サラェボ事件現場

第一の現場の現場周辺には(1)メフメトバシッチを先頭に(2)チャブリノビッッチ(3)チュブリロビッチ(4)ポポビッチの4人が配置されていた。爆弾投擲に成功したのはチャブリノビッチのみだった。

そのとき大公の車はミリヤッカ川沿いにアペルキューを市役所方向に進行していた。

第二の現場には(5)プリンチップと(6)グラベッツが配置されていたが、チャブリノビッチの爆弾投擲の際はなにもできずに終わった。その後プリンチップはシラーの店に立ち寄る。

大公の車はその後市役所を出て道をまちがえフランツヨゼフ通りに向かった。そしてアペルキューとフランツヨゼフ道の分岐で方向転換をしようとしたとき、シラーの店から出てきたプリンチップに遭遇した。

MAP(1905年のサラェボ地図)

プリンチップはバックしようと徐行している大公の車のタラップに飛び乗り、夫妻をブローニング拳銃で射殺した。(乗らずに近接しただけとの証言もある。なおこのブローニングはリボルバーだった。)

シラーの店のあった4階建ての建物はボスニア紛争前、青年ボスニア博物館と呼ばれ、ミリヤッカ川にかかる橋はプリンチップ橋に改称(事件当時はラタイナー橋)されていた。ボスニア内戦では、フランツ・ヨゼフ通りの1本先の道がスナイパー(狙撃手)通りと呼ばれまたミリヤッカ川が、最前線となったことがあったという。

当時サラェボはボスニア州の州都だったが人口は5万人にすぎなかった。フランツヨゼフ通り(1980年代人民軍隊大通り)もアペル・キュー(1980年代オパル)も幅10メートル程度の小径で、歩道はあるが二人が重なれば一杯になってしまう。町のなかのセルビア人は併せても2万人に満たず、全員顔見知りで、現在と同じくクロアチア人やイスラム教徒と対立していた。1990年以降は、このあたりは非セルビア人地区になっており、青年ボスニア博物館も廃止された。現在でも欧州人でここを訪ねる人は多く将来も観光資源であり続けるだろう。

現在のサラェボ(2000年2月:第2の現場から見た)

ミリヤッカ川の流れは激しい内乱後も変わらない。サラェボは不思議なことに両次大戦の戦禍を免れた。第1次大戦のとき、セルビア=モンテネグロ軍は写真後背地の山岳地帯まで迫ったが、厳寒の気候と、補給線が伸びきったことにより撤退した。

しかし1990年開始された内乱は町を二分した激しい戦いとなり、多くの建物が破壊され、人命も失われた。左の道が以前のアペルキューで、その奥が官庁街、繁華街となっている。写真の橋は元カイザー橋、右に見えるモスクは元帝国モスクでいずれも内戦後再建された。


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