トルコの参戦

トルコの参戦

トルコ参戦

トルコの参戦

トルコの参戦

トルコの参戦は、イタリー・ブルガリア・ルーマニアにみられるような、他国との領土の密約といった要素がない。トルコにとり中央同盟に積極的に組する理由はなかった。トルコは1910年イタリーとのリビア戦争と1912年の第1次バルカン戦争に敗れ、すでにヨーロッパでの影響力と威信とを失っていた。

それでも参戦したのは反ロシア、反イギリスの抗しがたい誘惑だったのではないか。オスマン帝国は欧亜にまたがる帝国でかつイスラムの守護者として振舞った。ところが、青年トルコ党(統一と進歩党)のクーデターによる政権掌握後、帝国からアナトリアを中心とする国民国家に転換をはたしつつあった。

第1次大戦で、トルコはオスマン帝国というより、トルコとして戦った。イタリー、ブルガリア、ルーマニアなどは参戦しても同盟国の利益ならず、軍事力としては無意味に近かった。ところがかってのヨーロッパの病人トルコは明らかにそれらの国と異なっていた。                         

1908年青年トルコ党によるクーデターが起き、タラート・ジェマル・エンベルによる三頭政治が実現した。青年トルコ党は秘密結社でリーダーはおろか、党員名は一切公表されていない。このため現在でもリーダーを始め組織は未解明である。1912年第1次バルカン戦争でブルガリア軍にイスタンブールの近くまで攻め込まれた際、エンベルが撃退したとされ、エンベルの名は一躍有名となった。エンベルは1913年反革命事件のさい、陸軍大臣を自ら射殺した。この事件はエンベルを三頭中のトップに確実に押し上げた。第1次大戦開戦時には年齢が一番若いにもかかわらず、エンベルが指導的立場にたっていた。

またオスマン帝国は欧亜にまたがる大版図をかかえており、民族は複雑だった。アラブ人の居住する広大な地域を保有していたが、軸足はむしろヨーロッパにあった。青年トルコ党の3巨頭はいずれもどの民族か特定しがたい人物であり、アナトリアの原住民という意味でのトルコ人はいない。

この間1911年トルコはクリミア戦争以来の盟友イギリスに同盟を申し込む。もし同盟が成功すれば第1次バルカン戦争はおそらくなく、海峡地帯の安全に有意義だったと思われるが、イギリスはこれを断ってしまう。また同じ年1911年に乃木希典(ジョージX世の戴冠式に出席した東伏見宮に随行)がイスタンブールを表敬訪問している。

また、チャーチルが1909年にトルコを訪問し、エンベル他青年トルコ党の領袖と面会している。この時チャーチルは、「(イギリスとトルコの間の)同盟は不必要である。トルコがイギリスとの長年の友情を無にし、現在イギリスが保有している海軍力に挑戦したり、旧式の専制権力(ロシア)に近づいたりして、失わせることはないだろう。」と結論づけている。

さすがにいち早く新生トルコの可能性を認めていることは卓見というべきだろう。しかしイギリス自由党の伝統的な見方、「腐敗した、崩壊しつつある、老衰した、金のない、トルコ」という見方を変えることはできなかった。乃木希典と同行した外務省職員の帰朝報告でも、崩壊しつつある老帝国としている。だが以前しめされまたその後も同様にトルコはロシアの南進を食い止める力があるのだ。

一方ドイツはベルリン−バクダット鉄道構想でトルコに接近していたと言われるが、鉄道が何でも植民地や帝国と関係があるわけでもなく、またヨーロッパへの中東からの鉄道は他のヨーロッパ諸国も歓迎で、イギリスもその構想に賛意を示していた。ドイツは1913年陸軍軍事顧問団を要請によりトルコに派遣した。一方、イギリスは海軍軍事顧問団をすでに派遣済みだった。

これはロシアを怒らせた。しかしフランスも含めて大きな興味を引かなかった。軍事顧問などドイツは相当の数の国に派遣しており、アメリカ、日本、清国なども受けいれていた。要するに当時のドイツは他に輸出するものがあまりなかった。

1914年7月28日オーストリアがセルビアに宣戦布告をすると、トルコはドイツにロシアを対象とする秘密の攻守同盟を打診した。ドイツはこの意外な申し込みに欣喜雀躍した。すぐさま承諾の返事をしたが回答は1週間後の8月3日だった。トルコの考えは、仮に連合国が勝てばトルコはその軍事的強圧で、領土の縮小は必至である、また中央同盟国が勝ちトルコが中立だったとするなら、ドイツの従属国となる、このため参戦しか選択はない、というものだった。

イギリスはこの重要な1週間に、トルコに我慢のできない仕打ちをした。トルコはイギリスにドレッドノート級戦艦を2隻発注して、すでに1隻(スルタンオスマン)は完工していた。そして500人のトルコ人士官水兵が待機していた。これを一方的に徴用してしまったのだ。船価は2隻で30百万ドルと高価だったが、トルコは財政的余裕がなく、国民の募金でこれに応じていた。この徴用の通知とドイツへの同盟承知とは同一の日だった。

それでもトルコはロシアへの宣戦布告をためらい、様子見を計った。

ゲーベンとブレスラウのダーダネルスダッシュ

大戦勃発時、地中海にドイツ軍艦は2隻ブレスラウとゲーベンしかいなかった。当初オーストリアは英仏に宣戦布告を行わず、またイタリーは中立を宣言したから、この2隻は地中海の全ての英仏の海軍を敵とすることになった。         ゲーベン

ブレスラウ(軽巡)とゲーベン(巡洋戦艦)はドイツ地中海艦隊と呼ばれていたが、最大の仕事はウィルヘルム二世のギリシャ領コルフ島アヒレイオン城での春季休暇を護衛することだった。1914年、この任務もギリシャ王女の宿泊という名誉で終え、アルバニア内乱鎮圧の国際艦隊に参加していた。

前年に独立を宣言したアルバニアでは部族間の対立が続き、これを鎮圧するため独英伊を中心とした小規模の多国籍軍が結成されていた。イギリスは戦艦キングエドワード7世を派遣していたが、ドイツはなけなしの地中海艦隊(司令官スーホン)といっても2隻だが、を出動させた。

6月29日サラェボ事件の翌日、ブレスラウの乗員とイギリス水兵は前日までサッカーを楽しんでいたが、深夜ブレスラウの面前から挨拶もなくキングエドワード7世が姿を消した。イギリスは戦争切迫の可能性をみて、マルタ島に全地中海艦隊(司令官マイルン)を結集させることに決定した。スーホンも直ちに危険性を察知し、石炭の手配(ドイツは基地をもたず、石炭船を各地に遊弋させていた。)と行動計画をたてた。

ブレスラウ

デーニッツ(ヒトラーの後継者、第2次大戦のUボート戦隊の司令官)によると、この直後スーホンから、一旦上陸してエーゲ海における石炭船との邂逅のアレンジを指示されたという。デーニッツは士官としてこの時ゲーベンに乗っていた。とするとスーホンはこの時すでにトルコ行きを計画していたことになる。デーニッツも賞賛しているが、スーホンのイニシアチブの取り方はまことに見事なものだった。太平洋艦隊のシュペーも同様だが、本国とはなれた艦隊の活躍はドイツの海軍の清華をみるようだ。それに引き替え本国の外洋艦隊は、と思うのだが。

スーホンは三国同盟の軍令部レベルでの打ち合わせの内容に従いイタリーのメッシナ軍港に向かった。フランス陸軍の北アフリカから、マルセイユに向かう輸送阻止のため三国同盟艦隊はメッシナからアルジェリアに向かう計画をたてていた。メッシナに着くとオーストリア艦隊は存在していないうえ、イタリー人は無線連絡を妨害しはじめた。これは好意的中立も期待できないことを意味した。8月2日メッシナを発つときには、スーホンは単独行動を決意した。

本国の軍令部からは政治情報、すなわちどの国と戦闘状態にはいっているという連絡ははいるが、孤軍となった艦隊への命令は来なかった。そのうえ、スーホンは別の悩みを抱えていた。ゲーベンが機関故障で速度が出せなかったのだ。ゲーベンは23千トンとド級戦艦並みの排水量トンを誇っていたが、公試27.5ノットにたいし24ノットしか出なかった。一応ド級巡洋戦艦に分類されるが、11インチ砲10門と火力が同系のイギリスの巡洋戦艦インビンシブルが12インチ砲8門をもつのに比較して見劣りした。

このクラスの巡洋戦艦を3隻イギリスは地中海にもっていたから、戦力では問題にならなかった。スーホンはしかし当初計画通り8月4日未明大胆にも、アルジェリアの港湾都市、フィリップビルとボネを艦砲射撃した。これは予定外の効果をもたらした。フランス海軍は陸軍の輸送に全力をつくすことになり、ドイツ艦隊の追跡はイギリス艦のみとなった。

イギリス巡洋戦艦インドミタブルとインデファティガブルは8月4日午前ドイツ艦2隻を発見したが、なぜか速度で遅れをとって見逃してしまう。イギリス艦は戦闘配備としていなかったために最高速度がだせなかったらしい。ところがスーホンはゲーベンの機関故障のため、石炭消費が多いことを計算し再度メッシナに向かうことにした。このときの遭遇はまさにイギリスのドイツにたいする宣戦布告の直前だった。

メッシナに4日深夜着いたがイタリー官憲の冷たい中立遵守の説明を受け24時間以内に石炭の積み込みを終えねばならず、8月6日午後6時出港した。昨日軍令部の打ち合わせではトルコの同盟はほぼ決したが、参戦は未定のためダーダネルスに向かっても可否はわからないという結論だった。しかしスーホンは生き残る可能性はイスタンブールに到着することだけと判断し、それに賭けることを決めた。

MAP(ゲーベンとブレスラウの進路)

一方マイルンはシシリー島の東西どちらで守備するか迷った。イタリーの中立侵犯はどうしても避けなければならず、メッシナ海峡(シシリー島とイタリー半島の間を通る。)に突入することは許されなかった。中立国の領海、沿岸から3マイルを考慮すると、幅6マイルないメッシナ海峡は通ることができない。海相のチャーチルも迷ったが、突入はさせず主力の巡洋戦艦戦隊は海峡の西で守備することを指令した。第2次大戦の始め、同じく海相を務めたチャーチルはノルウェーのヨシング・フィヨルドでドイツ船アルトマルクを追跡、中立侵犯など意に介さず、拿捕に成功し拘束されていた300人のイギリス人救出を成功させた。チャーチルは300人の救出のほうが外交より重要だったと強調している。これはダブルスタンダードだ。メッシナ海峡の件がこたえたのだろう。

海峡の西を守備したのはジブラルタルから大西洋に脱出することを恐れたためだった。もっとも海峡の東には巡洋艦4隻(ディフェンス・黒太子・ウォリア・エディンバラ公)からなる戦隊(トロウブリッジ)を配置し、メッシナ港外には軽巡グロースターが哨戒していた。港外に出たドイツ艦隊はすぐ発見され、トロウブリッジに知らされた。

トロウブリッジは対馬海戦で観戦武官をつとめ、アウトレインジ戦法を信奉していた。アウトレインジ戦法とは優勢な火力で、敵の射程距離外で圧倒する方法であるが、日本の連合艦隊がこれで勝ったのは、最終局面のネボカドフ艦隊の降伏時だけだが、日本にもこの戦法の信奉者が急増したのはなぜだろうか。

トロウブリッジはドイツ艦隊のほかにもオーストリア艦隊にたいする警戒の任務ももっていた。
アウトレインジ戦法に従えば、敵の主砲は11インチで味方巡洋艦は9.2インチで対抗できず退却することになる。そしてトロウブリッジは実際艦隊を撤退させてしまう。まだ見ぬオーストリア艦隊の警戒を重視したというのだが。

4隻あれば、敵の射撃で全滅する前に肉薄することが可能と思われるがどうだろうか。あるいは臆病風にふかれたのだろうか。

25年後の1939年9月、イギリスの3隻の重巡(エグゼター・アキレス・エイジャクス)は舞台をかえポケット戦艦グラフシュペーをウルグアイ領モンテビデオ沖で自沈させることに成功した。前日の海戦でもっとも活躍したエグゼターは単艦で肉薄し全砲弾を浴び、主砲はほぼ全門破壊された。それでも残り2艦でシュペーをモンテビデオ港に追いやった。この殊勲のエグゼターもジャワ沖で帝国海軍に撃沈されることにはなるが。この時も海相はチャーチルだった。

トロウブリッジが引き上げた後でも、マイルンはドイツ艦隊が西に向かうものと信じていた。そしてこの点ではチャーチルも一緒だった。後年チャーチルは英国政府がトルコ人より情報が劣っていたとはどうしても信じられなかった、というがイギリスのトルコ人蔑視が妨げとなったのだろう。

グロースターはあきらめずに追跡を続けるが、最後に数発の砲戦を交わした後引き上げた。マイルンはエーゲ海の北に追いつめればよい、と考えゆっくりとした追跡を開始した。しかし石炭積み込みを終えたドイツ艦隊は、8月10日午前5時、トロイ遺跡を右にみながら、ダーダネルス海峡の関頭に到着した。ここからは、水先案内人がいなければ通ることは出来ない。

その日複雑な交渉がイスタンブルールのあちこちで、行われた。ドイツの駐在武官はエンベルにドイツ艦隊の通行許可を要請した。はじめ、閣議に諮らねばと言を左右にしていたが、最後に「通行を許す」とエンベルはキッパリと言いきった。10日夕刻、2隻は海峡にはいった。チャーチルはこの船ほど、(イギリスに)死者と破壊と不幸をもたらしたものはないと言ったがその通りだろう。

だがそれでもトルコ政府は表面的な中立を維持しようと画策する。そして2隻の軍艦をトルコが購入したという形をとった。名前はヤウズとミディリに変えられ、ドイツ人乗組員はトルコ帽をかぶるようになった。

その後のゲーベン

エンベルはこの2隻を手に入れることによって、黒海の制海権が得られると考えた。だがロシアもまもなくインペラトリッツァ・マリア級巡洋戦艦を就航させる。

エピローグ

イギリス政府はダーダネルスに戦艦を突入させることも考えたが、トルコが直接脅威となる、ロシアとフランスがおしとどめた。ドイツ政府はトルコ人の煮え切らない態度に業を煮やし10月28日、2隻はスーホンの指揮下セバストポリとオデッサを艦砲で射撃した。ロシアはこの攻撃により10月31日トルコに宣戦を布告した。英仏もそれに従った。

直後のガリポリ上陸戦の失敗、不凍港を奪われ外部との交易が断たれたロシアの悲運、メソポタミア・コーカサス・パレスチナへの戦火の拡大、そしてオスマン帝国の崩壊それらはすべてゲーベンとブレスラウのダーダネルス・ダッシュの影響である。その後もセーブル条約の不履行、英仏の中近東政策の失敗と続き、現在のこの地域の不安定の原因の一つを作ったのは疑いない。

マイルンとトロウブリッジはその後軍法会議(予備)にかけられた。結果は無罪だったが、二度と艦隊勤務につくことは許されなかった。名前を変えたヤウズとミデイリはその後も黒海を舞台に大活躍した。ヤウズはトルコ海軍に1960年まで就役した。

トルコ陸軍はその冬、コーカサス作戦を発動して失敗した。エンベルは三頭政治から一歩脱し指導的立場にたつが、そのロマン主義的な政治態度は変わらなかったし、ドイツをもてこずらせた。エンベルは方向をコーカサスに定め、最後終戦に至って、全バクーを占領した。そこでトルコの夢は終了したが、エンベルの夢はさらに続く。

コーカサス戦線



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