平出英夫大佐の講演
〜海戦の精神

平出英夫(1896〜1948)
青森県出身。海兵44期、水雷畑で、1922年海大選科卒業。1927年フランス駐在武官。1936年イタリア駐在武官。1940年大本営海軍部報道課長。1943年12月、フィリピン駐在武官。1945年、北海海軍軍需管理部長。そのあと北海道瀬棚郡今金町に移住、そこで死亡。

海軍省は、1941年5月に入り、従来の避戦方針から対英米戦準備へと方針の見直しが実施された。完成したのは、6月5日で、「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ採ルベキ態度」(内容伝わらず)で具現された。

「われわれ陸軍が戦争から遠ざかりつつあったときに海軍では戦争を覚悟すべしという気運が動きつつあったのだ」(『軍務局長武藤章回想録』石井秋穂(陸軍省軍務課高級課員)の手記)。海軍はこのとき、「英米一体論」の採用を決めたという。

海軍将校団は極端な秘密主義をとっており容易に省部内の事情を陸軍にすら明かさない。この転換の背景には軍令部総長が伏見宮博恭王から永野修身に替わった(4月16日)ことがあったのではないか?

海軍の人事権は一義的に海相にあった。このとき井上成美は及川古志郎から推薦を求められ永野を挙げたという。事後になって人事の顛末を語るのは、自己顕示欲の表れであるが、人事自体は、当然の流れであったのだろう。

なぜかといえば、永野修身は現役トップであり、日露戦争における軍功が圧倒的であった。大孤山から海軍重砲隊中隊長として、戦艦『レトビザン』に命中弾を与え、黄海海戦のきっかけをつくった。さらに大角人事で放逐された条約派や軍政畑軍人を永野は海相時代に再復活させた。永野は自分の一の子分は米内、二番目は山本五十六と思っていたに違いない。井上には条約派を好む永野を推薦する理由があったのである。

伏見宮の外政についての意見は測りがたいが、前年9月における海軍首脳会議では三国同盟賛成に回り、直後の御前会議では日米戦争反対を述べた。また昭和19年の東條内閣更迭のさいは、嶋田海相への不信任を顕わにしたので、日米戦争について反対の立場で一貫していたと推定される。伏見宮は、山本のハワイ作戦案を「年次作戦計画」として買ってはいたが、それを実行する気はなかった。抑止力として考えたのである。ところが条約派とは、海軍の存在は実戦力しかないと信じる集団であった。

伏見宮が退任すると同時に、海軍はハワイ作戦を計画から実行=日米戦開始に踏み切りだした。

永野はハワイ作戦実行のための環境をつくろうと思い立った。これ以降、永野は部下を叱咤し、山本五十六の意向に沿おうとした。

昭和16年5月27日、第36回の海軍記念日(日本海海戦のあった日)に大本営海軍部報道課長平出英夫大佐はNHKでラジオ講演した。内容は事前に各新聞社に次のように配布された。

一、米国の対英援助の結果は、状況如何によっては、事実上、独米開戦に発展する。米国の参戦は、日独伊三国同盟の関係で、我々としては、対岸の火災視するわけには行かぬ。直ちに日本に影響をもって来る。

二、帝国海軍は紛々たる世論に超越して、その軍備の拡充と戦力の充実とに精進している。

三、その整備の状態は、まさに帝国有史以来のものである。必要なる基地は、今や完全なる防備を施し終わって、軽々しく我々に挑戦するものあらば、これを一挙に粉砕せんとする姿勢にある。

四、今日の世界情勢から、日本が参戦することなし、と断言することは誰にも出来ない…



「帝国海軍は現在大小二百余隻の艦艇を以て支那沿岸海域の作戦に従事しつつ、更に他の三百余隻の艦艇とこれに必要な根拠地とを整備して西太平洋の海域に備えているのであるが、その装備状況は正に帝国海軍有史以来空前のものであって(中略)、海鷲これ(基地)により、大鯨ここ(基地)にひそみ、われに艦艇五百余、海鷲四千余あり、必殺戦法わが軍に在り……」と結ばれていた。

このとき、及川古志郎海相や岡敬純【たかずみ】軍務局長は政府内の記録の残る会議では避戦論を述べていた。ただし主流は山本五十六の主張するハワイ作戦に靡いていた。平出講演はこのような流れに沿ったものであり、上司の永野軍令部長や前田稔海軍報道部長の許可を得たことは確実である。

6月に入ると、ハワイ作戦は大半の海軍省部軍人には、よく知られているという段階に入った。


平出は開戦後、次のような記事を残した。

『週刊朝日』昭和16年12月28日

御尤もな御質問でございますがまだ作戦が続いているのでございまして、あれを決行した艦隊たちは、まだあれに満足しないで、それ以上の作戦にすでに取りかかっております。随って、どんな舞台がどんなふうに行動してどんなふうにやったかということは、今後の作戦に響いて来ますので私は申し上げる自由をもっておりません。

ただ、私が申し上げ得ることはなぜああいうことが成功したかという原因を尋ねますと、アメリカの艦隊とは性格が違う、これが何よりの原因なのです。それをもう少し細かくいえば、アメリカ政府首脳部は艦隊というものを政略の道具に使った、巨きな艦を数多く揃えて威嚇すれば血を流さずに日本を圧伏し得る、こう考えたところからスタートしていると考えるのです。これだけ持っているぞ到底日本は勝てまい、これで日本を制圧することができると考えたんです。

日本という民族が、圧迫を加えられたり嚇かされたりすればするほど、強く反発するものだということを、全然認識していなかった。私は度々これを発表したのです。

しかし彼等はそれを単に私が強がりをいっていると考えたに違いない。アメリカの新聞なども、これを単に平出なる者の強がりと書いておりました。しかし私はほんとうのことをいっておったのです。

日本の艦隊というものは政略なんかない、ただ一途に敵の艦隊をぶち破って国防を全うしようということだけを目標にして来たのですから、その性格が非常に違う。根本的な違いです。
これが非常に大きな原因の一つだと私は思います。もう一つは、国民性にもよると思うのですが訓練が違う。

アメリカの海軍も訓練は無論本気でやるのでしょうが、その程度が日本と違っている。これはアメリカ艦隊に限らず、どこの国でも大抵そうなのですが、月曜に出勤して金曜には帰って、
土曜と日曜は休む、そうして夜は訓練をしない。ところが、日本の海軍には土曜も日曜もない。

いわゆる月月火水木金金という曜日でやっているし、夜になれば、さあ、これからが猛特訓だというわけで、とても訓練の状況が違うのです。それから精神が違う。アメリカは五という比率をもっていて、必ず日本をやっつけられるものと考えていた。

そこに油断があります。ところが日本は三に抑えつけられてしまった、しかし敗けてはいられない、彼等が到底勝てまいと思うその比率でどうやって勝つか、どうして国防を全うするか、そればかり考えているんですから肝が違います。

そこに彼等の間違いがあった。彼等は加え算をやっているのです。三足す二は五と考えている。ところが、日本のは掛け算です。三掛ける五、或いは、三掛ける十という掛け算をしたのです。それを向こうは知らなかった。掛け算とは何かというと、日本は精神力或いは訓練というような目に見えないもので掛け算をした!

これは条約でもどうにもならなかった。数は条約によって制限し得たけれども、精神力とか訓練による力は制限できなかった。これがワシントン条約の非常な成果であり、失敗であったのです。

ワシントン条約の出来た時から日本の艦隊が今日の勝ち戦の原因をつくった、こう考えます。


『音楽之友』 昭和17年5月号

戦争と音楽というと水と油のように思われるが、今日は音楽之戦争といえる時期に来ていると思う。その理由は音楽すなわち耳なので、耳の感が良い、音に対する感が良いということが戦争の勝敗に非常に影響があるからだ。

実例として、英仏海峡でドイツの潜水艦を発見した敵の駆逐艦の兵隊の耳が潜水艦の音を正しく聞き分けられず潜水艦が逃れられた話と、日本の潜水艦が日没後に米国の航空母艦に魚雷を打ち込み聴音機により撃沈したと判断し翌朝海上を探したところ船影がなかった話を挙げている。

また、ドイツの放送局が戦闘中にラジオで軍楽を放送し、士気を鼓舞された軍人が短時間の間に英国に艦隊を撃滅した例を挙げ、軍楽の効用を説いている。日本では、吹奏楽は帝国海軍がもっとも早く輸入し、予算も豊富に取り、レヴェルも高く保っているが、戦のときにどのように役立ったかという実例をもたない。平出はフランスとイタリアに通産7年いた経験から、音楽が国民の指導力になると述べている。

1941年12月8日に戦争が始まった日に、音楽がいかに国民の士気を鼓舞するかを痛感した。《軍艦行進曲》の作曲者瀬戸口藤吉は海軍の恩人であると同時に、海軍への親しみをもたせた。このように音曲のもつ力は大きい。

今後の戦争を海軍の観点から言えば、米国が太平洋艦隊を、英国が東洋艦隊の主力を失い、これを回復するのは容易でない。英国の方は割りに早く滅亡するだろうが、米国がハワイで失った海軍力を回復するのに3年かかる。

しかし実際には5〜7年、日本と対等の戦はできないのだ。それをごまかすために虚偽の発表をしている。フィリピン、マレー半島、シンガポール、ジャワ、スマトラ、ニューギニアなども米国は援軍を送っていないと話、さらに1942年2月に日本軍の攻撃機が爆弾を積んだまま米国の航空母艦に突っ込むというゲリラ戦を行なった事例を紹介している。

アメリカは潜水艦を使って必需品を送る船を沈める方法を考えている。こうして日本の衣・食が邪魔されると、国民の中に戦争はいやだという感じを起こさせる。そこに思想戦が起こり、宣伝戦が活発になる。この潜水艦によるゲリラ戦は容易になくならない。今日、大東亜共栄圏のほとんどが日本ものになり、国民の一部には、これで日本はいくら戦争をしてもだいじょうぶだと説さえ出てきたが、果たして不敗の態勢ができたかというとできていない。

あまり文化の進んでいないところの民を日本の手に収めるには、日本にはどうしても服従しなければならないと感じさせなければならない。その統治ができたら、その後すぐに文化面が従わなければならない。その点において音楽が直接役立って、非常に大きな働きをするものであると信じる。国民全体から期待されるところも大である。

(原稿はミッドウェー海戦の前までに脱稿していたと思われる)


アメリカ政府は、艦隊を「抑止力」として使ったため、実戦になると負けてしまったと説明している。軍人が抑止力を否定するとは、これ以上の誤りはないだろう。本人は情報部長を革職されたとき「恥の上塗りは嫌だ」といったそうである。

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