狂気の松岡

松岡は大連から飛行機で四月二二日、帰国した。近衛は富田書記官長と立川に向かう車中、日米交渉成立を発表した場合、

――国民はどんなに喜ぶことか

と浮き浮きと語った。富田はあとになって、この日が「運命的な歴史の岐れ目」になったと回想している。松岡は近衛との同乗を断り、大橋次官と一緒になったが、

――アメリカに引きずられた。アメリカの常套手段にのせられた。
――盟邦に不信を与える。

 と叱責したという。その夜八時から大本営連絡会議が開催されたが、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンと五分で渡り合ったと自慢するばかりで、日米了解案については考えさせてくれというばかりであった。首相が自分の渡欧より自分の関係しない日米協商により関心をもったことに面白くなかった。

松岡洋右のアメリカ観

松岡洋右は若いときにアメリカに留学したことがあった。その当時の日本人に英語が流暢なことと相俟って、知米派であると思わせていた。そのあと、松岡は満鉄に長くいたことがあり、満州における協和会などの社会主義的政治運動にも係わっていた。

留意せねばならないのは、このときアメリカにも社会主義的勢力が極めて強かったことである。松岡はこの米国内社会主義的勢力と手を結ぼうとした。

松岡の外相として第一回記者会見の内容が『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙』に、1940年7月21日、次のように掲載された。

「民主主義と全体主義との間の戦いでは全体主義が間違いなく勝利を得て、世界を支配するだろう。民主主義の時代はすでに終わり、民主制度は破綻した。この世界に、二つの異なった制度、または二つの経済が並存する余地はない。

一方が一方に屈服しなければならず、全体主義が世界支配を成し遂げることになるだろう。日本を金と信用の供与で援助しようという話は、制度と経済の相違から起こる誤解である。何世紀も続くであろう全体主義のあとに何がくるかはわからないが、今、全体主義が勝つことは確実である」

昭和天皇は松岡について

「松岡は米国は参戦せぬといふことを信んじて居た。私は在米独系が松岡の云ふ通りに独乙側に起つとは確信できなかった」(『昭和天皇独白録』

 と述べたが現在人にわかりにくいのは、「松岡の在米独系が独乙側に起つ」という点であろう。前の『NYヘラルド・トリビューン紙』の記事からすれば、松岡の見方は全体主義=ソ連・ドイツの体制=社会主義であることがわかる。

そうすると在米独系の運動とは米国内社会主義運動を意味しているのである。全体主義が共産主義を含むという見方は普通朝鮮戦争以降であるが、松岡はこのときから独ソ一体とみなしていた。

この重大な誤りが松岡の失敗の根源であった。全体主義の世界支配とは国際的社会主義革命の世界制覇であったが、国際主義とは国家主義に簡単に勝てるものではない。民主主義が必ずしも国際的でないように社会主義も国際的ではない。松岡が独ソ戦勃発を信じることができなかったのもこれが理由であった。



近衛は、外相抜きで応諾の返事をすべきと考えたが、じつは返事の手段がないのであった。松岡が寝てしまえば、外務省経由、野村に訓電を打てないのである。これは現在でも同じで、日本の官僚制度はじつに滑稽なのである。けっきょく、松岡は病気と称して二週間御殿場の山荘にこもり、公務につかなかった。

この二週間に様々なことが発生した。アメリカは野村大使経由「独ソ戦勃発」が確実であると報せてきた。アメリカの意図は、

――日本はドイツに過去裏切られ利用されているだけである。
――防共協定によって、ソ連に日本はドイツの駒であるとみせつけ、モロトフ=リッペントロップ協定で裏切った。
――三国同盟によって、日本へはユーラシア同盟の夢を与えながら、それを裏切り、ソ連を攻撃しようとしている。

を示すことであって、この了解案における日本への要求は、イギリスを背後から攻撃(シンガポール攻撃)するな、すなわち三国同盟を実質的に骨抜きにせよ、に尽きた。松岡は、案文に対して、いいがかりのような修正案を三十項目以上つけ、大本営連絡で喋りまくったが誰からも相手にされなかった。

N工作の対独内報

松岡はここで独断にてドイツにN工作を内報した。リッペントロップが大島駐独大使に苦情をいう事態となった。そのとき、独ソ戦について打ち明けたようだ。大島は五月中旬になると連日独ソ戦開始について出電してきた。ところが、松岡訪独中にはドイツから話がなく、ソ連を屈服させたところでドイツに経済的利益はなく、文民・軍人ともに半信半疑であった。

ヒトラーの日本にバルバロッサ計画を直前まで明かさないという謀略は、日ソ中立条約を結ばせ、独ソ戦勃発時の日本の情勢判断を混乱させた。この事態はドイツにとっても有利でなく、ヒトラー独裁の綻【ほころ】びが出たといえる。六月一杯、陸海外は茫然自失の状態となった。近衛もこのドイツの背信に怒り、「三国同盟離脱」を決意したと戦後書いた。

松岡は思い切り、近衛内閣打倒=自らの首相就任運動を開始した。腹心と思った秋田清拓相に打ち明けたが、秋田はすぐに裏切り、近衛にこの計画を打ち明けた。流石の近衛もこのときに到れば、松岡を除くしかないと決意し、いったん総辞職のあと、七月一八日、第二次近衛内閣を組閣し、外相には海軍出の豊田貞次郎を据えた。

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