ベルサイユ条約の草案は5月中旬に完成した。草案作は途方もない作業だった。条約は440条からなり200ページを越え、8万語に及んだ。このため、本文が英語のため1000人以上の法律家が主としてイギリスから集められた。
後年になって解釈に齟齬をきたしてはいけないので、文章は練り上げられた。このためかえって、どの国の誰がどの条項について原案に反対したのか、分かりずらい。草案作成は約2ヶ月の作業だが、各国の代表部で修正の権限が現地に与えられないのは日本だけだった。これは首相が5大国のうちで唯一参加できなかったためだろう。だが日本のみ本国に訓令を仰ぎ、海外にいる日本人の本国訓令好きの原型を作った。そして草案で日本が修正を要求したところは訓令の調子が残り、英米人が読むといまでも分かるといわれている。
ベルサイユ条約(平和についての条件)の表紙。
左上にセルビアのパシッチ、その下にロイドジョージの署名が見える。
更に二人おいて下が西園寺の署名である。
ベルサイユ条約は原則としてドイツと各国の間で締結された条約と言う体裁をとっている。従ってオーストリア=ハンガリーなど他の中央同盟諸国とは別の講和条約が締結された。
連合国のなかにも区別があり、主要連合国(Principal Allied Powers)、協力諸国(Associated
Powers)と残り諸国(The Rest)は区別されていた。条約の執行能力をもつのは主要連合国と協力諸国とされ、残り諸国はそれを待つ形となる。
- 主要連合国、アメリカ・イギリス・フランス・イタリー・日本
- 協力諸国、ベルギー・ポルトガル・ルーマニア
- 残り諸国、ボリビア・ブラジル・中国・キューバ・エクアドル・ギリシャ・グァテマラ・ハイチ・ホンジュラス・ヘジャズ(サウジアラビアなどの前身)・リベリア・ニカラグァ・パナマ・ペルー・ポーランド・サーブ、クロート、スロビーン・シャム・チェコスロバキア・ウルグァイ
27ヶ国で、中国は直前に調印を拒否した。
|
1919年5月7日、草案はドイツ政府に呈示され、反対意見があれば文書で知らせるよう通知された。その後5月29日、ドイツ政府は抗議とともに次のような改善を申し入れた。
1.アルザスロレーヌの主権喪失には応じるが住民投票を実施すること。
2.軍備削減には他の国民よりさきがけて応じるが、比例的に他の国も軍備削減を行うこと。
3.賠償金支払いには応じるが減額すること。
4.戦争責任論には反対で、責任者の相互の調査を行うこと。
これを聞いて最後の戦争責任論で、ロイドジョージも穏やかでなく、「ロシア、フランス、ベルギー、セルビアへの当初の戦闘状況を見れば、中央同盟国が侵略したのは明らかだ。」と力説した。引退後ロイドジョージは開戦責任をドイツ・オーストリアにありとする浩瀚な『世界大戦回顧録』を上梓する。
(ベルサイユ条約)
6月22日、休戦以来イギリス連合艦隊の停泊地スカパフローに抑留されていた、ドイツ外洋艦隊74隻は司令官ロイターの命令により自沈した。このうち14隻はドレッドノート級の戦艦だった。これを阻止しようと近くにいたイギリスの駆逐艦が発砲、ドイツ乗員8名が死亡した。その日ドイツは戦争犯罪の条項を除いて,条約草案に応ずると回答した。ロイドジョージはただちにドイツの回答を拒絶し48時間以内の全面承諾をもとめる最後通牒を交付した。
ロイドジョージはこの対応について、スカパフローの事件で、ドイツへの善意と信頼を失ったからだと、後日語った。十分な理由だろう。
ドイツ政府は、これにたいし次のような最後の抗議を行った。
「ドイツ共和国政府は、連合国の最後の通知を驚愕して受け止めている。連合国は平和についての条件を我々がすべて受け入れているにもかかわらず、ドイツ人民から最後の尊厳を奪い去ろうとするため、具体的な重要性はなくとも、力ずくで押さえつけようとしている。ドイツ人民の尊厳はいかなる脅しにも損なわれることはない。ドイツ人民は最近数年間の困難により、行動によってその名誉を守る手段が欠落している。圧倒的な力に屈服ししかし平和の条件としては聞いたことがない不正義だという観点を失うことなく、ドイツ政府は連合国政府の平和の条件に応ずることに決した。」
これが社会民主党エーベルトが大統領の政府が発した抗議であった。その後政権は徐々に右傾化していったとはいえ、その後ドイツのいかなる政権もベルサイユ条約が公正なものだとは考えなかった。そしてドイツ人の大多数はこの条約は短期に破棄されるものと考え、条約署名自体を一時の戦術とみなしたようである。実にこれは平和でなく、休戦にすぎなかった。
ドイツ代表団はフランス領内では客車のブラインドを下ろされ、また戦争被害が甚大な場所では上げて説明をうけ、ベルサイユに6月28日到着した。この日はサラェボ事件の記念日のつもりで設定したのだろうが、暗殺されたのはオーストリアの皇太子で賢明な選択とは思えない。普仏戦争に勝利したあとドイツ帝国の成立が宣言された、ベルサイユ宮殿鏡の間で調印式が行われた。第1次大戦は完全に終了した。
調印式。鏡の間で行われた。
この条約で平和が維持されるとみた人間は実は連合国とりわけフランスでも少なかった。第2次大戦終了後では直ちにヨーロッパで再度戦争がおきると見た人間はほとんどいない。当時ソ連は欧亜にまたがる人口大国で、ヨーロッパ正面でことを構えるとはみなかったためである。ところが第1次大戦の終了でドイツの脅威が減ったにせよなくなったとみる人間はいなかった。フランスはすぐ後マジノ線の構築の検討を開始した。
6月28日、午後3時ベルサイユ宮殿鏡の間でドイツの署名から調印式がとり行われた。司会者はクレマンソーだった。その合間にクレマンソーは席を離れ、西園寺に近づいた。クレマンソーはフランス語で語りかけた。
「中国側はいよいよ調印しないそうだ。しないならしないでよろしい。」
西園寺はクレマンソーの努力に謝辞を述べた。そしてクレマンソーは去っていった。牧野の描写である。これは中国側が山東問題で抵抗したためである。中国は21ヶ条要求に屈し、日本へのドイツ権益譲渡を認めていた。21ヶ条要求の内容とその方法は反省する点が多い。ここは認めなければいけない。しかし一旦認めたならば(特に公開せずに)履行するより他にない。これは情誼の問題ではなく条約との関係である。従って中国がこの問題を講和条約との関係で申し立てることは、外交上無理がある。
アメリカ民主党政権は日本の方法を脅迫的だと批判し、中国で得ている諸外国の全ての権益を返還すべきだと主張した。これにはイギリスの香港やフランスの広州が含まれ、また租界の根拠となる治外法権も問題となろう。とても現実的な主張と思えない。要するに中国との貿易は事実上アメリカも含めて不可能となるだろう。
一方、石井ランシング協定で満州における日本の特殊権益をアメリカは既に認めていたことも事実だ。この中国領定義問題は後まで尾をひくことになる。
それでも、アメリカが本気であることも事実だ。日本はこれを反面歓迎した。英仏の中国利権を好まなかったためである。しかしそれでは自らの利権も捨てなければいけない。外交とはこのようなディレンマからのある種の選択であり、国民には説明しにくいものだ。
英仏は秘密協定で山東問題における日本の主張を認めていた。これではドイツとの講和と関係がなく、日本の主張は当然ということになる。これを西園寺とクレマンソーはわかっていたに違いない。両者とも興味はなかった。そして山東利権に興味がある日本人は実はあまりなく、(青島のビールと不採算の石炭程度)2年後無償で中国に還付した。
これで日本の外交が威圧的と解されたのはどういう事だろうか。牧野の読みと外務省の判断の誤りだろう。とくに人種平等提案と絡ませたのがいけなかった。(絡ませなくとも、アメリカの無意味な意思表示はともかく山東問題の結論は日本有利で動かない。)西園寺とクレマンソーの友人関係を信頼し下僚は動くべきでなかったのだ。英仏との関係を重視すべきだったのだ。西園寺はこのような山東問題への東京の固執を喜ばず、「何もできなかった。」=何もしない方がよかったと語っている。
本来、人種平等提案(アメリカへの移民問題と絡ませず)をするからには、その基礎となる安全保障についての見解を打ち出す必要があった。このような席でちっぽけな山東省利権の話がメインとなったことは日本にとり残念なことだった。
クレマンソーは着席し、最後のウルグァイの調印が終わると、「これで平和が達成された。」と一言閉会の言葉を叫んだ。そしてラマルセエーズが演奏されこの20世紀最大のイベントは終了した。
|
フランスの理想主義者は、国家主義にかわる、国際平和主義を模索した。しかし結果はソ連共産党の指導化にある第3インターナショナル(コミンテルン)への加盟に収束された。フランス社会党の分裂がそれを物語る。そして大勢はドイツへの賠償支払いの強要と、武力での保障措置を追及した。しかしルールに軍を進駐させたとき、英米の支持はなかった。このあとも条文の改訂による妥協か、強硬措置か英仏の指導者は逡巡した。そして結論は常にフランスの譲歩による、妥協政策だった。
ベルサイユ条約で今日まで残っているものは無意味なものを除いてなにもない。国境の線引きはそれでも第2次大戦を生き延びたかにみえた。しかし1990年代のソ連の崩壊により、東ヨーロッパの国境は大きく変化し、ブレストリトウスク条約が復活したかのようだ。
2週間後、7月14日パリ祭(革命記念日)の日、連合軍の凱旋パレードが行われた。数千人に達する傷痍軍人が先頭で、凱旋門からシャンゼリゼ通りを通過しコンコルド広場までパレードで埋め尽くされた。次は馬上の二人の元帥、ジョフルとフォシュに導かれ、1500人ずつの栄光のフランス軍連隊が続いた。そしてパーシングに率いられたアメリカ軍、イギリス軍、ベルギー軍、チェコ軍、ギリシャ軍、イタリー軍、日本軍、ポルトガル軍、ルーマニア軍、セルビア軍、ポーランド軍が続きそしてまたフランス軍が最後尾についた。しかし開戦直後フランスを救おうと英雄的にベルリンに向け突進し全滅した、帝政ロシア軍の姿はなかった。
|
1919年7月14日、ル・サントノーレ街を横切って、凱旋門に向かうセルビア軍。
セルビア軍兵士はこの大戦を最初から最後まで戦った。始めはアランジェロバーツの叢林に身を潜め、ドリナ川に向け突撃しオーストリア軍を撃破した。その後武運つたなくマッケンゼンに敗れ、コルフ島に逃げ、サロニカに渡り、国土奪回の機を覗った。最後はフランス軍とともにドナウ川まで戻ることに成功した。その間に五分の四の兵士が失われたという。
現在サントノーレには、ルイビトン・エルメスなどの高級ブティックが並ぶ。この周辺のサントノーレ街にはレストラン・タイユバンがあり1丁離れて日本大使館がある。パリ講和会議の日本代表団は、より外務省の近くバンドーム広場に面したホテルを借切り事務所とした。 |
|
バンドーム広場からはシャンゼリゼとセーヌ川にかかるアレクサンダー三世橋(セーヌにかかる美しい橋。露仏同盟の相手方の君主を記念した。ニコライ二世の父)を渡るとフランス外務省である。
フランス外務省でパリ講和会議の大半が持たれた。外務省の建物はケードルセー(Quai d'Orsey)と呼ばれる道、オルセー宮に向かう河岸通りに面している。第2次大戦でヒトラーによりセダンを突破されたときチャーチルが訪問、中庭で書類が燃やされているのを見て落胆したことでも有名である。ヒトラーは1940年6月征服者と観光客を兼ねてパリを訪問した。この時ケードルセーからアンバリッド(廃兵院:現在でも傷痍軍人が治療を受けておりまたナポレオンの遺体が安置されている。)を訪問、その後オペラ座を見学しエッフェル塔に回ったという。
現在凱旋門からコンコルド広場までシャンゼリゼ通りが通るが、凱旋門(シャルルドゴール広場)へはグランダルメー(直訳すれば大陸軍だが、総動員後の陸軍を指す。)通りとフォシュ通りが合流している。またシャンゼリゼー通りの中央にはFDR駅と並びクレマンソー駅がある。コンコルド広場はマリーアントワネットが処刑されたことで有名だが、その結果として名前がコンコルド(和)に変えられた。 |
凱旋門にはその後、第一次大戦無名戦士の墓がおかれた。第二次大戦フランス敗亡のおりの日本の外交官の記録である(佐藤尚武 『回顧八十年』 時事通信社 1963)。
「私はちょうど(1940年)7月14日の朝、シャンゼリゼーを上りつめて、凱旋門のところで車をおりた。無名戦士の墓にもうでたい気持ちからである。凱旋門からエトワールの広場を見回すのに、いずれの家もみなしまっている。(中略)目にうつるのは、ただ大きな赤地に黒の逆マンジのハーケンクロイツばかりである。これはまた無数にかかげられている。凱旋門の真下に永久の眠りについている、第一次ヨーロッパ戦争の墓碑は、大きな白の大理石盤でできていて、水平に地面にはめこんである。その頭の方には、休戦当時から燃え続けている消えずの火が、いまもって赤々と炎をあげている。すべて昔のとおりである。しかし昔と比べて大きな違いは、昔墓にもうでていたフランス人が、今は一人もいないことである。三々五々、つどい来るのはドイツの兵隊である。彼らは丸腰で武装もなく、普通の見物人と同様の気持ちでくるものらしい。しかし集まってくると、だれか小声で号令をかけ、無名戦士の墓碑の前にきちんと整列し、そして挙手の礼をささげるのである。私は同じくそばにたっていて、つくづく深い感にうたれざるをえなかった」
現在でも11月10日、第一次大戦休戦記念日の式典が下に埋められた無名戦士の棺の前で行われている。日本の自衛隊武官も参加しているが三色旗が掲揚されたときは女性も含めて脱帽し男性は右手を左胸にあてた方がよいでしょう。なおシャルルドゴール空港の北辺はクルックのターンが行われた地点であり、シュリーフェンプランに基づくドイツ軍の最大進出地点は現在のパリ・ディズニーランドの近辺である。

Mayer, Arno J., Politics and Diplomacy of Peacemaking: Containment
and Counter-Revolution at Versailles, 1918-1919, NewYork,
1967
ヨーロッパその後に進む
に戻る