士官学校事件

辻・片倉の暗躍

この事件は日本史で他に例をみない陰謀事件であり、筋書きを書いたのは陸軍省軍務局長永田鉄山であり、蠢いたのは片倉衷参本4課員と辻政信士官学校中隊長であった。永田と連絡を受け持ったのは片倉であった。辻は、士官学校付という異例の左遷(士官学校中隊長の陸大優等「軍刀」は辻一人だけ)を挽回したかった。この人事は近く来る三笠宮の士官学校入校に備えたものであったが、本人は知る由もなかった。

ただし、この前段階として、永田鉄山による大掛かりなクーデター未遂事件があったとする説が強い。岩淵辰雄は『軍閥の系譜』に次のように書いている。

「この事件は軍務局長の永田鉄山と士官学校幹事の東条英機が黒幕として、陸軍中央部、士官学校、憲兵隊、軍法会議と広範な連絡の下に、士官学校の生徒を扇動して、大規模なテロ事件を計画させ、岡田内閣や政界の重臣らを屠り、その責任を教育総監の真崎甚三郎に帰して、皇道派の勢力を陸軍から駆逐して、統制派の軍政を敷こうと計画したが、士官学校の生徒がその陰謀に乗らなかった」

それで永田の片腕で、『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』を書いた片倉にゴマをすりた辻政信が主体となり、生来の料亭好きからくる陰謀好きで陰謀を完成させた。目的としては、5・15事件の再発を恐れる昭和天皇の心理を揺さぶり、反真崎の感情を植えつけようとしたのであろう。

永田の目的は真崎甚三郎教育総監追い落としであった。

昭和9年11月11日、塚本誠憲兵大尉は同期の辻の鷺宮の自宅を私用で訪ねると、

「オレが週番司令をしていると―中略―5・15事件に参加した士官候補生に参加した士官候補生と同じような考えをもっているものがいる。先日佐藤(勝郎)という候補生から、『生徒の中に村中大尉や磯部主計のところへ、休みの日に出入りしている者がおります。私もこれに誘われていますが、どうしたものでしょうか』と相談を持ち込まれた」(塚本誠『ある情報将校の記録』中公文庫)

「きようの話は参謀本部第四課の国内班長片倉少佐だけには話してあるから、近いうちに一度片倉さんに会っておいてくれ」

と水を向けられた。塚本誠は憲兵畑であったが、日ごろ秦真次(皇道派)憲兵長官に反発していた。戦後は電通に勤務し、岸信介ら革新官僚のグループに属し、思想的に統制派に近かった。辻からみれば知らないうちに陰謀に引込むのに好都合な人物であった。塚本は東條陸相下、東京憲兵隊特高課長に栄転しており、統制派との関係は明白である。

11月19日午後4時、塚本は片倉に会いにいくと、

「いいところに来た」

といって

「佐藤候補生から辻へ『陸大学生の村中大尉、野砲一の磯部一等主計らの急進将校は、十二月初め、兵力をもって臨時議会を襲い、同時に重臣および政府要人を襲撃することを計画している。急進将校の中心勢力は歩一、歩三である」(前掲書)

といわれた。歩一には2・26事件の山口一太郎、歩三には安藤輝三がいた。塚本は自著で触れていないが、この当時、憲兵隊は山口や安藤には常時8名以上の尾行をつけており、2・26青年将校の実態をよく知っていたはずである。

午後9時頃、辻と片倉の話を田代(皖一郎、中立)憲兵司令官に報告した。田代はそのまま、橋本虎之助陸軍次官に関係者の検挙を要求した。橋本との面会直後、持永浅三東京憲兵隊長(皇道派)に話したら「こんなことは、いつものことです」と返事したという。

このころ憲兵を含めて、東京の省部参謀将校は統制派と皇道派に分かれ、疑心暗鬼の状態にあった。塚本は面白くなかった。持永の態度と田代の煮え切らない態度に怒り、辻に憲兵本部の実態を報せにいった。塚本は公用車で鷺宮に行き、辻を連れて、中野新井の片倉私邸に向かった。

ここで三人は、意気投合しまた公用車にのって、今度は英国大使館裏の橋本陸軍次官官舎に向かった。三人が着いたころ深夜(のちの憲兵隊調査では午前2時)であり、塀を乗り越えて入り、玄関のベルを押し次官に面会を求めた。次官は「事を荒立てるな。またそれが批判になる」と三人の強訴を斥けた。このとき、塚本がもっとも強硬であったようだ。

塚本は永田の手に踊っているのであるが、それを塚本に感じさせない永田の手法は見事であった。以上は塚本の著作によったが、別に田代が次官官舎より帰ったのは午後12時ごろという憲兵将校複数の確実な話が残っている。陸軍幹部の緊急電話網はあったことから、橋本次官が決められずに、深夜、片倉を呼んだのではあるまいか。

密告以降

東京憲兵隊内は密告の内容は根も葉もないという意見が圧倒的であった。根拠は佐藤勝郎の辻政信への密告だけであった。戦後になり、佐藤勝郎は辻政信のベストセラー『潜行三千里』の版元(初版)になって、売上金を持ち逃げした。両者の関係は明白である。

士官学校中隊長・村中孝次、砲一・磯部浅一、主計・大蔵栄一、戦車二・栗原安秀、歩一・佐藤竜雄、村田光一、佐藤操、歩三・安藤輝三、近歩三・飯淵幸男、歩十三・間瀬淳二、が首謀者と認む参加者とされた。民間人については西田税だけが疑われた。

 辻は佐藤勝郎の尋問調書を塚本誠経由、軍法会議のため憲兵隊にのち提出した。その記録によると

〈襲撃目標〉
第一次 斉藤(実)、牧野(伸顕・前内府)、後藤(文夫・書記官長)、岡田(啓介・首相)、鈴木(貫太郎)侍従長、西園寺(公望・元老)、警視庁
第二次 一木喜徳郎(前宮相)、高橋是清(蔵相)、清浦奎吾(元首相)、伊沢多喜男(元警保局長)、湯浅倉平(宮相)、財部彪(海相)、幣原喜重郎(元外相)

 であった。これはじつに不思議である。このあと昭和11年2月に発生した2・26事件の襲撃目標は、

第一次目標  岡田啓介(首相) 、鈴木貫太郎(侍従長) 、斎藤実(内大臣) 、高橋是清(蔵相) 、牧野伸顕(前内府) 、西園寺公望(元老) 、警視庁
第二次目標、後藤文夫(内相) 、一木喜徳郎(枢密院議長) 、伊沢多喜男(元警保局長)、 三井高公(三井財閥当主) 、池田成彬(三井) 、岩崎小弥太(三菱財閥当主)

であった。首相は岡田のままであったが、約1年3ヶ月後と襲撃目標がほとんど変わらないのである。同一人物が両事件の襲撃目標をつくったとしか考えれない。また牧野・鈴木・斉藤・一木はいずれも「君側の奸」と目される宮中3職、内府・宮府・侍従長であったが、普段、政治的に動く人物ではなかった。

さらに一木・清浦・伊沢・湯浅・後藤の5名は内務官僚であり、いずれも警察畑であった。このときの内務官僚の大きな派閥は伊沢系と後藤系であったが、両方とも目標とされた。このとき陸軍内で内務官僚とつながりがあったのは永田鉄山であり、伊沢多喜男と同郷であり、血盟団事件などで連絡をとりあっていた。

永田鉄山以外にこのリストをつくれた人物は見当たらない。この事件の中心人物とされた村中・磯部には不可能である。永田はテロ目標を片倉と話し合っていた。片倉は「宮中府中其他軍内外主要人物二対スル処置(兵カヲ以テスル保護監禁)」と書き残した。この当時極右団体が、重臣層と排撃していた。しかし、宮中に押し入って、兵力を行使すると明文化されたことはない。

この襲撃目標は永田ら統制派が話し合っていたことで、それが村中・磯部に伝わった。統制派と2・26青年将校は下記の通り、会談を重ねていた事実がある。

陸軍省内部では、軍法会議にかけるべきか、説諭がでもめてけっきょく、軍法会議と決まった。その発表は遅れに遅れ、翌年、昭和10年4月4日であった、結語は、

「不穏の行動に出づるの企画に関して徹底的に取調べたるも、その事実の認むべき証拠十分ならず、軍法会議においては本件を不起訴処分に付したり。しかるところこれら青年将校および士官候補生において軍紀上適当ならざるものありたるに因りそれぞれ適応の処置を講じたり」

それと同時に村中孝次、片岡太郎、磯部浅一の3名は停職、士官学校生徒5名は退校となった。辻も重謹慎30日、満期後、歩2に飛ばされた。村中と磯辺は収まらず、片倉、辻、塚本の3名を誣告罪として告訴した。しかし、陸軍省はとりあげなかったので、翌10年2月、『粛軍に関する意見書』を要路の大官や陸軍高級官僚に送付した。陸軍省は、「怪文書」であるとして、直ちに村中・磯部を免官処分とした。

2・26青年将校と統制派

村中・磯部を中核とする2・26青年将校と皇道派の将軍は重ならない。皇道派とりわけ真崎甚三郎が利用しようとしたこたことは事実であるが、組織的には上下ということはなく、統制派は、昭和8年ころには、彼らをクーデターの「鉄砲玉」として考えていた。2・26青年将校は北一輝の社会民主主義に影響を受けていた。

2・26青年将校の理想は社会主義革命であった。荒木貞夫や小畑敏四郎らは、反ボルシェビキ思考(ロシア・スクールであって、ロマノフ王朝を倒したボルシェビキを憎んでいた。ただし荒木や真崎や陸軍内における人気の衰えに悩み、反面、2・26青年将校は将官層の後ろ盾が欲しかった。両者を結んだのはむしろ永田一派=統制派であった。

永田鉄山の指示によるクーデター計画『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』が、片倉衷によってつくられたのは昭和8年8月だが、その11月には統制派と2・26青年将校の会議がもたれた(於、九段偕行社)。

軍首脳部(統制派)清水規矩・土橋勇逸・武藤章・影佐禎昭・片倉衷・田中清・池田純久
青年将校側 大蔵・常岡・柴・寺尾・目黒・村中・磯部

村中「軍中央部はわれわれを弾圧するつもりか」
影佐「そうだ。今後の方針に従わねば、断乎として取り締まるだろう。あくまで政治運動を望むならば、軍籍から身を引いて、野に下り、自由奔放に活動するがよい。それは自由である。しかし軍の内部では勝手な行動を許さない」(『文藝春秋特別号』昭和31年11月号「統制派と皇道派」池田純久)

これは不思議な会話である。林銑十郎が陸相となったのは昭和9年1月であり、永田が隊付から戻ったのは3月であった。いくら池田らが俊秀であっても、荒木陸相の病気までは見通せない。統制派は、2・26青年将校を自分たちに引込もうとして拒否されたのである。

池田はこのとき軍事課員(少佐)であったが、軍首脳は荒木陸相・柳川陸軍次官、真崎参謀次長、武藤教育総監と皇道派の天下の時代であった。統制派には閉塞感があったに違いなく、それでクーデター計画を練ったのである。2・26青年将校も彼らに期待するところがあったに違いない。

池田は頻りに「軍中央」「軍首脳」を力説したが、統制派には「陸大卒」という共通点があっただけであった。統制派は「陸軍エリート集団」の意識があり、常に「下野」「退役」を恐れ、それにもかかわらず、政府転覆=乗っ取りを図った。また国家総動員体制樹立=社会主義国家への転換という「政治目標」をもつ集団だった。これにたいし、皇道派の目標は「軍事作戦」「戦争計画」であって、内政目標をもたず政治権力獲得とは無縁であった。

統制派はむしろ2・26青年将校とより共通点があった。もちろん永田にとっては「自分達、ルーデンドルフ社会主義者の政権」でなければならないが、2・26青年将校には「議会政治反対」「疲弊した農村の救済」「天皇親政」程度の思いしかなかった。統制派は「宮中府中其他軍内外主要人物二対スル処置(兵カヲ以テスル保護監禁)」を説いたと思われるが、対立を深めるだけであったろう。

永田の狙いは、真崎教育総監を追い出すため、その監督下にあった士官学校で問題を起こすことであった。一応、目的を達し、翌年に入ると真崎追放運動を開始した。

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