血盟団事件

昭和6年の大晦日

下高井戸の松仙閣に忘年会と称して、井上日召、古内栄司、池袋正釟郎、四元義隆、田中邦雄、久木田祐弘の茨城・帝大組と西田税、権藤成卿の民間人、菅波三郎、大蔵栄一、栗原安秀の陸軍側、古賀清志、中村義雄、浜勇冶、村上功、沢田ヒツ、伊東亀城の海軍側が集まった。

中心になったのは井上日召で、早稲田大学や東洋協会専門学校(拓殖大)を中退した後、茨城県大洗の日蓮宗の立正護国堂住職であった。井上の同時代における思想について書面で残したものは存在しない。

ただし、西田税、北一輝らにも見られる日蓮宗における「実践主義」(目的は手段を正当化する)と国家主義(立正安国、正統性に従って国家を運営する)の二面が存在した。だがそれだけでは「目的」を巧く説明できない。

帝大生の四元義隆がこの集団の思想について公判で説明した。

「私は一点、これはマルクスは偉い学者だなと感心しました。それまでは今までは哲学とか哲学の問題というものは、世界はどうであるか、なにかあるかということにあったが、それではいかん、どうするか、どう行動するかが本当の問題であるかが書いてありました。つまり実践的でなければならぬことが書いてありました」
「そのころ七生会の者が新人会の者をたたいた事件があり、教授も二、三辞めましたが、それで赤化学生がなくなったかというにそうではありませぬ。教授が教壇に立って御用学問を講義しておりましたが、、今の学生はどうでもいいのです。就職して食うことだけが大事なのであります」
「その他のことは赤だろうが黒だろうが白でもなんでも構わぬのです。しかし思想が知らず知らずの間に赤化しているのであります。ずっと教育を受けてきた者には赤にいくのが当然であります」

このころの新人会は日本共産党の下部組織であった。帝大七生会の思想的基盤は社会主義であったが、「社会主義」「マルクス主義」と名乗らなければ、警察の弾圧には会わないという錯覚がった。また日本共産党は当時コミンテルン日本支部であって、警察がそちらの取り締まりに集中していているという事情もあった。社会主義を是とする社会風潮は圧倒的であった。

四元は公判で堂々とこの見解を述べており、当時の日本では、「目的は手段を正当化する」といった一歩誤ればテロに陥る考え方が公然と述べられて憚らない時代の雰囲気があったことがわかる。

井上準之助と団琢磨の殺害

昭和7年2月9日、小沼正は井上準之助前蔵相(民政党幹事長)を射殺した。井上は浜口雄幸首相の縁戚駒井重次(衆院東京2区)の選挙応援のため、本郷区駒込追分の駒本小学校裏門へ車を乗りつけて下車した。小沼は井上の脇の下に1発、井上の腰に2発撃ち、すべて命中、その夜死亡した。犯人は群衆にステッキに打たれ、警官に引き渡された。

井上準之助の殺害理由は金解禁(円の対ドル平価切上げ策)を中心とした「引き締め政策」(財政規律維持)よる不動産価格下落に非難が集まったことによると推定される。じっさいにも小銀行は経営不振に陥っていた。井上は蔵相就任前、日銀総裁でありデフレ政策あるいはコール市場への資金供給を絞り、銀行の資金繰り悪化を招いた。

不動産が下落し、信用が縮小すると最初に打撃を受けるのは、地方金融機関である。そこに出資したり融資を受けたりしている地方の素封家層が痛むことは、時代・各国を問わず共通する。

昭和初年、全国に銀行は1200あった。それでも明治中期の2000からは大幅な縮小であった(現在は人口が二倍になったにもかかわらず信金・信組合わせて400)。ただし、このとき最大の安田銀行でも行員に大学卒業生はほとんどおらず角帯をしめ前掛け姿であった。支店は木造、入り口は引き戸であった。井上は銀行近代化をはかろうとした。この5年前には「金融恐慌」が発生した。発生の理由は地価の下落であって第一次大戦の反動不況ではない。アメリカの大恐慌発生(1929年)の2年前であり、大恐慌も端緒はフロリダの不動産価格下落が端緒となった。

井上の蔵相就任時から5大銀行(三井・三菱・住友・安田・第1)への集中が進行し、第一に三井が、2・26事件では三菱が狙われたことは偶然ではない。



小沼は「旧正月帰郷した時、百姓の窮乏見るに忍びず、これは前蔵相のやり方が悪かったから殺意を生じた」と自供した。

また小沼は日本国民党の寺田稲次郎の家に住んでいた。寺田は大杉栄の遺骨奪取事件に関わり、高田早苗早稲田大学総長に人糞を投げつけたこともある。日本国民党は昭和7年には大日本生産党と名前を変えた。小沼は井上襲撃の前日は玉ノ井で散財していた。ピストルは井上日召より渡された。
 
3月5日、日本橋の三井本館前で、菱沼五郎が団琢磨三井合名理事長の右胸を撃った。ほぼ即死であった。菱沼もまた日本国民党の寺田稲次郎門下であった。3日前には亀戸、2日前には洲崎で散財。「腐敗しきっている既成政党を打破する目的でやったもので、既成政党の背後には必ず大きな財閥の巨頭がついているからまずその財閥の巨頭からやる計画を立てた。団男爵をやったのは今の財閥の中心は三井で三井の中心人物は団男爵だから血祭りにあげたのだ」と自供した。小沼も菱沼も決行前、芸者をあげて騒いだことは、誰かから資金の提供を受けていたことを強く示唆する。
 
犬養毅首相は「痛憤に堪えない」と語り、リットン国際連盟支那調査委員は帝国ホテルで「団さんには親しく会談の機会を持っただけに哀惜の念に堪えません」とインタビューで語った。
 
昭和7年3月6日、警視庁は井上日召と古内栄司、古内の門下生の黒沢大二が指名手配された。8日、黒沢が自首した。
 
3月11日、代々木上原の空き家に潜伏していた古内が逮捕。古内は菱沼にピストルを渡していた。同日、渋谷の隠れ家に潜んでいた井上日召は自首して出た。井上日召はピストルを海軍中尉の藤井斉らから入手し古内に渡した。井上日召の兄、二三雄が同じく海軍少佐の飛行機搭乗員で藤井と知り合った。井上二三雄は、大正8年3月、静岡の清水沖に墜落事故で死亡していた。
 
井上は自身の教徒と古内の教え子らに加え、東京の金鶏学院や池袋の権藤成卿邸などに出入りしていた学生らを糾合して、要人の暗殺計画を練った。昭和7年1月9日、共同謀議。ただし、藤井斉は第一次上海事変に出征、戦死。これによって海軍将校は引き、民間人のみによる決行が決まった。
 
警視庁による認定血盟団員14名(下記)のうち12名は、1月31日の最後の共同謀議で「一人一殺」と標的を定めたとされる。

血盟団メンバー

氏名 犯行時年令 背景 備考
池袋正釟郎 28 東京帝大 7高卒。鹿児島出身。
久木田祐弘 23 東京帝大 7高卒。七生社。金鶏学院に起臥し昭和5年10月同学院主催の筑波登山旅行に際し井上を知る。田中・四元を井上に近づけた。文学部、直前退学。
田中邦雄 24 東京帝大 七生社。
四元義隆 25 東京帝大 7高卒。上杉慎吉門下 七生社 鹿児島出身。中曽根康弘のブレーン。
須田太郎 21 国学院大生
井上日召 47 茨城 大洗の立正護国堂住職。早稲田大学や東洋協会専門学校(拓殖大)を中退した後、満州で軍事探偵。
古内栄司 32 茨城 昭和6年9月に八里小学校を諭旨辞職してからは無職で、井上日召の妻の家に住んでいた。事件後、大蔵栄一に匿われたが、刑事と池袋が同道して訪れ、逮捕された。
小沼正☆(以下4名は縁戚) 22 茨城 井上準之助殺害。戦後、小沼廣晃と名前を変える。『血盟団事件公判速記録』という浩瀚な著作がある。
菱沼五郎☆ 23 茨城 団琢磨殺害。大正15年4月に上京してタクシー助手をしていたが、岩倉鉄道学校を昭和4年10月卒業、茨城で農業。出所してからは茨城県の市会議員、戦後、小幡五朗と名前を変え、県会議員。茨城県県会議長。
黒沢大二☆ 23 茨城
川崎長光☆ 22 茨城 未逮捕のまま、5月15日(5・15事件当日)、渋谷区代々木谷町の予備陸軍中尉西田税方を襲い、拳銃にて狙撃し重傷を負わせた。
田倉利之 24 京都帝大 7高卒。猶興学会 獄中死 鹿児島出身。権藤成卿と関係があった。同郷の四元の紹介で井上を知る。
森憲二 23 京都帝大 6高卒。鹿児島出身。田倉の紹介で、昭和7年1月、井上を知る。
星子毅 26 京都帝大 5高卒。

海軍の藤井斉、古賀清志が協力した。鹿児島県、茨城県出身者が大半であり、井伊直弼殺害の桜田門事件と同じであるが偶然であろう。

井上日召の供述

井上日召は戦後になり、こう記した(『一人一殺』新人物往来社1972)

「昭和五年に時勢の急迫をひしひしと感じ、護国堂を去って東京に出た。翌六年の十月事件には、民間側の実行を引き受けたが、軍人側が不発に終わって、うやむやのうちにけりがついた。当局は私を臭いとにらんで追及が厳しくなった。当時私は小石川の今泉定助翁の屋敷にやっかいになっていたが、刑事が踏み込む一瞬前に、かねて用意の海軍大佐の正装で、自動車を駆って渋谷の頭山邸に至り、一週間ほどかくまってもらった。十月事件の頃には、私の掌握している同志が、陸海軍の若いところと民間で、四十数名あった。これらの連中が、十月事件のだらしない体たらくを見て、なまじりを決して起ち上がった。

 なんだ、あいつらは。革新だ、国家のためだといいながら、あるのは名利の念だけじゃないか。天下国家を売り物にする連中は、もはや相手にしない。革新は俺たちがやる。何しろさんざん苦悶したあげく、死のうと決めた連中である。何も慾がない。生きていることがつまらない。どうして死のうかと、そればかり考えている者どもだから堪まらない。おりから上海事変が起こったけれども、陸海軍の連中は、誰一人出征しようと言わない。ー中略ー

 小沼が井上を暗殺したときに、警視庁では総選挙の折ではあり、政友会と民政党の党争が苛烈を極めていたので、てっきり政友会関係のテロと見込みをつけて、もっぱらその方面を探索していた。そのうち三井の団が暗殺されたので、これは民政党関係者の復讐だと推定して、見当違いを捜査していた。

 しかるにどうして事件の真相をつかんだかというと、それは金鶏学院の安岡正篤が、時の警保局長松本学に密告したからだ。事件には元安岡の門下生だった、四元とか池袋などが参画している。ここにおいて安岡はおのれに累の及ぶことを恐れて、「あれは井上日召のやらかしたことだ。井上さえ捕縛すれば、事件は終熄するだろう」と示唆したのである。

 これは当時、絶対秘密にされていたが、後に警視庁の役人から、私は直接聞かされたわけだ。しかも安岡は内務省の機密費の中から、五万円受け取ったことまで、分かったのである。そういうわけで、私が頭山邸にかくれていることも分かった。頭山邸は警官によって、包囲された。

 私は仕方がないから、『若い時に叩き込んだ剣道で、斬って斬って斬りまくり、その上で切腹するから、そうしたらお前は俺の首を叩き斬れ。そして風呂敷に首を包んで、日召を連れてきたと、警視庁に放り出せ』と、本間憲一郎に頼んだ。すると本間が『うん、そりゃ面白い』という。

『とにかくその前に、この世の名残りに一杯呑んで一寝入りするから』と、そこにあった一升びんの冷酒を六合ほどのんで、寝ていた」。

ただし、松本学とは、5・15事件以降に警保局長についた人物であり、血盟団事件当時の警保局長は唐沢俊樹であった。金鶏学院の安岡正篤は「漢学者」で、細木数子が後妻である。島倉千代子の借財を整理したとされる。

血盟団事件の謎

渋谷区代々木谷町の西田税の自宅(士林荘)で、井上日召、古内栄司、小沼正、田中邦雄、四元義隆、池袋正釟郎や、後に五・一五事件を決起する海軍の古賀清志、中村義雄、山岸宏らは面会を重ねていた。士林荘は警察の注視する場所になっていた。住居としては、渋谷区代々木上原所在、権堂成卿の管理していた空家を根城にした。

ところが、血盟団員であり未逮捕の川崎長光は、その西田を5・15事件当日襲撃した。「定説」では、北一輝と西田の対立の結果であるが、それならばなぜ、川崎にやらせたかが不明である。

十月事件、血盟団事件と5・15事件には連続性が感じられる。未逮捕の犯人(川崎)が煽動の疑いが濃い人物(西田)を殺害しようとするのは、誰かの統一した目が存在するとしか考えられない。それは内務省=警察であろう。連続した暗殺が発生し、テロリストが短い期間のうちに連続して逮捕されるというのは、警察がテロ集団を監視していた証左に他ならない。

警察は血盟団を監視下に置き、ある程度、犯行計画を察知していたが「泳がせていた」のであろう。こういった捜査方法は戦前はごく一般的であった。そして「内ゲバ」で自滅の方向を誘ったのが西田税襲撃事件であった。

それでは誰が警察の中心にいたかという点であるが、『原田日記』や『木戸日記』で、役人のうち最重要人事の対象とされていたポスト、内務省警保局長(現在の警察庁警備部と警視庁公安部を合わせた機能をもつ)にいた人物であろう。それは唐沢俊樹(戦後、岸信介により法相)であった。唐沢を引き上げたのは伊沢多喜男(内務官僚、枢密顧問官)であった。

伊沢多喜男は、政党政治による政権交代のたびに反対党系の知事が休職に追い込まれる事態を慮り、知事・官僚の身分保障規定(文官任用令11条)の復活を提言したことで知られる。いわば、現在の国家公務員法による高級官吏の「身分保障」に道を拓いた人物である。のちの「革新官僚」に大きな影響を与えた。さらに伊沢は2・26事件において「襲撃目標」とされた。

この伊沢と唐沢と同郷(長野県)だったのが永田鉄山であり、3人は親しい関係にあった。永田が「泳がせ」に加わったとすれば、謎は解けるのである。

また、血盟団の思想的背景は大アジア主義や日蓮宗(この鎌倉仏教には水戸学・儒教的要素がある)を除けば、農本的社会主義である。標的の多くが財閥関係者であった。ただし、多くの政治的テロ事件の目的である「権力奪取」過程が存在しなかった。この点で、西南戦争と5・15事件や戦後の「クーデターもどき」「右翼テロ」と共通する。

3月20日には中村義雄が陸軍側のリーダーである大蔵栄一・村中孝次・安藤輝三らと会見しその蹶起をうながした。だが彼等は自重論をとって応ぜず、陸軍の参加どころか士官候補生グループをも抑えようとした。結局陸軍側からは士官候補生グループが、大蔵らに秘密にこの計画に参加しただけに終わった。このとき、大蔵らは荒木貞夫の決起を待ちたいといったという。永田の策動に反対する皇道派が止めに入った。

昭和七年総選挙

党派別獲得議席
立憲政友会 
総裁 犬養毅
幹事長 久原房之助
301議席
立憲民政党 
総裁=若槻禮次郎
146議席
革新党 
2議席
無産政党 
5議席
諸派・無所属
12議席

昭和7年2月、若槻後継の政友会総裁・首相犬養毅は、衆議院を解散し総選挙に打って出た。普通選挙であり、中選挙区制467人総議席であった。よく日本の総議員数が多いとされるが、このときから竹下内閣による少選挙区制(500人)までそれほど増えていない。

中選挙区制と小選挙区制による違いが論じられることもあるが、このとき政友会に風が吹き、300議席以上とったことに注意すべきであろう。選挙は、個人という要素で決まるが、拮抗すれば「風」が支配する。

このとき政民両党による二大政党制が成立していた。昭和30年の「自由党」「民主党」合同(それぞれ政民両党の捩れた後継である)以降、再度、自民・社会両党による二大政党制が成立したが、社会党についに最後まで風は吹かなかった。社会党の「社会主義」と「中ソ寄り外交姿勢」を有権者はついに否定したのである。旧社会党員はいっこうに反省しないが

犬養政友会に吹いた風は、満州事変であった。国民は蒋介石国民党による日本人へのテロに苛立っていた。満州から国民党が追い出されたことに共感した。ところが満州事変は、板垣・石原によるクーデターであった。政治家は軍人に負い目を感じ、昭和20年まで、この負の遺産が続いた。サラエボ事件同様、テロを国家が使嗾した場合、対処は難しい。

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