1940年アメリカ大統領選挙はフランスの降伏という劇的な事態のあと進行した。
第一次大戦でアメリカ派欧軍総司令官パーシングは「ラファイエットがきた」とヨーロッパ大陸上陸時に叫んだ。アメリカ人は独立戦争のときフランス義勇軍を率いてイギリスと戦ったラファイエットを忘れなかったのである。
戦争が終わると、アメリカ国民の意識は劇的に変化した。古いヨーロッパと再び関係してはならないという孤立主義が主流となった。アメリカはヨーロッパの圧政と貧困から脱出した人々が建国した国なのである。
ルーズベルトは他国の戦争指導者と大きく違った点があった。それは国際情勢を自らの手で変更しようとしなかったことである。スターリンは、「プロレタリア世界革命」をソ連が負担することなく実現させることを願っていた。ヒトラーはドイツ人生存圏(レーベンスラオム)、ムッソリーニはローマ帝国の再興、近衛文麿は戦争抜きの東亜新秩序、チャーチルはヒトラー打倒を目標とした。ルーズベルトはそういった「野心」をいっさいもたなかった。
ミュンヘン会談ではルーズベルトは参加すらしようとしなかった。ヒトラーとムッソリーニに密書をおくることすらした。選挙戦でこの事実を暴露されるとルーズベルトは慌てて、外交について公開できない部分があると釈明した。戦後になり、この事実は国務省によって確認されたが、内容は「交渉によってヨーロッパの平和が維持されることを望む」といった単調なものであった。
モロトフ・リペントロップ協定が成立すると、イギリスは戦争を回避しようとポーランドに安全保障を与えた。他方、チェンバレンはルーズベルトに「ポーランドに軍事支援を約束した手前、自らはできないが、ダンチッヒをドイツに譲ることをポーランドに説得できないか」と依頼した。
ルーズベルトは何も顧慮することなくチェンバレンの依頼を拒絶した。1939年9月、ドイツ軍はポーランドに侵攻しヨーロッパ戦争が開始されたがたが、一片の声明すら出さなかった。ポーランドは1カ月余りで全土を蹂躙された。アメリカ世論はむしろ、1940年11月のソ連による侵攻で開始されたフィンランド冬戦争に激怒した。「弱いもの苛め」に映ったのである。ルーズベルトはソ連を非難する声明を出した。
1940年5月、ドイツ軍がパリに近づいたとき、駐英大使のジョセフ・ケネディ(JFケネディの父)が、「負け犬の英仏に乗ってはいけない。イギリスの甘言に乗ってはいけない」と助言すると、ルーズベルトは一にも二にもなくそれに従った。フランスを助けるため、またはドイツ軍国主義を打倒するため、第一次大戦に参戦したことを思い起こせば、一貫性が欠ける行為であった。
だが、イタリアがフランスに攻め込むと、1940年6月10日、はっきりとしたラジオ声明を出した。
「本日、短剣をもった手が隣人の背に振り下ろされた」
ルーズベルトがヨーロッパ戦争に明確な立場を打ち出したのはこの時が初めてであった。弱った隣人に戦争を始めるという卑劣さに、アメリカ人の倫理感が反応するとみたのである。6月18日、フランス全軍が降伏すると、世論は劇的に変化した。「弱そうな」イギリスがもし敗北すれば、自由を信条とする国はヨーロッパになくなる。
ルーズベルトは国際政治に関しては「待ち」の政治家であった。ヨーロッパに関与しなかった理由は、世論がそれに反対であったからに過ぎない。戦争が終了するとアメリカの将軍やジャーナリストは「ルーズベルトは常に戦争に向って準備していた」と主張するが、それは日本の多くの将軍が「私は戦争に反対であった」と同じ類の「アト講釈」にすぎない。ルーズベルトもまた他のアメリカ人と同様に、ヨーロッパに「口舌」以外で関与したくなかったのである。
ルーズベルトはおずおずとイギリスへの軍需品輸出に乗り出した。このとき、「戦争に至らない範囲で、あらゆる支援を」といった。日本人の一部は、この言葉についてアメリカがイギリスにたって参戦する時間稼ぎと受け取った。そうではなく、「軍需品は輸出するが、参戦はしない」という意味であった。選挙戦では、アメリカはイギリスへどの程度肩入れするかについてが最大の論争点になった。
ウィルキー(Wendell
Lewis Willkie 1892-1944)
インディアナ州エルウッドで生まれた。両親とも弁護士で、母ヘンリエッタ:Henriettaはインディアナ州初の女性弁護士であった。また共にドイツから移民一世であった。インディアナ大学卒業後1年にして第一次大戦が勃発し、1917年に出征、ヨーロッパに渡った。戦後、オハイオに移り、ファイアー・ストーン社の顧問弁護士となり、1924年には民主党代議員に選出された。
1929年、ニューヨークにあった全米最大の発電会社コモンウェルス&サザン社に入社、4年後社長に就任した。このころアメリカは大恐慌に見舞われ、1932年の大統領選挙にはルーズベルトが選ばれた。ルーズベルトは公共事業による積極財政策をとり、テネシー州にTVAを設立した。ウィルキーは、これを官業による民業の圧迫とみなし反対した。コモンウェルス&サザン社は民間銀行の借り入れで設備を賄っていたが、TVAは政府資金を使用しており、競争は不可能であった。結局、TVAに吸収されることを余儀なくされた。
これに怒り、1939年、民主党を離党、共和党に鞍替えした。ウィルキーはニューディール政策を批判し、国営事業は資金面で有利なだけで、私的事業によるシステムを上回ることができないと論じた。大統領選挙に敗れたあと、ウィルキーは誰しもが予想しない転換を遂げた。ルーズベルトの戦争努力に協力したのである。レンド=リース法案に賛成し、1941年7月には「ナチス・ドイツに対抗するため限度を定めないイギリスへの援助」を訴えた。イギリスと中東を大統領特使として訪問、太平洋戦争勃発後はソ連と中国を訪問した。ウィルキーはまたアメリカにおける人種差別にも厳しく反対し、人種差別主義はナチズムと同一であると演説した。また、中国を訪問したさい、蒋介石夫人の宋美齢に「結婚」を迫られた。この「結婚」は実行され、美齢は周囲に「1944年(次の選挙)には、私は世界最高権力者の夫人になるだろう」と語ったといわれる。
1944年、再度、共和党予備選挙で指名を争ったが、出始めのウィスコンシン州予備選挙で3位と低迷し、敗北を認めた。保守的な中西部ではウィルキーのリベラルな傾向が嫌われたという。その年の10月、狭心症で死亡した。52歳であった。第一次大戦におけるイギリス保守党のボナー=ローとともに、国家の非常時において政争を避けるという前例をつくった。
共和党候補者選定
候補者を選定する7月共和党大会の数カ月前、3人の有力人物がいた。
- ロバート・タフト オハイオ州上院議員
- アーサー・バンデンバーグ ミシガン州上院議員
- トーマス・デューイ ニューヨーク州検事総長(マフィアのラッキー・ルチアーノ一味を逮捕した)
タフトは孤立主義者であり、ヨーロッパ情勢が緊迫すると人気が落ちていった。デューイは、38才であって、外交経験に乏しいとみられた。バンデンバーグは同じく孤立主義であるうえ、何か眠たそうな印象を与えた。3人とも迫力に欠けた。
そこに登場したのがウィルキーであった。ウィルキーは元民主党員であり、大恐慌にもっとも責任を負うべきウォール・ストリート・ビジネスの関係者としてみられるという不利があった。その主張は、自由な企業活動を阻害しない範囲における公共投資には賛成するというものであった。それが兵器への支出であることは読み取れた。
株価についていえば、GNPについては1938年についに大恐慌以前のピーク1928年に戻り、株価についても8割まで戻していた。日本の1990年から始まったバブル経済の崩壊より、はるかに経済は復調しており、ルーズベルトの経済政策は広範な支持を受けていた。
1940年5月のギャラップ調査時点で、デューイは67%の共和党員の支持を得、他の二人が続き、ウィルキーは3%という泡沫扱いの候補であった。6月でも、タフトは「アメリカは国内問題に集中せねばならない。ルーズベルトは国際的危機を国内における社会主義実現のために利用している」と演説した。デューイもバンデンバーグも「イギリスにたいする支援は、ドイツとの戦争に導きかねない」と主張していた。
6月半ばのギャラップ調査で、ウィルキーへの支持は17%に急上昇した。党大会は7月、フィラデルフィアで開催されたが、そのときには、全米から百万通以上の支持電報が集まった。この当時の共和党大会派遣代議員は予備選挙の結果に拘泥する必要がなく、自身の判断で投票した。代議員は直近の選挙民の心象に敏感であった。どうしても勝馬につけ、という心理が働くのである。
候補者選定は一人が過半数を占めるまで行われる。第一回投票では3位の105票のウィルキーが第6回では633票まで達し当選すると大歓声があがった。
ルーズベルト三選
選挙戦が始まる前の最大の争点は、ルーズベルトの三選問題であった。初代大統領ワシントンが三選を辞退したことから、大統領任期は2期8年が不文律と思われていた(大統領三選は1947年第22回憲法修正で禁止された。ルーズベルトは1944年大統領選挙にも立候補・当選したが、数カ月して死亡した。3期または4期務めた唯一のアメリカ大統領である)。
ルーズベルトは、自身の立候補を中々明かさなかった。明かしたのは7月のシカゴの党大会直前であった。5月10日にヒトラーのフランス戦が開始された。ルーズベルトはヨーロッパの戦局が、選挙民の投票行動にどう影響するか慎重に読んだのである。アメリカ国民は6月18日のフランス軍降伏という事態を重大に受け止め、世論はイギリス支援に雪崩をうった。
従来からヒトラー独裁を批判していたルーズベルトに決定的な追い風となった。それでもルーズベルトはヨーロッパへの介入を警戒する世論を慮った。民主党大会で採択された政綱は、非戦であった。9月12日、ワシントンDCにおける鉄道従業員組合に臨み演説した。
「我々は外国の戦争に参加しない。我々は、攻撃された場合を除き、米国領以外の土地で戦うため、我が軍隊を派遣することはない」
ウィルキーから、ルーズベルトが戦争に無防備であると批判されると、10月、レンドリース法案を議会に提案した。
投票日11月9日に大統領選挙は実施された。
投票結果は、ルーズベルト2730万票、ウィルキー2234万票であり、選挙人獲得449人(38州)、82人(10州)で、ルーズベルトが三選された。ルーズベルトは北部とカリフォルニアの労働組合、マイノリティグループ、南部民主党と幅広い支持を得た。
ルーズベルトのこの選挙戦における行動はいかにも原則をコロコロと変えているようにみえる。ルーズベルトは私的会話ではヒトラーの行動をののしり、日中双方の「野蛮性」を語るなど、人種差別的発言を繰り返した。それでも、私的信念を行動に移すことはなかった。
ルーズベルトの基準は常に世論であって、しばしば世論を後追いした。決定の多くは深夜に親しい友人との会話だけでなされた。その決定によって前線の司令官や同盟国の指導者はきりきり舞いさせられるのが常であった。
12月、ルーズベルトは親友であったホプキンスに
「いかなることがあってもヨーロッパでは参戦しない。日本がアジアのイギリスやオランダの植民地を攻撃したところで戦争には加わらない。フィリピンを攻撃されたならば考えるが、自動的に戦争に入ることはしない」
と語った。アメリカ大統領が参戦(自衛ではなく)のような重要問題について選挙公約に違反することは不可能ではないだろうか?

James Schneider, Should America Go to War?The debate over
Foreign Policy in Chicago, 1939-1941, Univ of North Carolina
Pr,1989
にもどる