床次竹次郎50万元事件

政党政治の混乱

日本の政党政治は、板垣退助の自由党と大隈重信の改進党に淵源を発する。

この二大政党は、政友会と民政党、政民二党となって近衛の大政翼賛会まで続いた。その間に官僚退職者がさまざまな「官党」を立ち上げたが、いずれも失敗した。国民は常に、政民両党を支持したのである。

ところが政党樹立に失敗した官僚は、次に政民両党に潜り込んだ。政友会は、自由党極左派を追放したのち、伊藤博文と西園寺公望の手により自由党員を軸につくられた。官僚出身者のうち、もっとも早く頭角を顕したのは原敬であった。

日本の官僚は極めて現実的であって、選挙に勝てる政党に入党しようとする。主義主張はない。この傾向は原敬においても同様であった。

しかし、原敬は1921年(大正10年)に暗殺されてしまう。すでに犬養内閣で内務大臣経験があった床次竹次郎は「原の後」を狙って1924年(大正13年)に成立した法務官僚、清浦奎吾内閣と同調して離党、政友本党を作った。

金権政治家

床次は、内務官僚、原敬内閣を継ぐ野望をもち、政民両党の間に入り、キャスチングボートをとって首相になろうとした。ところが国民は床次と対立していた高橋是清ら残留組と、憲政会、国民党が提携した「反清浦」の第二次護憲運動を支持して護憲三派内閣結成となった。

床次政友本党は一転して野に追われ権力から遠ざかった。床次は離党した政友会と連携して、護憲三派を受け継いだ憲政会政権に対抗しようとした。さすがに政友会を代表する鈴木喜三郎は床次の受け入れに反対した。

1927年(昭和5年)、若槻礼次郎憲政会内閣は政友会の攻撃に手を焼いた。若槻が床次に「次期首相は床次君」とささやくと、一挙に憲政党との野合に踏み切った。当時起きていた金融恐慌の処理に行き詰まった若槻が総辞職すると、西園寺公望は田中義一を首相に推輓した。

落胆したが首相を狙う床次は、同年6月に憲政会と合併、立憲民政党を創設した。しかし民政党の実力者、若槻礼次郎や浜口雄幸は床次に信を置かなかった。1928年に床次は離党した。すると翌年、政友会に「復党」した。この年に政友会総裁に就任した犬養毅は高齢であり、今度は犬養の後釜を狙った。

1932年(昭和7年)、犬養毅は5・15事件で倒れた。床次は大命降下を期待したが、政友会の実力者鈴木喜三郎と争う醜態を演じた。西園寺公望は、ここで政党に限界を感じ、秘蔵子斎藤実(海軍大将)を首班に推輓した。

この失意の床次に政友会の相当数の陣笠代議士がつき従った。この種明かしは単純で、床次は陣笠に金を配っていたのである。この政治信条のない若手代議士に金を配り派閥をつくり、政党を支配したり、自己の政党をつくったりする金権政治家は、床次を嚆矢とした。ただし、田中角栄や小沢一郎ほど激しいものではない。

帝人事件

斉藤実は2年間、民政党を与党として、内閣を維持した。ところが昭和9年1月、帝人事件という不可解なスキャンダルに巻き込まれた。検察庁と武藤山治(鐘紡社長、時事新報社長)が仕組んだもので、完全なデッチ上げであった。帝人事件の冤罪被害者は、番町会と呼ばれる財界組織で鳩山一郎(鳩山由紀夫祖父)が肝煎りで永野護(山叶証券社長、逮捕)・小林中(富国徴兵生命社長、逮捕)・河合良成(日華生命社長、逮捕)・武藤山治・長崎英造が中心であった。

鐘紡と帝人はライバル関係にあり、鳩山は政友会系であった。武藤はこの年、暗殺された。背景は不明である。

財界関係者と同じくして三上忠造鉄相・中島久万吉前商工相、黒田英雄大蔵次官らが逮捕された。昭和12年、被告全員が無罪となった。

当時のマスコミの意見は、閣僚に逮捕者が出た場合、首相は退陣すべきであった。こういったスキャンダルを一番喜ぶのは、当時もマスコミ・検察であった。明らかに検事が斉藤内閣を倒閣させたいと思ったのである。このときの主任検事は黒田越郎であった。この黒田も翌年4月に急死した。

200日拘留された河合良成(のち小松製作所社長)に黒田は、

「どうも君(河合の東大法後輩)、今日天下ことごとく腐敗している。腐敗せんものは大学の教授と検事だけだ。われわれが立って天下国家をね、改革しなくちゃ君、たいへんなことになる。まあ君なんか気の毒だが、一つの犠牲と思ってくれ」(『証言・私の昭和史』文春文庫)と語った。

じつは財界ではなく検事が腐っていた。

のちに河井信太郎(東京検察庁特捜部長)は帝人事件を評して、次のように語っている。

「塩野季彦司法大臣の大英断により控訴を断念したが、検事が証拠品の検討を怠っていたことが無罪の致命傷になった。掛物によく描かれている、水の中の日影を猿が藤蔓につかまってしゃくろうとしている画になぞらえて、影も形もないものを一生懸命にすくい上げようとしているのが検察の基礎であって、検察には争うことができなかった」。

そもそも検察庁は首相の指揮下にあるのが法治国家の原則であるが、日本では三権分立の法理論から検察や警察が司法に属し、行政の外にあるとの「統帥権独立」のような見解がまかり通った。検察官は行政から独立し、行政に介入し自己の成績から架空事件をもって、議会・行政に介入する傾向が戦前においても顕著であった。

藤沼庄平警視総監は、

「平沼(騏一郎)の後継者であり国本社では最高幹部、いわば平沼の子分の筆頭であった塩野(季彦)司法省行刑局長らがこれ(帝人事件)を策して成功した」(藤沼庄平伝記刊行会『私の一生』)と書いたが、確証は何もない。黒田越郎検事は、黒田英雄大蔵次官から拷問に近い取り調べで「自白調書」(のち公判で否定)をとっており、たんに上司の派閥協力にしては度が過ぎているのではないか。

藤沼にしても内務官僚であり、「高級官僚を含む政治家が悪の元凶」と思い込み、検事や警察官が、功名心から、拷問を辞さず、自白調書をでっち上げ、冤罪事件に導く独善を見逃しているのではあるまいか。検事・警察官の独善と巨悪の追及を秤にかければ、独善がより日本社会に悪影響を及ぼしたのではあるまいか。

岡田啓介内閣の成立

閣僚(三上鉄相)が逮捕されては、斉藤内閣も流石にもたず、昭和9年7月倒壊した。西園寺は2年間なんとかしのぎ切った斉藤を評価し、内閣を投げ出しても、同じ海軍出身者、岡田啓介を首相に推輓した。岡田は政党無視はよくないと挙国一致内閣を目指した。これは致命的な失敗であった。

鈴木喜三郎総裁は挙国一致内閣を拒否した。岡田は組閣に窮し、政友会のうち反乱意思をもつ床次に誘いをかけた。床次は応じ、逓信大臣として入閣した。山崎達之輔と内田信也も入閣に応じた。ただちに鈴木は3人を除名した。

岡田啓介内閣閣僚リスト

廣田弘毅外相(外務官僚)
後藤文夫内相(警察官僚)
林銑十郎陸相(陸軍官僚・留任)
大角岑生海相(海軍官僚)
小原直法相(ヤメ検)
松田源治文相(民政)
山崎達之輔農相(政友床次派)
町田忠治商工相(民政)
内田信也鉄相(政友床次派)
河田烈書記官長(大蔵官僚)
金森徳次郎法制局長官(法務官僚)

挙国一致内閣といえば聞こえはいいが、実態は極端な官僚内閣であった。とりわけ法務・警察官僚色が濃かった。法務・検察官僚は帝人事件で焼け太りした。また、血盟団事件以来の治安悪化も背景にあった。

床次50万元事件

斉藤内閣末期の昭和10年1月23日、第67回帝国議会で政友会の山口義一が、張学良が床次竹次郎に50万元を昭和3年に渡したという爆弾演説を行った。受取人は前奉天領事赤塚正助、政友会代議士鶴岡和文であった。

この金が床次に渡ったとするが、この根拠は、昨年8月に「皇国同志会」が配布したパンフレットであるとした。後日、山口は演説について「鳩山一郎君の激励によったことはもちろんで、さらに久原一派と密接な連絡をつけた」(『東京朝日新聞』昭和9年1月28日付け)と説明した。床次は「議会で議論するには時期尚早」と曖昧な言い訳に終始した。

この張学良の受領証は、関東軍の花谷正が満州事変で張作霖故居を捜索したさい、金庫から発見したものであり、当時の荒木貞夫陸相が政治介入を嫌い、公開を拒否したものであった。爆弾演説があったときの陸軍省軍務局長は永田鉄山であった。この爆弾演説は、じつは永田が仕掛けたものであった。

さらに「皇国同志会」パンフレットは、腹心の軍事課高級課員田中清、片倉衷が起草した謀略文書であった。永田鉄山は林銑十郎陸相をロボットとし、斉藤海軍内閣の倒閣を狙って策動していた。さらに邪魔な真崎甚三郎を陰謀の中心であると排除しようとした。7月、永田は国府津会議に山下奉文、田中清、池田純久らを招集して、「昭和神聖会(大本教)に働きかけ、上奏請願に導き、改造国家に伴って戒厳を布き、田中の発案で皇族内閣を組織する」と提案した。

岡田内閣発足に伴い、自らの軍務局長の地位が危うくなった感じ、三月事件以来のクーデター計画を練った。永田の理想は「ボエルシェビキ革命」であったが、手っ取り早い方法として、騒乱を起こし、昭和天皇を宮廷暴力によって廃し、皇族ロボット内閣をつくろうとした。

手の込んだ政党と警察官僚を巻き込んだ策動が永田のプラニングの特徴であった。

岡田啓介はまったく事態の進行についていけず、組閣に協力した床次は金を受け取ってないと終生信じた。

「犬養内閣がつくられた際、すでに床次さんとの金銭貸借は関係ないことがわかり、床次さんは犬養内閣に入閣している」(『岡田啓介回顧録』中公文庫)

と書いた。床次が金を受け取ったことは確実である。さらに岡田は、永田鉄山の床次追い落とし工作が皇道派追放を狙って「皇国同志会」偽造文書を出したことに気づかなかった。

永田のテロやクーデター、情報リークは、自分でまずシナリオを書き、別の陰謀家にそれを読ませ「これは素晴らしい計画だ」と信じ込み、実行するのを待つ方法であった。自分には累が及ばず、第3者の陰謀家は、これで目的が達成できると思い込み、シナリオ作成者が誰か詮索しないのが常であった。

楊宇霆暗殺事件