5・15事件

事件発生の予兆

昭和7年3月21日、古賀清志海軍中尉は陸軍士官学校生10名と会い、「血盟団が社会に刺激を与えたこの機会に革命の段階を進めていこうと思うから、君たちも一緒にやってもらいたい。我々は財閥、特権階級、政党、政治家を目標として集団テロをやる積もりである。海軍の同志は十二、三人おり、手榴弾二十一個を入手している。陸海軍共同という意味で、諸君の参加を望む」と喋った。

3月31日、古賀と中村中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。「東郷元帥邸に赴き、元帥を宮中に伴い、元帥を推戴して戒厳政府を出現せしめ、権藤成卿の主唱する農本自治主義を基礎として国家改造を行う」(『現代史資料』4,5みすず書房)といった粗雑なものであった。東郷元帥には中尉では近づけない。

実行現場 犯人

背景/刑罰
首相官邸 三上卓 海軍中尉で「妙高」乗組/禁錮15年/昭和13年出所。戦後になり三無事件に関与。
山岸宏 海軍中尉/禁固4年
村山格之 海軍少尉/禁固4年
黒岩勇 予備役海軍少尉/禁錮13年
野村三郎 陸軍士官学校本科生/禁固4年
後藤映範 陸軍士官学校本科生/禁固4年
篠原市之助 陸軍士官学校本科生/禁固4年
石関栄 陸軍士官学校本科生/禁固4年
八木春男 陸軍士官学校本科生/禁固4年

内大臣官邸



古賀清志 海軍中尉/禁錮15年
坂元兼一 陸軍士官学校本科生/禁固4年
菅勤 陸軍士官学校本科生/禁固4年
西川武敏 陸軍士官学校本科生/禁固4年
池松武志 元陸軍士官学校本科生/禁固4年

立憲政友会


中村義雄 海軍中尉/禁固4年
中島忠秋 陸軍士官学校本科生/禁固4年
金清豊 陸軍士官学校本科生/禁固4年
吉原政巳 陸軍士官学校本科生/禁固4年
民間人 橘孝三郎 一高中隊 茨城県で「愛郷塾」主宰/無期懲役/昭和15年出所。立花隆は縁戚。
大川周明 禁錮5年
本間憲一郎 茨城県で「柴山塾」を主宰/禁固4年
頭山秀三 玄洋社社員。頭山満の三男

犬養首相暗殺

5月15日(日)犬養首相は終日官邸にいた。この日は来日中のチャップリンと会う予定であったが取り止め息子の健が相撲見物を兼ねて案内した。午後5時ころ靖国神社境内に集まった9名(海軍4人、陸軍5人)は2台の車に分乗し、表玄関と裏玄関の二手に分かれて邸内に侵入した。

「忽ち忽にして三上卓は、犬養首相が日本館食堂に居るのを発見し、之に対し拳銃を擬し引金を引いたが、偶次弾丸が装着してなかつたため発射せず、首相は流石に泰然自若たる態度にて之を制し、

『話を聴けぱ判ることじやろう』

 といいながら、胸の辺に拳銃を擬す三上を誘導して日本間客室に至った。首相は卓子の前に端座し、三上等は起立の儀、卓子を隔てて相対した。首相はその間三、四回『ソンナ乱暴をしないでも良く話せぱ判る』と繰り返し、着座すると一同を見回しながら、

『靴位脱いだらどうじや』

 と言った。三上は『我々が何の為に来たか判るじゃろう』『何か云うことがあればいえ』と申し、首相は何事か言い出さんとして少しく体を前に乗出した。この時、山岸は『問答無用、射て』と叫び、これと同時に黒岩、三上の拳銃が首相の頭部に向って射たれた。

乱入者は忽ちに駆け足で去り、右こめかみと左頬に一発ずつ弾を受けた犬養首相は夥しい血を流したまま、卓に両肘をついて身動きせず坐っていた。テルという古くからの女中が駆け込
むと、犬養は、『タバコに火をつけろ』
と命じ、さらに声をふり絞った。

『いまの若い者をもう一度、呼んで来い。話して聞かしてやる』

そのうち、非常に苦痛な状態に陥った。別に痛いともいわなかったが、テルの姿を見て『テル、もう帰ろうヤ』といったのが最後で、ドツと血を吐いて、それきり息を引きとった。夜、十一時二十分だった」(司法省『右翼思想犯罪事件の綜合的研究』)

事件その他のの概要

計画では、首相官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行、警視庁を襲撃する予定であり、民間人による別働隊が変電所を襲撃する予定であった。内大臣官邸襲撃組5人は伊皿子の官邸を襲撃したが門前の警官を負傷させただけで終わった。

政友会襲撃組4人は、内幸町の政友会本部に手榴弾を投げたが不発であった。そのあと、首相官邸・内府邸・政友会本部各襲撃組18人は合流して麹町憲兵隊に自首した。午後7時ごろ 決行部隊に呼応して、橘孝三郎を塾長とする愛郷塾生7人で組織された農民決死隊が、東京府下の発電所を襲ったが、金槌で機器類を破壊しただけであった。同じく7時20分ころ 血盟団の残党奥田秀夫によって三菱銀行に手榴弾が投げ込まれたが、不発であった。陸軍手榴弾を爆発させるのは簡単ではない。

6月15日 軍資金とピストルを提供した容疑で大川周明が検挙された。9月18日 柴山塾頭、本間憲一郎が検挙。11月5日 頭山秀三が検挙された。

斉藤実内閣の成立

5・15事件によって犬養が失われると、立憲政友会は後継総裁として昭和7年5月17日に鈴木喜三郎を総裁に選出した。犬養はともかく政友会の党人、森恪、小川平吉、鳩山一郎には贖罪の噂が強く、国民の批判が集まっていた。

西園寺公望はただ一人の元老としてこのとき初めて、犬養首相の後任として斉藤実【まこと】元海相を首相に推輓した。西園寺は議会多数党政友会が森恪や小川平吉などの悪徳「商人」に牛耳られると掌中の玉を出すしかなくなった。

このとき塘沽停戦協定成立前であり、満州情勢は混沌としていた。西園寺は以前から斉藤を見知っており、山本権兵衛内閣や加藤友三郎内閣の海軍内閣が比較的良好な対外関係を築き上げたことを評価した。

斉藤実は議会多数党政友会を与党として組閣した。よくこの内閣をもって「政党政治」の終焉と説く歴史家が多いが誤解を招く表現であろう。明治憲法は「政党政治」を予感せず、総理大臣といえども筆頭大臣であった。斉藤実は政友会にこそ入党しなかったが、多数党・政友会を背景にしていた。「超然内閣」といえども議会多数派の支持がなくなれば、予算案が通らず、行政ができないのである。

事件の謎

藤井斉(血盟団事件関係、上海で戦死)、三上卓、黒岩勇、古賀清志らの海軍関係者はいずれも佐賀県出身であった。どの官庁とも同じく陸海軍においても「各出身県閥」は強く、佐賀県人会のような集まりがあったのであろう。陸軍においても反長州の一点で、薩土肥(鹿児島・高知・佐賀)が結合した場面があり、海軍においても反薩摩で、長土肥が結合することがあった。

陸海軍軍人ともに平和な時代になると「人事」が全てのような心理に陥りがちである。するとさまざまな人的ツテを求めがちである。さらに海軍では霞ヶ浦航空隊関係者が多かった。海軍将校団は航海・砲術・水雷が有力であり、例えば機関畑だと「艦長」になる道はふさがれていた。航空に配属された将校は閉塞感にとりつかれた。十月事件で海軍関係者が霞ヶ浦航空隊長の小林省三郎を海軍大臣に推したことはこの間の事情を窺がわせる。

別の謎はなぜ士官学校生以外の陸軍関係者が参加しなかったのかという点である。三上や黒岩らは、西田税が陸軍関係者が不参加を働きかけたと信じた。この結果、川崎長光による西田殺人未遂事件が発生したが、その影には警察の動きが散見される。昭和6年の十月事件から血盟団事件とつながり、警察当局が何も動かないとは考えられない。さらに、真面目にテロが実行されたのは犬養首相にたいしてだけであった。原敬、浜口雄幸と相次いで首相がテロに遭ったにもかかわらず、まともに首相官邸に警備陣が配置されてなかった。

ただしこの当時、首相個人へボディガードを配置することはなかったが、首相官邸は警視庁の間近であった。内務省は特殊な役所であり、内務官僚は将来、県知事を約束されていた。ミスを恐れ前例墨守なのである。

この事件は、犬養にテロを加え、政友会内閣に打撃を加えることを狙った。「倒閣」が目的であった。倒閣すれば荒木貞夫は陸相退任になる公算があった。陸軍側がなぜ参加しなかったかといえば、小畑敏四郎ら皇道派が必死に止めに入ったためであった。

茨城県内のテロリストとしては愛郷塾の橘孝三郎が塾生とともに「変電所」襲撃を指揮した。ところがこのグループは翌年に起きた神兵隊事件でまた決起した。これはどうしたことか?

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