ルーマニア参戦

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ルーマニア参戦

ルーマニア参戦

ルーマニアは1877年オスマン帝国領だったワラキアとモルダビアが統合して生まれた新生国家である。国王はホーエンツォレルン家から、カロールT世が選ばれた。大戦勃発とともに、当然国王は縁戚のドイツと親密な関係を結んだ。

ところが、国民は大ルーマニア構想のもと、オーストリア領トランシルバニアの吸収を熱望していた。このため、国王も国民感情を配慮せざるをえず、中央同盟国への好意的中立を政策とした。1914年10月カロールT世が急死、甥のフェルディナンドT世があとをつぐ。新国王の妻マリヤはビクトリア女王の孫であり、イギリス人だった。この妻の影響で、ルーマニアは急速に連合国側に傾いて行く。       王妃マリヤ

首相ブラティアヌはもともと親仏論者(若いときフランスに留学していた。)で、積極的に連合国にたった参戦を追求した。1915年1月27日イギリスからトランシルバニアの併合を認める秘密約束を得たようである。イギリスはオーストリア領の割譲を周辺諸国に約束しているが、このときにはすでにハプスブルグ帝国の解体を決意していたのだろうか。

それでも武力行使となると逡巡していたが、ロシアのブルシロフ攻勢の成功が最終的決意を固めさせた。1916年8月31日、ルーマニアはオーストリアだけに宣戦を布告した。しかし1週間以内にルーマニアはドイツ、トルコ、ブルガリア全部に宣戦布告をうけ、事実交戦することになった。

地勢的に4国から集中打を浴びかねないにもかかわらず、援軍はロシアしか期待できなかった。そしてそのロシアはルーマニアに援軍を送る余力はなく、またルーマニア軍に何も期待していなかった。

ルーマニア軍は公称62万人と言われていたが、実態はそれに及ばず三分の一は輜重兵で、かつ予備役と現役の区別が兵士では判然としなかった。いずれにしても農繁期には一部を除隊させねばならない状態で近代的な国民軍と呼ぶには無理があった。兵士はおろか将校で字が読めないものがあり近代的戦術を実行する能力には土台ない。

イギリスの観戦武官によれば、ルーマニア軍の行進はパブリックスクールの中学生の分列行進に劣り、フランス武官によれば、兵士はまあまあ、下級将校は軍事知識がゼロで、将軍は指揮能力が全くない、という。そしてロシア武官の言は活字にするのは不可だった。

第1次大戦でドイツは西部戦線から東部戦線に鉄道で兵員を輸送するのに5日しかかかっていない。50万人程度の孤立した軍を粉砕するのは極めて容易だった。ここに近代戦で、小国の孤立した軍が役に立たない理由がある。小国の軍は大国の軍に平行して使われない限り、無意味だ。これは現在に至っても変わりがないように見える。

ルーマニアはそれでも宣戦から5日以内に50万人の戦闘部隊を動員するのに成功したが、中央同盟国軍も20万人に及ぶ軍を集結させた。しかもこれはオーストリア軍が64万人、ドイツ軍が15万人の損失を、ブルシロフ攻勢で蒙ったあとである。ロシア軍はブルシロフ攻勢の方法が第1次攻撃部隊と戦略予備部隊をほぼ同時に使う方法のため、南西軍(ブルシロフ)に予備がなかった。

北西軍(クロパトキン)と西方軍(エベルト)はブルシロフ攻勢のあと自分の正面で攻勢をかける予定であったが、攻撃の仕方がわからず、兵員をブルシロフにまわしていた。そしてアレクセイエフはコーベルでの突破という古い方法にかけており、そこに軍を集中していた。

それでも南西軍の最南部第9軍(レチツキー)は8月にはいっても攻勢を維持し、東ガリシアとブコビナ全域を占領し、先頭はカルパシア山脈に達し、ハンガリー平原を伺う勢いだった。

ルーマニアが参戦したのはこの時であり、順調に進撃するロシア第9軍と連絡すべく、ハンガリー領トランシルバニアに攻撃をかけることは当然の作戦にみえた。そのうえ、トランシルバニアはルーマニア人が多数派を占める広大な土地で、ルーマニア国民も領土獲得を熱望していた。

ところが南部のドブルジャは第2次バルカン戦争の結果、新しく属領とした地域で、住民の最大集団はブルガリア人だった。当然ブルガリアはこれの回復を悲願としており、ルーマニアの参戦をきくと同時にドブルジャ進攻を決意し、ドイツ軍の派遣を要求した。要するにルーマニアの一挙粉砕を熱望したのはブルガリアで、独墺ではない。

連合国の統制は中央同盟国に及ばなかった。フランスはアレクセイエフにルーマニアの救援は最重要課題で、全力を尽くすべきだと主張し場合によればロシアはルーマニア人が多数住むベッサラビアをルーマニアに譲るべきだと示唆した。6月まではベルダン戦が全世界の未来の分岐点だと言い、この変節であるからアレクセイエフも驚いた。しかしルーマニア軍は無価値でその参戦は東部戦線を延長するだけで、負担をむしろ増大させるという考えは変わらなかった。そしてこの判断は的中することになる。

ルーマニア軍は開戦と同時に全軍の四分の三、20個師団をあげてトランシルバニアに殺到した。守備するオーストリア軍は1個師団半と炭坑労働者の自警団だけだった。ところが鉄道がルーマニアからトランシルバニアへはほとんどないが、ハンガリーからトランシルバニアへは豊富だった。当然だろう。その結果広大なトランシルバニア平原を占拠しても部隊を占領のため分散配置できただけで、補給が続かなくなった。この問題に対して、戦前に何の検討もなされなかった。

ルーマニアキャンペーン:マッケンゼン軍はブルガリアから入り、ファルケンハイン軍はトランシルバニアからブカレストを直接目指した。(矢印)線はルーマニア軍のトランシルバニアへの最大進出線。

一方ブルガリア方面から侵攻する中央同盟軍の司令官としてマッケンゼンが任命された。ブルガリア軍が中心の約10個師団であるが、マッケンゼン軍とよばれることになる。マッケンゼンはドブルジャ作戦自体を牽制とみなしており、更に広大な前線維持とドナウ川渡河のため、トトラサイヤ要塞に陽動作戦をかけることにした。

トトラサイヤ要塞はリエージュと同じくブリアルモンが設計した1870年代の旧式要塞にすぎない。マッケンゼン軍の接近に伴い、要塞司令官は内外の記者団を集めトトラサイヤはルーマニアのベルダンで、敵軍を通させることはない、と宣言した。翌日要塞は陥落した。8割の守備兵は降伏し、残りは要塞司令官を先頭に逃亡した。実際攻城軍の数は守備兵より少なかったのだ。

そのあとマッケンゼン軍は首都ブカレストのあるワラキアに侵入を開始した。ロシア軍はドブルジャ軍(ザヨチコウスキー)として3個師団が派遣されており、抵抗したのはその軍(指揮下にルーマニア軍6個師団を含む)だけだった。ザヨチコウスキーはアレクセイエフにルーマニア兵に近代戦を戦わせることは、ロバにメヌエットを弾かせるようなものだと、報告しており共同の実はあがらない。ロシア軍は相手をかまわず投降するルーマニア兵をブルガリア兵と錯覚し、自国内まで連れていったという。

更にロシアとルーマニアの間も鉄道はほとんどなかったから、ロシア軍も補給に悩み現地調達に走った。このため、ワラキア各地で各軍による物資の争奪戦が発生した。アレクセイエフはルーマニア軍が近代戦を学習するために、ワラキアとドブルジャを放棄し、モルダビア山中に立てこもり持久戦に出るべきだと考えはじめた。

9月15日ルーマニア参謀本部はトランシルバニアにいる20個師団のうち10個師団を割いて南方軍を結成し、ブルガリアに攻勢(!)にでることを決めた。だが同時に中央同盟国は予定通り、ドイツ兵を中心とする第9軍(ファルケンハイン)12個師団を結成し本軍としてトランシルバニアに向かわせた。

マッケンゼンはいきなり首都ブカレストへ向かわず,補給線を確保しながら海岸線を進んだ。ここでドブルジャ軍(ザヨチコウスキー)と交戦となった。戦いはあっけなく終了した。ドブルジャ軍は中央をロシア軍が守り両翼をルーマニア軍が守る陣形で臨んだが、1時間の砲撃でルーマニア軍は壊乱状態に陥り逃亡を始めた。ロシア軍は孤立したが、攻撃の中心となったトルコ=アラブ軍とブルガリア軍はルーマニア軍を深追いするばかりで、ロシア軍に攻撃をかけなかった。
ロシア軍は重囲に陥りながらも粛々と撤退したが、ドナウ川三角州は完全にマッケンゼン軍の手中に帰した。ルーマニア最大の港湾であるコンスタッツアはルーマニア官憲の混乱で無傷でマッケンゼン軍に大量に備蓄してあった食糧と石油とともに渡された。

トランシルバニアを行く第9軍(ファルケンハイン)は分散して残されたルーマニア軍10個師団を個別に撃破したあとワラキアを望む山岳地帯に到達した。ところが山岳地帯にはブルガリア攻撃を予定した南方軍が移動中で残留しており、抵抗を開始した。そのうえ山岳地帯で10月となると降雪があり、ファルケンハインも補給に苦しむようになった。

ここにきてアレクセイエフもルーマニアの崩壊が近いことを悟り、ドナウ軍(サクハロフ)を編成しルーマニアに向かわせた。これは兵の逐次投入にみえるがそうではなかった。ドナウ軍はドナウ=ブカレストに向かわず、モルダビアに止まりロシア南部の新戦線確保のため陣地構築を開始した。

11月23日、マッケンゼン軍はドナウ川全面を渡河しブカレストにむかった。ルーマニア軍は「マルヌの奇跡」を再現しようと残存する南方軍を山岳地帯から呼びまた敗残兵を集めブカレスト周辺に配備した。ファルケンハインもようやく雪中から脱し、平野に進出しブカレストで挟撃する体制ができあがった。

しかし大会戦はなかった。残ったルーマニア軍の大半は3ヶ月間旅行にあけくれており、同じ場所を前後しているだけだった。兵士は敵軍が接近すると、銃をすて自発的に故郷に帰っていった。そして大半は途中で敵軍に射殺された。

ルーマニアの現役23個師団にうち、逃げてモルダビアのロシア軍前線に到着できたのは2個師団に満たないといわれる。12月7日マッケンゼンはブカレストに入城した。その後はロシア軍に阻まれ、モルダビア以北へは進めなかった。

ルーマニア歩兵;訓練中のもの

このようにルーマニアでの戦いは実質的に終了した。モルダビアに戦線は残ったが、独露ともに重要視しなかった。ただし1917年9月この忘れられたモルダビア戦線で重傷を負ったドイツの軍曹がいた。この軍曹は分隊を率いて、ルーマニア軍の塹壕まで強行偵察に行こうとした際、ルーマニア軍の銃火を浴びた。弾丸は2発命中し、うち1発は胸の背骨を親指ぶんだけはずした。大量の出血に耐えながら自軍の塹壕に倒れこみ気を失った。この軍曹は1916年ベルダンでも砲弾の破片を腕にうけ負傷、また1917年7月にも負傷しており、これが三度目の負傷だった。4ヶ月入院のあと、パイロットを志願し、西部戦線で再びパイロットとして前線にたった。この軍曹の名はルドルフ・ヘスだった。

1918年5月、ブカレスト条約で正式にルーマニアは中央同盟に降伏した。だがその後1918年11月10日、再度休戦日の1日前にドイツに宣戦布告を行った。

勝利者として主としてフランスの後援でパリ講和会議に臨み、旧領土に匹敵する新領土を獲得、ベッサラビア・南ドブルジャを除き現在まで保持している。

ルーマニア軍の被害は人口に対して、第1次大戦参加国中最大であった。作戦のあまりの拙劣さというより、誇大妄想的な現実無視による。
始めからの中立を維持した方が連合国と中央同盟国双方にとりよかっただろう。
秘密外交で中立国を自陣営にひきいれ、戦いの勝敗にかかわらず結果として多大の領土を渡す悪い実例の一つだろう。



Fyfe,H., The Rumanian Blunder,in the Great War,(ed.) Wilson, H.W.and Hammerton,J.A., London,1919
Marie, Queen of Roumania. Ordeal: The Story of My Life, NewYork, 1935
Seton-Watson,R.W.,Roumania and the Great War, London, 1915
Carossa,H., A Roumanian Diary,London,1929

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