陸パン
(国防の本義と其強化の提唱)

池田純久(1894〜1968)大分県出身
陸士28期 陸大 
大正14年、陸軍省軍務局付。陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で学んだ。軍務局軍事課員。『国防の本義と其強化の提唱』の原案作成。欧米出張。昭和10年3月天津軍参謀に着任。盧溝橋事件後に遭遇。昭和12年8月、陸軍兵器本廠付となり、資源局企画部第1課長、企画院調査官。この前後、省部での経歴は断たれた。武藤章と対立したためのようだ。本人は原因を盧溝橋事件における「拡大」「不拡大」論争で石原莞爾と協調し「不拡大派」だったためと説明するが疑わしい。
支那事変初期において「拡大」「不拡大」を論じた参謀将校はそのあと全て左遷されており、その一環であろう。蒋介石の意図が「日本軍への攻撃」である以上。このときの日本軍には戦うか、逃げるかの選択しかなかったのである。
典型的な統制派であったが、いかに彼らが軍事において無能であったかがわかる。そのあと統制官僚の道を歩み、昭和20年7月、内閣綜合計画局長官。東京裁判において梅津美治郎(同県人)の補佐弁護人を務めたほか、歌舞伎座サービス会社社長。

昭和9年10月、陸軍省新聞班は『国防の本義と其強化の提唱』と称する小冊子を全国の官衙、学校などに60万部を印刷し配布した。政府の1部門がこおように膨大な部数の宣伝資料を印刷配布することは、おそらく空前絶後と思われる。

しかも内容は公然と市場経済を否定し、ルーデンドル戦争経済(=社会主義経済)の導入を準備といいながら、平時の日本に導入しようとするものであった。いつの世にも「新自由経済批判」といいながら、特定企業や特定産業の保護を主張するグループは絶えないが、背後には「権限」や「天下り先」増大を狙う官僚や労組幹部の思惑が存在する。

陸パン事件も例外ではなく、陸軍エリート集団が背後にあった。彼らの背後には知識・経験未熟な「学生集団」があり、当時の学界における「常識」であった社会主義思想があった。思想を指導していたのは陸軍統制派であり永田鉄山であった。ただし陸軍統制派は元来「人事」「ポスト」を争うためできた集団であり、軍事そのものにはあまり興味がなかった。

内容はレベルの低いもので、現在の歴史学では点数がつけられない程度のものであるが、「階級対立」による社会主義の勃興、共産党の政権奪取という歴史必然論から説き起こし、世界の富を独占する英米との戦争に準備」せよ、という共産主義者特有の「危機アジリ」が骨子である。

結語は次のように社会主義経済への転換を説くものであった。

其五、国防と経済

一、経済の整調

 現機構の不備 現経済機構が、我が国の経済的発展に、大なる貫献を為したることは認めねばならぬ。然し国家的全体観、特に国防の観点より見て、左の如き改善整調の余地ありと言はれて居る。

 1、現機構は個人主義を基調として発達したものであるが、其反面に於て動もすれば、経済活動が、個人の利益と恣意とに放任せられんとする傾があり、従つて必ずしも国家国民全般の利益と一致しないことがある。
 2、自由競争激化の結果、排他的思想を醸成し、階級対立観念を醸成する虞がある。
 3、富の偏在を来し、国民大衆の貧困、失業、中小産業者農民等の凋落等を来し、国民生活の安定を庶幾し得ない憾がある。
 4、現機構は、国家的統制力小なる為め、資源開発、産業振興、貿易促進等に全能カを動員して、一元的運用を為すに便ならず、又国家予算に甚しき制限を受け、国防上絶対に必要とする施設すら之を実現し得ざる状態に在る。

新経済機構に具備すべき要件

 現経済機構の変改是正の方案に対しては、種々の意見があるが、国防上の見地よりして左の如き事項が挙げられて居る。

 1、建国の理想に基き、道義的経済観念に立脚し、国家の発展と国民全部の慶福を増進するものなること。
 2、国民全部の活動を促進し、勤労に応ずる所得を得しめ、国民大衆の生活安定を齎すものなること。
 3、資源開発、産業振興、貿易の促進、国防施設の充備に遺憾なからしむる如く、金融の諸制度竝に産業の運営を改善すること。
 4、国家の要求に反せざる限り、個人の創意と企業慾とを満足せしめ、益々勤労心を振興せしむること。
 5、公租公課を真に公正ならしむる如く税制の整理。

二、戦時経済の確立

 経済戦は既に平時状態に於でも開始せられつゝあることは既に述べた通りである。戦時状態に於て武力戦と併起する場合、其激甚性は最高度に達すること勿論である。其場合の経済統制を如何に実施するやは、国防上重要なる問題である。

 二十世紀初頭迄の間に於ける各戦争を観察するに。国を挙げで交戦の事に従つた場合に於ても、比較的交戦兵力、軍需品の需要が寡少であつて、国民経済の全般に亙り特別の変動を与ふることはなかつた。

然るに、世界大戦は全く従来と其の趣を異にして居る。即ち軍需品の需要が未曾有の膨脹をなした。一面交戦国は外部との通商交通は、著しく阻害せられ、甚しき場合には全く封鎖状態に陥るを以て、軍需品は勿論国民生活必需品に至る迄、海外よりの資源の輸入は杜絶せらるのみでなく、自国輸出産業の販路も、全く閉塞され、平常時に於ける世界経済の紐帯は全く切断せらるゝ事となつた。

故に戦時不足すべき資源を適時充足する如く平時に於て準備を整ふると共に、一旦緩急の暁には、国家は莫大なる軍需品の需要を満すと共に、国民の経済生活維持の為経済の全般就中国防産業運輸通信及国民経済生活に対しでは、相当徹底して統制を行ふの必要がある。其の結果経済組織に対しても尠からざる臨時変更を生ずることとなる。之を世界大戦の実例に徹するに、列強より封鎖せられたる独逸が、食糧軍需資源の輸入途絶に依り著しき困難を嘗めたるは勿論、過剰生産品の輸出販路を失ひ、為に国家経済が窮地に陥つた事は周知の事実である。

又独逸の潜水艦封鎖の脅威を受け乍らも兎も角世界経済との関聯を保持せし英国に於てすら砂糖、小麦、肉類等の不足を生じ、又綿花輸入困難の結果はランカシャ綿業廃止を余儀なくせらるゝ等、国民経済に致命的影響を蒙つたことは枚挙に遑がない。

されば交戦諸国は資源、食糧の不足を補う為め、其の生産及輸入に対して強度の保護奨励策を取るは勿論、中には国家自ら其一部を経営するものすらあつた。極端なる自由主義を標榜せし英国に於てすら農地の強制耕作、製粉工場の政府管理、小麦、砂糖及肉類の輸入及配給事業の政府直営等を実施し、又ランカシヤ綿業の危機を救はんが為め、政府は在荷綿花の公平なる分配、操業の調整、失業救済等に対し積極的統制を実施してゐる。

又交戦時は殆んど例外なく国民の消費にまで干渉し、或はパン、肉、砂糖等の食糧品を始めとし各種燃料及衣服に対しても標準消費量又は日量を定め切符剣度に依り之が配給をも実施してゐる。又一方国家は戦争の為打撃を蒙れる一般国民竝に特殊産業の資本家及労働者に対して救済策を講じ、又戦禍の為生業を失へる者に対する対策を必要とするに至つて居る。

此の如き世界大戦の経験は、将来戦に於て戦時経済を如何に準備すべきや暗示するものである。而して此等の準備なき国家は、多大の困難を感ずるのみならず、往々之が為敗戦を招来するやも測り難い。故に平時より官民カを戮せ之が準備を完成するの必要がある。

而して其の準備すべき要点としてほ、戦時不足資源関係の企業の奨励、不足資源の貯蔵、代用品の研究、戦時海外資源の取得計画、平時之を利用する国防産業の実行促進、過剰生産品の輸出対策、戦時財政金融対策、貿易対策、労働対策等相当広範囲に亙り予め研究準備を遂げ開戦の暁に於て些の遅滞なく、統制ある戦時経済の運用に移らなければならない。


内容は池田純久によるものとされるが、完全にバーデンバーデンの密約における永田鉄山の主張「総動員体制」樹立と同じであった。

社会大衆党

社会大衆党は無産三党を糾合して、昭和7年年7月24日に結成された。委員長は安部磯雄旧社民民衆党、書記長は麻生久旧日労系であった。労働者・市民・農民の「生活」防衛や日ソ中立条約締結などをスローガンにした。昭和12年には社会主義最大政党として、衆議院に37名を当選させた。

社会民衆党は政民両政党と対立し、陸軍統制派を「革新勢力」とみて提携を模索した。昭和9年には陸パンについて支持し、「広義国防」に賛成した。

安部磯雄はユニテリアン教会の伝道団体である統一基督教弘道会の会長であった。その背景にはユニテリアン(ユニテリアン教会・惟一館)の社会運動進出があった。

この運動は元来、ルテニア人が信仰していたユニアテ協会が本であるが、ルーマニア領またはポーランド領とされたルテニア人がハンガリーに逃れ、そこで信仰を伝えたもので、由来とすれば古式である。日本の社会主義者は東ヨーロッパから影響を受けやすい。

ルテニア人

社大党選出の代議士であった三輪寿壮・河上丈太郎・西尾末広・浅沼稲次郎が戦後には社会党幹部になった。安部磯雄の労働運動は「友愛会」と呼んだが、そのあとの「全労」や「総評」とはつながりがなく、両方とも当初は日本共産党が指導した。この運動はどちらかといえば、右派社会党、民主社会党につながっていった。昭和30年代に入ると、指導層が老齢化したためである。

社会大衆党・無産三派は「連軍政策」といって、陸軍統制派との連携を模索した。

錦旗共産党

昭和9年1月、警視庁特高課は陸軍省軍務局に陸軍内に錦旗共産党という組織が存在する嫌疑があるとして照会を入れた。警視庁は、「錦旗共産党」を三月事件の前段の桜会とみなし内偵済みであった。

もちろん、三月事件の大衆運動の中軸となった無産三派についても承知しており、大川・橋本欣五郎一派の「錦旗革命」(ボルシェビキ型革命によって昭和天皇を廃する)についての情報も入っていた。ところが共産主義運動をコミンテルン運動(下部組織、日本共産党)だけに限定してしまい、「天皇制社会主義」(池田純久)をいう陸軍統制派の動きには、まったく注意を払おうとしなかった。

永田の手は伊沢多喜男や唐沢俊樹ら、長野県人、革新官僚、警察官僚グループに伸びており、内務省公安畑(警保局)は、統制派が味方であると思い込んだ。

錦旗共産党は警察の幻影であった。戦後になっても松本清張(本人も社会主義者であり、近代史について著作は荒唐無稽な推理小説であった)は「桜会の陰謀」を唱えたが、じつはこのときの警察もそのように思っていた。むしろ永田鉄山の自分の身を隠し、幻影をつくりだす手法が鮮やかというべきかもしれない。

陸軍統制派の確立

陸パンに従えば、明治憲法の保障する国民の基本的人権を無視し、議会制民主主義は打倒されねばならないことになる。経済を統制する担い手は官僚であり、官僚を指導するのは陸軍官僚=統制派という理屈になる。

こういった誤れる考えの基本はドイツ社会主義であろう。「戦時になると過剰生産物の販路に困る」といった議論は社会主義者特有の理屈である。戦時において近代国家においてマルクスの『資本論』にみられる「過剰生産物」が存在するであろうか?海国でかつ通商路が断たれれば、統制経済であろうがなかろうか、「過剰(市場経済の誤解からくるものであるが)生産物」は生じない。原材料は平時と違って、入ってこない。

平時の物流と戦時の物流の違いを、池田純久のような浅学な統制派軍人が大学で一時勉強したところでつかめるものではない。

そもそも軍人とりわけ参謀将校とは「戦争計画」をつくることが仕事であって、物流や生産について心配しても意味がない。ルーデンドルフは第一次大戦敗北を「銃後」のせいにしたが、じつは自らの作戦計画(カイザー戦)が粗末なため「乾坤一擲のドイツ軍最後の大攻勢」が失敗したのである。この戦敗を経済(資本家)を原因にする理屈は、ルーデンドルフから生じ、永田鉄山はルーデンドルフに心酔したのであった。

統制派の主張とは「経済」を統制化しようとする極めて社会主義的なものであった。その裏の面は、軍事についての未熟である。だが、この当時の日本社会は極めてマルクス主義思想潮流に浸潤されていた。北一輝の『国体論及び純正社会主義』や『日本改造法案大綱』は、完全な社会主義理論であった。2・26青年将校は北一輝の影響を強く受けたが、当然、『陸パン』にも感心した。ある2・26青年将校が永田鉄山に『陸パン』実行のための「維新」を要求すると、「余計なお世話だ」と怒鳴った。

皇道派の真崎甚三郎は統制派幕僚を「アカ」(田崎末松『評伝真崎甚三郎』芙蓉書房)だと危惧した。

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