松岡・グルー会談

グルー(Joseph C. Grew, 1880-1965)
ボストンの裕福な銀行家の家庭に生まれた。妻のアリス:Alice Perryは、日本にきたペリーの孫にあたる。アリスの母:Lilla Cabotはアメリカ印象派の画家としてもよく知られている。

松岡洋右は長州出身ではあるが、長州藩士との関係は薄く防長義士会にも加入しなかった。若くしてアメリカ放浪の旅に出て皿洗いをやったとも伝えられる。従って教養は全てアメリカ仕込みである。遠戚としては岸信介や佐藤栄作に連なる。

松岡は1904年に外務省に入省し、たちまちその卓越した英語力で頭角を顕した。パリ講和条約で全権随員ののち、大連総領事で退官した。のち満鉄副総裁になり、1930年には衆院議員に当選している。1933年、満州国否認決議を上程した国際連盟総会に出席し、満座の中退場し、日本は脱会することになった。

通常であれば、外交官としての生命はここで断たれるはずであったが、1940年7月成立の第二次近衛内閣の外相として招かれた。これの背後に近衛の推薦があった。松岡の外交信念のようなものは、じつははっきりしない。時流に流されたことは確かであるが、常に「米国内ドイツ人」勢力への過信があった。最後になれば、米国内ドイツ人が立ち上がり、米国外交はドイツ寄りになるというものであった。

第一次大戦ではアメリカは最終的に反ドイツで連合国に参戦したのだから、不思議な過信である。

反面、グルーは第一次大戦では初めドイツのちウィーンにいて、「ドイツ内ドイツ人」について正しい観察をしていた。ドイツは、経済的にも外交的にも成功していたにもかかわらず、ベルギー経由フランスに先制攻撃をかけたのである。松岡はありもしない「民信」のようなものに注意する腐儒であった。グレイは確固たる事実や条約・国際法で考えるアメリカの外交官であった。

一九四〇年十月五日

 今日私は招きに応じて松岡外相を訪問し、二時間と十五分話をしたが、その大部分ほ非公式で、記録を離れたものだつた。例によつて松岡は会話の九五%を独占した。というのが、彼の継続的な独白は、強力な口出しによつてのみ中断させることが出來るからである。*1

 時々、彼はとくに興昧深い点を取り上げたが、彼の能弁は一時間でも二時間でも句読点なしに流れるので、彼の論述を後から記録しようとするのは、容易なことではない。

 この日の松岡氏の主題は、現在の世界情勢が伝統と機械時代の衝突から論理的に起ったのだ、ということだった。

 会談中、たつた一回激烈な言葉が発っせられたが、それは外相がとくにドイツの場合、やむをえざる必要に基礎をおいて、戦争による国家的拡張を正当化しようと試みた時、私が発したものである。*2

 私は前に述ぺたことがあるように、その国境内でほ進歩的で繁栄していて、幸福で充ち足りたドィツを、個人的に知っていたのである。ドイツの現在の指導者たちが、彼らの誇大妄想的な野心を満足させるために、弱い隣國を粉砕していることはそれが必要だからといって一方的に許さるべきではなく、そんなことをしようとするのが、そもそもとんでもない話なのだ。*3

 日本の場合、私は個人的に日本の経済的必要を認める。だが日米関係を今日のように悪化させたのは、これらの必要を合理的に主張したことではなく、むしろ経済的困難を解決するに当つては秩序ある処置に従うべしという、ハル氏の論理的且つ実際的在計画に示された手段の代りに、この主張を追いかける上に武力を行使したことである。

 この点で松岡氏は、アゾグロ・サクソン国家を、自分たちのやることは何事でも正しいと独善的に確信し、非妥協的にも己の非を認めることさえしようとしないのだと特性づけた。

 これに対して私は、私こそいまだかつて、日本が九国條約の條項に違反したという明瞭な事実を認める日本人に会.ったことがないというと、驚くべし松岡氏は、自分はその事実を認めていることをあなたには喜んで話す、だが国際連盟の会議でこれをやれといわれたように、それを政治的にやることは勿論出來ないと、素朴につけ加えた。

 外相は彼が長い間公務から引退していて、この前の近衛内閣に列することは三回断つたが、日本の痛ましい状態を深く憂慮した拳句、結局近衛だけが日本を、差し迫っている革命と混乱から救いうる唯一の人物だと感じたので、彼の再出馬を促す気持ちになつたのだといつた。*4

 近衛は前に首相だった時には優柔不断な政治家だつたが今は全然変り、現に革命の脅威さえある日本でも救済しようと、不動の決意をかためている。

 私が、どんな種類の革命を懸念しているのかと質問すると、松岡は「政治的、経済的、社会的の革命」と答え、その危険は全然過ぎ去つていないと感じるといつた。次に彼は相当の時間を費やして、前外相の優柔不断と薄志弱行を論じた。

 松岡氏は、すでに独伊との同盟が完成し、それに関する考えは胸中を去つたので、私が提出した米国側の苦情を片づけるの即時全力を傾けるつもりだといつた。彼が日本の対外闘係を指輝することは、彼の就任の必須條件だつたし、彼は軍部、ことに熱狂的な若い士官どもが指図することを許さないのだといつた。

 この会談の途中で外相は、日本は東亜から他国の権益を駆逐する意図はなく、新秩序の進展に関する協力を歓迎するといつた。私.はすぐさまその言葉を捕えて、そう伺つて私はまことに悦しいといった。*5

 だが、私が以前の会話ではっきり指摘したように、事の真相は数代にわたつて築き上げらた日本における米国の正当な権益の多くが、すでに日本から駆逐されてしまい、また迅速に駆逐されつつあるのであった。

 松岡氏の返答は例によって、中国の敵対行為が終了し、蒋介石が打倒されれば、このような問題は即座に解決されるというのであった。彼はまた例の、米国は蒋介石援助を中止してくれという要望を持ち出し、私も例の通り、この問題に関する米国の立場を繰返した。

 私が退出しようとしかけた時、外相は熱心に、米国政府がこれ以上の対日輸出禁止を行わぬようにしてくれと要求した。かくの如き輸出禁止は、彼によると「日本を憂慮すべき程度におきはしまいか」甚だしく日本人を怒らせるだろうとのことである。彼は日本と合衆国との間の戦争が起ることなど、考えても身震がするとつけ加えた。

(私は松岡氏がかかる輸出禁止の即時的効果を、長期にわたる効果と比較して考えた。その考え方は正しいと信じる。)

*1 有名な1節である
*2 先制攻撃の是非についてグルーは論じたが、松岡は理解できなかったようだ
*3 経済繁栄の最中にあったドイツの愚行を論じた
*4 これは虚偽で松本重治『近衛時代』(下)によると、松岡が近衛に哀願した
*5 ルーズベルト政権は、ブロック経済化を容認し、アジア人によるアジアを標榜した。

松岡の要求は、南洋を含む東亜新秩序(=大東亜共栄圏)を認めよ、妨害するなということであった。松岡論理では、独伊は日本の要求(=東亜新秩序)を認めたので三国同盟を締結した。ドイツ系アメリカ人はアメリカ人の経済的要求が認められれば、賛成に回るだろうと松岡は考えた。するとアメリカ政府は、遠くない将来に東亜新秩序を認めるに違いない、という論理である。

東亜新秩序とは、ユーラシア大陸を南北に切って、ヨーロッパ・アフリカは独伊、ソ連はユーラシア大陸における既存領土と中東、日本は既存領土と蘭印・仏印という「影響圏」(用語上は政治的従属を含む)の再分割であり、フランス戦の戦後処理に関連するものであった。近衛が第一次内閣を投げ出すさいいった東亜新秩序は「日満支」提携であって、ここではドイツ外交からの影響を受け、内容を変えている。

アメリカ大統領選では、共和党は反孤立主義のウィルキーを候補に選出した。このとき、ドイツ系アメリカ人の組織票は問題にならなかった。フランスの敗北による「民主主義」の危機がより大きなインパクトを共和党員に与えていたのである。

松岡は外国の新政治情況に対応できる性格でなく、第一次大戦中にアメリカにいたときの体験をより重視した。こういった日本人特有の「思い込み」は、対独外交と対ソ外交に重大な失敗をもたらした。さらに「思い込み」に反対する周囲の意見を「口喧嘩」でやっつければいいという考え方の持ち主であった。近衛や陸軍軍政畑(阿南・武藤)が、こういった人物を外相にしたこと、または容認したことは重大な「事件」であろう。

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