ハ号作戦
第一次アキャブ(Akyab)戦で後退した英軍は、1943年11月からビルマ南部で攻勢に出た。インド第15軍団のうちインド第5師団が海岸沿い、インド第7師団がカラパンジン(Kalapanzin)河沿い、第81西アフリカ師団がカラダン(Kaladan)河沿いに前進してきた。1944年1月9日、インド第5師団はモンドウ(Maungdaw)を占領した.。
このころビルマ派遣軍はインパール作戦を策案中であったが、支作戦として海岸沿いを進むインド第5師団に狙いをつけ、浸透して回り込み、包囲する計画、ハ号作戦計画をたてた。
この方面を担当していたのは第55師団(花谷正)であった。花谷は、歩112(棚橋真作/四国・丸亀)と歩143の1個大隊で桜井歩兵団(桜井徳太郎)を編成し、いったんインド第7師団の意表をついて攻撃し、即座に南転してインド第5師団を後方から包囲するという大胆な策案を行った。日本側の兵力が過少にみえるが、この当時のインド1個師団の兵力は約8千であり、日本軍の歩兵1個連隊が約3千であった。
2月3日夜間、歩112は勇躍前進を開始し、9時にトングバザーに到着した。棚橋は第1大隊にナケドーク方面に向かわせ、インド第7師団との接触を命じた。2月7日、連隊主力は316高地を占領した。さらに第2大隊はシンゼイワ南方500メートルの高地に進出し、第3大隊はシンゼイワ盆地に籠もるインド第5師団を攻撃した。
シンゼイワ盆地は東西1・5キロ、南北3キロほどで、山上から盆地全体を瞰制できた。ところが英印軍の防禦フォーメーションは今までのものとはうって変わったものだった。盆地中央には兵力を置かず、山襞に隠された谷戸のような場所に、戦車で取り囲んだいくつもの円形陣地をつくっていた。
2月11日から歩112は夜襲を決行した。円形陣地のある地点を突破して歩兵が後方に到達しても、円形陣地そのものが動いてしまうのだ。12日には戦車(このとき英印軍はアメリカから貸与をうけたM4シャーマンを持ち込んでいた)を潰すため3個の特別分隊を突撃させたが、一人の兵も戻らなかった。
日本軍は周辺の高地を占め、英印軍は盆地にて守備を固めている情景はどうみても包囲であり、完全に勝利の陣形であった。
英印軍は、この前進にあたって従来にない兵站戦術を準備していた。というのは3個師団の間の連携をとることは初めから不可能であった。日本軍に間を浸透されることは計画に入っていた。これがため、戦車+輜重・歩兵部隊を先行させ、速度の遅い砲兵、工兵部隊は後続させる陣形をとった。
従来、攻撃主力であった歩兵部隊はことごとく自動車化し、輜重部隊を兼ねることになった。ところがシンゼイワで包囲されることは予想できなかった。このため空中補給を実行した。戦闘があった約10日間に、空軍部隊は約2000トンの物資のパラシュート投下に成功した。
英米空軍の爆撃機はB−17、ブレナム、ウェリントンであった。陸軍航空部隊もこの段階では決して弱体ではなく、チッタゴンやカルカッタへの爆撃を敢行した。戦闘機は数ではむしろ優勢であったが、稼働率が低く、原住民の組織化に失敗し、空襲警戒・空中補給警戒の態勢がとれなかった。第26軍(桜井省三)首脳部の発想がいかにも旧弊であった。
ビルマ戦線の日本陸軍首脳部の大半は支那通であった。花谷の第1外国語は中国語であった。当然のことながら、第一次大戦の軍事技術の発展にすら追いつけなかった。桜井は盧溝橋事件のさい宋哲元の顧問をしていた経歴をもつ(第二次大戦後のクーデター未遂三無事件首謀者、ただし無罪)。桜井の兵站哲学は「桃太郎戦術」で、敵の糧食を奪って戦えばいいというものであった。歩112は7日間の携行食糧しかもたず、前線に向かわされた。
ビルマの独立主義者バー・モウは「日本の軍国主義」者たちについて、次のように語った。
「この人たちほど人種によって縛られ、またその考え方においてまったく一方的であり、またその故に結果として他国人を理解するとか、他国人に自分たちの考え方を理解させるとかいう能カをこれほど完全に欠如している人々はない」。
「彼らは東南アジアにおける戦争の期間を通じてことの善し悪しにかかわらず、つねにその土地の人々にとって悪いことばかりしたように見えるのはそのためなのである」。
「日本の軍国主義者たちはすべてを日本人の視野においてしか見ることができず、さらにまずいことには、すべての他国民が、彼らとともに何かをするに際しては同じように考えなければならないと言い張った」。
「彼らにとっては、ものごとをするには、ただ一つの道しかなかった、それが日本流ということだった。ただ一つの目的と関心しかなかった」。
「日本国民の利害、利益ということである。東アジアの国々にとって、ただ一つの使命しかなかった。それは日本国と永遠に結びつけられた、いくつもの満州国や朝鮮となることである」。
「日本人種の立場の押しつけ、彼らのしたことはそういうことだった。これが日本の軍国主義者たちとわれらの地域の住民とのあいだに本当の理解が生まれることを、結果としては、不可能にした」(鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波書店)。
「軍国主義者」とは、ビルマにおける日本軍人を指すのであろう。河辺方面軍司令官、桜井省三軍司令官など立派な軍人はいたが、いかんせん、大勢は社会主義者と大アジア主義者に支配されていた。バー・モウは日本国民の利害をいうが、彼らが日本国民を気にしたようにみえない。
人種主義や国家主義と社会主義が結合すると、視野は狭くなり、他人を支配するという気持ちになり、実現しなくとも主義だけを語るようになる。バー・モウの指摘する日本人は、今でも日本の社会主義者や「民族」主義運動家にみることができる。
バー・モウは、反英独立運動の闘士であり、「日本派」であった。1937年の新憲法下では、最初のビルマ人首相に就任。同内閣が1939年瓦解した後、1940年には逮捕投獄されるが、翌年4月には脱獄を果たした。日本軍政下では行政府長官となり、1943年にはビルマの独立宣言と共に、国家代表(元首)に就任した。1944年末、アウン・サン率いるタキン党が、英国側に寝返り、バー・モウは1945年8月、日本に亡命、1945年12月、英軍に出頭、逮捕された。
大東亜戦争がアジア解放の戦いだったと『開戦詔書』のままいうのであれば、バー・モウの発言を真摯に考えるべきであろう。
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桜井の座敷芸の得意技は「4本煙草」であった。両鼻腔と口の両端に火のついた煙草を入れ、全裸になって踊り、終わるとその4本を部下に配り、「吸え」というのであった。中国人の「燈台悪鬼」(両肩・両手に松明をもち、玄関の前にたつ、いわば灯篭男)という芸を真似たものであるが、当時でも常軌を逸した振る舞いであった。
独断撤退
13日、日本の爆撃隊が上空を舞い、敵の弾薬二千発を誘爆させた。このように制空権が英米側にあったのではないが、日本側の航空索敵と高射砲部隊または対空射撃能力が劣ったため、敵の空中補給すら阻止できなかったのである。
15日になると後続の英軍砲兵部隊が到着し、150ミリや100ミリの重砲で遠距離射撃を加えてきた。16日、3個大隊を同時に盆地に突入させた。終日、銃砲声が轟いたが、遂に英軍を撤退させることができなかった。この段階で死傷者は1400人に達し、歩112の兵力は半減した。
さらに、前線部隊にたいする補給はいっさいなく、山砲弾は費消されつくした。花谷は弾丸補給の要請が前線からくると、「タマはもったいなくて、やれんよ」という口癖をいつも放った。陸軍の愚昧将校の口癖は「もったいない」であり、戦闘よりも員数を重視した。
花谷は歩112の残った部隊全員での総攻撃を命令した。だが棚橋は師団命令に従わず、全部隊の撤退を命令した。この間、棚橋は桜井との無線も封鎖した。歩112は、28日までに元の地点に戻ることに成功した。花谷は激怒したが、2月26日、作戦中止を命令した。
棚橋の意図は、花谷・桜井の出鱈目な指揮に抗議することであった。4月11日、棚橋は解任され近衛第3師団付転任を命ぜられた。花谷には、一度も面会しようとしなかった。内地に帰還するや、大本営に花谷の言動について報告したが、辻政信は、
「なぜ、シンゼイワで全滅しなかったのか。なぜ全員戦死しなかったのか」と責めたてただけであった。棚橋はその後、1946年2月13日、GHQの呼び出しをうけ自決した。
棚橋連隊のシンゼイワにおける戦闘ぶりは、懦怯どころか、果敢なものであった。また注意せねばならないのは、補充兵は届いていたことである。すなわち、花谷は補充兵に糧食や弾丸を持たせ、それで補給が足りたと勘違いしていたのである。
英軍公式戦記は、棚橋連隊について次のように評価している。
「日本軍指揮官と部隊との巧妙さ、および耐久力は、この作戦間、非常に高度に発揮された。第15インド軍団の右側を、棚橋部隊が突進するのに成功して、わが部隊と対戦するや、十六昼夜にわたり、休むことなく戦いつづげた。日本軍の補給は悪く、時たましかおこなわれず、多くの隊は山芋と水だけで生活した。激戦によって生じた大損害も、日本軍部隊の攻撃精神に大きな影響をおよぽさなかった。そして最後には、完全に力を使いはたして、小部隊に分裂した日本軍の大部分は、遥か南方の自軍の戦線に、かろうじて撤退した」
それでは、日本軍はなぜ敗退したのであろうか?敗退といっても、日本軍と英印軍の損害はほぼ互角であった。また戦闘自体は3月からの雨季によって停滞しており、戦線が動いたわけではない。問題は棚橋がどうして敗北と認識したかである。
棚橋は第一次アキャブ戦で英軍旅団本部を急襲、キャベンディッシュ少将を捕虜(この直後、英軍の反攻があり、日本兵によって殺害された。棚橋はこの事件を苦にしたともいわれる)とし、河辺方面軍司令官から感状をうけるほどの猛者であり、勇敢さに欠けることなど考えられない。シンゼイワ戦の最大の問題は、補給線が途切れていた英印軍の補給は空から続いていたが、日本軍は補給線があっても補給が途絶えたことであろう。加えて日本軍の最大火力は山砲に過ぎなかった。山砲でシャーマンを破壊することは困難である。
棚橋は簡単な解決策を発見したに違いない。本来、遠巻きで放置するだけで十分なのである。3月に入れば雨季であり空からの補給は困難であるうえ、援軍を得ることができたであろう。補充兵が到着するのであるから難しくない。ところが他に2個連隊を手持ちしながら、花谷は、こういった戦法をテンからうけつけなかった。自分の周辺から戦力を離すのを嫌がり、戦闘を静的にしか捕らえることができなかった。花谷を愚物とみなした棚橋は、このまま補給が続かないとすれば、兵の損耗・全滅よりは、損害イーブンのまま撤退するのが最良と考えたのである。
陸大教官花谷
花谷正(1894〜1957)
岡山県出身。陸士26期、1914年任歩兵少尉。陸大34期。
この敗戦の主因は「陸大教育」である。花谷は陸大教官を経験した。プロイセン式の陸大教育では包囲が完成すれば、それが勝利なのである。作戦とは着眼戦術であり、着眼とは最良の作戦軸の発見である。シンゼイワでは、発見した作戦軸を進軍し、英印軍の包囲に成功した。戦闘はそこで終わるはずであった。
花谷はシンゼイワ戦について「大勝利」だったと生涯主張した。
じっさいには、短期間ながら補給の続く英印軍は降伏しなかった。それでも、包囲成功により補給路を断ち切った日本軍は優位のはずであった。花谷の攻撃命令は、それを台無しにさせてしまう。なぜならば、平場の戦いとは少しでも防禦施設にこもった守備側が有利である。包囲した攻撃側が優勢になるには、長期戦を覚悟して、消耗戦に持ち込むのがむしろ着実な道なのである。棚橋の尊敬する将帥は、旅順攻防戦を消耗戦に持ち込んだ乃木希典であった。メッケル流プロイセン式の陸大では、長期戦になったケースでは、「全滅するまで突撃せよ」としか教えることしかできなかったのである。
教科書からはずれれば「全滅せよ」と、新しい戦術を工夫せず、自らの古い方法に固執することが参謀将校の特質であったが、支那通の場合はとくにそれが顕著であった。それは陸大卒参謀将校の中でも、支那通は、独語・露語・仏語畑よりも二流と位置づけられたせいでもあった。
花谷は陸大卒でない将校をとりわけ怒鳴りつけ殴ることが多かった。第55師団の参謀長は河村大佐、高級参謀は斉藤中佐であった。花谷は陸大卒の河村を殴ることはなく、また河村も師団長の異常行動を止めようとしなかった。河村は同僚から「蛇」と呼ばれた。斉藤は支那事変から陸大に正規に入学したのではなく、1年の促成教育をうけた「専科参謀」であった。花谷は、斉藤に
「貴様は専科参謀だから駄目だ」「貴様は無天だから駄目だ」「大学校をでてないヤツは駄目だ」というのが口癖だった。
満州事変のあと左遷され、歩35(富山)の第1大隊長になった。当時将校の下宿代は15円から20円であったが、38円の下宿代を払って豪奢な生活をおくった。毎日、呉羽山の下にあった呉和泉閣という料亭で痛飲し、部下を呼んでは悪罵するのを楽しみとした。1933年には、軍部批判をした北陸タイムス社屋に大隊を勝手に出し、射撃を加えた。こういったエリート官僚の暴走に中央は何も手を下さなかった。
花谷は極端に気が小さく、空襲を極端に怖がった。また司令部を安全地帯から前に出そうとしなかった。花谷にもっとも殴られた男、栗田高級副官は、「気の小さい男ほど女房をよく殴る」と評した。花谷の出鱈目または今日風にいえばパワー・ハラスメントはこの程度では済まず、戦後には第55師団の師管区であった四国には絶対に入れないといわれる程だった。
殴る花谷
花谷に自殺を強要された将兵は二三に止まらない。以下は『戦死』にある記述である。
シンズウェヤの包囲戦に敗れて、第五十五師団は「ハ」号の第二段作戦にはいり、ブチドン付近に圧迫された時のことである。第百十二連隊はブチドン西方の一〇二高地に拠る英軍を攻撃した。高地には数列の鉄条網があり防備が厳重で突入できなかった。第五中隊長代理の岡崎毅少尉は、二個小隊をひきいて突入することになり、山砲大隊に砲弾二十発の援護射撃をたのんだ。
山砲の浜岡大隊長はこのことを師団に報告して指導を求めた。師団からは、打合わせにこいという返事がきた。緊急な場合に何ごとかと、岡崎少尉は憤慨した。
一〇二局地からセニンビヤの戦闘司令所までは、かなりの距離があった。岡崎少尉と浜岡大隊長は、半日かかって歩いた。戦闘司令所につくと、西田参謀が事情を就いて、花谷師団長の許可を願うことになった。その時、師団長は入浴中なのでしぼらく待っていた。岡崎少尉は、何十日も汗と泥にまみれたままの第一線とは大変な違いだと思った。
しぱらくして花谷師団長は、えりなしシャツのままで出てきたが、いきなり、
「お前が山砲の援護射撃で一〇一をとるというが、そんなたまはやれんよ」
と、気むずかしくいった。岡崎少尉はおどろいたが、高地の状況を説明して、
「鉄条網がいくえにもあって、山砲でこわさないことには、突入できません。師団長閣下に見ていただいたら、おわかりになると思います」
「おれは見たよ。山砲のたまはもったいなくてやれんよ。お前と山砲のたまと、どっちが大事だと思うんだ。あんな高地は夜襲をやれば、とれる。お前、夜襲がこわいんだろ」
「いや、山砲で穴をあけなくては、絶対にはいれません」
岡崎少尉が一本気にいった。その時、花谷師団長の湯上りの赤い顔が一変して、けわしくなった。激しい声が飛んだ。
「貴様、腹切れい。ここで腹を切れい。貴様の刀がさびていて切れんのなら、おれの刀を貸してやる。指揮をする者は、なんぽでもおるんだ」
仁王立ちに、にらみすえていた。岡崎少尉もその目を見つめていた。浜岡大隊長が懸命になって、援護射撃の必要があることを説明した。西田参謀も、
「それじゃ二十発でなくとも。よいだろう」
と、とりなそうとした。花谷師団長は、
「やる必要はない。こんなやつは腹を切ればいい。腹を切れい」
と、しつこくいった。その口調はやくざじみていて、毒々しく下劣だった。なおも
「腹を切れい。西田、ここで切らせろ」
と、くり返して去って行った。岡崎少尉と浜岡大隊長は、西田参謀の計らいでそこから引上げた。そのあとで、花谷師団長は、
「なぜ腹を切らせなかったか」
と、西田参謀少佐をハエたたきの青竹でさんざんになぐった。
岡崎少尉は自決を強要されても相手にしなかった。花谷師団長のいうことが、いかにも筋が通らなかったからだ。しかし、第百四十三連隊の阿部中尉は死を選んだ。岡崎少尉と同じ戦場であった。阿部中尉は生存兵を集めて集成大隊長となって奮戦したが、再び敗退した。花谷師団長は電話で激しくしかりつけた。
「今度さがってくると、ぶぢ斬るぞ」
阿部中尉は泣いて土井連隊長に訴えた。
「部下が奮戦して、みんた死んだのに、ひきょうで退ったようにいわれてくやしい。師団長に斬られるなら敵中に行って死にます」
阿部中尉は改めて兵力をもらった。軍旗護衛の一個中隊と、第二大隊の一個中隊および機関銃中隊のそれぞれ一部で、いづれも、ようやく生き残った兵隊であった。阿部中尉はこれをひきいてブチドン北方に出て、部下のほとんど全部とともに、再び帰ってこなかった。
このほか、自決を命ぜられて、第一線に出て行って敵弾に倒れたという例も二、三にとどまらなかった。徳島連隊の平川大隊長が発狂したのも、戦況の酷烈と花谷師団長の腹切り命令の板ばさみになったためといわれた。
こうした花谷師団長の指揮統率を、ビルマ方面軍司令部では信頼し、支持していた。それは、花谷師団長だからこそ、アキャブ方面の激烈た戦場を持ちこたえることができたというのだ。このことは、一部の戦史にも受けつがれて書かれている。(下線については、『戦死』の著者である高木俊朗氏は、服部卓四郎著『大東亜戦争全史』をさしていると思われる。高木氏は、この著作が(厚生省)復員局や連合国最高司令部の資料を集めたものとして、ビルマ方面司令部の息がかかっているとして批判的である)。
記述全体は生き残った岡崎少尉からの聴取にもとづいており、ほぼ正確であると思われる。『戦死』にはこれと同様の記述が延々150ページにわたって描写されている。
牟田口・桜井(徳)・片倉(衷)・花谷は全て、柳条溝事件や盧溝橋事件の関係者であった。花谷は社会主義を信奉し、自分の貧農・貧家出身を誇った。
「この頃また、日本の資本家がだいぶ海外に金を預けてゐてその金が何億に達してゐるといふやうなデマを飛ばす者があり、大學の橋爪といふ教授などは、山形地方に行ってさかんに財閥攻撃の演説をやる。それには山形聯隊の聯隊長始め將校等も聞きに來てゐて、聯隊長の花谷といふ大佐が真先に拍手喝采するといふやうな状況で、困つたもんだ。それに対して池田大蔵大臣も非常に心配して、それが事實でないことをその方面に説明させに大蔵次官をやつたけれども、なかなかきかない。結局やつぱり目的は財閥を倒さうとかいふやうなんで、説明したつて無論きくもんぢやあないが、まづ少し物の判る者には事實を知らせておきたいといふやうなことで、大藏省は骨を折つてゐる。で、こんなことも、自分から見れば、苟くも大學教授が人心を撹乱するやうに、資本家を中傷したりするのに対して警察が取締らないといふのは、この内閣の非常な弱点である。しかも橋爪教授といふのは一種の札附で、元の富田警保局長と連絡して、今度の犬學の事件なども起した人で、困つたもんだ」(原田熊雄述『西園寺公と政局』第七巻 1938年8月27日近衛首相が原田に語った内容 岩波書店)
このとき花谷は第2留守師団参謀であった。警察の内偵情報が首相に届いたものと思われる。内相云々は末次信正(艦隊派)が自ら右傾思想に染まっていた(警保局長も同じ)ため、左傾=右傾教授の煽動を取り締まれないことを嘆いたものである。花谷正は、橋爪明男東京帝大助教授の財閥攻撃論に共鳴していたのであろう。橋爪明男(土方派)は、このあと東京帝大経済学部長になり、内務省の右傾関係者と連絡をとり、人民戦線事件に連座した大内兵衛、有沢広巳らに無罪判決が出たものの、復職を妨害した。
終戦とともに難波田春夫助教授とともに辞職した。軍人勅諭によって、将校がそのような集会に参加するのは当然禁止であった。また、右傾=左傾の時代であった。
支那事変で、花谷は大別山系で花谷公館を開設、第29旅団長として内面指導を任務としていた。あるとき、三井信託社員出身の司令部付き中尉、鈴木ミ一郎から宣撫工作として銀行設立を説かれ、
「銀行は資本家の必要とするものだ。鈴木は三井出だからどうしても自由主義が先に出る。銀行は不要だ」といった。鈴木は反論し、座は白けた。あとで副官室の前を通ると「ちょっと鈴木さん、あんたは何も知らないが閣下にあんなことをいっては、まずい。最近荒れてきて、木村君も小林中尉もやられている。食事の最中に皿を投げつけることもある」「閣下は上海戦では大隊長を自殺させている。最近でも木原連隊長が新店の駅で列兵の面前でやられている。司令部の許可なしに信陽を離れたというんだ。今までに殴られないのは私と松枝さんだけだ。あんたも気をつけなければ」といわれたという。
鈴木が着任したとき花谷は「満州事変は俺が起こした。石原将軍が三十年戦争だといわれているがそうかもしれぬ」といった(『大別山乃想い出』秋山画廊 1965)。
花谷は、昭和20年7月、第18方面軍参謀長に左遷された。戦後は生活に逼迫し、代々木八幡にあった理髪店の二階の一間で妻と暮らした。「曙会」という一人だけの右翼団体をつくり、国家社会主義を唱えた。軍人恩給が支給されてからは生活は好転した。昭和32年ごろ病に倒れ、片倉衷が音頭をとり、元の部下に義捐金を要請した。戦場における旧部下で応じたものは一人もいなかった。
昭和32年に死ぬと、葬儀は盛大で、十河信二国鉄総裁(満鉄上がり)が葬儀委員長で、有末精三が友人代表で挨拶した。会葬者のほとんどは満州国関係者で占められた。ときの首相岸信介も花輪をおくった。ただし、四国からは一人の会葬者もいなかった。

高木俊朗『戦死』朝日新聞社 1967
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