バルカン攻勢

セルビア国境沿いの線は1915年10月12日、内国の線は11月5日を示す。

 セルビア軍は1914年末までの勝利で戦備は整い、このとき16個師団を有していた。

 だがマッケンゼン軍の集結に伴って北部に11個師団、しかし南部には僅か5個師団しか集められなかった。

 更にオーストリア軍はドリナ川沿いに活発な陽動作戦を夏から展開したため、北部でも分散配置を余儀なくされた。

 南部でもアルバニア国境で越境して来るアルバニア系強盗団の動きが活発で、国境警備兵として別に25大隊(約1個師団半)を西部国境に配置していた。

 プトニックはこの劣勢にも拘わらず、まず北部のマッケンゼン軍に打撃を与え、その後南部に向かいブルガリア軍を始末するという作戦をたてた。

 南部マケドニアは中央部は平野だが東西は山がちだった。このため南部でのブルガリアの作戦は進行が遅いと予期された。

 一方ドイツの戦略目的はコンスタンチノープル打通にあった。ルーマニアは中立を維持していたから、ベオグラード・ニッシュの線から東側を確保すれば、成功である。トルコの弾薬不足は深刻だったから、ドイツの目標は予期しうるものだった。

しかしドリナ川でのオーストリア軍の動きが陽動と見抜けても、セルビア軍の打てる手は限られていたかもしれない。

一方英仏軍はギリシャ領サロニカに既に3個師団の配置を終了し、セルビアはその支援が期待できた。旧軍参謀本部はこれを理由として、プトニックは北部を捨て南部に集中すべきで、そうすれば国境の天険を利することができたという。

それではドイツの戦略目的を許すことになってしまい、連合国の大義に最も忠実でなければならない、セルビアのとれる方針ではあるまい。それともこれは政治の統帥への容喙だろうか。

プトニックの作戦の齟齬はブルガリア軍の突進の早さで生じた。マッケンゼン軍はゴルリッツ突破戦と同様兵站と側面防禦を維持しながら進む堅実なものだった。ところがブルガリア軍は宣戦布告前に総動員を完了しかつ国境線を突破し、河川障害は事前に確保するという徹底ぶりだった。そして第2次バルカン戦争の雪辱に燃えたこともあって、マッケンゼン軍より早く侵攻する結果となった。

これでは北部での抵抗は断念せざるを得ず、セルビア軍はアルバニア方面への総撤退となった。

だがプトニックはただで引き下がる参謀総長ではない。渡河地点に兵力を集中するのには失敗したが、ドナウ川対岸には何層にもわたる防禦線を構築し、更にドナウ川に無数の簡易機雷、浮流機雷を設置、また自殺攻撃を覚悟した単発の水雷艇を浮かべた。マッケンゼン軍は15個師団30万人だが渡河作戦だけで6万人の損害を受けた。

一時はマッケンゼン自身が前途を悲観したという。渡河自体で10月6日から10月12日まで1週間を要した。ウィルヘルム二世がドナウの渡河地点にたつマッケンゼンを10月12日同日訪問したとき兵の損耗を詫びたという。

また一旦の中部への撤退も見事なもので、山岳地帯に準備した城砦を要所に配置、敗軍の収容と後衛の自殺出撃で最後まで独墺・ブルガリア軍を苦しめた。ブルガリア軍は22個師団、40万人を動員したが10万人に及ぶ損失を受けたと言う。しかもセルビア軍はアルバニア経由コルフ島への脱出に成功した。

だが犠牲も甚だしく死傷者94千人、捕虜170千人とセルビア全軍の過半数が失われた。そして全国土を喪失した。


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