラウ

ドイツがバルロッサ計画を発動中であることを全く想像できず、リッペントロップがヒトラーから口止めされていることもわからず、ただ日ソ中立条約締結を焦り、ソ連の術中にはまっても、「リッペントロップは驚くだろう」と自慢しているのである。

ワシントンでは、ルーズベルトとハルは日ソ中立条約の成立に重大な危機感を抱いた。この条約により日本軍は大軍を北満州に張り付けることから解放され、南進=イギリスへの攻撃が可能になるとみなしたのだ。

4月13日、西大西洋におけるUボートに対する攻勢作戦は放棄され、アイスランド以西の米海軍艦船はドイツ艦艇の動きを見張るだけにする、という新命令が出された。日ソ中立条約の成立により太平洋がより危険という判断からであった。

松岡は日本的な意味で対人関係がつくれる人物とは思えない。帰国子女の欠陥を一身に集めたような人物であった。また日本外交官の無気力ぶりにも驚くべきであろう。明治以来、外交官の能力がもっとも試される場面で、このような無能な男しかスターリンやヒトラーに向きあわさせることができなかった。

松岡外交でも事前に各種段階で下僚同士の打ち合わせがあったが、如何せん日本の外交官には軍事学の基礎教育がまったくなかった。話が噛み合わないのである。ここがドイツやソ連外交官と決定的に違う所であろう。体制として陸軍が駐独大使を出し、海軍が駐米大使(野村吉三郎)を出していたが、この人事は若手外交官に屈辱感を与えることになり、駐米独大使館はこれ以降サボタージュに近い状態になった。

無軌道な松岡外交は国際政治に大きな影響を与えた。注意すべきなのは全て、松岡の意図と反していることであろう。

@ロシアが対独無警戒となった。
AアメリカがN工作に応じた。
Bドイツは、独ソ戦への日本関与を求めなかったが、開戦後関与を求めるようになった。

日露接近は極めて大きな波紋を英米独に投げかける。ロシアの対ヨーロッパ策にある種の変化を与えるからである。日露戦争後の日露協商と第一次大戦、日ソ中立条約後の独ソ戦の関係は重大である。両者が戦争の原因となったのではない。日露関係改善はロシアに不当な安堵感を与えるのである。

ヒトラー外交についても考える必要がある。ヒトラーは独ソ戦は起きないと断言した。これは明白な虚偽である。これまでにもチェンバレンを騙した。バルバロッサ計画によって、スターリンと松岡を騙すことになる。これについて騙された人間が悪いといわれることがあるが、そうではあるまい。

ヒトラーはそれまでの西ヨーロッパの指導者とは違った。自身の言によれば「騙すことは悪い」などというブルジョワ趣味に国家社会主義者は従う必要はない、ということだが、スターリンも松岡もドイツの同盟者として振舞っていた。騙すに加え裏切りなのである。

それでも、松岡は独ソ戦が発生したあとでも「ソ連に攻め込むべき」と主張し、ヒトラーに追随しようとした。たんに「日独同盟」は国益に不利であった、という事実をどうしても認めることができなかったのである。この点で愚か者と評するしかない。

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