左は旧軍参謀本部作成になる、第1期攻勢のアラス=ソワッソン間の連合国軍の進撃方向である。
ここはカイザー戦、第1次攻勢の戦場であり、そこがペタンの付け目だった。ドイツ軍のカイザー攻勢の発起点は点線の9月25日の戦線すなわちヒンデンブルグラインだった。
つまりこれは、カイザー戦の失地回復戦である。当然ドイツ軍は進撃途上だから整備された塹壕を保有しない。また本来の防衛線(ヒンデンブルグライン)からは距離があり、ドイツ軍の補給は簡単ではない。
まず8月8日モンディディエ突起部が狙われた。ここで先頭になったのはフランス第1軍(ドブニー)とイギリス第4軍(ローリンソン)だった。
フランス第1軍は、フォシュが直接掌握する戦略予備集団(ファオーユ)に属している最精鋭部隊だった。しかし現役師団だけで構成されているとは言え、すでにフランス若年層は失われており、実体は半分が30歳以上という老兵集団で、将校のなかには70歳を越える、普仏戦争経験者がいた。
しかしこの老兵部隊が第1次大戦の全局面を変えることになった。第1軍はルノー軽戦車を中央に歩兵が伴走し、工兵が木の板を背負い、突撃していった。そして後方では、あの野砲75が砲兵隊(フランス軍では野砲を運搬するのも砲兵隊)の兵士により引っ張られていた。フランス軍野砲隊は常に歩兵とともに前進する。
ルノーFT17
初日でドイツ軍の厚く張られた、前線部隊は崩壊した。そして続々と投降を開始した。これは、ドイツ軍の配置の失敗による。本来、第5次攻勢が頓挫したとき、突撃隊を前方に置かず、後方に下げ、残酷でも少数の全滅覚悟の部隊を前方に置くべきだった。ドイツ流軍学は機動戦しかなく、こういった局面での有効な対策はついに考案されなかった。ルーデンドルフの「ドイツ軍暗黒の日」とは、このフランス軍老兵による攻撃を受けた日をさす。
そして翌々日8月10日にはフランス第3軍(ウンベル)イギリス第3軍(ビン)がノアイヨンーショールヌ線の向かい攻撃を開始した。こうなると、約30km幅で攻撃を受けたとドイツ軍は認識し戦略予備をいっせいに、その線に派遣した。
当然戦線は膠着する。実際はノアイヨンとペロンヌ間で、弾丸孔を連続させた即興の塹壕を双方とも掘り始めた。その間連合国軍は攻撃部隊を一新させ、とくにイギリス軍は新着の兵士を最前線に送った。2週間後、ソワッソンーアラス全面で連合国は攻勢に出た。戦略予備を含めた主力を中央部に集めたドイツ軍は両翼包囲の形勢にさらされ、ひとまりもなく敗退ヒンデンブルグ線に逃げ込んだ。
この攻勢はルーデンドルフのカイザー戦と動きが逆なことに注意して欲しい。ルーデンドルフのやり方は、次第にジョウロのように中央部に攻撃を集中する方法である。これに対し、フォシュ=ペタンの方法はまず突破を成功させ、距離を稼がず、両翼に攻撃を広げる方法である。最後の第1期攻勢が終了すると斉頭面で前進を果たすことになる。
また、河川と連合国の進軍経路にも注目して欲しい。河川とは極力平行となるように前進し、不定期に横断することを避けていることがわかる。すなわちドイツ軍とは違った点で周到な準備がなされている。これがフォシュの言う「surete」(安全・準備)で、「elan」や「cran」(根性)だけで戦争に勝てるとは言っていない。この組み合わせの問題は現場において「De
quoi s'agit‐il ?」(問題の本質はどこだ?)と自問することにより、各級司令官が得るものとされる。すなわち、この範囲で独断専行を認めており、思想的に昭和陸軍に大きな影響を与えた。
次に仏第1軍(ドブニー)と英第4軍(ローリンソン)がヒンデンブルグ線(カンブレー=サンカンタン間)突破に向けた前進を開始したのは9月29日であり、準備にいかに手間をかけたかがわかる。この間、イギリス兵は「機関銃をかついでカンブレーに行こうじゃないか。」と歌をうたい士気を鼓舞した。
また、第1次大戦の全局面でみると、この、とくにフランス第1軍のモンディディエの突破はまさに転換点と見ることが出来る。というのは、これ以降、この戦場でドイツ軍の捕虜・戦死傷者が7万5000人に達した。この戦いの開始時点で両軍の兵力はほぼ均衡していた。これ以降米軍の来着を含めて、連合国軍の数の優位は決定的となった。ドイツ参謀本部はルーデンドルフによって牛耳られ、基本は馬の時代のドグマに縛られていた。兵力バランスが敵側に傾いたとき、挽回するのは、方法または装備・編制によるしかない。つまりルーデンドルフ(ヒンデンブルグ)を更迭できる権威がなければ、戦局の打開は不可能だった。
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