アメリカの参戦

ウッドロー=ウィルソン

アメリカは第1次大戦が勃発したとき、すでに共和国だった。このときヨーロッパに共和国は3つしかなかった。フランス、スイス、ポルトガルである。全世界でも大国としてはアメリカとフランスしか共和国はなくそしてアメリカはフランスより古い共和国だった。

フランスが再度ドイツから侵略されたようにみえたとき、共和制=民主制を護持しようとするアメリカにとり敵はドイツと判断したにかたくない。君主制と民主制は相容れないという偏見がアメリカには牢固としてあった。ところが当時アメリカは各国の人種が集まっており反ドイツでまとまることは困難だった。

それより随分昔、モンロー宣言が出された。西半球はアメリカの勢力範囲だと言ったのか、ヨーロッパの大国が南北アメリカ諸国に干渉してはならないのか不分明であるが、多くのアメリカ人は南北アメリカを自己の勢力範囲とみなした。これは逆にアメリカはヨーロッパの事件に干渉すべきでない、ともとれるから孤立主義に根拠を与えることになった。

よく血は水より濃い、としてイギリスに共同して、戦ったとする見方があるが一方的だろう。血はそれ程ものを言わない。アメリカ移民の総数でイギリス系が多いかドイツ系が多いかも疑問だし、現在の統計上ではアイルランド系が6000万人とトップである。WASPというのはあまりいないから珍重されので、実際この頃までに混血が進み誰もが自分が元アンブロサクソンだと言ってもおかしくない状態だった。ただ言葉は英語であり、血が言語を意味するのであれば妥当する面がある。

チャーチルは英米混血のせいか、生涯英語国民の統一を夢見たが、アメリカでの支持者はいまだにほとんどいない。そのうえ英語国民で最大なのはアメリカを除けばインドではないか。ただアメリカが血ではなくて英語で共通の国民を育んで来たのは事実だろう。ハプスブルグ帝国のドイツ語人口は自身をドイツ人とみなしていたが、アメリカの英語人口は自身をイギリス人とみなしていない。ただこの血の議論をイギリス人は必ずしも否定していない。

アメリカはまたGNPで当時ドイツとイギリス合計より大きかった。また産業の競争力として民生品ではヨーロッパのどの国にも負けなかった。駆逐艦をアメリカで作るのに竜骨を並べてから、進水まで2週間だった。イギリスでは3ヶ月かかった。戦争後期になり小銃の生産能力は毎月100万丁に達した。

アメリカは世界で始めて、大量生産体制を民間だけで、作り上げた国だった。アメリカは天然資源が豊富で大量生産が可能になったと、説く人も多いが、これも疑問だろう。国家=市場を構成する人口規模が適切で、労働人口=消費者人口が画一化されていたためではないか。問題は量だけでなく能率もよかったのである。ロシアに産業革命が起きた頃アメリカでは大量生産時代に突入していた。そして旧世界は事実を知ってはいたが、模倣しようとするのは第2次大戦以降となる。

仮に戦争がGNPと人口で決まるなら、アメリカを味方にしたほうが有利だろう。なにしろ第1次大戦よりこのかた、この法則は妥当しているようにみえるのだから。

アメリカは南北アメリカ大陸を勢力範囲とみなしていた。そしてこれは警察活動を実施することを意味した。警察活動といっても軍隊を他国に派遣するのだから、内政干渉にみえるが共和制であるから、選挙民の支持する方法によらねばならず、実態は人道支援に近い。このころからアメリカは領土の拡大により外国人をかかえこむことに慎重になっていた。

これは現在では多くの国でとられている国策でもある。

アメリカの中南米派兵

大国の外国でに軍事活動を帝国主義ととらえるむきもあるが、ほとんどの大国で第1次大戦の前後から植民地を拡大することで、外国人が流入することに警戒する動きが顕著となってきた。これは一種の民族主義的傾向で、帝国主義・国家主義より悪質な面がある。

また植民地でない独立国への治安警察活動は多国籍軍を結成するやり方が主流となってきた。北清事変(義和団事件)が好例だろう。もちろんアメリカを除き日英独仏とも旧来の単純な植民地拡大を棄ててはいない。検討しなおす動きが顕著になったということだ。

また当時の大国のGNPが拡大、経済が発展したのは実は植民地を保有していたからではなくて、産業革命(正確には前期産業革命)を成功させたからだ。GNPが拡大して武力が伸張し植民地を得て維持することができたのだ。逆ではない。植民地をほとんどもたないアメリカがなぜイギリスより一人当たりGNPが第1次大戦以前に大きいのか。アメリカが民間だけの力で究極の産業革命=大量生産体制を作ったからではないか。また産業革命以降の資本主義と帝国主義を結びつけるのも誤りだ。帝国主義は産業革命以前からあったのだ。

そして植民地獲得に負の側面を発見したあと、経営を止めるか、そこの居住民を絶滅・屈服させるかの選択となりいまだに後者をとる国がでることに、驚かされる。またこれらの国々は干渉を受けると、内政干渉だと自国の無秩序を棚にあげて騒ぐ。しかし秩序維持に失敗した帝国や自国民に非人道的な行為をする国家が外部から干渉をうけねばどうなるのか。実例でゆけば国際法では大国による内政干渉は可能であれば可だとしかいいようがない。

 内政干渉を外国に叫ぶ前に自国で無残な内政を行っていることを反省する必要があるし、これは現在でもあてはまる。そして干渉をすることに外国が興味を失ったり、干渉できないほどの武力をその国が保有したとすれば残念なことと言わざるをえないではないか。

アメリカの国策は上述のようにヨーロッパとも日本とも異なる独自のものとなった。そしてモンロー宣言のてまえ、とにかく中米の騒乱には一国で対処していた。1912年8月ニカラグァ、1915年7月ハイチ、1916年1月ドミニカと忙しい。これらの国の内政はどの基準をとっても失敗していた。そしてなかでも最大の問題はメキシコだった。

メキシコ内戦

メキシコはディアツの独裁体制が崩壊し混乱の極致にあった。革命を賛美するのもよいが、政治に興味がない人々まで犠牲にされるところに、不条理なものがある。またメキシコはまだ農業国家でありしかも生産性が低く農村は貧困にあえいでいた。ウエルタ派・ビリヤ派・サパタ派・カランサ派と軍閥(強盗団の方が正確かもしれない)が交互に首都を占領しまた各地に割拠し流浪していた。

アメリカは第1次大戦が開始されてもおさまらない裏庭の内戦に危機感を覚えた。しかしアメリカはどこを支持するか旗幟を鮮明にできず、またみずから政治責任もとろうとしないかい。

始めウエルタ派をささえたが、風雲児ビリヤが現れるとカランサ派にも向く。ところがビリヤは徒党を率いてアメリカ・ニューメキシコ州に乱入被害を与えた。こうなると放置できず、1万人にも及ぶ陸軍を派遣した。しかしアメリカの遠征軍1万人は決してメキシコの規模では大軍ではなく一向に治安は好転しない。アメリカはすでにベトナムをこの時一回経験しているのだ。

この経過をみると、軍事介入して(領土拡大の)利益もなくただ周辺諸国の疑いを招いたといわれかねないが、果たしてそういったロジックは有効なのだろうか。隣国に革命(王制打倒だろうが共産革命だろうが)がおきてその後に、無辜の市民が殺戮されるのを放置してよいのだろうか。この状態は現在の日本にもあてはまるし、かってカンボジアで悲惨極まりないの事件が起きた。アメリカはその時ベトナムの介入を非難したがダブルスタンダードではないか。

だが解決がみえない問題だからこそ史実を明確にする必要がある。辛亥革命以降の中国への日本の干渉は、警察活動の面があったのだろうか、または大東亜帝国建設を考えたのか両方か疑問が残る。警察活動を隣国一国でやることが問題だというのは正鵠をえている。

日本が参戦を決めたときジョフルは旧陸軍参謀本部に、「光輝ある日本陸軍がわが友邦として参戦したことを名誉とし云々 」という電報をおくったが、アメリカの参戦にはそういった時代とは異なるものを感じさせる何かがある。

おそらくアメリカ人は仕方のない警察活動としてヨーロッパに出ていったのではないか。もちろん参戦について国民投票をすれば、圧倒的に否決されただろう。戦後、味方した連合国の戦後処理策が中米の親米政権のそれと大差なく功利的なものを見たときいっそう幻滅は広がったに違いない。ここがまた日本の参戦動機とも違うところである。

英霊と拡張した領土を天秤にかけるようなところが戦前の日本を不幸にした。しかしそれはヨーロッパのやり方だった。アメリカは一歩進んでいた。

アメリカの英仏への貸出し急増

ヨーロッパのアメリカ依存といっても英仏は開戦時よりアメリカの参戦まで、実は武器はあまり輸入していない。イギリスは食料輸入とフランスは一般工業原材料輸入が中心だった。最終製品は船舶を筆頭とする輸送用機器が多い。これは第2次大戦前期が航空機部品・石油だったのと比較すれば好対照をなす。またヨーロッパ民間のアメリカへの直接投資が急増した。これは安全なところに資産・生産を移そうという動きだろう。これに伴い民間資金の移動も相当にあったと推定される。いわゆる有事のドル買いである。この見返りでアメリカからの短期の運転資金貸出しも急増した。

これらはすべてアメリカに未曾有の好況をもたらした。そしてこの原因は英仏に限られた。このことがアメリカの英仏についても参戦に何も影響がなかったとはいえない。すなわち英仏はアメリカにとり債務者となった。

ドイツが同様の活動をすることはイギリスの封鎖下でもある程度可能だった。しかしドイツは必要がなかった。ドイツに必要な工業原材料はバルト海とドナウ川の水運で確保されていた。唯一不足したのは食料だが、これも戦前は独墺とも輸出国だった。ドイツはイギリスの封鎖作戦を飢餓封鎖と呼び非人道的と非難した。そして70万人が餓死したと発表した。だが戦時宣伝の公算が大である。70万人は第2次大戦中ドイツの空襲による民間人被害45万人よりはるかに多い。

裏付ける証拠がない。たしかにベルリンで炊き出しが行われていた。1916年秋のターニップ飢饉で1917年は悪化した。だが1918年には回復したはずである。この間の事情をヒトラーはとにかく前線で餓死したヤツはいない、といった。このあたりが真相ではないか。

経済的に英仏がアメリカと結びついた。これをドイツはアメリカが英仏に武器援助を実施したと信じた。だが武器より強い経済交流が英仏米で戦中に急増したのだ。英仏はこのように金融を通してアメリカに従属して行く。

実はドイツは経済上アメリカに対抗しうる唯一の国であり、それが経済の独立性を確保させアメリカと疎遠になることを招いた。このあたりは日本の進路とも似ている面がある。ただしこれらはすべて戦中に発生したことで、戦間期、民間貸出しはあっと言う間にドイツにシフトしたことを忘れてはならない。

無制限潜水艦戦とチンメルマンノート事件

1916年4月ベートマンホルベークの反対で無限定潜水艦戦が放棄され、その後1917年1月にルーデンドルフの発案で再開された。これとチンメルマンノート事件とによりアメリカの参戦が確定した。

潜水艦戦と封鎖作戦
チンメルマンノート事件

これは史実だが1914年当初では参戦の声はあったがどちらにつくかは少なくとも議論だった。しかし1915年中には参戦とは連合国につくことを意味した。このあたりの変化はなお研究に値する。