三月事件
橋本欣五郎と桜会
1890年、福岡県に生まれ、30歳で陸大を卒業、参謀本部第二部ロシア班やハルピン特務機関、満州里特務機関を経験した。この経歴からわかるようにロシア畑であった。
1927年、トルコ大使館付武官になり、人生の大きな転機を迎えた。トルコのケマル・パシャに面会する機会を得て、任地惚れを起し、ケマルの熱烈な心酔者となってしまった。さらに悪くしたことに、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキーが、1929年、イスタンブールに来訪、まもなくマルマラ海のプリンキボ島に移った。トロツキーはここで4年間過ごすのだが、この時代のトルコは反英の延長で、ソ連と友好的であった。橋本はトロツキーの革命思想にも強い影響を受けた。
昭和5年(1930年)に帰国すると、参謀本部第二部ロシア班長となった。さらに陸軍内に政治団体の結成を目論んだ。これ自体違法性の強い行動であって、陸大卒のエリート(多くは省部軍人)を横断的に集めようとした。手段は料亭で飲ませ、食わせ、芸者をあてがうことであった。
10月、名前を桜会として、橋本欣五郎(砲兵中佐)、坂田義郎(歩兵中佐)、樋口季一朗(歩兵中佐)などの10数人が発起人となった。従来からも陸軍には一夕会などの情報収集のため、あるいは懇親のための組織はあったが、政治団体は初めてである。共産主義組織論の影響をうけたうえでの行動であったが、発想は突飛であり、大方の参加者は「冷やかし」「タダ飯」であった。牟田口廉也、根本博、河辺虎四郎、土橋勇逸、武藤章、富永恭次、長勇、片倉衷、佐々木到一、辻政信らが参加したが、橋本の思想に共鳴し、じっさいの行動に移したものは少数である。
ただ、のちの時代の「政治屋」将校が多数参加しているのには驚かされる。
桜会の設立趣意書
一、熟ヾ帝国の現状を観るに、万象悉く消極に堕し、新進の鋭気は地を払ふて空しく、明治維新以来隆々として発達し来りし国勢は今や衰頽に向はんとし、吾人をして痛憤憂愁措く能はざらしむるものなり。
若しそれ斯くの如き状態を以て進まんか、吾人大和民族は到底現在に於ける世界的地位と名誉とを保持し得ざるは勿論、勢の趨く処史上の盛観を止めて遂に希臘・和蘭の班に堕し恨を千歳に残すべきは明明乎として明かなる処なり。
而して我国が斯くの如き状態に至りし所以のものは其因由するところ多々あるべしと雖も、吾人はまず其核心たるべき為政者の重大なる責任を指摘せざるを得ず。
試に眼を挙げて彼らの行動を見よ、国民の師表として国政を処理し、上陛下に対し奉り重責を担ふべきに拘らず、其大本を没却して国是の遂行に勇なく、大和民族興隆の原素たる精神的方面は悟として顧みず、唯徒らに政権物質の私欲にのみ没頭し、上は聖明を蔽ひ、下は国民を欺き、酒酒たる政局の腐敗は今や其極に達せり。
国民も挙げて此弊風を感知しあるも意気消衰せる現杜会の雰囲気に同化せられ、すでに何らの弾力なく政界の暗雲を一掃して邦家の禍根を剪除すべき勇気と決断とは到底之を求むるに由なく、国民は挙げて自ら墓穴を深ふしつゝある状態なり。
此時に当り辛ふじて少くも一定の主義と熱とをもって奮闘しつつあるを独り左傾団体にのみ見出さざるべからざるの奇現象は、果して吾人に何を教示するか。
而して今や此頽廃し竭【つく】せる政党者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつつあるは之を「ロンドン条約問題」に就て見るも明かな事実なり。然るに混濁の世相に麻痺せられたる軍部は此の腐敗政党政治に対してすら奮起するの勇気と決断を欠き、辛ふじて老衰已に過去の人物に属すべき者に依りて構成せられあ
る枢密院に依りて自己の主張せざるべからざる処を代弁せられたるかの如き不甲斐なき現象を呈せり。
軍部が斯の如き状態に陥りし所以のものは其原因一にして足らずと雖も、泰平の久しき古風漸く衰へ、一般将校に一定の主義方針と武士道の名に於ける熱烈なる団結とを欠如したるを以て第一義原因となす。
過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現はれ来るべきは明かなる処なり。
故に吾人軍部の中堅をなすものは充分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んでは強硬なる愛国の熱情を以て、腐敗し竭せる為政者流の腸を洗ふの概あらざるべからず。
二、現今の杜会を観るに、高級為政者の冒涜行為、政党の腐敗、大衆に無理解なる資本家、華族、国家の将来を思はず国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、頽廃文化の躍進的亢頭、学生の愛国心の欠
如、官公吏の自己保存主義、等邦家の為、寔【まこと】に寒心に堪へざる事象堆積たり。
然るに之を正道に導くべき重責を負ふ政権は何等之を解決すべき政策を見るべきものなく、又一片の誠意の認むべきものなし。
従つて政権の威信は益ゝ地に堕ち、経済思想政治上、国民は実に不安なる状態に置かれ、国民精神は遂次弛緩し、明治維新以来の元気は消磨し去らんとして国勢は日に下降の道程にあり。
更に之を外務方面に観るに、為政者は国家百年の長計を忘却し、列国の鼻息を窺ふことにのみ及々として何ら対外発展の熱を有せず、維新以来、積極進取の気魂は全く消磨し去り、為に人口食糧間題解決の困難は刻々として国民を脅威しつつあり、此の情態は帝国の前途上大暗礁を横ふるものにして、之が排除に向ひ絶叫する吾人の主張が為政者により笑殺し去られつつある現状は、邦家の前途を想ひ寔に痛憤に堪へざる処なり。
以上、内治外交上の行詰りは政党者流が私利私欲の外一片の奉公の大計なきに由来するものにして、国民は吾人とともに真実大衆に根幹を置き、真に天皇を中心とする活気あり明らかなるべき国政の現出を渇望しつつあり。
吾人固より軍人にして、直接国政に参劃すべき性質に非ずと難も、一片皎々たる報国の至誠は折に触れ時に臨みて其精神を現はし、為政者の革正、国務の伸張に資するを得べし。吾人ここに於て相会して国政の衰運を概し、自ら顧みて武人の操守を戒むる故以も亦此の埒を出づるに非るものなり。
40歳にもなるエリート軍人の檄、革命団体創立趣意書の内容である。他の軍人はどのような感想をもったであろうか?
「天皇を中心」は、政党を排除し、国政を軍人団体によって牛耳るという意味であることはすぐわかったに違いない。明治の自由・民権の時代であれば、このような独裁主張・寡頭制主張は誰も耳を傾けなかったであろう。ところが、英米を除くヨーロッパでは社会主義者がそういった独裁制を是とする議論を吐いていた。
橋本の主義があるとすれば、自己の独裁だけを可能にする社会正義なき社会主義であった。
クーデターを視野に入れて、橋本は桜会を結成した。趣意書には政権奪取を暴力をもってする、とは書かれてはおらず、桜会メンバーの大半ほ冗談程度しか受け取らなかった。そのうえ、陸大エリート=省部軍人は実働部隊への指揮権はもっていなかった。隊付になって部隊に配属されたとしても部下の将校や下士官への信頼を築くことは短期間では難しい。
橋本欣五郎は、このクーデターモドキを帰国後わずか1年もたたないうちに組織した。なぜ、このようなことができたのだろうか?
レーニンの金
話は10年前に遡る。レーニンは、ドイツ革命が絶望的になると、アジアに目を移した。
1920年代初頭、日本の労働者運動はアナボルの争いといわれた。共産主義者とアナルコ・サンディカリストが互いに主導権を争っていた。一番目だったのはアナーキストの大杉栄であった。1920年、ボイチンスキーの意をうけて、張太雷(1926年12月、広州蜂起で戦死)が来日し、大杉栄と会い、2千円を渡すとともに「極東勤労者大会」への参加を呼びかけた。
当時の日本の共産党は暁民共産党と呼ばれ力がなかった。近藤栄蔵が目立ったが、1921年秋、当時上海にあったコミンテルン極東局から、6500円(1974年の米ドルでは、3250ドルであり、117万円に相当する。ただし、当時は芸者をあげて1晩騒いでも20円程度であった)を受け取り、下関で料亭で芸者をあげてドンチャン騒ぎをやり、警察に検挙された。
1921年11月、「極東勤労者大会」はモスクワで開かれた。日本人は15人(共産系2人、アナ系4人、在外から9人といわれる)、徳田球一、高瀬清、吉田一、北村栄以智、和田軌一郎、小林進次郎、片山潜、鈴木茂三郎、野中誠之、野坂参三、櫛田民蔵、森戸辰男、大庭柯公(景秋)、真庭末吉、田口運蔵、が出席した。中心人物は片山であったが、猪俣津南雄のポーランド人妻ベルに懸想してもめたり、あとで大庭柯公をソ連当局にスパイと密告して殺害するなどの悪事をはたらいており、人望がなく、日本人出席者にはまとまりがなかった。
レーニンからみれば、日本には未熟な「革命家」しかいなかった。レーニンは日本の労働者運動については知らなかったが、日本の産業発展と日本の軍事力向上については1900年代から着目していた。
ジノヴィエフが「マルクスはかって、イギリスにおける革命なしには、如何なるヨーロッパの革命もコップの中の嵐に過ぎないと言ったそうだ。必要な修正を加えれば、日本の革命についても同じことが言える。日本の革命なしには、極東における如何なる革命も比較的重要でない地方的な事件に過ぎないだろう。日本ブルジョアジーは、極東の何百万もの人々を支配し抑圧しており、その手中に世界のその地域の運命を握っている。日本ブルジョアジーの敗北と日本における革命の究極的勝利こそ、極東問題を真に解決し得る唯一のものである。日本における革命の勝利の後でのみ、極東の革命は、コップの中の嵐ではなくなるのだ」と演説した。
レーニンは大会に出席したアナーキストの吉田一だけに声をかけた。吉田はレーニンに声をかけられ感動したせいか、アナーキズムを棄て共産主義に転向することを誓った。だが、シベリア鉄道における帰途、イルクーツクで徳田球一と喧嘩になり、アナーキズムに戻った。吉田は学歴がなく字が読めなかった。赤化防止団事件で投獄されたが、1966年まで長生きした。戦後は、徳川義親の保護をうけながら豆腐屋と自転車屋を開業したという。
共産党が結党されたのは、極東勤労者大会の6カ月後であったが、ソ連外交部はアナーキストの吉田一と連絡することを好んだ。大連会議が決裂した1922年4月以降、日ソ間の政府間の外交連絡は絶たれたが、ソ連外交部は吉田との連絡を維持した。一つには共産党国際部はコミンテルン支部(各国共産党)を担当し、政府外交部は他国政府と非共産党を担当する縄張りのためであった。
ヨッフェ Adolf Abramovic Ioffe (1883-1927)
クリミアのシンフェノルの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。高校生で社会民主党に入党し、バクーやモスクワで活躍、逮捕状が出ると国外に亡命した。1905年、血の日曜日事件でペテルブルグに戻り、活動した。立場はメンシェビキで、トロツキーと近く、そのあと、ウィーンで『プラウダ』を共同編集した。1912年、オデッサに戻ったところを逮捕され、シベリアに流刑となった。1916年2月革命で釈放され、トロツキーとともにボルシェビキに合流し、中央委員候補のまま政治局員になった。ブレストリウスク会議のソ連側団長になった。これが外交官としての始まりである。1918年11月、独ソ補備条約調印のためドイツに向かったが革命扇動の嫌疑で退去命令をうけた。1920年のソ連・ポーランド戦争の講和条約の交渉団長、1922年のジェノア会議の交渉委員となった。1923年、駐北京大使に任命され、上海で、孫=ヨッフェ宣言を出した。その足で日本に行き国交回復交渉を行った。このころ健康を害しており、熱海で1カ月湯治している。1927年11月、トロツキーが中央委員から除外されると抗議のためクレムリンで自殺した。終生、トロツキーの片腕としてならした革命家であり、尼港事件が冷めない日本でなぜ歓迎されたか、本人も意外であったろう。吉田一はかねてから藤田勇と懇意だった。藤田は元東京毎日新聞社長であり、また地方紙を買収するなどマスコミ界の風雲児であった。同時に自社の労働組合を懐柔する必要からアナーキストから共産主義者まで交際を深めた。それでも毎日新聞労組は懐柔に応じず、最後は会社そのものを乗っ取り、藤田を追い出した。そのあと藤田は尾張徳川家の侯爵、徳川義親の資金係や各種の情報屋になった。
藤田の交際の幅は広く、大本教の出口王仁三郎、鈴木茂三郎、加藤勘十、松岡駒吉、浅沼稲次郎とつきあった。
ソ連はヨッフェを日本に派遣することを望むと吉田一に伝えた。藤田は新聞社長のときのツテを利用して東京市長後藤新平の招待の形式をとって、1923年2月、ついに実現させた。
吉田は「ヨッフェを連れて来るために、藤田勇から頼まれて北京へ食うや食わずの旅をした。そこで60万円もらい、また旅行をして帰国し、藤田に渡した。二百円くれ、残りは藤田が自分の贅沢のために使ってしまった」と戦時中に徳川に語った(鈴木徹三『戦後社会運動史資料論ー鈴木茂三郎』大原社会問題研究所 2001)。
藤田と徳川の手元にレーニンの大金が残った。徳川義親は20万円を「大行社」の清水行之助(孫文のボディガードをやっていた)に拠出した。当時とすれば破格の巨額であり、この金が大川経由、橋本欣五郎に渡った。義親は、橋本がその金を使い、クーデターに向かうことは承知していた。橋本が清水・大川の金の出所を知らなかっただけである。
義親は社会主義者であって、貴族院の改革案として議員の「半数を華族から、半数を労働者から」と提案し、誰からも相手にされなかった経歴をもつ。他方、武力行使による領土拡大を熱心に主張しており、とりわけ南方の植民地化に情熱を燃やしていた。
レーニンの金の最終的行方は、はっきりしない。陸軍省は約20万円をヤミ金として保管しており、敗戦のとき義親に返却した。義親は、その金をそのまま日本社会党の結党資金につかった。三月事件・満州事変・十月事件と日本社会党結党は同根、すなわちレーニンの金で可能となったのである。
反自由主義運動
このころの民間政治運動の中心もまた社会主義であった。大正以降の思想的風潮であって、明治の自由民権運動にたいするアンチテーゼであった。「社会主義」とはドイツ思想であって、民権あるいは私権は社会(≒国家)の要請に屈するべきだという主張である。基礎はヘーゲルの国家を崇高な理想的存在とする思想であった。
この考え方は「言論の自由」などさまざまな自由のの否定に向かい、反資本家(金持ち)となり、日本の官僚の支配的思想となって現在に至っている。また注目に値するのは簡単に儒教思想と結びつくことであろう。『論語』は官僚層の指導書であり、国家の要請=官僚の要請であるとすれば、簡単に社会主義思想になる。
このため儒教基盤をもつとされる日本・朝鮮・大陸中国が一緒になって西洋諸国と対抗すべきという思想となり、大アジア主義とも結合する。社会主義と大アジア主義を結合させたのは北一輝であった。北は辛亥革命に参画し、『日本改造法案大綱』を著したが、基礎は議会制にもとづく社会主義(民主社会主義)革命であった。
北が大正8年(1919年)に帰国すると、大川周明と満川亀太郎(拓大教授)の迎えをうけ、「猶存社」を結成した。そののちヨッフェ来日問題をめぐり、大川と北は別れ、1923年、「猶存社」は解散した。
その秋、大川は直ちに安岡正篤と小尾晴敏の「社会教育研究所」に居を移し、牧野伸顕内府・関谷貞三郎宮内次官・荒木貞夫・秦真次・渡辺錠太郎を講師として招いた。この組織は「大学寮」(宮内省の建物を借りた)と名前を変え、西田税(騎兵少尉)・藤井斉(海軍、血盟団事件関係者)・古賀清志が出入りした。
1925年に大川は、満川、安岡正篤らと「行地社」を結成した。
一方、北の影響を受けた清水行之助は「大行社」を興した。北はまた戻り、大川と再度、「行地社」として合作、また牧野内府収賄問題をめぐり分離。大川は残った。これで大川と北の間に決定的亀裂が生じた。
安岡は金鶏学院を興し、北と西田税は「士林荘」(代々木の自宅内)を興した。この士林荘は「天剣党」の母体であった。社会主義団体は組織内において言論の自由を認めず、「党内独裁」に陥りやすい。このため、親分ごとに組織ができ、離合集散を繰り返す。
大川周明(1886〜1957)
酒田市出身。山形県庄内中学、熊本五高、明治44年東大哲学科卒。アジア植民地史の研究においては一流の人物である。実践にも手を貸し、インド独立の「志士」ヘーラムバ・グプタやビハーリ・ボースと親交を結んだ。5・15事件に関係し、禁固5年の判決を受けた。それ以降歴史に登場するのは「東京裁判」であった。大川は「日本軍国主義思想」の魁とされ、三月事件主犯とされた。これ自体は冤罪であって、三月事件主犯は別のところにいた。梅毒による精神疾患者として訴追を免れた。大川は、北や西とは一線を画すようになった。全国に大アジア運動を支援する学生運動の拠点をつくった。さらに東亜経済調査局の理事長をつとめ、機関紙「日本」を発行した。3月事件のあと1932年7月、子飼いの狩野敏に「神武会」をつくらせたが、自分は徐々に身を引いた。
大川は、社会主義・大アジア主義・国家主義という相矛盾する要素を巧みに結合させた。この思想潮流は、平泉澄らの「皇国史観」につながっていった。
事件の当初計画
三月事件について「明らか」になったのは東京裁判における田中隆吉の証言からであった。その証言をまとめれば、
- 二月中、大規模に無産三派連合の内閣糾弾のデモを行う。
- 三月労働法案上程の日に、大川の計画により民間側の左翼及び右翼1万人を動員し、議会にたいしデモを行い、政民両党本部、首相官邸を爆破する。
- 軍隊は非常呼集を行い議会を保護するとして包囲する。
- 情勢におうじて真崎中将は議会に入り各大臣に
「国民は今や現内閣を信任せず。宇垣大将を首相とする内閣を信任す」
と宣言する。- 幣原首相代理以下の辞表を提出させる。
- 大命は宇垣一成大将に降下する如く、予め準備する(閑院宮殿下及び西園寺公への使者を決定する)。
このシナリオは田中清陸軍省調査班員の手記(供述)によった(森正蔵『風説二十年』鱒書房1947)。これがおそらく当初の大川や橋本の計画であった。
東京裁判では、日本側証人として呼ばれた軍人は、自己が属した組織に不利になるような証言はしなかった。田中隆吉はキーナンに接待され女と家を宛がわれ「暴露証言」をなしたとされるが、本人は支那通でありながら宇垣派に属し、昭和天皇に忠実である反面、統制派を排撃することによって、陸軍全体の罪科軽減を狙ったのである。ただし、宇垣に目をかけられたこともなく、統制派についてもよく知らず「ドイツ派」(支那通の天敵であった)と取り違え、米軍の歓心を買いながら見当違いの批判を加えただけであった。
このシナリオはロシア十月革命と酷似している。大川は無産三派のデモとともに国会を占拠するといった「ボルシェビキ」型革命しか思い浮かばなかったのである。この点で橋本も同じであった。
浜口雄幸へのテロ
1930年(昭和5年)11月14日、浜口雄幸首相は、東京駅のプラットホームから特急「燕」(ツバメ)号に乗車するところを、ピストルで撃たれた。弾丸は下腹部に命中し、浜口は東大病院に運び込まれた。手術後、
「男子の本懐だ」と浜口は洩らした。犯人は佐郷屋留雄であった。佐郷屋は、
「浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」
と供述した。背後の右翼団体は隠しての犯行であった。もっとも、「統帥権干犯とは何か」という質問には答えられなかった。死刑判決を受けたが、1940年に出所、岩田愛之助の娘と結婚した。1954年、血盟団の井上日召と共に護国団を結成、第二代団長となる。1959年、児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となった。
佐郷屋は終生、ピストルの入手先や背後関係について喋らなかった。この点では珍しいテロリストである。
浜口が重体と報じられると、内閣にすぐ動揺が走った。西園寺をとりまく革新貴族、原田熊雄、木戸幸一らは、「中間内閣」論を唱えた。政党政治を否定し、軍部と政党の両方を跨ぐ内閣を樹立せよというのであった。その場合、想定された首相は陸相の宇垣一成であった。宇垣は上海事変後朝鮮人によるテロで倒れた白川陸相の短い期間を挟んで、すでに四年間陸相を務めていた。閣僚の中でも最古参であった。
宇垣は浜口の後継首相に自分が指名されることを密かに期待した。
11月24日、西園寺は原田に、
「午前中、竹越与三郎が来て、ヘンなことを言ってきた。宇垣大将を民政党総裁にする工作を富田(幸次郎)民政党幹事長らと一緒に進めるからご承知おきください、といっていたのだが、そのうちに、民政・政友両党協力の中間内閣をつくって宇垣大将を擁立する運動も考えていると口走った」
「宇垣大将が民政党総裁になって、敢然とファッショの風潮に立ち向かって、浜口首相の弔い合戦をやるというならよくわかります。ところが竹越や富田が画策している中間内閣の構想に色気を示している。しかし浜口首相が再起できないことになっても、決して政権は民政党以外には渡せませんよ」「原敬が殺されたときには同じ政友会の高橋(是清)に継がせたし、加藤(高明)が急死したときも同じ憲政党の若槻礼次郎に継がせた。首相が殺されたらといって、すぐ反対党に政権を渡したら、暗殺は尽きなくなる」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文藝春秋)
と語った。もっともな理屈であろう。反対するには明治憲法下の議会政治を滅ぼし、代わりに独裁政治を実現させるという強固な意志と他人を納得させるイデオロギーが必要である。
原田は直ちに永田鉄山経由で宇垣に伝えたに違いない。このときすでに、永田は原田と強いパイプをもっていた。
昭和6年(1931年)1月に入ると、陸軍省には、宇垣陸相が田中義一のように政党入りするのではないかという噂が流れた。西園寺の話が永田経由高級軍人に流れていたのであろう。田中義一的行動様式(金を使って政党の党首になる)は陸軍高級軍人にとっては生理的に嫌なのである。
2月、幣原喜重郎が、
「この条約(ロンドン条約)は御批准になっています。御批准になっていることをもって、国防を危うくするものではないということは明らかです」
と議会で演説すると政友会は「天皇の政治利用」だとして反発した。国民は張作霖爆殺事件の「軍人関与」の噂や田中義一の首相辞職、さらに中国における軍閥戦争の悪化、テロの増大に外交努力の増大を求めていたが、幣原と外務省は無能ぶりを暴露するばかりであった。
橋本欣五郎は大川周明に民間側の決起倒閣を依頼した。大川は清水行之助と狩野敏に右翼工作を松延繁次に無産三派工作に当たらせた。社会民衆党の赤松克麿が熱心に応じた。さらに橋本は千葉砲兵歩兵学校に交渉し演習用の擬装弾を程ヶ谷曹達(日本火薬)に発注、そのうち300発を受け取り、参謀本部に持ち込み、清水行之助配下に引き渡した。
このうち「行知社」、清水行之助の「大行社」、水戸「愛郷塾」といった右翼団体は、武器を準備し、デモに動いたのは、「社会民衆党」「全国大衆党」「労農党」の無産三派であった。彫刻家の朝倉文夫は会合のために自宅を提供した。
桜会は何も機能せず、三月事件の中心となったのは小磯国昭軍務局長と永田鉄山軍事課長及び永田の部下という「職制」であり、結果として橋本も桜会(実態は親睦会にすぎなかった)も、大川を通じた民間工作しかできなかった。
小磯と永田は初めから大川・橋欣の計画を疑っていた。陸軍が議会を包囲したところで、それ以外の陸軍部隊は動かない。ただし宇垣陸相の政界入りを防ぎ、そうではない宇垣首相による「陸軍内閣」が実現できないかと模索した。
宇垣・小磯の事件との係わり
大川周明は2月21日(原田熊雄『西園寺公と政局』昭和6年11月5日の条によれば2月11日、『宇垣一成日記』みすゞ書房、によると21日)、宇垣と宇垣邸で面会した。大川は「昭和維新の建策書」を出した。
ここで大川は、政党内閣ではもう駄目だから中間内閣(陸軍と政党の協力内閣)しかなく、宇垣が首班になったらどうかと話した(『宇垣一成日記』みすゞ書房)。宇垣はこの中間内閣の話をすでに聞いていて、挫折したことも知っていたので、「建策書」はそのままにしておいた。
一方、軍務局長の小磯国昭は「豹変居士」であって、サラリーマンであった。社会主義・大アジア主義・国家主義に興味はなかった。気になったのは自分の人事であった。小磯は「官吏」の地位に固執し、政治家に人事を左右されるのは嫌だった。
2月26日、小磯は別のルートですでに受け取っていた「大川建策書」を陸相官邸(国会議事堂前にあった和風建築、のち宇垣内閣流産事件や終戦クーデターの舞台にもなった)に行き宇垣に報告した。直後、応接室に陸軍幹部(杉山・二宮・小磯・建川)が集まり協議した。夜、大川は小磯を自宅に訪ねた。小磯は朝からの件を報せた。
大川は3月3日に小磯自宅を訪問し、新たな「建白書」を提出した。小磯は事情聴取した。翌日、その聴取書を永田鉄山に渡した。小磯は戦後巣鴨拘置所でこの日の大川聴取書の取り扱いについて次のように書いた。(小磯国昭『葛山鴻爪』)
前述大川君から受領した書類と、質間して得たところとを綜合して、其の夜、藁半紙約四十頁程の鉛筆書きで、大川博士建策聴取書なるものを作製の上、精読して見たが、意見や計画が甚だ不穏且つ幼稚であることは姑く別問題とするも、各事項の企画目的や相互の関連尚不明瞭な所が少くなく自然首尾一貫性が足らず、仮令、筆者自身の案でないながらも此の儘陸相に提出するのは、子供の使に堕するやうな憾が深いので、翌日、陸軍省に登庁の後、永田軍事課長を呼んで、大川問題に関する経緯を語ったところ、永田課長は、
「そのことは薄々耳にしてゐましたが、私はそんな非合法的処置には元々反対の意見を持っているのです」
といふから「大川の考の適当でないことに就いては私も全然同意見だが、其の事の可否は別問題として、此の鉛筆で記した聴取書は大川から陸相に対し建策しようとするものなのだ。
一応聴き取りの書いては見たが、考が非合法で児戯に類してゐるばかりではなく、各事項相互に関連性も少く又首尾一貫性が欠げてゐるので、取次がねぱならぬ私が子供の使ででもあるやうな感じがするのだ。課長、一度読んで見て私の感じが妥当かどうか意見を聴かして貰ひたい」
というたら、
「困りました」
とは言ったが自室に持って行った。(以上は小磯国昭『葛山鴻爪』小磯国昭自叙伝刊行会)この話は疑わしい。『永田メモ』は極めて複雑なクーデター計画であって、事前に各方面に了解をとらねば成立しないものであるからだ。永田一人の「思いつき」でできるものではなかった。小磯は戦後になっても自分が『永田メモ』に沿って、宮廷内で暴力行為に及ぶという計画に、いったんは賛同した事実をなんとしても隠蔽したかったのである。『葛山鴻爪』の記述は潤色である。
3月5日、永田は自らのシナリオを書き上げ『永田メモ』として小磯に提出した。
『永田メモ』
未遂に終わったクーデターの首謀者は計画を作成するか作成を命令した者である。三月事件の計画書は不思議な過程を経て現在に伝わっている。それは『永田メモ』と呼ばれる。
『永田メモ』は、昭和10年7月18日の極秘陸軍軍事参議官会議において突然、荒木貞夫は、三月事件の計画書であるとして提出した。そのあと荒木の手許に残ったと推定されるが、いつか小畑敏四郎に移った。小畑の死後、未亡人は菅原裕弁護士にその処理を依頼した。以下は菅原裕著『相沢中佐事件の真相』経済往来社による、その一部の抜粋である。
陸相拝謁要領
一、上奏ノ要務ヲ設ク
例ヘバ人事局ヲシテ将官人事ノ内奏ヲ必要トスル一案ヲ作製セシム
ニ、官房又ハ補任課ヲシテ侍従武官(侍従二非ス)ヲ介シ拝謁ヲ願出ツ
侍従ヲ介スルヲ本則トスルカ如キモ帷握上奏ノ場合ハ便宜上侍従武官ニテ可ナリ(町尻又ハ阿南ヲ用フルヲ要ス)
三、万一侍従等カ宮内大臣其他ト策応シ拝謁日時ノ遷延ヲ企ツルカ如キ場合ニハ侍従武官長ヲシテ陸相ニ代リ之ヲ弾圧ス
宮内諸官ハ上奏ノ権能アル者ノ参内上奏ヲ阻止スルヲ得ス前項遷延ヲ図ルコトハ考慮シ置クヲ要ス
四、―略―クーデターの最重要ポイントは権力の獲得方法である。永田はその手段を昭和天皇の廷臣を暴力で屈服させ陸相が拝謁して大命降下を得ると想定したのである。橋本・大川のボルシェビキ革命型「議会で宣言させ、西園寺に頼む」よりはるかにこの時代、現実的であろう。
加えて、陸相が帷幄上奏すると書いているが、この場合、参謀総長ではないから施行上奏というべきであった。宇垣陸相でなく小磯国昭が『永田メモ』作成を命じたことの傍証になる。また阿南(惟幾)と町尻(量基)の名前があがっており、永田は両名の了解をとっていたのであろう。
シナリオをつくったのは永田鉄山であり、そのあまりの実現性の強さから、小磯や宇垣は賛意を示しめしながら、成功するまでは、担がれるまではと身を隠した。日本の上級管理職がよくとる態度である。
昭和天皇が宇垣について張鼓峰事件に関連して「はっきり否定しないので、首相に適さない」と評したのもこういったことが原因であろう。これは宮廷クーデター案であり、十月事件、2・26事件、終戦クーデターにも同様の権力奪取過程があった。戦後の未遂にもならない「クーデターごっこ」にはこの過程が欠落していることにも注意すべきだろう。
宇垣一成クーデター中止の決心
昭和6年3月4日、無産三派のデモがあった。芝公園に2千〜3千、上野公園に1千5百集まったという。宇垣は「泰山鳴動して鼠一匹」と呟いた(『宇垣一成日記』朝日新聞社、付記中保与作との面談)。
3月5日、西園寺公望からの指示で原田熊雄は宇垣を新橋の料亭「山口」に招いた。原田は前夜、井上三郎大佐の紹介で参謀本部の課長と歓談していた。宇垣は警戒して「早く陸相を退いて病気療養に専念したい」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』文藝春秋)と繰り返した。
3月8日、宇垣は西原亀三邸に出向き、森恪と会談した。政友会入りして政界入りする手についての腹の探りあいであった。
3月10日、無産三派のデモは再度決行され、議会周辺に向ったが、警察もほとんど取り締まりに出ない小規模のものであった。『永田メモ』の前提は、首都治安維持のため陸軍部隊が出動し、緊急事態の中で陸相が参内することであったから、出動要因にもならないショボクレデモでは、何かやるに値しない。
宇垣は「3月事件が大事だとすればそれを止めさしたのは私だと言わなければならぬ」「軍隊を出して貰いたいというのに対して、蹴ってしまったのだから」(『宇垣一成日記』朝日新聞社、付記中保与作との面談)と語っている。大川シナリオでは軍隊による議会包囲が中心であった。それより以前で「蹴っている」ことは『永田メモ』で動いていることを示し、直接には参内などして、自分が大泥を被るのが嫌だったのであろう。3月11日、浜口雄幸は衆院本会議場に登院した。新聞も世論も歓迎し、昭和天皇も「早く治って良かった」とことの他にお喜びと伝えられた。
同じ日、永田は芝の飛行会館で土肥原賢二、岡村寧次とともに、山岡重厚教育総監部先任課長や小畑敏四郎(陸軍歩兵学校研究部主事、その前、参謀本部作戦課長)らを集め「予算の不足、満州における治安悪化を理由として、軍部内閣をつくりたい、宇垣陸相は賛成している」と熱弁をふるった。しかし山岡と小畑が反対し、「それではやめよう」といった。永田のあだ名は「合理適正居士」であった。おそらく明治維新以降初めて、天皇を監禁ないし脅迫することにより権力委譲が可能になるとのアイデアを創出した人物である。永田は最後まで諦め切れなかった。
宇垣は小磯を呼びつけて、大川博士建策聴取書をつき返し「こんな馬鹿げた考えが採用されるものか、大川が6日によこした手紙をみると、まだなにか続けているようだが、直ちに従来の計画を放棄するように大川に伝えろ」((小磯国昭『葛山鴻爪』) と命令したという。
『葛山鴻爪』(小磯が巣鴨収監中に執筆)は潤色が多い。大川博士建策聴取書とは2月26日につくられた大川シナリオであり、3月4日の無産三派ショボクレデモで破産していた。小磯は『永田メモ』=宮廷クーデターの昭和天皇側近に暴力を使い、脅迫するというシナリオについて巣鴨に収監された最中でも公に賛成したとはいえなかったのである。宇垣はこのとき『永田メモ』中止を命じたのであろう。
宇垣は昭和天皇が浜口の登院を喜んでは、たとえ暴力を行使しても屈服しない可能性が強いと睨んだのだ。そのうえ、『永田メモ』では、陸相が昭和天皇に面会するまで、陸軍の太宗は動かないことになっていた。失敗したときのリスクは宇垣一人で背負わねばならなかった。
このときすでに永田は西園寺工作を開始しており、原田熊雄や木戸幸一らとの接触を開始していた。木戸は戦後になり、宇垣について
「あの人の動きというのは、どうもわからん。三月事件にしてもねえ、成功すれば乗ってやろう、担がれてやろうという野心が十分に見えるんだ。その点、先生は野心家だ。でいけなければ、俺は知らないと逃げちゃうという、非常に陰険なところがある人だよ。なかなかあの当時の陸軍の将官としては立派な人だったから、西園寺さんも宇垣は大事にしておけといわれたんだよ。それで原田と二人で、住友の会館あたりに呼んで食事も一緒にしたこともあるしね、いろいろやっているんだ。こっちは。ところが、どうも、ヒョコヒョコ、ヒョコヒョコ出回りゃがって仕様がないんだ、ハハハ」(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上)
木戸は永田ら統制派に甘かった。木戸にしても、『永田メモ』のような宮廷で暴力をふるうという点にまでは考えが及ばなかった。「革新貴族」といっても経験が浅く、維新の修羅場をくぐったわけではない。自由主義・議会主義の西園寺に反感をもち、軍人界の思想がそこまでとは思わなかった。西園寺は「陸軍にアカがいる」と断定したことに面白くなかったのかもしれない。
唯物論、物質主義は誰にたいしてもテロを意に介さないのである。
事件後
浜口内閣は4月13日に総辞職した。西園寺は議会政治を維持すべく、後継首相に同じ民政党の若槻礼次郎を推輓した。宇垣陸相も退陣し、6月17日付け予備役に編入され、朝鮮総督に任命された。南次郎が後任についた。
三月事件終了後、大川周明はレーニンの金の一部をもって「満州問題研究室」をつくり、そこで生活に困っていた張作霖爆殺事件の犯人、河本大作を雇いいれた。大川は河本大作を満州に派遣し、関東軍との連絡にあたらせた。
橋本欣五郎は三月事件の再興を考えた。橋本は次には、組織的な柵【しがらみ】から思い切った行動がとれない陸大卒のエリート将校ではなく、無天の隊付将校に狙いをつけ決起させることを考えた。
『手記』に「三月事件当時の桜会の会員は約百名内外にして、主として陸大出身、在京者大部を占めたり。重大決行時に至るや、殆ど決意薄く、保身主義者多く、一種の研究機関たるの態度より出でず、予の行動を以て意外に感ずる模様なり。ここに於いて予は将来、国家改造の重大事を決行するに殆ど頼むに足らずと判断す。そもそも陸大出身者は時勢に迎合する出世病大部を占めるが当時の通弊なりき」と書いた。
橋本のクーデター計画は杜撰であるにもかかわらず、陸軍将校にある種の感銘を与えたのは、こういった出世とは縁を切った、一種の潔さが原因であろう。このように「桜会」とは橋本すら「頼むに足る」組織とみていなかった。松本清張の「桜会の野望」という表現こそ「虚妄」である。
三月事件が失敗に終わると、中核となって動く橋本の同志はロシア班の部下、田中・小原・天野の3大尉と支那班の長勇大尉しかいなかった。橋本の桜会はそれほどの実態はなかったが、省部の首脳部は部下掌握のため陰謀情報をかぎ回る状態になった。全員が疑心暗鬼になった。
6月に入ると、満州をめぐって国内世論が沸騰しだした。いくつかの要因が複合していた。たんなる放漫経営のせいであるが、1930年(昭和5年)の満鉄決算が6月発表され、赤字に転落していた。さらに学良軍が満鉄付属地に無断で入るなど緊張を増やしていた。また日本人の子供が暴行をうける事件などが続発し、満鉄の大量解雇もあって、居留民が帰国するようになっていた。さらに中村大尉事件、7月2日に万宝山事件が発生し、国内は浮き足立った。
学良軍を急襲するアイデアを関東軍が練り、奉天特務機関の花谷正を説明のため、1931年6月末、東京に派遣した。このときの案では、「満州浪人」「満ゴロ」が奉天日本総領事館を襲撃し、館員を殺戮しまくる計画になっていた。
支那課長重藤千秋が応接し「陸軍中央部においては、目下の処、かくのごとき案を採用する意図なし」といい「この案を陸軍に示すことなく予は同志して、徹底的に遂行を援助する」と伝えた。中央官庁の課長の返事としては恐ろしい。
起爆剤として満州ゴロを金で雇う必要がある。このための費用として花谷は5万円を要求した。
7月31日、今度は板垣征四郎大佐がきて、重藤・橋本に面会し、花谷の5万円は「どうなっているか」と再度、要求した。花谷がきて以来、東京の雰囲気は一変していた。こと満州に関しては、建川美次ら支那通は、「事変案」を好意的にみるようになっていた。板垣は「事変案」の全貌を明らかにし、決行日時を9月28日として、重藤と橋本の協力を仰いだ。
8月1日、陸軍省は定期人事異動を発表した。関東軍の菱刈隆軍司令官に代わり、本庄繁中将が新任された。参謀本部第1部長(作戦部長)には建川美次、作戦課長に今村均がついた。
小磯国昭本人にも将来陸相になりたい「野望」があった。何か起きることを期待した。三月事件の計画をつくった永田鉄山軍事課長は満州と国内クーデター同時決行を考えた。
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