ドイツの分割

ドイツの分割は、ベルサイユ条約でドイツが放棄する範囲が決められ、以降は住民投票もしくは国際連盟理事会で決定された。この時理事会は英・仏・日・伊が実権を握っていた。しかし英仏間には協商、日英間には同盟が当初存在しており、イギリスが事実上指導的立場にあった。

ところがイギリスのロイドジョージは自分からイニシアチブを取ろうとせず、当事者国家の合意を待つ姿勢をとった。これは大陸内に自国軍を持たず仕方のない姿勢だったのだろう。フランスは当然ドイツの国力を削ぐ方針で臨んだから、反ドイツの隣接国は全てフランスの武力に依存した。しかし実際のところフランスもドイツ東部国境に大軍は送れないから、ポーランドの軍事力に各国とも依存する結果となった。

各地で武力衝突が生じ1923年まで国境は安定しなかった。

ドイツは15%の国土を失い4百万人の自国民が国境外に置かれた。しかし全体として国力が削がれたわけでなく、また領土の一体性の確保に成功したことも忘れてはならない。ここは第2次大戦後と決定的に違う。

新興独立国のポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどがドイツ系住民を過酷に取り扱ったことも忘れてはならない。バルト海沿岸に住んだドイツ人は大戦中、ロシアに忠誠を誓ったがポーランド、バルト三国、ボルシェビキいずれも民族浄化の方針で臨み多くは殺害されるか追放された。ドイツ国内に入った亡命者から多数のナチス指導者を輩出した。また帰属決定後も武力抗争が続きフライコールなどがポーランド軍と戦った。

ヨーロッパの第1次大戦後は、第2次大戦後と異なり中央ヨーロッパはかなり物騒な地帯だった。ただ第2次大戦後の平和は、東ヨーロッパが事実上ソ連の服属国家群に転落した影響が大きいのかもしれない。


パリ講和会議に戻る